カントの『純粋理性批判』は、人間理性の限界と可能性をどのように分別したのか教えてください。また、その考えについて回答者の方がどのように考えるのか参考にしたいのでそれについてもお願いします。

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理性」に関するQ&A: 知の暴走(理性の欠如)

A 回答 (1件)

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Q高校倫理 カント『純粋理性批判』について

 大学受験生です。
 教えていただきたいことがあります。
 カントの『純粋理性批判』に対する参考書の解説の中で
 「感性のはたらきとは、必ず特定の時間、空間を前提としてなされる」
 「私たちの経験による認識というのは、実は何らかの時間、空間を限定した上で
ないと成立しない」
という表現があるのですが、よく内容がつかめていません。
 具体的にわかりやすくご説明いただけると助かるのですが。
 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

哲学経験ないけど、何となく回答>w<b
>感性のはたらきとは、必ず特定の時間、空間を前提としてなされる
>私たちの経験による認識というのは、実は何らかの時間、空間を限定した上で
ないと成立しない
この二つの命題は実質的には同じこと言っているようだよぅ
「経験」=感覚や知覚によって直接にあたえられ体験されるものごと
感覚や知覚→総じて感性をさすと思うぅ
それで、二つの命題比べたら、なんとなく言ってることはおなじかなぁ
ようは感性と限定された時間・空間の関係をいってるってこと

つぎ!
自分たちの日常会話って、大体場所と時間を指定して会話されるよねぇ?
A 「集合!!」
B 「どこに?」
A 「山梨県に」
B 「いつ?」
A 「週末に」
B 「なぜにわざわざそんな遠くに?」
A 「山が本当にないのか手分けして調べよう」
とまぁ、こんな風に何処で何時何分何秒地球が何回回ったらという時間・空間の限定を伴って
初めてコミュニケーションが成り立っているといっても過言ではないのでは?

逆に時間・空間指定がなければどうなるかなぁ
例えば、時間指定がない場合
A 「Cは私の妻だ」
A 「Dは私の妻だ」
B 「重婚・・・!?」
このばあい、Aは犯罪者(重婚罪)かあるいは一夫多妻制の国の人となってしまいそう
でも、時間指定があればはっきりするかなぁ~
A 「Cは私の妻だった」
A 「Dは現在の私の妻である」
E 「おまえだったのか!わしの元妻Dの不倫相手は!!」
E 「いつだ、いつからなんだ。はけ!!」
A 「うははははぁ、ぐはぁ、・・・」
*動詞の過去・現在形も時間指定の一種と考える
いずれでもなかったとなってまうことにも・・・
空間指定は考えてみてちょ
このように日常生活においては、時間・空間の限定があって初めて
物事が認識・理解されるといっても過言ではなさそう
時間・空間の限定、すなわち時間・空間の区切りがあって物事の関係が見えてくるということ
ここでもう一つ
人の理解とか認識はどのような過程を経て起こるか
外界→感性→認識→理性→観念、データ、命題etc→理性→観念、データ、命題etc→・・・・
という感じにかんがえられているのかなぁ?
これを前提に話をすすめようっと
>感性のはたらきとは、必ず特定の時間、空間を前提としてなされる
>私たちの経験による認識というのは、実は何らかの時間、空間を限定した上で
ないと成立しない
これは、つまり、
外界→感性
の段階で時間・空間の区切りがおこっているということでは?
つまり、外界を、区切られた時間・空間として感覚に受け止めて認識に至るということ
例えば、t時にA点にある物体がT時にB点に移動するという現象を
t時における空間A点、T時における空間B点、と時間・空間を限定(or区切る)したうえで、
その二つの区切りを対比した結果として物体の動きを認識するに至る
これが感性の働きだ、ということかなぁ
でも、これだとパラパラ漫画みたいだなぁ
なんか変じゃないか!!
>カントの『純粋理性批判』に対する参考書の解説の中で
この参考書の題からして、理性と感性を比較してるのではなかろかぁ
つまり、時間・空間の限定は理性の作用ではなくて感性の作用だよとか

あり、これじゃぁ日常会話の件、意味ないような・・・
あ、でも、日常会話の件考えると、時間・空間限定は理性の作用とでもいえそうだぁ
たぶん><

げぇ、もうAM4:00じゃんけぇ
なんてこった!!

哲学経験ないけど、何となく回答>w<b
>感性のはたらきとは、必ず特定の時間、空間を前提としてなされる
>私たちの経験による認識というのは、実は何らかの時間、空間を限定した上で
ないと成立しない
この二つの命題は実質的には同じこと言っているようだよぅ
「経験」=感覚や知覚によって直接にあたえられ体験されるものごと
感覚や知覚→総じて感性をさすと思うぅ
それで、二つの命題比べたら、なんとなく言ってることはおなじかなぁ
ようは感性と限定された時間・空間の関係をいってるってこと

つぎ!
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Qカントの純粋理性批判のアンチノミーは今どう解釈?

カントの入門本『カント 信じるための哲学―「わたし」から「世界」を考える』石川輝吉を読みました。
カントは純粋理性批判で世界や有限や無限に関するアンチノミー(二律背反)を提示していますが、これらは19世紀~20世紀の科学を通過した現在では議論は成立しないのではないでしょうか?

・無限は存在し、濃度の差がある 集合論 カントール
・時間と空間は相対的である 相対論 アインシュタイン
・物質はエネルギーである 相対論 アインシュタイン
・物質は粒子と波の性質を持つ  量子論 ハイゼンベルク
・物質の位置と運動量を同時にわかることはできない 量子論 ハイゼンベルク 
など

の科学的な成果を哲学のほうではどう捉えているのでしょうか?
入門本ではカント以後の展開として、ヘーゲル、フッサール、ハイデガー、アーレントを
取り上げてて科学のほうは完全に無視されていました。

Aベストアンサー

論理的帰結のポストモダンの哲学と科学の考えについては 多数のひとに誤解されているかもしれないと思い 若干の説明を試みておきたいと思います。

ポストモダンの出発点はゲーデルの不完全性定理からだ と思います。その発展は 完全性定理も含まれ(ユークリッド幾何学に代表される、公理は証明できないという不完全性定理に準じるもの)、一階の論理述語まで含まれています。要は 論理的に、定義(公理)は証明できなく その系は演繹で構成される というものです。したがって 定義が変れば(思想の根幹が変れば) その数だけ 論理ができるというものです。哲学を論理で思考するなら定義の数だけ 出来上がり 従来の絶対真理があるはずである というモダンとは 真っ向から対峙するものです。

このポストモダンのなか 科学とは何か であります。科学は 論理であることは 間違いないところです。絶対真理を求めるモダン科学は ポストモダンの出現により 根底から見直されるべきものとなったのです。アインシュタインの一般相対性理論も定義から出発する一つの系であります。定義の違った宇宙理論は当然 開発されていいのです。ニュートンの力学もそれらの中の一つであります。科学の証明手段は 観測でありますが この観測にしても その系から出発したものである限り その定義の証明は 科学以外の論理と同様に証明できないのです。そのようなポストモダン上で科学者を論評するなら 絶対真理探求のモダン型を信奉している科学者が 今 尚 多いと思います。発想豊かな ポストモダン科学者 世界中から数多出でよ、と言いたいのです。科学は絶対真理を求めるものではなく 論理の一種であります。定義から始まる論理系の構築であります。

そこでカントの二律背反をどう評価するか ですが、定義が異なれば背反することになることは認識していましたが それは 絶対真理ではない と断定し封印した と思うのです。ポストモダンに繋がるパンドラの箱を開けるのではなく逆に封印し モダンを確立する方向を目指したと思うのです。その方向は ニュートン力学などの科学との整合性はとれていると思います。ポストモダンの時代にカントと科学の検討は 時代にそぐわないのではないか と思います。ポストモダンで科学を料理するには その出発点の定義(公理)を明確にすることです。そこを理解していく ことが重要と思います。一般相対性理論も同様であって 定義の理解が重要であります。物理学が絶対真理に近づいている と理解するのは論理的には問題なのです。

論理的帰結のポストモダンの哲学と科学の考えについては 多数のひとに誤解されているかもしれないと思い 若干の説明を試みておきたいと思います。

ポストモダンの出発点はゲーデルの不完全性定理からだ と思います。その発展は 完全性定理も含まれ(ユークリッド幾何学に代表される、公理は証明できないという不完全性定理に準じるもの)、一階の論理述語まで含まれています。要は 論理的に、定義(公理)は証明できなく その系は演繹で構成される というものです。したがって 定義が変れば(思想の根幹...続きを読む

Qカントの純粋理性批判で文字が読みやすいもの

カントの純粋理性批判で文字が大きめで読みやすい翻訳本はどこの出版社でしょうか?

Aベストアンサー

本の大きさは、作品社が大き目(A5)のようですが
ページ数を考えると文字が大きいとも思えません。

図書館で、昔のカント翻訳をさがされてはいかがでしょうか。
閉架まで探した方がいいと思います。

純粋理性批判は、元々が長編ですから
文字を大きくすると、膨大なページ数になります。
ですから、大きい文字の本を探すのはかなり難しいと思います。

ベターなのは、文字が大きく見える拡大鏡を買うことだと思います。
最近は、本を楽に拡大するものやメガネタイプでも軽いものとか出ているようです。
それだと、好きな訳者を選べるので便利かと思います。

Qカントの純粋理性批判でいい訳

カント純粋理性批判で良い訳はどれなんでしょう?

Aベストアンサー

図書館で借りて読んでみたらいいと思います。
自分に合うものが、自分にとってのいい訳です。

アマゾンで批評を読んで参考にされるのもOK。

私は訳者の意向ができるだけ入らない方が好きですから原さんの訳を買いました。

「良い」というのは主観が入りますので、自分で目にされるのが一番だと思います。

Qカント 純粋理性批判 カテゴリー表を獲得する意味 

初めまして、純粋理性批判冒頭について質問させていただきます。

超越論的論理学において、カントが判断表ではなくわざわざカテゴリー表を使用しなければならなかったことの意味について把握しかねています。

私の今の考えでは、
判断表とカテゴリー表によって表されている悟性の統一機能はどちらも同じものであるものの、判断表においては、それは既に獲得された概念と概念とを結合するものとして考えられているため、どちらかと言えば一般純粋論理学に属する。
一方でその統一機能を、直観における表象間の結合に即して考えた場合、それは対象とのかかわりを持つために、超越論的論理学に属する。
したがって、超越論的論理学についての議論においては、悟性の統一機能の場を、概念間から直観における表象間へと”次元の繰り下げ”をしなくてはならなかった。

ということが理由なのかなと思っています。
とはいえ、なぜ表象の多様なものを扱ったとたんに、悟性の統一は、対象とかかわりあうようになるのか、などという点で全く疑問が解消されません。

どなたか、純粋理性批判のこの箇所について、理解のための助言をいただけませんか?
お願いします!!

初めまして、純粋理性批判冒頭について質問させていただきます。

超越論的論理学において、カントが判断表ではなくわざわざカテゴリー表を使用しなければならなかったことの意味について把握しかねています。

私の今の考えでは、
判断表とカテゴリー表によって表されている悟性の統一機能はどちらも同じものであるものの、判断表においては、それは既に獲得された概念と概念とを結合するものとして考えられているため、どちらかと言えば一般純粋論理学に属する。
一方でその統一機能を、直観における表象間の結...続きを読む

Aベストアンサー

あまりカントに詳しくないので、間違っているかもしれませんが、「カントが判断表でなく、カテゴリー表を使用しなければならなかったことの意味を把握しかねています」という場合の、判断表とかカテゴリー表というのは何なのでしょうか?
判断表というのは形式論理学の判断形式だと思いますが、カントはそれをカテゴリーに流用して、それを純粋悟性概念といいました。

古代ギリシャのアリストテレスにとって、カデゴリーとは述語のこと、それに対して主語がヒュポケイメノンといわれるもの、実体とか基体という意味でした。
アリストテレスは10個のカデゴリーを挙げていました。

実体、量、質、関係、場所、時間、状況、所有、能動、受動

このうち、実体は主語であって述語ではなかったので、アリストテレスは苦し紛れに、それを第一実体といい、残りを第二実体といいました。
だけどアリステテレスのカテゴリーは、どちらかといえば恣意的で、カテゴリー同士、重複するところがありました。
アリストテレスにとってカテゴリーとは論理学上の分類でしたが、カントにとってカテゴリーは認識の客観性を保証するものです。
つまり主観的な知覚判断を客観的なものにすること、対象を感覚器官を経由した感覚データを直観の形式である時間・空間で整理・整頓することで、それに形式論理学の判断形式を当てはめて、カテゴリーと総合統一することで認識を客観的なものとして作り上げます。

したがってカントのカテゴリー表は形式論理学の判断形式を流用したものです。
「カントが判断表でなく、わざわざカテゴリー表を使用しなければならなかったのか」ではなく、形式論理学の判断形式をそのままカテゴリー表として使ったのです。
形式論理学の判断形式とカントのカテゴリー表は同じものだと思います。
その違いは形式論理学の判断形式が、論理的な分類なのに反し、カントの場合、認識の形式、主観的な知覚判断を客観的なものに作り変えるための分類だというだけです。

「したがって、超越論的論理学についての議論においては悟性の統一機能の場を概念間から直観における表象間へと、次元の繰り下げをしなくてはならなかった」

・・・・・と、おっしゃいますが、カントにおいてカテゴリーはアリストテレスとは違って論理学上の区分・分類ではなく、認識論上の分類なので、最初から知覚判断に適用してそれを客観的なものとして作り上げるためのもので、「次元の繰り下げ」などというものではなかったと思います。

カントの哲学は超越論的哲学と言われ、その場合の超越論的とはフッサールとは違い、認識の成立している可能性の条件を遡行して、それを探究するもののこと。
どのような条件があれば、認識の客観性が成立するか、その答えが純粋悟性概念であるカテゴリーでした。
カントはそのカテゴリーの超越論的演繹を行ない、それが対象に適用できることを証明しました。
もっとも、カントは「純粋理性批判」をほとんど書き上げていたのに、その演繹の章を書き上げるのに10年の歳月を要したと言っています。

「なぜ、表象の多様なものを扱ったとたんに、悟性の統一は対象とかかわりあうようになるのか」

・・・・・と、おっしゃいますが、考え方が逆です。
表象ではなく、現象。
外界を感覚器官で感覚データとして受容し、その現象を直観の形式である時間・空間で、整理するだけでは認識は成立せず、それを悟性の形式であるカテゴリーによって総合統一することで初めて、認識が客観的なものとして出来上がります。
そして現に認識が成立している以上、悟性は対象と関わりあわなければならないものですから、なぜ? といって疑問に思うようなものではありません。
認識が成立している以上、そのようになっていると思うしかありません。

カントにとって、カテゴリーは実在ではなく、フィクション、構造主義でいう「構造」のようなもの、あると言えばあるけど、ないと言えばないもの。
それにカントは4×3の12個しかカテゴリーを挙げていないけど、それは形式論理学の判断形式を流用したからで、その12個以外にも、まだあります。

最後にステファン・ケルナーの「カント」より、引用して終わります。

「カントにとって、カテゴリーを適用するとは、純粋直観における多様なものを統一することによって客観的関係を与えることである。客観性の担い手、主観的な印象の単なる集積とは対立する対象が直観において算出されないなら、判断によって客観性を与えることは不可能である。カテゴリーの適用によって客観性を与えるのではないとすれば、直観の内には何らの対象も存在しない。われわれが純粋な多様なものを統一することにより、直観において対象を産出するのでなければ、客観性の何らの徴表も存在しない。そればかりか、直観における対象の産出とカテゴリーの適用とは、同一の過程の二つの側面なのである」

あまりカントに詳しくないので、間違っているかもしれませんが、「カントが判断表でなく、カテゴリー表を使用しなければならなかったことの意味を把握しかねています」という場合の、判断表とかカテゴリー表というのは何なのでしょうか?
判断表というのは形式論理学の判断形式だと思いますが、カントはそれをカテゴリーに流用して、それを純粋悟性概念といいました。

古代ギリシャのアリストテレスにとって、カデゴリーとは述語のこと、それに対して主語がヒュポケイメノンといわれるもの、実体とか基体という意...続きを読む


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