『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ人々を魅了したのか >>

菅原道真は左遷されて怨霊になったそうですが、
それは左遷させた方のうしろめたい心理の反映でしょう。
菅原道真自身はどうおもっていたのでしょうか?
政敵をうらむ気持ちが強かったのでしょうか?
学問に秀でた人ですから、たかが左遷と泰然自若であったということはないですか。

よろしくお願いします。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (6件)

それは菅原道真の霊を呼び出して、本人に聞いてみなければわからないところですね・・・^_^;


他人にはわからない心の内の問題ですので、
私個人の考えとして、稚拙ながら述べさせていただきます。

道真は、宇多天皇というバックがあって地位を確立していったわけですが、
宇多天皇は当時、大きな権力を持つ藤原氏と対立関係にあり、
しかも次期天皇となる醍醐は、藤原家の娘を母に持つ、藤原家の外孫です。
もちろん宇多天皇が退位し、醍醐が即位すれば、再び藤原家の勢力が盛り返してくることは明らかだったはずです。
となると、宇多天皇によって藤原氏と対抗させられていた道真の立場はたちまち危ういものになってしまう。
頭のいい道真は、それくらいのことはわかっていたはずです。
そう考えると、道真にはすでにある程度の覚悟があったのではないかと思うわけです。
逆に、頭が良かったからこそ、宇多天皇退位後もうまくやっていけるという勝算があったのかもしれませんが、
それまで対立関係にあった、天皇の外戚である摂関藤原一族と渡り合って行けると、本気で思っていたとは考えにくい気がします・・・。
やはり頭のいい方ですし。

まぁ右大臣の位にまで昇った人ですし、
悟りを済ませたお坊さんでもない限り、それなりに野望もあったと思います。
身に覚えのない讒言で降格、左遷されればやはりうらむ気持ちもあったでしょう。

しかし、やはりある程度は覚悟の上、
勢力争いの末、身に覚えのないことで突然失脚していく人たちを見てきた立場としては、悔しいながらも、
「やっぱやられたか・・・悔しいけど、これも人生か・・・」
なんて諦めの気持ちもあったのではないかなぁなんて、
かってに妄想してしまいました。

やんごとなき方々の畏怖心から、
人が死んでは怨霊だ、雷が落ちれば祟りだのと騒がれ、
挙句は神として祭られるようになったのを、
本人は意外と客観的に見ていたかもしれないですね。
そういう意味では泰然自若だったのではないでしょうか?

浅い知識で、自分の想像をつらつらと書いてしまいました。
すみません(-_-;)
    • good
    • 0

 本人の内面は、想像するしかありません。


 事実としては、菅家文草、菅家後集などの歌集・詩集に、望郷の念はあっても恨みつらみは表現されていないということですが。

 結論として、表出だけを見ると、恨んでいたとは考えにくいですね。
 ただ、怨霊伝説ができたということは、当時周りはそうは見なかったということでしょう。
    • good
    • 0

菅原道真と藤原時平、共に改革を求めていた二人は中国の律令制度の模倣からの脱却を目指していた事は共通していたのでしょう。


また当時は個人よりも「家」の繁栄の為に上を目指す事に重点を置いた時代です。道真もその点においては、他の家と全く同じだったと思います。
真正面から改革を目指した道真は、変化を嫌う多くの貴族から反感を買い失脚しますが、方針の違う時平が、道真失脚の主役的立場になるのは極自然だと思います。歴史的には時平らの策謀とされましたが、彼やその近辺のものだけで実行されたのかは、チョット疑問だと思います。やはり変化を望まない多くの貴族の思いがあったと思います。

道真が左遷させた事だけで、彼を怨霊と考えた訳ではないでしょう。
彼の死後、都を襲った天変地異や皇子の相次ぐ死、時平の早逝などが重なった為、次第に道真怨霊説が出てきたものだと思います。
政権抗争の激しかった時代、相手を追い落としただけで、それほどの罪悪感が生まれるとはあまり考えられません。
たまたま災難が重なれば(怨霊を信じていた当時であれば)失脚した者に結びつけるのも、極自然な流れではないでしょうか。

道真自身、時平を始めとする貴族を恨んだかは判りませんが、信念で改革を求めていたのですから、自らの正当性を信じ、いずれは認められると考えながら死に至ったのは確かだと思います。
    • good
    • 0

難しいですね・・。


「東風吹かば・・・」の歌もそうですが、道真はこんな歌も詠んでます。
「心だに、まことの道に、かないなば、祈らずとても、神や守らん」
正しい事をしていれば、祈らなくても神様は助けてくれる・・・て事ですが、こんな歌を詠む人が、敵を恨んでいたとは思いにくいです。
しかし、一方では、自分が遣唐使になりそうになったので(道真は行きたくなかった)、自らが天皇に進言して「遣唐使を廃止」させた・・・という一件もありますからね。
頭の良い人ですから、相手から自分がどう見られるかという事を計算して表向きには先ほどの歌のような行動をとっていたようにも思います。
ホンネでは恨んでいたかも知れませんが、そのホンネを人に見せる事はなかったでしょうね。
左遷させたほうは、ソコのところ(ホンネを見せないところ)が一番怖かったんじゃないでしょうか。
    • good
    • 0

「東風吹かば思いおこせよ梅の花、主なくとも、春な忘れそ」


の中に恨みがましい心理は、感じられません。
管公を慕って、一夜で、大宰府まで、飛んだという梅の花が、人となりを表わすエピソードだと思います。
逆にやましいことをすれば、自然現象にも怯えて暮らさないということだと思います。
    • good
    • 0

とても興味深い質問ですね。


聞きかじった知識で恐縮ですが、道真は渡来人の技術者を使役する立場にあったという説もあるそうです。
左遷に至っては、渡来人の使役もままならなくなったでしょう、当時優れた技術を持つ彼らを仕切っていたことは建築、鋳造等の重要分野で力を発揮していたことに繋がるでしょうから、その立場を取り上げられたと考えれば、学者的泰然ばかりではなかったかもしれないと愚考します。
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード


人気Q&Aランキング