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新撰組の土方歳三といえば、幕末の志士でも1、2を争うほどの人気を持っています。その原因となっているのがあの五稜郭戦の直前に撮影されたというあの有名な写真のせいなのは異論の余地はないでしょう。
しかしあの写真、かなり「おかしな」写真であります。服装は洋装でさらに当時の日本人ではほとんどはいていないブーツまで身につけています。さらに髪型はざんばらです。さらに驚くべきはその洋装を「完全に着こなしている」ことです。普通、着慣れないものというのは着こなせないものです。みなさんも、友人知人あるいは自分自身が結婚式などで着慣れない衣装を身につけたらお笑い芸人みたいになってしまった経験があると思います。しかし、歳三さんのあの姿はまるでモデルのように着こなしており、はっきりいえば現代の目で見てもかっこいいものです。きっとあと300年たってファッションが変わってもずっとかっこよく見えると思います(坂本竜馬のブーツ姿がある種のお笑い芸人テイストを持っているのとは対照的です)。
さて、それの何が「おかしい」というと、彼は元々「武士になること」を熱望した男です。つまり、当時においては相当保守的であったことに他なりません。彼の思想を伺える資料はほとんどありませんが、開明的な開国論者ではなく保守的な攘夷論者に近かったことは間違いないでしょう。
その彼がなぜ「洋装」を選びさらに「ざんばら髪」までやったのか。当時一般庶民ですら明治になってもなかなかちょんまげを切ることが出来ませんでした。その「モダンさ」は一体何処から来たと思いますか。

A 回答 (7件)

まずは根本的な誤解があります。


幕末の日本はあちらこちらで洋服を着ています。(膨大な数の写真が現存)
ブーツも黒羽藩主や佐倉藩士など多数写真で現存しています。

幕府や会津は開国主義です。それに憧れた人が長州や水戸と同じ攘夷論者になるんですか?

武士は生きるために刀より拳銃を選ぶ人種です。『人斬り以蔵』と現代いわれる岡田以蔵が持っていたものは拳銃(現存しています)です。使い勝手の悪い和服を着るより着易い洋服を選ぶのが武士です。

鳥羽・伏見の戦いでは新選組は全員ライフルを持っています。これは当時の精密画で現存しています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>使い勝手の悪い和服を着るより着易い洋服を選ぶのが武士です

豪快な説恐れ入りました。ちなみに余計なことではありますが、ライフルとはいわゆる施条(ライフルリング)を持った銃であります。幕末であればミニエー銃以降でありますが、鳥羽・伏見では火縄銃ないしゲベール銃がメインではなかったかと思います。ま、あれですよね、「銃を持っていたっていいたかったんだ、銃を。揚げ足を取るんじゃない」ですよね。

お礼日時:2007/09/09 00:30

写真の真偽は別として当時(五稜郭時代)には既に榎本武陽など西洋風の風俗はかなり浸透していたはずです。


しかも土方は政府軍の新式装備に完敗してきた人物ですから装備や訓練の洋式化の必要を痛感していた筈です。

頭の「ちょんまげ」は戦闘時は鉢巻をしなければ戦闘に不向きな事は経験ずみでその点「ザンギリ頭」は便利至極です。  靴も同様。
洋装による戦闘の有利さも痛感していたでしょう。
従っていかなる保守主義者であってもこれらの利点に目をつぶる事は実戦主義の土方でも許されなかったと考えます。

このように考えると理解出来るのでは・・・
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

確かに戦闘では洋装のほうが楽で優れていたことは痛感したであろうことは想像できます。ただ、人間というものはなかなか常識に基づく習慣を変えることは難しい生き物なんですよ。日本の夏の気候にはスーツは合わないことは誰だって知っています。けれども一度「サラリーマンはスーツ」という常識と習慣が出来てしまうとなかなか脱げないものです。かつて省エネルックはE電なみに失敗しましたし、今のクールビズだってなかなか受け入れられない人たちがいます。
あと、当時の実際はどうだったか分かりませんが、そもそもちょんまげは兜をかぶったときに頭が蒸れないようにしたもので、本来なら戦場向きの髪型なんですよね。後に明治政府はちょんまげ禁止令を出しました。禁止令が出たということは禁止しなければならないくらいみんなちょんまげをやめられなかったということです。そういう意味においても、歳三さんは結構柔軟な思考の持ち主だったといえるのかもしれませんね。

お礼日時:2007/09/09 00:19

土方歳三は三多摩(日野など)と言う天領の出身です。


ここの人は幕府への思い入れがかなりあり、当時としては保守的な考えの人が多かったと思います。
当然初めは攘夷論者であったと思います。
しかしそれを言うのならば、倒幕派の人も初めは攘夷論者ばかりだったのではないでしょうか。
薩摩藩士が薩英戦争によって開国論に転じる人があったように、土方も戦いや情報などで西洋の物でも良い物は積極的に取り入れて行っただけです。
新撰組も最後の方は西洋式軍学を取り入れる方針だったような。

戦いで甲冑を着けるのはもはや不利。
ならば戦いやすい軍服(洋装)を着るというのも自然の流れ。
ざんばら髪の方は分かりませんが、やはり洒落者だったのでは。

>No.4の方

土方が捕まっていた場合は、間違いなく死罪となっていたでしょう。
新撰組は京都守護をする警察部隊として、討幕派とはかなり激しい闘いを繰り広げていたのでいましたからね。
(どちらが良いかは、贔屓によって見方が変わります。個人的には、どちらも賛美されることもやれば批判されることも多々やっていたのではないかと)
倒幕派の新撰組への怨嗟の思いは相当なものであったはず。
局長・近藤勇の最期を考えると、まず生き残るのは無理ですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

かなりモテモテで自他共に認めるプレイボーイだったようなので、髪型を大胆に変えることにも躊躇がなかったのかもしれませんね。
それにしても面白いのは、幕末の志士のほとんど、といってもいいくらいの人たちが元は攘夷論者だったのにあっさり西洋技術を取り入れることに積極的になっているのですよね。戦後もあっさり親米路線に転向しましたし、こういった「節操のなさ」が日本人の強みなのではないかと思っています。

お礼日時:2007/09/08 09:03

1. 土方歳三は、僅かな期間(1年程度)に洋式銃を主装備とする戦術をマスターし、蝦夷地での戦闘では優れた指揮を行ったと言われています。

かなり柔軟な頭脳と知力を持った人物であったことは、新撰組時代の記録からも確かでしょう。要するに「つまらないことに拘らない」人だったと思われます。

2. 蝦夷地は、江戸や京都で暮らしていた歳三には想像がつかないほど寒い所だったでしょう。詳しくは分かりませんが、蝦夷共和国の幹部は西洋式に作った家で1869年の冬を越したと思います。氷雪の中でも平氏の訓練は行ったでしょうが、洋装でなければ出来るわけがありません。そして、「洋装に髷を結う」様な格好悪いことを、洒落者であったらしい歳三がやるとは思えません。洋装なら当然頭も洋式にするでしょう。

3. 服についてですが、当時は既製服など存在しません。函館に洋服職人(外人か日本人かは不明)がいて、その人が採寸して歳三の洋服を作ったはずです。革長靴も同じです。フルオーダーの洋服や靴を着こなすのは、歳三のように「柔軟な発想を持った人」なら十分可能だったのでは。

4. 私は、土方歳三は近代軍の最優秀の将校になれた人だと思います。函館戦争では、蝦夷共和国の最高責任者であり「賊軍の首魁」である榎本武揚さえが助命されました。新撰組の副長であったとはいえ、別に罪人でもなんでもない歳三が助命されることはありえたと考えます。
仮に歳三が助命され、後に明治の陸軍か海軍に身を投じていれば、同じく賊軍側で最後まで抵抗し、許された後に日露戦争で偉功を建て、陸軍大将まで昇進した立見尚文のように日清戦争あたりで活躍出来たのでは、と考えます。日露戦争の時は既に70歳ですから、現役軍人として戦うには遅すぎますが。

※私は別に「新撰組ファン」ではないので誤解なきよう願います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

興味深い説です。鬼の歳三と恐れられた人ですが、頭の中は柔軟だったんでしょうね。能力も優秀な人であったのは間違いないところでしょうが、しかし五稜郭で殉じたのが彼の人気を余計に押し上げてるのでしょうね。

お礼日時:2007/09/08 08:56

異論だらけです。

(^_^;

 後のお話でかっこよく描かれたから人気があるだけで、京都でやってた事はただの人殺しですし、五稜郭に篭城したのもそう。

ちなみに、写真技術的には、あの写真修正だらけです。
今で言えばPhotoshopで画像処理(^_^;

それと同じような技術が告ぎこまれています、というか当時の写真はそんなもんです。

人の生い立ちや歴史がどーのこーのとは別に、写真技術の事を調べるといいですよ(^_^)v
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

写真技術の歴史を紐解いたところで歳三さんの洋装の真相にはたどり着けるとは思いづらいところです。すんませんなー、専門家にコメントいただいたのに。ま、ウサマ・ビン・ラディンもキリスト教徒から見ればテロリストですが、過激なイスラム教徒から見れば英雄です。視点の違いですよ。

お礼日時:2007/09/08 08:51

土方は鳥羽・伏見の戦いの前後から、すでに刀槍では戦争ができないと見切り、装備の洋式化をすすめたといわれています。

その過程で、服装も洋式にしたとしても、特に不思議はないと思います。
「武士である」ことと「保守的である」ことは必ずしも等価ではないですし、もし本当に「保守的」な人物であったのなら、武士になろうなどとは思わず、田舎ではそこそこ裕福だった生薬屋の旦那で一生を終えたでしょう。

土方の洋装姿を「完全に着こなしている」と見るか否かは、主観の問題ですので何とも言えませんが、私の目から見ると、胸元がガバガバに余っていて、それほど端正に着こなしているとは思えませんが‥‥
それに、あの写真は、一般に普及しているモノはかなり修整されているようです。以前に修正前のモノを見たことがありますが、ずいぶん印象が違います。
余談ですが、同じ様に修正された写真のイメージが定着している人物に松平容保がいますね。彼の写真も修正前のモノを見ると、別人のようです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

修正前の写真は見たことがありません。どんなものか興味深いですね。ま、現代のアイドルもおっぱいが大きい子だと思ってイベントに行くと全然おっきくなくてがっかりなんて話をよく聞きますね。

お礼日時:2007/09/08 08:48

負け続けたからです。


鳥羽伏見の戦いから、函館まで、ずっと負け続け。徹底的に負け続け。

軍国主義日本が、戦後、平和教徒と言えるほど、平和主義になったのは、徹底的に負けたからです。

中途半端に負けたのでは、もともとの自分の信念を曲げるのは大変。けど徹底的に負けたので、勝つためにはどうしたらいいかというのが、あの外見の変化だと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

徹底的に負けたからドラスティックな思想転換が逆に可能だったというのは面白いですね。

お礼日時:2007/09/08 08:44

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