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近藤勇の首がわざわざ江戸から京都へ回され、
鳩首されたとき、
「京都人民はかねて近藤を憎んでおりましたから、
首見物に河原に出かける人が陸続と絶えませんでした。
皆愉快がりました。河原は大賑わいでした。」
という記事があります。
新撰組は嫌われていたのでしょうか?
京都の治安を守るという警察の仕事だったのに嫌われたのはどうしてでしょうか?
町人たちに直接危害を及ぼしたりしていたのでしょうか。

よろしくお願いします。

A 回答 (11件中1~10件)

京都在住のの老人です。


No.7の再投稿です。文献的にどうあれ、京都では愚連隊のような人を「ミブロのような」という表現がまだ死語にはなっていないという事実が雄弁に物語ると思います。
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京都人の1番の特色から考えられることは、#5さんの考えでしょう。



現在でも同じですが、京都はよそ者のことなぞ何も考えておりません。
薩摩だろうが長州だろうが、会津だろうが、そんなことは関係ありません。
島原で荒らされたところは、嫌な顔をし、次の日に上がってきたときには、丁重に扱っていたと思いますよ。
民衆とはそのようなものです。特に京都の場合は冷淡ですからね。

それと明治以前は、警察とやくざ(暴力団)は機能的に同じですから、自分の権利を守ってくれることが、「おかみ」です。
歴史認識を、もう少し勉強した方がいいと思います。

あっ、現代でも警察と暴力団が野合している部分もありますが (^^ゞ
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No6のbuchi-dogさんとまったく同意見です。


No8のkomesさんの見解も正しいと思います。

「新撰組は京都中で嫌われていた」という定説は新政府や時代によって作られてた虚言に近いものだと最近の専門家達も言ってます。
新撰組の悪名は初期での芹沢一派の悪行や、明治になって賊軍扱いされた為に極悪なイメージが大きいと思います。
もちろん街中や店内で切り合う新撰組を迷惑がる人達も多かったようですが、尊王攘夷志士と名乗り暴れまわる不逞浪士(チンピラ)はもっと迷惑だったでしょう。京都の人の見方も変わってきました。

壬生浪士組結成当初⇒「田舎者が勝手に京の警護なんかして迷惑だ」
芹沢時代⇒「壬生浪は不逞浪士と変わらん。最悪だ」
近藤局長時代⇒「迷惑だけど、町民をイジメないし、不逞浪士を排除してくれるから、いないよりはマシ」
池田屋事件後「京都を守った英雄。頼りになる新撰組」
明治以降⇒「人切り集団」

トータル的に見ると嫌う人もいたけど好感を持つ人が多かったのが事実です。
逆に不逞浪士を嫌う人はいたけど好感を持つ京都人は極めて少なかったようです。ですが時代の流れで倒幕側が勝利したので京都の人も新撰組批判しか言えなくなったのかもしれません。
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嫌われていたと見るのは言い過ぎでしょう。


迷惑と感じていたとはおもいますが・・・
幕末の頃京都は他国から種々の「よそ者」が流入し庶民が迷惑した事はあります。  最大の被害は蛤御門の戦いで、京都の市街のかなりの部分が焼失しました。

初期の芹沢鴨一派の粗暴な行動は憎まれたでしょうが事情は内部抗争であっても近藤勇はこれを排除した功労者とみられました。
新選組は言動こそ粗暴な所はありましたが会津藩から当時としては大金の手当を支給されており、これを惜しげもなく費消していましたので一部の人には金払いのよい上客として歓迎されていましたし、役目が市中の治安確保でしたから好ましい存在でした。

池田屋事件も京都の焼き討ち計画を未然に防いでくれたとの認識もありました。

近藤勇の晒し首に人々が集まったのはこのような刑が長く絶えていた事、恐いもの見たさと有名な近藤勇の首ということで集まっただけで、憎悪のためではなかったとおもいます。
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はい、嫌われています。

(現在形)
『ミブロ』という言葉は、今でも死語にはなっていないと思います。
愚連隊のような存在をミブロといって蛇蝎のごとく嫌います。
京都人は排他的ではありません。大阪人とは違って東京にライバル意識を持っていないだけです。京都は完全に田舎ですから...。文化度の高い田舎であることを誇りに思っています。
田舎者の京都人でした。
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新選組にそんなに詳しいわけではないですが、新選組に係る研究者の著作



新選組全史 天誅VS.志士狩りの幕末 講談社選書メチエ 303 木村幸比古/著
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31399278

あたりを読みますと「新選組が粗暴な振舞いで京の市民に嫌われていた」という印象は受けません。少なくとも大政奉還・鳥羽伏見の戦いで幕府権力が崩壊するまでは、いわゆる「尊皇攘夷の志士」の実態は「一文無しで街をうろつき、尊王攘夷の崇高な志などは全く持たず、尊皇攘夷に協力しろとか言って商家から小遣いをせびるゴキブリのような自称武士」でしたので、そういった浪士を取り締まる新選組の方が、むしろ好感を受けていたようです。

ただし、京都の人たちが非常にプライドが高く、よそ者を仲間として容易に受け入れないのは現在も良く知られている通りです。新選組の幹部は関東から来た剣客で、隊士は募集に応じた様々な身分の「田舎者」ですから、京都の人たちから見れば「訳の分からん言葉を喋る田舎者」であったことも事実でしょう。これは、他所から来て京都に一時的に住む人が現在も味わうことのようです。新選組に限ったことではありません。

さて、先に紹介した文献「新選組全史」は現在手元にありませんので確認できませんが、
「京都人民はかねて近藤を憎んでおりましたから、首見物に河原に出かける人が陸続と絶えませんでした。皆愉快がりました。河原は大賑わいでした。」
と言った話は掲載されていなかったように思います。質問者様はどんな本を読んだのですか?ここまで回答されている皆さんもろくな本は読んでいないようですが…

新選組に関心がおありでしたら、「新選組全史」は入手も容易ですし価格も手ごろですし第一にお勧めします。専門の研究者がきちんとした史料に基づいて書いたものですので信頼できます。歴史は、通俗的な本ではなく信頼できる本で学んでください。

この回答への補足

出典は、
岩倉家臣、山本復一「近世歴史逸事談」です。
三条大橋の河原に梟首したときに罪状を板に書いたそうです。
歴史読本2006年5月号記載記事です。

補足日時:2007/08/13 20:51
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基本的に京都人は「排他的」で京都人以外は全て、「好かん人」たちです。

未だに、天子さまのお膝元意識が強いですね。ましてや、傍若無人な振る舞いをした、新撰組など「蛇蝎」を見る思いだったのでしょうね。
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「嫌われていた」というか、新撰組は京の人々に「壬生浪人」(みぶろうにん)などと呼ばれ、恐れられていたようです。

ご存知と思いますが、初期の幹部の芹沢鴨は、一般人を脅かすなど乱行甚だしく、新撰組内部の権力闘争もあって粛清(暗殺)されています。いわば、「内ゲバ」とも言えるでしょう。新撰組は、のちには幕臣として召し抱えられたわけですが、元は豪農や浪士などさまざまな素性をもつ寄せ集め集団でした。

ご質問文の「鳩首されたとき」は誤りです。正しくは「梟首」です。出典をお書きになっていませんが、元の文章でもそう書いているのでしょうか。素人の私が言うのも何ですが、大した資料を当たっていらっしゃいませんね?
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嫌われていたというのが事実です。


理由は簡単。京都の人々にとって彼らはただの人殺しだからです。

新撰組の仕事は、京の治安維持ですが、警察ではありません。
警察組織は別にあり、東西奉行所と自治組織が担っていました。

新撰組の仕事は、簡単に言えば、浪人狩りです。
不逞の浪人を見つけて路上でも家中でもかまわず切り殺すというのが
彼らの任務で、町民にしても迷惑千万でしょう。
後始末もしませんから、たいへんです。

また新撰組はしばしば情報収集と称して、拷問を行っていました。
拷問の対象は、町人だろうが浪人だろうがおかまいなしです。
切り捨てごめんの特権と京都守護の庇護があるので、
実際、やりたい放題でした。

また新撰組は女郎屋や飲み屋でも乱痴気騒ぎに、乱暴狼藉を
しばしばおこなったようなので、好かれる理由がそもそもありません。

嫌いというよりは、攘夷浪人も新撰組も、同じく迷惑な集団と
思われていたと考えていいでしょう。
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農家の出なので教養がないから粗暴だったのです。


陰でクスクスと笑われていました。
島原の赤線に入り浸り
しかもツケを踏み倒し

スタンドプレーで武士らしく?振舞うために市民を
打ち首にしました。

つまり品格下劣だったのです。
それに竜馬を討ったのも新撰組という説があるから
なお更嫌いなのです。
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