人に聞けない痔の悩み、これでスッキリ >>

こんばんは。
初めまして。
さっそく質問させていただきます。
「征韓論」についてなのですが、
この主張をとなえた理由を簡単に言うとすると、
なんと言えばいいのでしょうか?
教科書を読んで考えてみて、
「新政府に対する士族の不満を解消できると考えたから。」
でいいかな?と思ったのですが、
「征韓論」をとなえた理由として合っているのでしょうか?
「使節が殺害されれば出兵の口実となり、新政府に対する士族の不満を解消できると考えたから。」の方が良いでしょうか?
付け加えた方がいいことなどありましたらアドバイスを下さい。
よろしくお願いします。

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A 回答 (4件)

 なぜ韓国が問題になるのか、これを踏まえておかないと、妙な自虐史観に絡め取られます。

気を付けましょう。
 侵略だなんだと言って当時の日本を貶めようとする人がいますが、当時は世界中が侵略合戦をしていたのですから、侵略する側に立たなければ侵略されて植民地にされるしかなかったという状況を、知らないか意図的に無視しているか、どちらかです。

 そもそも日本は、開国なんかしたくなかったわけで、それを無理やり開国させたのはアメリカです。もっとも、アメリカがやらなければ、そのうち別のどこかが数十年のうちには実施していたでしょうが。世界中が侵略合戦をしていた時代ですしね。

 以上の背景を踏まえて、なぜ韓国が問題になるか。
 大陸からの侵略に備える橋頭堡が欲しいという理由です。具体的には、ロシアです。

 日本にとってベストの政略は、韓国が独立国となって独自にロシアと渡り合ってくれることです。そうなれば、ときおり日本が後方支援をする程度で済むので、日本にとってのコストパフォーマンスは抜群です。
 実際、その方針で日本政府も当初は進んでいましたが、鎖国中の韓国は世界情勢を理解できません。まあ、幕府もペリーに対して適切に対処できなかったので、この点についてはあまり日本も偉そうなことは言えませんが。

 ともあれ、話し合いでは埒が明かないので、日本はペリーがした手順をほぼなぞるように、韓国を開国させました。ポイントは、政略どおり、朝鮮を独立国とするとした点です。
 なぜわざわざ「独立国」と日本が認めてやらなければならなかったかというと、朝鮮は当時、「大清属国」として自他共に認める清の属国だったからです。
 が、開国させて独立国としての体裁を整えても、やはり朝鮮は世界情勢を理解せず事大主義を続けましたから、日本にとってベストの政略は実現できませんでした。

 このような、国防政略として大陸に橋頭堡を作る、という大きな流れの中、具体的な戦略案として、「征韓論」が出てくるのです。これは、「朝鮮人に任せられないなら、自分たちでやるしかない」ということです。
 西郷がどう、なんて話は、その更に詳細な戦術論です。
 士族の不満、なんて話は、期待できる副次効果というレベルの、枝葉末節です。

 なお、繰り返しますが、これは当時、悪でも何でもありません。
 侵略されて植民地化される所があったとしたら、その土地が未開である故の自業自得でしかなく、侵略すること自体には、はなんら責められるような問題は無い、それが当時の国際常識でした。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。

お礼日時:2007/08/13 21:12

まず征韓論を唱えたのは、新政府ではなく、


新政府内の”非主流派”です。ここを間違えないように。

征韓論は簡単にいえば、西洋化を始めた日本を蔑視する
朝鮮の排日・鎖国の態度に罰するために、
武力で朝鮮を開国させること、
ひいては占領あるいは保護国化することです。

朝鮮半島ひいては大陸への進出という点では大方は一致し、
長期的展望として日本の軍事外交戦略は地政学上、
この路線しかないのですが、これは当然なのですが、
明治新政府が発足間もないので、今は戦争よりも、
内治優先という主流派と、面子を大事にする板垣ら非主流派が
対立したというのが背景にあって、
薩長派閥の独占に対する土佐・板垣、佐賀・江藤らの憤りや、
新政府の方針になじめない保守派の西郷との違和感などがあったために
話がこじれるわけです。

板垣は出兵を主張しますが、戦争を嫌う西郷が使節派遣を主張して
自分がいって解決しようとしますが、西郷の身の危険を心配し、
もし西郷に何かあれば戦争は避けられないために大久保らがこの案をつぶします。

征韓論は士族の不満とは、直接は関係なくて、政府内の内紛でしかありません。
征韓論で、つまり戦争によって士族不満を解消しようという案は
あったわけですが、それは副次的なものでしかありません。
しかし在野した彼らが郷土の士族の不満と結びついて反乱を起こすわけです。

征韓論の本来の目的は、朝鮮の態度を改めさせることです。
西欧化、工業化する日本は、李氏朝鮮の方が軍事力が劣ることを知っていて、
儒教礼節をたてに日本の非礼を非難する朝鮮に
実力を見せたい欲求にかられてきたというわけです。
しかしそれは宗主国である清王朝を怒らせることは確実であり、
中国との戦争になると、日本はまだその準備がないというので
新政府はこれを押し留めるわけです。
しかしアイデアというか、朝鮮半島を勢力下におくこと自体に反対していた
わけではありません。
時期が悪いというだけ。

その時期がきたとき、日清戦争と韓国併合がおこるわけです。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。

お礼日時:2007/08/13 21:11

 ちょっと質問の論点がぼやけてますね。


 「征韓論」を唱えた
 理由は「明治新政府との交渉を拒否されたから」
 目的は「朝鮮を開国させるため」

>使節が殺害されれば出兵の口実となり

 これは「征韓論」実現のための外交手段です。

>新政府に対する士族の不満を解消できると考えたから

 これは国内事情であって、新政府にとっての副次的な利益です。

 人によって重視するものは色々だとは思いますが、副次的な理由なら他にもありますよ。だから基本的な理由と目的は押さえておいたほうが良いと思います。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。

お礼日時:2007/08/13 21:11

簡単にいうと[士族の働きぐち]ではダメですか?



難しく言うと、目の前の本の内容をすべて書き込まなくてはいけませんので、参考文献のみ記載しておきます。

マンガ [日本の歴史がわかる本]三笠書房 981円 
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。

お礼日時:2007/08/13 21:10

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Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q兌換紙幣と不換紙幣って??

高3です。
日本史の授業で今日先生が言っていた「兌換紙幣」と「不換紙幣」の意味がよくわかりません・・。
金や銀に換えることのできる紙幣、というようなことを言っていたと思うのですが、どういうことなのかいまいちイメージがわかないのです。。
こんな私にもわかるようにかみ砕いて説明して頂けませんか?
よろしくお願いします(>_<)

Aベストアンサー

 再び失礼します、No.7です。

 不換紙幣の発行理由ですが、自信がなかったので検索をかけてみたら、こんなページを見つけました。下の方に書かれています。

 このページは分かりやすいと思います。(わからない部分があれば、また補足をください。可能な限り回答します。)

 以上、参考にしてくださいね、これで失礼します。

参考URL:http://www.findai.com/yogo/0013.htm

Q★「封建制度」を簡単に説明してください!

★「封建制度」を簡単に説明してください!

世界史の時間によく「封建制度」なる言葉が出てきます。

いろいろと調べてみたのですが、いまいちよくわかりません。

理解力を深めたいので、封建制度を簡単に説明できる方よろしくお願いします!

Aベストアンサー

封建制度とは「封」(封土=土地)を与えて家来を「建てる」と言って、つまりは
「土地をなかだちとしてむすばれた主従関係(しゅじゅうかんけい)にもとづく社会のしくみ。」
のことを言います。
御恩と奉公ですね。
もちろん日本・中国(周)・中世欧で指す封建制度とはそれぞれ少し意味が異なったりしますが、基本的には上記の意味です。

ちなみに対義する言葉は絶対王政や絶対君主制です。

Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む

Q有機物と無機物の違いはなんですか?

稚拙な質問ですいません。
有機物の定義とはなんでしょうか?
無機物とどこで線が引かれるのでしょうか?
有機化学と無機化学の違いはなんですか?
髪の毛は有機物?無機物?
ご教授ください

Aベストアンサー

有機物とは基本的に生物が作るもので炭素原子を含む物質です。また、それらから派生するような人工的で炭素を含む化合物も有機物です。ただ、一酸化炭素や二酸化炭素は炭素原子を含みますが無機物に分類されます。
無機物とは水や空気や金属など生物に由来しない物質です。

Q朝鮮戦争の原因は何ですか?

映画「BROTHERHOOD」を観ました。
突然に北側から攻撃が始まるのですが、この戦争の原因は何でしょうか?
主義が違うからといっていきなり同じ民族同士で戦争を始めるというのが理解できません。
また韓国にはアメリカ軍もついているわけですから、勝てる見込みもありません。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

朝鮮戦争はソ連アメリカの代理戦争で、日本の敗戦により北朝鮮を支配したソ連よりの北朝鮮人民共和国が朝鮮半島を統一支配する為に起こしたものです。
背後にはソ連、中国がいたのです。

アメリカは韓国を緩衝地帯としていましたからその防衛は韓国軍にまかせる方針でした。

朝鮮は確かに同一民族といえますが古くは高麗、百済、任那時代から敵対関係の時代もあり、気候風土、気質もかなり異なります。
アフリカで民族よりも氏族単位で内戦が絶えないのと同様です。

北朝鮮はソ連の余剰戦車が多数あり、補給も中国を経由して確保できますから短期決戦で勝利出来る計画でした。
開戦当初は計画とうり戦車部隊を先頭にした北朝鮮が優勢でしたがアメリカ軍がその背後の仁川に逆上陸し、補給路を切断したので補給を絶たれた北朝鮮軍は敗北後退し、アメリカ軍の優勢な空軍力により中国国境近くまで追いつめられました。

緩衝地帯の消滅を恐れた中国が義勇軍を送り中朝連合軍と国連韓国連合の戦争になり持久戦となりました。

この時点で中国とアメリカの戦争になったのです。

戦争に残虐な行為はつきもので、双方の兵士、民間人を問わず戦場になった所は悲惨な運命にあいます。

朝鮮戦争はソ連アメリカの代理戦争で、日本の敗戦により北朝鮮を支配したソ連よりの北朝鮮人民共和国が朝鮮半島を統一支配する為に起こしたものです。
背後にはソ連、中国がいたのです。

アメリカは韓国を緩衝地帯としていましたからその防衛は韓国軍にまかせる方針でした。

朝鮮は確かに同一民族といえますが古くは高麗、百済、任那時代から敵対関係の時代もあり、気候風土、気質もかなり異なります。
アフリカで民族よりも氏族単位で内戦が絶えないのと同様です。

北朝鮮はソ連の余剰戦車が多数あり...続きを読む

Q日本史:漸次立憲政体樹立の詔について

「漸次立憲政体樹立の詔(ぜんじりっけんせいたいじゅりつのみことのり)」と
「国会開設の勅諭(こっかいかいせつのちょくゆ)」は、
両方とも将来国会をひらき憲法を制定するというものですが、具体的にどう違うのでしょうか?まったく同じものと思ってよいのでしょうか?

なるべく早い回答を求めています;簡単な説明で構わないので、どうかよろしくおねがいします。

Aベストアンサー

>まったく同じものと思ってよいのでしょうか?
違います。内容的には「国会開設」を視野に入れたものですが、時期・背景が異なります。

「漸次立憲政体樹立の詔」 1875年(明治8)
  前年の「民撰議院設立建白書」および愛国社結成など、自由民権運動の高揚に対し、大久保利通が中心となって、板垣・木戸の参議復帰など政府の陣容建て直しと、民権運動に対する政府の姿勢(漸次樹立)を示したもの。

「国会開設の勅諭」 1890年(明治23)
  開拓使官有物払下げ事件の収拾と、政府内の国会開設急進派(払下げ事件暴露の黒幕)大隈重信を追放する一方で、民権派の懐柔・分断を図り、国会開設を政府ペースで進めるために、伊藤博文が立案

Q原敬の内閣が日本初の本格的な政党内閣と言われるのはなぜ?

米騒動を経て内閣を組閣した原敬ですが、その内閣は本格的な政党内閣と言われています。これはなぜですか?原敬は党首から首相に選ばれたわけですが、この内閣以前はどうやって首相を選んでいたのでしょうか?天皇が勝手に首相を選んで良かったのでしょうか?大日本帝国憲法下における組閣の仕組みが良くわかりません。選挙によって選ばれた与党の党首が首相になるということはなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣ですが、予算案や法律案を通して政治を円滑に進めるため、衆議院の多数を占める政党と仲良くする人が出てきます。そういう意味で「政党内閣」の原形は原敬以前に成立していました。

原敬内閣が『初の本格的政党内閣』と呼ばれるのは、原敬が「爵位をもたない」「選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ」「政党『政友会』の党首」であり、原内閣が「陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任した」内閣であったことが、「選挙によって選ばれた多数党の党首が内閣総理大臣に選ばれ、閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」という『政党内閣』の定義にほぼ近かったことによるものです。

(上記の「政党内閣」の定義は完全に正確ではない可能性がありますが、だいたいこのような内容だったかと思います)


以下、詳細な説明です。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

■ 大日本帝国憲法(明治憲法)下での首相の選定方法

大日本帝国憲法(明治憲法)には、内閣総理大臣の決定方法は記載されていません。

大日本帝国憲法第10条に、「(統治権を有する)天皇が行政を行なう官僚を任免する」ということが書かれています。かといって、天皇が内閣総理大臣を勝手に選んでいたわけでもありません。「宮中・府中の別」という慣例がありまして、天皇は政治の世界には関与せず、行政機関である内閣の決めた方針にもとづいて「YES」と言うだけでした。内閣総理大臣を決める時にも、天皇は、誰かが選んだ内閣総理大臣をそのまま任命するのです。

大日本帝国憲法(明治憲法)
http://www.edogawa-u.ac.jp/~kiuchih/home/statutes/teikokukenpou.html


では、内閣総理大臣の決定方法ですが、

歴代内閣総理大臣一覧
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
http://www.promised-factory.com/100years_after/pm/pm-list.html


上の一覧をご覧になればわかりますように、最初は明治維新の功労者であった人々が協議の上、内閣総理大臣や各国務大臣を務めていました。「明治政府を作ったのは俺たちなんだ!」ということでもあり、内閣総理大臣や各国務大臣として明治初期~中期の政治を引っ張っていけるのは、この人々しかいなかったのだと推測されます。

明治維新の功労者達は、明治初期から後期にいたるまで第一線で政治を動かし続け、その後も「元老」という立場で、天皇の諮問に答える形で、国家の政策決定に関与しました。
伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、桂太郎、西園寺公望の九人です。

その主な仕事のひとつが、内閣総理大臣が辞めた場合、次の内閣総理大臣を選ぶことです(ちなみに、法的な根拠はまったくありません)。彼らが選んだ内閣総理大臣を、天皇が任命していました。

元老 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%80%81

ちなみに、昭和に入って、最後の元老の西園寺公望が死んでからは、天皇の側近で天皇の仕事を助ける役職であった「内大臣」が中心となって「重臣会議」を開いて、内閣総理大臣を選んでいました。

内大臣 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3


■ 内角総理大臣と、議会や政党との関係

内閣総理大臣は、別に議会での選挙で選ばれているわけではないので、議会を無視して勝手に政策を決めて政治を行なっていくことができる、・・・というわけではありませんでした。

選挙で選ばれた政党系議員が多数を占める衆議院は、予算案を貴族院より先に審議するので、内閣が政党と対立してしまうと、予算案が議会を通らず、政治が一気に止まってしまうのです(政党を無視して独自に政治を行なおうとす『超然主義』の方針をとる内閣と、衆議院で多数を占める政党が対立して混乱したのが、1890年代の『初期議会』と呼ばれる時期です)。

そういうシステムの中で、内閣総理大臣のなかには、政党に理解を示して協力してもらい政治を行なおうとする人が出てきました。代表的なのは、伊藤博文、西園寺公望、大隈重信などの人物達です。彼らは政党の党首も兼ねていたので、一応、「政党内閣」と言えなくもありません。


では、原敬とその内閣の場合は、彼らと何が違うのでしょうか?

「原敬」個人に対する注目点は3つ
  ○爵位をもたない
  ○選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ
  ○政党「政友会」の党首

「原内閣」のポイント
 ○陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任

つまり、「選挙によって選ばれた多数党の党首(衆議院議員)が内閣総理大臣に選ばれ、内閣閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」というところが、『本格的な政党内閣』と呼ばれる意味です。


ですが上で述べた通り、原敬は議会で選ばれたわけではなく、やはり「元老」による推挙によって天皇から任命されています。

原敬が内閣総理大臣に選ばれた理由としては、その前の寺内正毅内閣が米騒動の対応に失敗して総辞職して、政府に対する国民の不満が高まっており、「元老」としても国民の意見を反映した内閣を作らないといけなかったこと、原敬がもともと官僚出身で、内務大臣も務めたこともあって、内閣総理大臣に任命しても行政を行なうのに問題がないこと、そして、原敬は元老や貴族院の勢力とも対立しないで上手くやれる政治家であったこと、などがあげられます。

原敬 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣...続きを読む

Q福沢諭吉の征韓論

 韓国の独立記念館に行った時に、高校生の方がなぜ「天は人の上に人を・・・」の人が征韓論を唱えたか知っている方教えてください。

Aベストアンサー

福沢が私財を投げ打って支援したというのは、後に甲申事変(近代化革命)を起こす、金玉均を始めとする開化派朝鮮人(独立党)です。慶応義塾や陸軍学校などへの50名程の朝鮮人留学生を世話しています。

金玉均の日本視察の折には、自宅を滞在拠点として提供し、井上馨等の日本政財界要人を紹介して彼との会談を実現させています。金らに近代政治学の初歩や、近代国家の独立自主という概念を伝えたのは福沢でしょう。

また福沢は銀行に口利きして朝鮮への融資を世話し、開明派はこれを印刷機購入などに当てました。福沢が朝鮮に派遣した弟子が朝鮮初の新聞「漢城旬報」発行を実現しています。これは漢字ハングル混じり文の新聞で、一部の両班層だけでなく、より広く朝鮮人に世の中の情報を知ってもらおう、という福沢の配慮です。

福沢は当時、文化の啓蒙による朝鮮の革新を期待しており、改革を「武力ではなく、資金の移入を端緒に学問によって実現させるべき」と主張しています。

しかし、当時中国(清)の属国であった朝鮮を清の近代独立国家へと改革する独立党の革命、甲申事変が失敗に終わり、福沢の努力はすべて無に帰してしまいます。福沢が育てた独立党も多くが殺され、金玉均も日本亡命後に朝鮮人に暗殺されました。初めは革命に理解を示していた朝鮮皇室ですが、土壇場になり清軍の介入に恐怖して清への服従を選んだことが、失敗の最大の原因です。日本政府もこの革命に協力したのですが、清との国力差はまだ大きかったため、限定的な協力しかできませんでした。

こうして朝鮮近代化の可能性は完全についえ、前近代的な国家形態が日韓併合まで続きます。こうした朝鮮の体たらくに失望した福沢が起こしたのが「脱亜論」です。

維新建国後しばらくは、日本は朝鮮に近代国家として独立してもらう事を望んでいました。まだ国力が充分でない日本にとって、朝鮮半島に直接大国の清やロシアの影響力が及び日本の安全補償が脅かされる事を危惧したためです。かつての元寇の折、元は朝鮮支配の後に日本侵略を現実的に計画しており、この再現を避ける必要がありました。近代化朝鮮と協力して東アジアでの自主独立を守っていこうとしていたのです。

西郷を始めとする当時の「征韓論」というのは、決して朝鮮を侵略して占領しようということではなく(当時そんな国力は日本にありません)、日本が黒船の圧力により近代化したように、朝鮮に軍事的政治的圧力をかけて近代化させよう、という話です。西郷は自身が外交使節として朝鮮に赴こうとしてました。これに対し福沢は学問を浸透させての朝鮮近代化を図ったわけです。

しかし、朝鮮は清やロシアへの依存心を捨てることなく、まともな近代化を実現できません。日清戦争、日露戦争と勝ち続け列強の仲間入りをした日本にとって、もはや朝鮮に「自主独立のパートナー」として期待する必要はありませんでした。日本が切磋琢磨している間に無為に過ごした朝鮮は、当時の帝国主義世界では敗者となることが歴史的必然です。

長くなりましたが、福沢が主張したのは征韓論ではありません。脱亜論もこれとはあまり関係ありません。アジア侵略を肯定する論、というのはデタラメです。当時の国際社会の常識自体が「弱肉強食」だからです。韓国併合とは、日本も国際基準の列強国となった結果です。

福沢が示した朝鮮近代化への情熱、朝鮮への愛情をまったく無視し、近代化を実現できなかった自民族の無能を省みることなく、自分勝手な「歴史認識」を押しつけ、12歳の子供に平気で反日をぶつける・・・それが今の韓国です。独立記念館とやらでどんな展示をご覧になったとしても、どんな目に遭われたとしても、一切気に病む必要はありません。

福沢が私財を投げ打って支援したというのは、後に甲申事変(近代化革命)を起こす、金玉均を始めとする開化派朝鮮人(独立党)です。慶応義塾や陸軍学校などへの50名程の朝鮮人留学生を世話しています。

金玉均の日本視察の折には、自宅を滞在拠点として提供し、井上馨等の日本政財界要人を紹介して彼との会談を実現させています。金らに近代政治学の初歩や、近代国家の独立自主という概念を伝えたのは福沢でしょう。

また福沢は銀行に口利きして朝鮮への融資を世話し、開明派はこれを印刷機購入などに当...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む


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