『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ人々を魅了したのか >>

こんにちは。
タイトルの通りなのですが、「自我」と「自己」の違いとは何ですか?
私は現在大学で社会学の講義を受けています。
そこでミードの「主我と客我」に興味をもち、関連するサイトを見ていたのですが、サイトを見れば見るほど両者の違いがよく分からなくなりました。
どなたか分かりやすく、かみ砕いた回答をよろしくお願いします。

A 回答 (3件)

自我というのはどうも自分との関係であり自己というのは心の安定度のことを言うみたいです。

つまり自己というのは世界他者自我の安定を保とうと試みる存在だそうです。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまって申し訳ありません。

なるほど、そういう風に解釈すればいいのですか。
なんとなくつかめた気がします。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/08/30 23:41

 乞う:許容。

今後のご回答などを勉強させてもらいたく、主として記載しますことを。
 「自我」は客体されえない、常に奥に入っていく、主挌たる、意識の根源としての意識、存在性(意識対象にはなりえなく、常に実践性(カント的に言えば、実践理性というのかな)でしか自分に出てこない意識。
 「自己」デカルトの体が自己というように、客体化した自分、自分史とか、経験内容とか。その客体たる自己に関する意識(内容)も自己でありましょう。
 そこで意識している主体は、主挌たる「自我」ではないでしょうか。
 社会学もミードもその「主我と客我」を存じませんで、勉強しているヒンドゥでは、宇宙の創造は、一なる意識のイディアでしかない。
 その一なる意識をブラフマといい、その個別化意識が魂をアートマ(ガンディのマハ・アートマを連想してください)。アートマがここでいう「自我」であり、存在と意識の根源基盤なのでしょう。それを、マヤなる創造の堕落的原理・当為が故に誤って経験している、表面的自我意識=自分をエゴという。だから、常に自我とアートマが意識し経験しているのに、常人はその自我とアートマを気づけないでいる。という区別ではないでしょうか。そんな概念区別で勉強をしてはおります。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。

色々な捉え方があるのですね。
興味深いです。
ただ私は勉強不足でして・・・ガンディの思想などをまったく知らないので今後勉強したいと思います。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/08/30 23:57

言葉というものは難しいと思います。

免疫学などでは自己非自己の識別などという言い方をしています。こういう場合は認識の主体ははっきりしません。拒絶反応の対象にならないものを自己と呼んでいます。私見ですが免疫学の体系は心理学のそれと奇妙に重なる用語が使われているので面白いと思います(自己寛容など)。本題ですが俗な言い方では見ている自分と見られている自分というのはほぼ自我と自己の使い分けに対応するかとも思います。ご質問の本については全く読んだこともありませんが。主我が前者で客我が後者とすればしっくりするようにも思います(著者のことは知りませんからあくまで言葉の感じだけのことですが)デカルトのコギトエルゴスムは自我でしょうね。機械論者としてのデカルトは案外自分の体をデカルトの自己と考えていたかもしれないなどと空想しました。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。

そういえば免疫においても自己って使いますよね。
私は生物学を専攻しておりますので、その方がなじみがあります。
そして確かに社会学などの学問とかぶってるものも多々ありますよね。
おもしろいアプローチの仕方を提供していただいてありがとうございます。

お礼日時:2007/08/30 23:47

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Q自我と自己について

こんにちは。自我について、質問させて頂きます。

様々解釈はあると思うのですが、一般的に、青年期で言う自我の目覚めというのの自我と、幼児などの自我が強いと云う方の自我との違いは、自己を客体化できているかつまり自分を客観視出来ているかいなか、ということでよいのでしょうか。

また、自己と自我の違いは、自己を見る意識が自我、見ようとされているものが自己ということでしょうか。そしてそうだとしたならば、見られている自己は、決して見ようと思っている自己でなく、つまり私たちは客体化された、いわば像としての自己しか見る事はできない、ということになるのでしょうか。

Aベストアンサー

>自己は意識〈以外の〉精神活動という事でしょうか。

 まあそういうことになりますが意識も含めての統合性とでも言いましょうか。コンピューターで言うCPUにあたるところだと考えればよいと思います。

>自我は移ろいやすく、自己は継続的にその主体に備わる、ということでしょうか?それとも自己が主体そのものなのでしょうか。

 これは難しいところで主体性としては自我的なイメージですが自己主体的な側面では自己自身が自我と連携して主体性を持つこともあります。松本サリン事件のオーム真理教の場合自己と他者もしくは環境に置いて自我を変化させ自己主体が麻原そのものになってしまっていた組織です。西洋人には自己と自我との関係が強く自我と他者と関係が強く自己と他者との関係は弱い傾向があるそうです。しかし東洋人は自己が中心になって他者との関係が成立しやすい傾向があるみたいで、悪い方向へ流れると他者中心化してしまう可能性があるのが東洋のヤバイところです。その一例がオーム真理教です。かと言って西洋的な傾向がよいのかといわれても難しいところで自我が中心になって自己と他者との関係がなりたっているので悪い方向へ流れると暴動や戦争などに発展する傾向があります。
 あくまで傾向の話なので個人とはまったく関係の無い話です。まあその辺の諸説は色々あるみたいななので個人的には言及しません。あくまで噂の話です。

>自我は自己と完全に別個として考えてよいのでしょうか?

上記にも多少触れましたが完全に別個として考えるのはいかがなものかと思います。重なる部分もあるだろうし重ならない場合もある。という見方でいいかと思います。あと一つ時間的経過で自己も自我もいかようにも変わりますから一概に「固定」であるとは言えません。むしろ流動的であると表現したほうが近いと思います。

>>自我は自己から連絡を受けるので自己認識が出来る
>自己が能動的に自我に働きかけるイメージをしていいのでしょうか?

まあその場合もありますが(神からメッセジを受けたと感じる人など)自我が直接自己にアプローチを掛けて話し合いをする場合もありますのでやはり一概にはいえませんのでやはり流動的と言ってよいと思います。

(流動的→辞書で調べてください。)

>自己は意識〈以外の〉精神活動という事でしょうか。

 まあそういうことになりますが意識も含めての統合性とでも言いましょうか。コンピューターで言うCPUにあたるところだと考えればよいと思います。

>自我は移ろいやすく、自己は継続的にその主体に備わる、ということでしょうか?それとも自己が主体そのものなのでしょうか。

 これは難しいところで主体性としては自我的なイメージですが自己主体的な側面では自己自身が自我と連携して主体性を持つこともあります。松本サリン事件のオーム真理教の場合自...続きを読む

Q自分と自我の違い

自分と自我の違いは何と考えられますか?また、これは、英語だと、selfとegoの違いに相当するでしょうか?

Aベストアンサー

精神活動の全てを『自分』と表現すると思います。それに対して『自我』は脳の機能の中でも、顕在意識のみの事と思います。此処で脳の機能の科学的な証拠文献です。ウイキペデアからです。

『”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』

この記事を補完するためにもう一つ見て頂きたいものがあります。脳卒中のために脳の機能を『内部から観察出来て、生還出来た』脳科学者の動画です。

『脳卒中、ジル、ボルト、テイラー博士』と検索をしてみて下さい、動画が出てくる筈です。

この動画の中で博士が語っている内容は、正に宗教体験そのものと思います。右脳の機能は『生命発生装置兼生命維持機能』すなわち、命そのものの働きが、右脳の機能という意味です。

人間でも動物でも植物でも、昆虫や細菌でさえ『生命活動』を展開しています。その生命の維持機能が『仏性』の働きによっています。

桜なら、花が咲く時期でも色でも香りでもその種独特の持ち味がありますが、その特徴は生まれた時既に『持たされて生まれています。』この『持たされている働き』を命そのもの働き=『仏性』と呼んでいます。

人間も例外では在りません、生まれた時既に持たされている働きがあります。何も学ぶ事無しに生まれた赤子を例にするなら分かり易いと思います。

学ぶ以前から知っている働きは、三つに大別出来ます、只便宜上に大別すると書いていますが、人間存在の大きさから言うなら、三つに分ける事は適切ではない事を始めに断っておきます、何故なら『人間の個性が展開する世界では』必ずしもこの三つという限定された展開だけではすまない場合も出てくるからです。

この三つが複雑に絡み合い、もつれ合いながら一人の人間の構成要素となっているからです。

便宜上の大別とは『身体の生命維持機能』が一つです。心臓の動かし方も、呼吸の仕方も消化器系統の消化の仕方もホルモンの分泌も神経系統の統率も、他人に聞く事無く全て『知っている事として』生命維持活動は自動運転の如く、全て行われています。

その内の一つは、『感情や考え』を湧き上がらせる者として働いている生命維持機能です。その理由は不安や恐怖や安心などを初めとして、喜怒哀楽の全てを知り尽くして『赤ん坊』は生まれています。誰に習わずとも全てを、既に熟知している事が証明しています。

その内の一つは『行動の自在性を確保する事によっての生命維持機能』として働く働きとしてです。その証拠は『手や足の動かし方』を質問してくる事が無い事から、証明済みです。

自我意識は生まれた時は『白紙状態』です、何もかも知らない存在として生まれています。

この状態を聖書では、『天国に一番近い存在は幼子』と教えています。その理由は『心が未だ一つしかなくて、その心は見ている自分だけを演じているほか無いからです。』

思春期頃、左右の脳の機能分化が完成するようです、その頃から悩みが始まる事を意味します。その理由は『機能が二つになった事で、お互いの機能に溝が出来る場合があるからです。

この機能が二つになる事は、具体的な例を挙げるなら、『見ている自分』に対して、『見られている自分』が付け加えられる事を意味します。『見ている自分』VS『見られている自分』が争いだす事を意味するからです。具体的には『自分の裸を人に見せられなくなる事を意味します。』恥ずかしいという感情になって現れるからです。

争いだす事を、『疑いだす』と置き換えるなら尚更分かり易いと思います。自分自身は何者か?と疑いだすという意味になるからです。幼子の心は『自分を疑う事が無かった』事を意味します。

こう云った答えの出ない疑問の闇に『放り込まれる事を総称して』失楽園と、聖書は形容しています。

『自我』は後天的に成長しながら、言葉での思考が主体的な傾向を示します。そうして顕在意識としての自我を形成します。そうして言葉によっての思考方法が確立します。この思考方法が人間を悩ませる事になります。

この意味は『思考方法の原点には言葉の原理が関係します。』言葉にする時、物事が分けられてしまうからです、言い換えるなら、本来の意味よりもより限定が加えられる事を意味するからです。左脳の機能が関係しますが、物事を割り切って言葉にする習慣によって、物事を有限の世界に閉じ込める事になるからです。

従って、自我意識は物事を割り切って考える思考方法が身に付くために、有限の世界しか把握出来なくなってしまうからです。

それに反して右脳の人格は、意識が二つの機能になった時点から『無意識の底に封印された形で』自我の前から姿を隠してしまいます。このために『心を病む、神経症、自律神経失調症』などの原因が分かり難くなっています。

右脳の機能は生命維持機能として働いています。自我が、自分の命の源に『疑いを差し挟む形で苦しむ事になります。』ので、生き難い思いで苦しむ事になります。つまり心の矛盾の産物が『漠然とした不安』という事になります。

動画のように『脳梁の中=意識の根底』で出会う体験を、キリスト教では『神と和解する』と形容しています。

普通の生活では『意識』VS『無意識』は交替制がキープされる事によって、正常な毎日が展開しています。その出番の交替制が崩れた場合に、その崩れた機能によって呼び方が違っています。

その出番争いに『自我意識が』出張ってしまって、交替しない用意する場合その機能別に呼び方を変えています。

『湧き上る感情や考え』を湧き上がらせる機能と交替しない時『心を病む』と呼んでいます。

行動の自在性の確保によっての生命維持機能と交替しようとしない時は『神経症』です。

身体の全ての生命維持機能を司る者に支配権を渡せない様になる時、その渡せない箇所の名前になります。神経系統か、消化器系統か、あらゆる機関の可能性があります。

意識の根底での出会いがある場合では、二度と出番争いが起こらなくなります。聖書では『神の僕となる』と書いていますが、出番争いをしなくなるという意味です。

精神活動の全てを『自分』と表現すると思います。それに対して『自我』は脳の機能の中でも、顕在意識のみの事と思います。此処で脳の機能の科学的な証拠文献です。ウイキペデアからです。

『”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている...続きを読む

Q日本文学における「近代的自我」って、わかりやすく言うとどういうこと?

いまいち、ピンときません。近現代の日本文学を理解する上では必須の概念のようですが。たとえば、封建時代には無かったこういう考え方が、明治以降の思潮として生まれた…というような具体例をふまえて、わかりやすく教えていただけませんか。素人にわかるようにお願いいたします。

Aベストアンサー

明治以降、戦前までの、あるいは現代にいたるまでの日本の文学を貫く大きな主題を「近代的自我の確立」として見ていく、というとらえ方があります。

大雑把に言うと、
西洋近代社会の根本には、近代的自我があった。
それに対して、封建時代を続けていた日本には、近代市民社会というものは存在しない。そして、その核となる近代的自我もない。明治に入って、外圧によって開国を余儀なくされ、西欧列強に植民地化されないために、社会は急激な近代化を遂げた。

けれども、それは、西洋のように、近代的自我が自然な発達段階を経て成熟し、それと軌を一にして市民社会も成熟した、その結果としての文明ではないわけです。
そのギャップを埋めようとして、なんとか個人の内側に「自我」というものを確立しようとして苦闘した、一連の作家がいる、という考え方です。

ではヨーロッパの近代をささえた「自我」とはなんなのか。

これをまた考え始めると、大変なのですが、ここでは簡単に、「わたしとはなんなのか(わたしはなぜわたしなのか、わたしと他者はどうちがうのか、といった一連の質問も含みます)」という問いを立て、それに答えていくこと、としておきます(もし自我とはどういうことか、に興味がおありでしたら、宮沢賢治の作品を自我という観点から読み解いていく見田 宗介『宮沢賢治―存在の祭りの中へ』 岩波現代文庫が大変おもしろく、参考になるのではないかと思います)。

ヨーロッパ社会では、キリスト教の強い支配と、封建的な身分関係のなかにあって、ひとは、社会からも、神からも自由で独立した「わたし」を想定してみようとも思わなかった時代から、近代に入って、自我が哲学の中心的な問題となっていきます(ヨーロッパ社会の中で「個人」という意識がどのように確立していったか、ということに興味がおありでしたら、作田啓一『個人主義の運命』岩波新書を。この本は手に入りにくい本ですが、非常によくまとまっています)。

近代社会を構成するのは、ひとりひとりの市民である。そしてその市民は「自我」を有している。これがヨーロッパの近代を支える思想であり、ヨーロッパの近代文明を裏打ちしているのは、その思想であったわけです。

さて、上でも言ったように、ヨーロッパでは百年~二百年の期間を経て成熟していったところへ、日本は一気に追いつかなくてはならなくなってしまった。

文学も、それまでの戯作文学のように、楽しみのためだけに読むようなものではダメだ、西洋の芸術観に基づいた新しい文学が生まれなければならない、と、そのように考えられるようになった。そうやって、明治二十年代に入って、新しい文学が起こってきます。

その代表的な作品が、二葉亭四迷の『浮雲』、あるいは森鴎外の『舞姫』です(『舞姫』に関してはhttp://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=993639で回答しているので、もし興味がおありでしたら、ご覧になってください)。

両者とも、知識階級の青年を主人公にしています。
主人公は、どういうふうに生きたらいいか考え、悩み、自分が良いと信じる生き方と、社会の現実が相容れないことに悩みます。
つまり、現代までつながってくる問題が、明治二十年代に、初めて登場したのです。

この二葉亭や鴎外がここで提出した問題は、そののち、鴎外自身や漱石によって深められ、あるいは明治四十年以降からは私小説という表現形式をとって現れたりもします。

その現れはさまざまだけれど、いずれも、社会のなかで生きる「わたし」は、社会から独立した存在である、それゆえに、社会とは相容れず、みずからの理想を、社会のなかで体現することもできない、その「わたし」は、いったいどう生きていったらいいのだろうか、ということを、日常生活のなかに描き出そうとするものだった。そういうものが、日本の近現代の文学であった、と概観することもできるわけです。

非常に大雑把に書きましたが、「日本文学における近代的自我の確立」と言ってしまうとずいぶんたいそうなことのようですが、その内容は、そうしたものである、と考えて良いのではないでしょうか。

明治以降、戦前までの、あるいは現代にいたるまでの日本の文学を貫く大きな主題を「近代的自我の確立」として見ていく、というとらえ方があります。

大雑把に言うと、
西洋近代社会の根本には、近代的自我があった。
それに対して、封建時代を続けていた日本には、近代市民社会というものは存在しない。そして、その核となる近代的自我もない。明治に入って、外圧によって開国を余儀なくされ、西欧列強に植民地化されないために、社会は急激な近代化を遂げた。

けれども、それは、西洋のように、近代的自...続きを読む


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