日本史上における江戸時代の位置付けについて調べています。
自身の考察もあるのですが、鎖国などの一点に片寄ってしまい、全体として見れていません。
自身での調査も継続しますが、なにぶん急いでいるために、みなさんの考察やアドバイスなどいただけたらと質問しました。
よろしくお願いします。

※私の考察を書かなかったことについて。
私の考察は前述したように、片寄っています。書けばみなさんのご回答の混乱につながるかも、とあえて書きませんでした。
ご了承ください。

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A 回答 (6件)

ではあらためて。


○鎌倉時代に始まった武家による政治がシステム面で完成の域に達した
○それと同時に、支配階級による支配という体制の矛盾が明らかになった
○鎖国と出島の存在により、海外特に西欧からの情報が適度な範囲で流入してきて刺激となった
○町人、ことに大商人たちを中心に市民社会の萌芽がみられた
○上二つの理由により、現代にも続く独自の文化が花開いた
○農業・工業の技術的進展、流通の活発化により、自給自足的ながら経済面では豊かになった

以上のようなポイントを押さえれば、たぶんいい線にいくんではないでしょうか。
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この回答へのお礼

再度のアドバイス、ありがとうございます。
ポイントとしてしぼって書いてくださって、非常にわかりやすく、参考になりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2001/01/30 14:29

江戸時代というものの必然性、そして明治維新へ至る必然性。



みなもと太郎「風雲児たち」潮出版

は大変立派な研究であると思いますが、入手は難しいかも。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
探してみます。

お礼日時:2001/01/30 14:27

私も素人です。

何かの参考にしてください。
日本史における、江戸時代の位置付けは、やはり鎖国でしょうね。奈良時代の外来文化取り込み、平安時代のいわゆる菅原道真による国内重視。安土の織田信長インド洋交易、そして江戸時代の鎖国と続きますね。限られた資源を有効に使って、物質文明より精神文明を花開かせた時代と考えてよいのではないでしょうか。わび・さびの世界を完成させ、武士道を完成させた時代と思います。
幕藩体制は、多数の藩により一種の多国共和制(合衆国ではなく合国制)隣国との関係は完全な外交関係です。経済は米本位制のためやや結果として無理が生じ士農工商の身分制が崩れていったわけですが、おそらく家康は徳川体制は50年程度をめどと考えていたと思いますから250年も続けば仕方が無いでしょうね。その間日本を2分3分する戦が無かったことは特筆すべきでしょう。
 ついでに、米一石は人1人1年間の主食分ですから、それで計算すると確か日本の人口を十分養えるはずで余剰米まで出るはずです。日本史の中で領民が全て飢えない時代がはじまったことでも特筆すべきでしょう。(反対意見はあります。しかしそれは次のことを認めたくない人たちです。飢えは藩主の政策ミスが招いたもので各藩間の米流通がまずく、お米の豊作が続き値段が下がり藩の経済破綻を招いたものです。商業を振興し1村1品運動を続けた藩は生き延びています)
 そして、お伊勢参りや金毘羅参り富士登山、長崎留学など比較的簡単にできたことは治安のよさ、情報の共有化が進んでいなければなりません。関所での関税撤廃がかなり有効に作用しています。
 ちなみに現在当たり前と思っている社会の仕組みはそのときに完成したと考えてください。明治に西洋から入ってきたのではありません。為替、銀行間決済、手形、デリバリー取引(先物取引オプション)、保険、それから富山の置き薬(信用貸しの一種で現在これができる国は、今のところ先進数カ国のみとのことです)
 日本史の中での位置付けは、視点を変えれば、80年周期300年周期の国家栄枯衰退論から行くと、国内に目が向いた爛熟期でしょうね。
いかがでしょうか。かなり独善的ですが。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。
やはり鎖国ですか。狭まれた中、しかしだからこそ独自の文化というものが発展していったんでしょうね。参考になりました。

お礼日時:2001/01/30 14:26

あなたの質問があまりにも漠然としているため、江戸時代のどの部分についてお答えし良いか迷うところなのですが、やはり幕末というのは江戸時代にとって大きな変革のときだったわけですから、幕末について述べたいと思います。


日本史上、鎌倉幕府、足利幕府、江戸幕府 という3つの大きな幕府があったわけですが、特に江戸幕府が日本を統治いていた時代は、流通産業によって商人の力というものが大きくなり、年貢を取り立てて自らを賄っていた武士の力を凌駕していった時代であると言えるでしょう。
また、鎖国とは言っても幕府はフランスとの交流を持っていたわけですし、bilikenJrさんの話にも通じますが、江戸から遠く離れた薩摩藩では幕府に秘密で海外と貿易を盛んに行い、幕末の時点では科学技術、軍事力等の点で幕府をはるかに凌いでいたと言われています。それが、倒幕を現実化させる一因にもなったわけですが。
一言で言えば、江戸時代というのは260年かけて日本が近代化、西洋化するためのターニングポイントと位置付けられるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございました。

初めの方(nutsさん)への補足として書き加えた通り、題名そのままで受け取っていただきたかったのですが。
ですから、歴史という大きな流れの中において、江戸時代という時代はどのような位置付けとしてあったのか、ということです。
なので、幕末だけではなく、江戸時代すべてです。

しかし、全体を知る上で、幕末も知っておかなければならないことですので、非常に参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2001/01/30 14:23

ど素人です。

でも歴史文学が好きな者です。
たしか司馬遼太郎さんの本(小説ではなかったと思います)のなかで
江戸時代というのは、各藩が独自の行政を進めていった時代であると
書かれていたように記憶しています。
例えば、薩摩藩は江戸幕府からの隠密を斬りすてて情報が幕府に伝わらないようにしていたらしい、などが時代劇などでたまに取り上げられますね。
藩どうしがしのぎを削って漸進していった時代ではないかと最近思うようになってきました。
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この回答へのお礼

アドバイス、ありがとうございます。
独自の行政ですか。わかりました。その点、自分で調べてみます。

お礼日時:2001/01/30 13:50

えーと。

この質問は、江戸時代についてのものなのですか? それとも、明治維新についてですか? 
文中ではすべて「江戸時代」になっていますが、あなたの考察の内容を読む限り、明治維新についての考察としか思えませんが。
江戸時代に関してなら、一言でまとめれば「武家政治の完成・爛熟、市民社会の萌芽が誕生」あたりになりますが、もちろん他にもいろいろあります。明治維新に関しては、下の質問が参考になると思います。

参考URL:http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=29398

この回答への補足

えーと、まずはすいません。
私の考察は、視野が狭かったとしか言えませんね。江戸時代、と聞いて「鎖国」と頭に浮かんだものについて考えてしまったもので。
これによって混乱させてしまったことをお詫びします。

では、補足します。
これは江戸時代についてのみです。この質問の題通り、「日本史上における江戸時代の位置付け」そのままです。
よろしくお願いします。

補足日時:2001/01/28 10:11
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その人がどの階層(身分)に属して居たかで大きく変わりますが…99.99%の江戸時代の日本人は元号はおろか、何月と言う概念すらありませんでした。従って基本的には「江戸時代の人は元号を言え無かった」と言う答えでOKなはず。従ってその「前世に戻った人」はどこか遠い星の "EieDoo(我々に理解出来る言葉で発音すると「エド」と聞こえる)" と言う時代から来た異星人かと思われます。

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(他の欧州キリスト教諸国からは「そこまでして金儲けしたいんか!?」と大顰蹙だったそうです)

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●朝鮮王国●琉球王国●アイヌ諸族●
>>>>>それぞれ対馬藩、薩摩藩、松前藩が専門に担当。
これらの藩は、江戸時代以前からの交易相手であり、財政も交易の上りで成り立っていました。
他藩に横入りされると死活問題なので、江戸幕府成立前後は硬軟様々な手段を講じ、「対XX交易のエキスパート」という地位を獲得しました。

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(通信使や慶賀使は国家同士の公式の使節のやりとり。
 商売はまた別に、各藩の港でやってます)

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●東南アジア諸国●
実は江戸前期には数回来た記録が残っています。
しかし、遠い上に、対日交易を独占したいオランダが妨害工作することもあって、いつの間にか来なくなってしまいました。

東南アジア諸国の物産はオランダや清の民間商人が持ってきてくれるので、日本人は別に困ることもなく放っておいたと思われます。

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 私も「鎖国」という表現は適正ではないと思うのですが、ハッキリさせたいと思います。

Aベストアンサー

http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200803120100.html
現状では 鎖国とは言わない
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Aベストアンサー

参考URLの江戸三百藩HTML便覧のことではないでしょうか。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q日本の鎖国終了後に日本を訪れた外国人について

1854年3月31日に日米和親条約が締結され、
200年に及ぶ鎖国は終焉を迎えました。

そこで、今まで閉ざされていた日本に興味を持ち
日本を訪れた外国人は多くいたでしょう

イザベラ・バードもその一人かと思います

彼女のように
開国から明治時代初期に日本を訪れ、
それを本に残している外国人は他に誰がいますか?

思い当たる方は
その外国人の名前だけでも教えてください
その人が書いた本についてもしご存じなら
是非教えていただきたいです。

開国まもない日本の変化について
そのような視点から
よく知りたいのです。

思い当たる書籍、外国人があるという方は
ご回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

ちょうど先週くらいに見かけて買っておいただけで積んであった本に、いいものがありました。

Amazon.co.jp: 日本は外国人にどう見られていたか (知的生きかた文庫): 「ニッポン再発見」倶楽部: 本
http://www.amazon.co.jp/dp/4837982948

文庫: 229ページ
出版社: 三笠書房 (2014/9/22)
言語: 日本語
ISBN-10: 4837982948
ISBN-13: 978-4837982944
発売日: 2014/9/22

7つの章の冒頭には、その章に出てくる外国人の一覧があり、その章末には出典一覧(残念ながらほぼ日本語版ですが)があります。

あまりに人数が多いので、列挙はご勘弁ください。

Q【江戸時代?の京都の名所を3巻に纏めた書物の名前と観光名所一覧が見られるサイトを教えてください】お盆

【江戸時代?の京都の名所を3巻に纏めた書物の名前と観光名所一覧が見られるサイトを教えてください】お盆に順番に回って行きたいです。

1番最初は京都御所で、2番目が確か兄が弟を殺して、恨みや祟りで平城京を平安京に都を移す際に最初に建てて弟の祟りから逃れたとされるお寺です。3番目はどこか忘れましたが京都の名所が3巻に纏められていた気がします。

Aベストアンサー

都名所図会(みやこめいしょずえ)

Q鎖国令

で出てくる大炊・讃岐・信濃・丹後・伊賀とは誰の事でしょうか?

Aベストアンサー

土井 利勝 大炊頭
酒井 忠勝 讃岐守
永井 尚政 信濃守
稲葉 正勝 丹後守
内藤 忠重 伊賀守

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