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高校卒業して以降、全く古文を使用する機会などありません。
昔、頑張って記憶したことも復習していない為ほとんど忘れてしましました。

昔の文学を学ぶ際は、予め現代語に翻訳しておいたものを勉強したらいいだけのことであって、
好きで使用したい人だけが専門で勉強したらいいと思います。

正直、中学と高校と時間をかけて勉強したことが全くの時間無駄です。

この情報化社会、不要なものはどんんどん削っていくべきなのでは?

どうにか必修科目から外すことはできないのでしょうか?
古典の変わりに、道徳、心理学、法律を学んだ方がよっぽど現代人の為になると思うのですが。

A 回答 (19件中1~10件)

 人にもよるかもしれません。

伝統的なものが好きな人なら古文に意味がないこともないでしょうし。ただ全教科で一番いらないものは?といえば、まず古文でしょう。

 とはいえ、まったくなくすのも問題だと思うので、現代文に組み込んで、一年生の時に3時間ぐらいやるだけにしたらいいと思いますね。漢文はいりませんので削除。

 やはり古文漢文を必死にやらせるわりにあまりに比重の低い、公民(中学)と、政治経済(高校)ですが、こっちのほうが重要ですね。でも授業緒時間が少ないので、ほとんどの人はまともな印象にも残らず、忘却していきます。

 ちょっとこれは国の策略なんじゃないかと思ってしまうところもあります。ふつう民主主義においては政治や経済への知識は不可欠です。そうであれば、これは歴史に匹敵するくらいに重要なことです。国はあえてあまりやらせないことで、今の日本人を政治的に無関心にして、バカにならせているのではないかと思います。

 どうみても合理的ではありません。
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もう沢山の方が回答なさっているので、蛇足になるかもしれません。


しかも古典を専門に学んでいることもあり、贔屓目に見ているところもあると思います。(ごめんなさい。)
そして、結論から言うと私も必修科目から外すのには反対の立場です。

とはいえ、私も中高と受けた古典の授業の中で良い授業だと思ったものは殆どありませんでした。
品詞分解や文法だけにこだわる授業もゆっくりゆっくり進めるだけでちっとも先に進まない授業も私にとっては退屈で仕方がなかったし
、その授業がきっかけで大学の文学部に進んだわけでもありません。
質問者の方がおっしゃるのも無理はないと感じます。
私が古典を日本語史の方面から扱っているのではなく、その内容に踏み込んで論をたてる方なので、
高校までの授業でももっと面白いものをやればよいのにと思っていました。
しかし、いきなり古文を読ませたところで意味がとれないので文法は必須なわけですが……。

前置きが長くなりましたが、質問者さんがおっしゃる「現代語訳したもの」でもいいのではないかという指摘を、先に考えてみました。
私個人の感覚ですが、原文と現代語訳はやはり違います。
例えば、方言を標準語に直すときとりあえず何か標準語をあてるけれど
あまりピッタリこなかったり、
ある日本語にあたる英語がなかったりといった感覚に似ています。
更に、二種類の古典単語が現代語訳すると全く同じ意味になることもあります。
こればかりは、原文を読んでその感覚を得るしかないし、誰かが訳したものは訳者の意図が少なからず含まれており、原文を読んでそのまま自分が感じる印象とは異なります。
現代文は作品を知る手がかりにはなりますが、古典を知るには不足ではないでしょうか。

あとは、古文は必要かという話ですが、古典を知らなくても生きていけます。大丈夫です。
けれど、古典を学んで視野が広がるのは事実だと思います。
印刷技術が無いような時代は、面白いと思ったものを各自が手で写し、更にそれを後世に伝え……という気の遠くなるような作業をしていましたよね。
古典文学と呼ばれる作品の数が少ないのは、昔の人が文章を書かなかったからではなく、殆どの作品が散逸してしまった為です。
千年の長い年月ずっと散逸せずに伝えられてきた作品は、
千年間人々がこの作品は残すべきだと考え、残す努力をしてきた賜物です。
だから私たちが今読むことのできる作品は、それだけで素晴らしい作品だと太鼓判を押されたようなもので、
(専門家の方々はこの作品は大したことないとかおっしゃったりもしますが……)読んでみると面白いですよ。(なんだか宣伝みたいになってしまいました)
まぁ、ともかく、古典の面白いところは古典ならではの世界と、現代の私達に通ずる感覚の二つが存在していることだと思います。
IKKOさんの「どんだけ~」も無意識に使っていますが、外国人の方が聞いたら「どんだけ何なんだよ!」とつっこまれるかもしれません。
そういう曖昧な表現に代表されるような日本人の感覚も、古典を読んだりすると、あぁ、日本人は昔からこういう性質を持っているのか。と改めて気づくことがあります。
そういうことを積み重ねていくと、意外に他の方がおっしゃっているように、
日本人のアイデンティティを再認識したり、外国人の方に日本のことを説明してくれと言われて少し説明できるようになったりするのではないでしょうか。
それと同時に、今は全く残っていないような風習や価値観、また言葉を学ぶとそういう考え方もあるのか~というようなカルチャーショックを受けます。
よく留学してから日本のことを考えるようになったとおっしゃる人がいますが、
それと同じで様々な価値観を知ることが今の自分の価値観を見直すことになったりするように思います。
現代の日本の文学にも外国の文学にも無いような価値観が古典に見受けられますし、結局そうやって色々な価値観を学ぶことが視野を広げてくれるのではと、身贔屓かもしれませんが考えています。

中高生の多感な時に、そういう色々なものを吸収してほしいなぁと
個人的には思っています。
長くなってすみませんでした。
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この回答へのお礼

長文、ご丁寧にありがとうございました。参考になりました。

お礼日時:2007/09/17 14:15

理工系卒のオヤジです。


まず、
数学が不要な教科としてやり玉にあがってますが(笑)、
実は、高校までの数学って、全部(※)役に立つんですよ。多くの人が役立て方を知らないだけです。
たとえば、関数の考え方を知っていれば、表計算ソフトで家計簿や家計診断が自由自在にできるし、微積分の考え方を知っていれば、クルマの安全で合理的な運転の仕方が分かるし、例を挙げたらきりがありません。
実利から言えば、数学がトップかもしれませんよ。
(※:ただし、図形で角度を求めるパズルのような問題だけは役に立ちません。)

さて、本題。
私は古典を必修科目にしていることには賛成です。
理由は、

1.
英語は、世界の共通語だから、コミュニケーションや調べごとのツールとして習う。
古典(の文法)は、日本の昔の文章を解読するためのツールとして習う。
また、#10様、#11様、#13様がおっしゃるとおりで、自国の文化を知るということは大事なことです。
日本に旅行してくる外国人の方々は、おそらく、日本人の平均的な知識以上に日本の歴史や文化をご存知です。あー恥ずかしい。

2.
文語の響きは美しい。
口語体の文章の中にも、適度の文語調の表現を入れると、引き締まっているように感じられる。

3.
(2とダブりますが)
現在、使われている表現でも、文語が残っている。
それは、文章だけにとどまらず、たとえば、挨拶言葉、歌の歌詞やスポーツ中継のアナウンサーの語りにも存在する。
<例>
「さようなら」
「ありがとうございます(る)」
「うれしゅうございます」
「堂々たる戦いぶり」
「彼の言わんとすることは・・・」
「それが○○が○○たる所以である。」
リズムと響きが、なんか、かっこいいです。(笑)
純粋な口語体だと、こうはいかないでしょう。

4.
(あんまり大した理由じゃないが)
人名に使われる。
正(まさし)、修(おさむ)、勉(つとむ)、卓(すぐる)、祐(たすく)、健(たつる)


【結論】
古典を学べば、表現が豊かになる。(人によっては心も豊かになる。)
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この回答へのお礼

ありがとうございます。参考になりました。

お礼日時:2007/09/17 13:58

小説家が文化庁の長官になって、一次方程式を受験後まったく使わなかった、無駄だったとか言った発言を思い出しました。

それに対して、自分の経験を絶対視しすぎる、という批判をどこかで読みました。

私も質問者さんの質問を読んで、失礼ですが同じようなことを思いました。
・自分の経験がすべてなのか?
・今現在の自分の理解力を絶対視しすぎていないか?
ですね。

また、小中高の暗記力や柔軟性はやはり大人にはないものでしょう。ここで、基礎的な知識を身につけておくことは、無駄にはならないでしょう。

私も勉強にうんざりしていた頃は同じようなことを思いましたが、(既出ですが)学校を出てしまえば「もっと、勉強しておくべきだった」と思うんですよね。私の周りでは、皆そうです(ちなみにそれなりの大学以上の卒業生です)。宝くじにあたったら、大学に戻って、役に全く立たないラテン語や林業でも学びたいね、という人さえいましたww。

それから、私見では、道徳→こんなもん、学校で教わりたくありません、心理学→中高生で何を勉強するのか、ただ、法律は中学、高校でもみっちりやるのは賛成です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
すみませんが、以下の質問者様の回答の返答に記しているように、
ちょっとその文化庁長官と私の言いたいことの要点は違いますね。

お礼日時:2007/09/17 13:57

過去にも類似した質問がありました。

(参考URL)

質問者様は古文がこれまで役に立っていないとお考えですが、現代の日本語を読んだり書いたりする場合にも、古文の知識が役立つ場合がけっこうあります。

例えば「好きこそものの上手なれ」ということわざがありますが、これを「好きこそものの上手なり」と言わないのは古文で学ぶ「係り結び」のためです。社会に出て「好きこそものの上手なり」などと言えば、相手によってはあまり良い印象を与えないかもしれません。これはほんの一例に過ぎませんが何の教科でも、いやいや学ぶ人にとってはあまり役に立たず、興味を持って学ぶ人には大いに役に立つということではないでしょうか。

参考URL:http://odn.okwave.jp/qa3019138.html
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この回答へのお礼

ありがとうございます。参考になりました。

お礼日時:2007/09/15 07:48

>高校卒業して以降


高校は義務では無い件に関して。
そして義務教育の段階で、子供達の可能性を勝手な判断で摘むのはどうかともう。


興味が有るなら 高校からは 自分で選べるのだから。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
さすがに完全に外すべきだとは言い過ぎました。

お礼日時:2007/09/15 07:45

質問者様は、自らが能動的に用いることが出来る知識だけが有益で、応用の幅が小さく、一見なんの役に立つのか判らない知識は無駄だとお考えなのですね。


それもひとつの考え方だと思います。

確かに学生時代は「古文がなんの役に立つんじゃ~」と言っていたように思います。(まぁ、古文だけじゃなくて数学にだって思ってたし、要は単なる逃避口上だったわけですが。)

でも、そんな時代も過ぎ、今になって思うのは、生きていく中で、何かに対して(いろんな意味で)「おもしろい」と感じることができるようになるには、その人自身が、どれだけたくさんのことを知識として自身に蓄積しているかによるのではないかなと。

確かに古文の知識を能動的に使う場面は、一般的にはほとんどありませんね。
でも、たとえばテレビ番組を見ている時、本を読んでいる時、日常の何気ない瞬間、「古典の知識」と自覚することはなくとも、中学高校で学習したからこそ自分の中にひとつの「情報」としてしまわれている知識があって、それによって、新しくもたらされた情報を「おもしろい」と感じられている場面があるんじゃないのかと思うのです。

そもそも「学ぶ」ということの価値(意味?)を、実用性という側面だけで計るという方法が、ふさわしいのかが私にはわかりません。

質問者様が無意味だと感じられることは悪いこととは思いません(そもそも善悪の問題ではないですね)。ただ、それは結果論であって、学んだ後だからこそ言える話でしかないのではないでしょうか。何が役に立って、何がそうでないかは、学んだ後にしか言えないと思うのです。
質問者様にとって無駄に終わった(と思われる)ことも、同じ時代に古文を学んだ誰かには有益なものとなっていることもある。今、古文を学んでいる子どもたちにとっては無駄には終わらないかもしれない。こればかりは、どうやったって、「絶対に無駄である」と証明することは出来ませんよね。
どんな学問であっても、そこに有用性を見いだせるかどうかは、その知識を持っている人次第ではないでしょうか。

まぁ、これもひとつの考え方ですけど。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

私が今まで受けた授業はあまりに無駄が多かったということですね;
日本の教育を改善してほしいものです。

お礼日時:2007/09/15 07:43

その論理でいくと……ほとんどすべての中等教育は不要ということになってしまいますね。



まず歴史は日本史世界史含めて必要なくなりますし、地理だって日常生活で必ず必要かというと違うでしょう。
むしろ自分の住んでいる地域の交通網に関する知識などのほうが、実利上は数十倍役に立ちます。
四則演算以外まったく使わないという人は現実少なくないので、数学もいらないでしょう。小学校の算数で充分です。
物理や化学などの理化学も、専門職に就くのでなければ知らなくたってどうにかなってしまうものばかりですし、
英語だって日本に住んでいる限りは絶対に必要というわけではありません。
現代国語でさえ、最低限のコミュニケーションで充分と考えるのなら、あえて学ぶ必要はないでしょう。
日本に生まれた人のほとんどは、日本語コミュニケーションで不自由はしません。

となれば、現代の中等教育で残すべきなのは、体育と公民ぐらいになってしまうでしょうか。
しかし多くの人は最低限のものだけで充分とは考えません。
学校教育の目的の一つとして、文化を学ぶ、ということが求められているからです。
すでに言及されている方もいらっしゃいますが、
国際社会では、自国の文化歴史について無知であることは、軽んじられるもとになります。
情報化社会であるからこそ、簡単に切り捨てられないものとも言えはしないでしょうか。


私自身は、あらゆる教科について、勉強したことが無駄になったと思ったことは一度もありません。
むしろ、なぜもっと勉強しておかなかったのかと悔やまれることばかりです(歳を食うとなかなか勉強しにくいものです)。

とはいえ、確かに教える内容や教え方に問題がないわけではありませんし、
教育課程で必要なことをきちんと教えていないということも強く感じます。
特に政治・経済の分野は、将来直接関わってくるものであるのに、あまりにもおろそかだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

すみません、きっぱり外すべきだとはさすがに言いすぎました。

お礼日時:2007/09/15 07:37

まぁ、教える方も悪いんでしょうけどね。

私も学生時代の古文はナンノコッチャ?が多かったですが、面白いフレーズは今でも思い出します。やっぱりある程度歳食ってから思い出すと、なるほどご先祖様たちも同じかと思い出したり、いろいろ考えさせられることも多いですね。

古文といっても、その当時のご先祖様にとっては「現代語」だったのですし、そもそも文学作品なんて基本的に「娯楽」だったんですよから、まぁ本当はそんなに肩肘張らなくて良いはずなんですよねぇ。
それに、たくさんあったはずの作品の中で、数百年、1000年というときを経て生き残った作品というのは、やはり代々「面白い」と思われてきたからこそです。内容もですが、そのまま読んでみようというのはそれなりに面白い筈なんですけど、そこはそれ、「授業」なんで、いちいちこれがあーだ、こっちがこーだ・・とこまごまと理屈をつけるんで段々面白くなくなって、やってらんねーや!ばーろー!となってしまうんですよねぇ(笑)本当は「ご先祖様の気持ちになって面白く読むための基礎知識集~」のはずなのに、目的と手段がひっくり返ってしまうのが授業であり、学校の勉強の常ですしね。

まぁふと声にだして読み返してみると、音のリズムといい、中身といい、結構面白いですよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

(笑) 今の日本の教育はどうも納得いきません。

私が疑問に思うのは、世の中にはたくさん頭が良い人がいると思うし、日本をより良くするために最高のアイデアを出し合ってどんどん改善していけるはずだと思うのに全然改善されてないですよね?

やはり国を動かしている一部の人間が自分らの為だけに都合良く
わざと改善しないように思えてなりません。

お礼日時:2007/09/15 07:34

すごく個人的な意見ですが・・・・。



今の時代、確かに情報化社会ですが同時に国際化社会でもあります。
私は日本生まれの日本育ちですが、ハーフや帰国子女の友人が結構います。(特に外国に興味があるわけでもなく理系です)
そういった外国育ちの友人たちと(相手がつたない日本語だったり、私がつたない英語だったりで)話すとまずきいてくるのが「日本にはどんな文化があるの?」です。
高校生だった私はそんなこと考えたこともなく答えに詰まりしどろもどろに答えましたが、今思えば

古典文化は日本文化の大きなウェートを占める

のではないでしょうか。
古典を通して古来の日本人の思想を文化として伝えるのは有意義なことだと思います。
故に国際社会における日本人の教養として少しは最低限身に着けておくべきだと思います。

ただやはり文を細切れにして品詞分けして・・・という現在受験用になっている作業は、必修ではさわりだけやって興味を持った人が専門家になればいいという気もしますね。
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この回答へのお礼

>>ただやはり文を細切れにして品詞分けして・・・という現在受験用になっている作業は、必修ではさわりだけやって興味を持った人が専門家になればいいという気もしますね。

そこなんです。授業に無駄が多いんですよ。
私が良い先生達にめぐり遭わなかっただけなのかもしれませんが。。
英語の時間もあまりに無駄が多いように思いました。

お礼日時:2007/09/15 07:14

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