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すみません。哲学っていうかわかりませんが、「ビデオの法則」っていうのを考えました。意見を聞かせてください。

ビデオの主人公は何回見ても同じ行動を取り同じ結末に行きつく。
なぜか?
ビデオだから。
まあ当然の答えですが、ここを少し深く考えました。
ビデオの主人公のビデオの始まった時点の心境や体調は毎回同じです。
当然ですね。
これはビデオの主人公の「初期値」は毎回同じということです。
そして、ビデオの主人公がその物語で見聞きすることや感じることは毎回同じ。
これも当然です。
これはビデオの主人公への「入力」が毎回同じということです。
ここから『ビデオの主人公の「初期値」と「入力」が同じなら、同じ行動を取り、同じ結末になる』と言えます。
まあ、当り前のことですが。
ですが、これを実世界の人間にあてはめると、ある人間の初期値と入力がその人間の人生を決定することになります。
人間の初期値というのはおおざっぱに言うと生まれた時点での脳と体です。入力というのはまあ環境のことです。
ようは生まれた時点で全く同じ人間でかつ、同じ環境で育てば全く同じ人間になるということです。
まあ、当り前のことです。

ここから何が言いたいかというと、自分の初期値は自分で決定できないですよね。かつ自分への入力(環境)も自分で決定できないですよね。
初期値は運によって決まりますし、環境も運によって決まります。
ということは今の自分のアイデンティティも運によって決まっていることになります。自分ではどうしようもない部分です。
性格の悪い人も犯罪者もそうなった原因は初期値と環境にあります。
よくテレビでコメンテーターが犯罪者を「こんなことやる人間は信じられません。ほんとに死刑になって当然です。」というように罵っていますが、この理論で言うと、そのコメンテーターもただ運がよくて犯罪を起こさなかっただけです。そのコメンテーターがもし仮にその犯罪者と同じ初期値で同じ環境で育てば絶対に同じ犯罪をしているはずですから。
「ビデオの理論」から言うとその犯罪者は「弱い人間として生まれ、悪い環境に育ち、犯罪を犯して死刑になる」という内容のビデオの主人公になるはめになって運が悪かったね同情されるべきではないでしょうか。
犯罪者を擁護する気はないので、やはり同情というのはおかしいと思いますが、やはり運が悪かっただけということはいうべきです。
人を憎んで罪を憎まずと言います。これは、罪事態はもちろん悪いことなので憎むべきだが、それを犯した人はただ運が悪いだけなので憎むなという意味なのではないでしょうか。

人生は運ではない、私は努力で今の幸せを勝ち取ったと反論する人もいるでしょうが、その人はただ単に「努力できる性格」を初期値と環境から授かっただけなのです。「努力できない性格」を授かった人は「努力できる性格」になるよう努力することもできない不幸な人なのです。
ですから、ダメな人間の原因は浅い意味では自己責任と考えることもできるが、深く考えると完全に運が悪かったということになります。

私はこのことを考えていると、世の中のすべての犯罪者はその人自身はなにも悪くなく運が悪かっただけで、世の中のすべての偉人はその人自身がいい人だったわけでなくただ運が良かっただけなのだという結論が頭に浮かんでしまいます。

私の好きな歌にこんな歌詞があります。
「いい人ばかりじゃないけど、悪い人ばかりでもない。」

世の中にはいい人、悪い人ではなく、運のいい人、悪い人しかいないという意味に思えてなりません。

私は間違っているでしょうか?みなさんの意見を聞かせてください。

A 回答 (47件中1~10件)

ビデオの法則…面白い発想ですね、個人的には物凄く気に入りました。


間違ってないと思いますよ、色々な発想があっていいと思います。
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アメドラでクリミナル・マンドってのがあって、シーズン3のエピソード14に<20年目の決着>ってのがあるんですね。



まったく違い話が二つ並行して進行するのですが、ひとつは20年前に両親が殺され3人の子供が残り、貧乏ですさんだ生活をしている話し。

もうひとつは、子供の頃から放火を100件以上し、少女たちを誘拐して拷問してレイプして死刑が1週間前となった男の元にFBI捜査官が今後の参考のために会いに行くって話し。


殺人犯は「俺が殺すと決めたら、どんな奉仕をすると言ったところで、変えることはできない。少女たちは絶対に逃れられなかったのさ」と言っていた。
で、FBI捜査官を二人殺せば、新しい殺人事件が起こったことになり、それを審議するため、死刑は延期されるので、二人を呼んだと、呼んだ本当の理由を話した。
「あと13分 看守は交代のため呼んでも来ない。少女たちを殺すのに5分とかからなかった」と言われたFBIの一人は、「俺は155センチで45キロの女じゃない そう簡単にやれるかな」と戦闘準備に入ったわけです。


ところが戦闘なんて代の苦手なもう一人は、別な技を使った。

「どうして君が殺人を犯したのか教えてあげるよ」って。

死刑囚のことは調査結果を見ており、自分の知っている知識をもって、どうして死刑囚が殺人を繰り返してきたか説明した。

「少女たちに出口は無かったと言ったが、(死刑という死を迎えるという運命から)逃れられなかったのは君の方」って。

それまでニヤニヤしていた死刑囚の顔が、真剣な顔になった。
自分が何故人を殺してきたのはわかったので、自分の正体がリード博士の説明でわかったから。


最初のストーリーは、知的障害の子が、見かけた気に入った子に会いたくて夜中に家に入り、娘に何かされると思った両親が側にあった斧で殴り、その子が斧を奪い自分を殴った親を斧で殺したってことです。
その子の親は自分の息子がやったことを知り、相手の遺族の子供たちに毎年クリスマスになるとプレゼントをすることで、謝罪してきたわけです。
BAUのメンバーが総力を挙げて犯人像を分析し、居場所を特定し捉えに行った。
そのときその親は「あの子はいい子なんだ。」と言った。
捉えられて暴れる息子に「逆らうな」と泣いて言ってた。

自分がやった行為がどんなことなのか息子はわかっておらず、罪悪感がもてないのですが、毎年プレゼントを届けさせ、やった行為を本人は理解できないが、謝罪を示す行為はさせていた。


死刑囚は、両親から受け継いだ不安定な性格の要素と、体内にいたとき浴びた物質と、不安定な両親が作る不安定な環境で育つしかなく、暴力と愛を混同する人格になるしかなく、快楽殺人を繰り返し死刑により運命をまっとうするしかなかった。


で、「脳が殺す」って本があるんです。
連続殺人犯は刑務所に入れるべきか、病院に入れ治療をすべきか と問うた本で、20年以上連続殺人犯を調査している人が書いた。

連続殺人犯の脳に特徴があると研究からわかったのですが、実は自分自身の脳も連続殺人犯と同じ特徴があるとわかった。
なのに片方は連続殺人犯、もう片方はそれを研究することに人生を費やした。
どうして同じ脳を持っているのに、歩んだ人生が違ったのか として、筆者なりの理論が書かれていた。

プロファイルと同じ考え方で、条件が重なるほどに、方向性が狭まっていく というもの。
2つまで同じでも3つ目が起きないと、連続殺人犯にはならない と書いていた。
条件がつぎつぎ揃ってしまうと、連続殺人をしてしまうしかなくなる、 もうブラックホールから逃れ出ることはできない というわけです。


で、条件を発生させることを阻止しなかった行政にも殺人が発生することになった原因はあるとして、命を奪うのではなく治療をするべきだって主張。


日本で無差別連続殺人をした人が「無知の涙」という本を書いた。
死刑になるつもりでいたので、死刑になることが怖くなかったわけですが、どうして自分は4人も殺すことになっかわかって欲しい、それは無知だったからだ って主張。

生い立ちは過酷なもので、集団就職しても社会に溶け込めず、こんな目にあわせた社会に復讐をして死ぬつもりだったようです。
ですが、知識を得たため自分がやったことがどんなことなのか知ることとなり、取り返しがつかないことをしたことを自覚したが、どうしてそうなったのか理解して欲しい と本を書いて訴えた。
死刑になるのはいいが、理解して考えて欲しい って。

裁判所は弟も同じ環境だったが、殺人はしていないので、社会のせいではない として死刑にしましたが、彼の死刑執行の換わりに 一人の少年を救った。

神戸連続児童殺傷事件、校門に生首を置いた少年を医療刑務所にいれ、国家予算を使い手厚い精神的ケアを施し、別名を与えて、別の人生を歩むチャンスを与えた。

試験的なものだと思います。
環境で人は犯罪を犯さなくなるかという実験。

まだ 結論は出ていません。

試験例が少なすぎるので、彼が今後犯罪を犯さなかったとしても、じゃあ 環境が変わる、チャンスを与えると、人は別人格に変わる と結論づけることはできない。

私は何故一人を救うために、もう一人を殺したのか、それがわからない。
神戸連続殺傷事件の犯人のかわりに、もう一人の同じようなことをやった(殺した人の数は違いますが)人の命を奪った。
つまり一人を救うには、その代わりに生贄を殺す必要がある という理論なのだろうか。
プラス マイナス 0。
これが本当の理由なら、なんら変わりない。
実験でもなんでもない。

動物を身代わりに殺すことで、罪を消す という考えが古代にあったが、現代は動物ではなく人を殺すことで、もう一方を殺さないってことで、、、、

人間って こんなもんでしょうか。
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間違っていないと思います。



このビデオの法則もいいですね。
でも既にこの考えは既存です。

ちなみにあなたが考えたこの思考は出来たばかりでまだ温かいと思います。
つまり出来たばかりで人に披露し、賛同を得たかったのだと思います。

この考えはまだ過渡期的観念で、まだ成長できると思います。
なぜそう思うか。若いときにみんな同じようなことを考えるものなんです。
そうやって成長していくのです。(もちろん人によりますが)

有名な俳優の里美浩太郎さんはこういう事を言ってます。
「確かに私の人生は棚からぼた餅だった。でも少なくとも棚までは歩いていった。」と。

我々は確かに運よく日本に住んでいます。
生まれながらに奴隷だったり、決して自分の運命を変えられない屈辱的な人生を歩む人も
いると思います。
しかし、ある程度自由な人生を歩める日本人が犯罪を犯すかどうかは自分次第です。
初期値、入力値は共に25%で併せて50%だと思います。
決めるのは自分です。

上から目線ではないですが、
現在のあなたの考えはそれで良いと思います。
でも結論は先延ばしにしてください。
必ず別の考えが生きていれば出てくると思いますので。
私もその軌跡を通ったことがある一人です。
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 回答が多く、まだ締め切られていなくて、かつ質問者の方がちゃんとコメントを返していただけそうなので参戦させていただきます(笑)。

全部を読んでいないので、既出のものとかぶっていたらスミマセン。しかし「ビデオの法則」とはまたキャッチーなネーミングですね^^。オリジナルですか?
 前半の回答♯2にありましたが、僕も池谷裕二氏の『脳はなにかと言い訳する』を連想しました。143ページ~150ページあたりです。選択の自由があれば責任も問えます。人間に“自由意思”はあるのか?ということですよね。
 「語り得ぬものに関しては、沈黙しなければならない」とウィトゲンシュタインが言ったそうです。これが何を意味するのか、哲学を勉強していない僕にはわかりません。ほんとうに、これはもう僕がそう思っているだけなのかもしれないのですが、「自分自身は見えない」という法則があるように思うのです。われわれが自分自身のことをどう思っているのかという「自我」あるいは「自意識」、これは「自分自身は見えない」という法則を適用するならば、いっけん不可能です。ですが、それを可能にしているのは“移し身”だと思うのです。これは自我だけでなく、自分の生み出した思考についても言えます。言語やイメージで造られた、本来の自分(あるいは自分の思考)とは別の「自分」(「自分の思考」)に移し身することによって、自分自身を省みることを可能にしたのです。言語は左脳、イメージは右脳ということになるのですが、いずれにせよ6層構造の大脳新皮質の発達が人間に“省みる”という能力を与えたのだと思います。もちろん6層構造がどう機能しているのかは不明です。この“省みる”というのは、「意識」のことでもあります。野生の動物も考えているのでしょうが、それは人間のような考え方ではなく一方方向です。省みるということがありません。シカが気絶しても『意識を失った』と言うのは変で、もともとシカに意識は無いのです。省みるには「外から見たような感じ」にしなければならないのです。自分の眼やその周辺は、鏡に映したりしなければ見ることができません。
 話は変わって、0.999999…≒1としても差し支えないのではないか、これには同意していただけますでしょうか。この扱いは便宜的なものですが妥当でしょう。私たちは「自由意思によって自分で選択したように感じている」のです。それが普通の感覚ですよね。これはもう「自由意思によって自分で選択した」と≒の関係だと僕は見るのです。ならば、罪の責任をとって刑に服すのも当然となります。でも、すべては「便宜的」なことです。
 もしも神や仏のように外から人間を眺めれば、『なんて馬鹿な奴らだ。自分で考えたような気でいやがる。』となるでしょう。だから、神や仏なら、罪を犯した人間に対して『責任を取れ』とは言わない筈です。『責任を取れ』と迫って来るのは人間です。
 われわれの考えたり行動したりしていることは、すべてビリヤードのような必然的な物理法則の積み重ねの結果に過ぎないのかもしれません。いえ、たぶんそうでしょう。ゆらぎによる偶然性があるのも含めて、必然と呼ぶこともできます。しかしそれは外から見た時に必然と呼べるのであって、外から見る立場にない私たちは沈黙しなければならないと思います。
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こんにちは。

ビデオの法則、視点がすごく面白いですね。
僕は哲学的なアプローチが苦手(というか難しい言葉が憶えられない)なのですが、
気になる事を書かせてもらいます。
まず、
>ビデオを巻き戻してもう一度再生すると、違う結果が待っている
事はあると思います。何万回と繰り返して再生しますと記録媒体や再生機が劣化して
ついには"中の世界が破綻する"ことを考えると、1回につき"必ず"何万分の1かは
どこかの部分が変化していると言えないでしょうか。

次に神(再生ボタンを押す人)がビデオを再生する時刻です。
1回目に再生し始めたのが昨日の昼だとすると2回目に再生し始めるのは
必ず昨日の昼より後になるので、ビデオの中の人達が気付かなくても
世界は"明らかに変化"していると言えないでしょうか。

最後に、人間が生きているこの世界というのは、ビデオを"再生"している
過程ではなくて、寧ろビデオを"創作"している過程なのかなと感じます。
脚本はあるとしても、原画や役者の言い回しなどで、彩りが増減します。
この世界もある程度の条件下で結果がなんとなく見える事はあっても、
その時々のアドリブによって場面は様々に変化して、
最後に記録として1本のビデオが残るという感じです。

参考にはならないと思いますが、面白いお話だったので首を突っ込ませていただきました。
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補足ありがとうございます。


最後にランダムについて語らせてください。
>「じゃあ、世界の初期値はどう決定されたの?、ランダムに決まったんじゃないの?」
>と聞かれたら、なにも説明できないからです。

そんなこと物理学者だって説明できません、しかしランダムだって必ずなにかしらの経由があってランダムになるということをご存知でしょうか?袋の中の石(白黒)をランダムに混ぜて取り出しましたさて白石を取り出す確率は?という問題を聞いたことがあると思いますが、それだって石が混ざりあう工程があって初めてその確率が出るわけですよね?
ランダムというのは本来経由の在るものであると言う事を理解していただきたい。
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はじめまして。

質問者様は私とほぼ同じ意見かと思います。というのは私が質問者様の意見を見て納得したのではなく、似たような考えを持っていたのです(流石にビデオからの発想ではありませんが)。因みに私はまだ高校3年なのですが、中学の時から考えてきました。

問います。「質問者様は《心の底から》この法則を受け入れていますか?」

私自身の上の質問に対する答えは「No」です。「法則が理解できない」わけではなく「法則に納得したくない自分がいる」といった感じです。この法則を認めるということはつまり、何というか、ヒトがヒトとしての尊厳を保てないというか、善も悪も結局はどうでも良いとか、そういう事でしょう。で、感情やら何やらも最初から決まっていて、自分では「頑張った」と思ったことも最初から決まってて、仮に自分が今すぐに、社会的に認められないような行動をとってもそれは最初から決まっていたことだから仕方の無い事で、勿論他人がそんな行動をとったとしても同じ事なわけで、そもそもこの法則を見出した事自体最初から決まっていたことなわけで・・・。
と、なると思います。で、勿論こんなのは嫌なわけです。そうででしょう?つまり感情が邪魔をしているのです。(いや、この感情も「ビデオの法則」の中の事象であり・・・と更に深みにはまっていく)
というわけで、私は「自分が考え自分が導いた結論に自分自身が納得できない」状態でいます。質問者様はどうでしょうか。

ここで自分の感情はさておいて、とりあえず考えを進める事もできますが、自我の崩壊や犯罪の助長に繋がりかねません。ではこの負の点も「ビデオの法則」の一環であり仕方が無いと片付けましょうか。(また深みにはまりそうです)

同じ事を何度も書いたような気がしますが、伝わりましたでしょうか。問題解決への回答でも何でもなく、ただ私の状態を書いたに過ぎませんが、もしかすると質問者様も同じかな?と。違っていたらご勘弁。
長文の上に分かりづらくなりましてすみません。
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なんとなく質問者さんの疑問がわかったような気がします、つまり自由意志が在ると言う事は自分の意志で動いておりそれは運命ではないのではないかとそう思っていらっしゃるのですかね?もしそうならば答えは簡単です、それは刷り込みです、自由意志で動いていること=運命ではない、と思い込んでいるだけです、考えてみてください自由意志というはいつから運命ではなくなったのでしょうか?こうは言えませんか、自由意志は運命である、どうでしょうか?なにか引っかかりますか?自由意志と運命が相反する理由があれば話は別ですが相反する理由がなければ明らかに自由意志は運命ですね、運命というのが他から操られているというイメージあるのである種自由意志と矛盾すると感じるのかもしれませんがこれはビックリハウスみたいなものです、感覚と理論が矛盾しているだけです。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
しばらく考えていたのですが、主観世界とか客観世界とか集合論とかはやはり私には難しいようです。
TENNTENNSEVENOKさんの証明が明確で非の打ちどころがないことは伝わってきます。
あまり理解してくなくて申し訳ないですが、TENNTENNSEVENOKさんは主観でも客観でもビデオの法則が成り立つと確信してらっしゃり、主観、客観どちらについても証明されるならもはやそれは矛盾を許さない絶対的な理論だろうと思います。
どうも、理解不足のため表現が抽象的になってしまって、申し訳ございません。どうか、TENNTENNSEVENOKさんは私に理解できなかったことをがっかりされないでください。すくなくとも私はTENNTENNSEVENOKさんが「3x = 6、よってx=2」と同じくらい明確にビデオの理論を証明されているだろうとわかっているつもりです。

最後にわかりやすく申し上げますと、
私は自由意思が存在しているとは全く思っていません。
自由意思が存在しないとはもはや自身満々には言えなくなってしまっただけです。
なぜなら、ビデオの法則を説明しているときに、
「じゃあ、世界の初期値はどう決定されたの?、ランダムに決まったんじゃないの?」
と聞かれたら、なにも説明できないからです。
そういう点で私の中でビデオの法則が絶対的に明瞭なものではなくなってしまったのです。

お礼日時:2007/09/26 21:53

なんとなく最後の 主観世界に自由意志が存在し・・ と3つ目の 主観的に自由意志は存在し・・・・ はどうちがうんでしょうか?という補足をされそうなので書かれる前に書いておきます、



最後に書いたやつは (定義した場合) と条件を付けておきます。
つまり 主観世界に自由意志が存在している と書いたのは 主観世界を仮に自由意志と定義した場合 とさせていただきます、
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NO.37ですいつ補足されるかわからないのでとりあえず解答してみたいと思います。



まず回答者は大きく分けて3つに分かれると思います。

1つ目・ビデオの法則は正しい

2つ目・ビデオの法則は不確定性原理があるから間違っている

3つ目・ビデオの法則は客観的には正しいが主観的に自由意志は存在し運命なんてものは存在しないのです。

こうだと思います、このなかで自分は1つ目です、この証明は2つ目3つ目が違うという証明をすれば良いわけですね。
ではしてみます。
まず、2つ目は不確定性原理は我々の主観が集まって作った科学からしてみて限界値を意味します、これは完全に客観が抜けていますね、ですからこれは間違えです。
3つ目は結構いい腺を行っているのですが主観的には運命は存在しないという所が間違えです、この3を主張する回答を見てみますと「主観的には自由意志が働いている」とこういうことです確かにこれは間違えていません、ただしこの主観発生原理が存在するんです、たしかに主観的には理解することは難しいです、しかし主観発生原理(第二の世界)(実は我々はこの世界で実際生きています、我々はこの世界から抜け出せません、客観的に見ようとしてもそれは主観でしかなく永久に客観的に見ることができないという哲学的理由があるからです。)(このことについては”脳 内省 クオリア”と検索しみるかhttp://www.geocities.jp/nbsakurai/51.htm参照してみてださい)この第二の世界は仮の客観性(主観世界から考察した客観だろうと思われる世界)に映らない(映す技術がない)ので未解明なだけなのです、本当の客観世界(主観世界と客観世界を説明できる世界)からしてみたら証明済みなのです。ですから主観世界的に運命が存在しないのではなく主観は主観の世界が存在するということなのです、もっと詳しく言うと客観の世界と主観の世界の両方があり我々は主観世界に存在してそこからは脱出できないが運命という原理に則って変化しているということなのです、わかりましたか?
たぶん「わからない」と言うと思うのでもう少し単純に表現。

主観世界=主、主客世界から考察した客観世界=主(客)、客観世界=客、主観客観世界の客観世界=客U
とします、これを集合の式にすると(理系だから判るよね?)
客U=主+客-主∩客 
また、主⊃主(客)、であり、主∩客=主(客)∩客、である。

<まとめ>

主観世界=主、主観世界から考察した客観世界=主(客)、客観世界=客、主観客観世界の客観世界=客U とすると
主⊃主(客)   であり
客U=主+客-主(客)∩客 である、よって上記2つ目3つ目は不適格となる。

(証明おわり)

つまり自由意志というのは我々の主観世界にそんざいしており法則性の一部になっているということです。
もし3つ目を言い換えるのなら
ビデオの法則は正しい、また主観世界に自由意志が存在し、また主観世界から考察した客観世界の不確定性原理の世界は主観世界からしてみたら不確定であるということです。
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