プロが教えるわが家の防犯対策術!

人と人との関係 これは なくなったのでしょうか。この無関係というかかわりを死と言ったのですが われわれのあいだでは 死がひろがっているのでしょうか。

たとえば《こんにちは》と挨拶するとき それは 《あなたと わたしとは 無関係である。これからも かかわりを持とうとは思わない。その点くれぐれも よろしく願いたい》と言い交わしているのでしょうか。わたしたちは それほど魂が弱ってしまったのでしょうか。(あるいは 魂の問題ではないと言うべきでしょうか)。

いやいや 部分的な悪い事例を見ているだけだと言うべきでしょうか。あるいは もっと別の見方があるのでしょうか。
どうかよろしくご教授ください。

〔焦点ないしきっかけは 上のように あいさつ言葉や会話内容です。その表現の奥に秘められた意図・こころです。かかわりを持つという感覚(その意味でのたましい)が弱っているのかなといったことです。〕

A 回答 (27件中1~10件)

こんばんは、brageloneさん。




数日来よりこちらのご質問を閲覧していました。何か書き送ろうかと思い思いしておりましたが、続くお話にトンチンカンナ話を口を挟んではご迷惑にもなろうかと書かずに閲覧をして眺めておりました。それならどうして口を挟む?と、訝らないでくださいね。先日、ANo.21の方の回答文に『死んでいるとか日本人は~とか一括りに言われても戸惑います…』←この一文を目にして、おおっ?!と、おおっ?と、何を思ったかと言えば、ここまで長く続くお話の中でまだ何方もこのことにはお触れにならずにお話がなされていた。ある意味、この一文を目にしたときわたしもこの点に関してはここを閲覧しつつ呟いていた言葉でもありました。ですから、ANo.21さんが発されたこの一文に思わず一票!きいちゃいけないのかな?こんなこと書いちゃいけないのかな?と、思いもしましたが回答のお礼に《死んでいる/生きてる/たましいうんぬん》と書き添えられてありましたから、あっ?!いろんな切り口から入っていってもかまわないのかなと思いトンチンカンナお返事になりましょうがしばしお許しを。


最初にこのタイトルを目にして思ったこと。『日本人は、死んでいるのでしょうか?』これまたスゴいタイトルだな。死んで居る日本人って?お盆の頃ならご先祖さんがあの世からこの世(家)へ帰ってくる。すると、霊~祖先信仰のお話かともおもいもしましたが、姪子さんを例えにあげたお話もあり、うーんなんだろう?人の意識の動きは不思議といま現在おかれている身のまわりにより近くの事象や事柄に結びつけて考えてしまいがちです。ほら、もうじきお彼岸ですしね。あー、だめ、だめ、ついついヒュードロドロと幽霊のお話を想像しちゃう。


はい、気持ち切り替えて。


改めまして『日本人は、死んでいるのでしょうか?』


義を見てせざるは勇なきなり



正直、こうはできにくくなりつつあるのはゆがめません。なぜ?そのひとつに些細な事柄においても訴訟訴訟のオンパレード。たとえば、道に人が倒れていたとします。そこを通りがかり倒れている人を発見。声をかけます「どうされました?大丈夫ですか?」「うぅ…」と言葉にならない声、頭から少し血が…ここは坂の頂上、夜更けともなりさほど交通量は少ない。とはいえど車の通り道、あたりには人通りはなく道上には横たわる人と通りがかりのわたしだけ。ポケットから携帯電話を取り出し110番通報。「そこの住所は…」と聞かれあたりをみまわし電信柱に貼られた所書きを目で追い読み上げる。警察の人が現場に到着するまで、道に横たわる人と二人きり。電話を切り終え、道に倒れた人に目をやれば、いつの間にやら上半身だけ身を起こしふらつきながら投げ出した足をさすっている。額から流れる少量の血。「ちょっと、飲みすぎてころんだんや」「すまんな、ほっとってくれてかまわんよ」いう口からろれつが次第にもつれていく。「起きたらあきません、体横にして待ってて下さい」「大丈夫や、どないもないって」そんなこんなやりとりを少しの合間していると警察の人が早々と到着。そこから先は、警察の人に「よろしくお願いします」と委ねその場を後にした。見過ごして通り過ぎればよかったのか?いやいや、放置すれば下から上がってくる車に引かれることだってありえる、ましてや見通しのきかない坂の上、車を運転する者に不幸がおそいかかるやも。しかし、酔って自損でころんだ者の介抱に警察官と救急車がかりだされその間に他でもっと重篤な患者への対応が間にあわなかったら…。警察に一報をいれたときと警察官が到着するまでの間に道に倒れていた人の状態がかわっている。よかれと通報したことがよいとはいいがたくなる。なにせ本人は「大丈夫や、どないもない」と、言っていた。警察に出動要請をしたのは通行人。通行人のお節介といわれかねない場合もある。「大丈夫や、どないもない」と、言う言葉を「大丈夫とどないもないと」判断できる材料を通行人は持ち合わせていない。医者ではないから。こうして人はなにかしら他人に迷惑をかけながら生きている。一見無関係のようでいて、その実関係している。死んではいない生きている。

この回答への補足

20070921記の補足です。お礼欄では 善きサマリア人ぶりを讃えることに全力疾走でした。

さて 《死んでいる》という人騒がせな表現については 質問文にも説明していますから 大丈夫だと思いますが 《日本人は》という表現の仕方については 説明をほとんど直接にはして来ませんでした。この点につき 補足いたします。

まさに これが 《死んでいる》という表現をわたしに選ばせた問題点だと考えるのですが それは こうです。

人は 人に対して内政(内省)干渉をしてはいけないし する必要もないし ほんとうのところでは 為し得ないものだと考えられます。(外形的な生活において 経済的に誘導したり 政治的に余儀なくさせたりすることまでだと思われますから)。

ところが この形態としての内政干渉をしているところを見たという場合 人はどうするか これを議論の焦点とすることができます。

しかも 事は込み入っていて 問題は 《負の内政干渉》の場合にあると思われます。どういうことかと言いますと――これも すでに寄せられたご回答に接して確認できたことですが―― 問答(つまりいわゆるコミュニケーション)を為すとき 《打てば響く》が まづ理想です。ですから 問題は 打っても響かない場合になるのではないでしょうか。

別様の響き方で答える・つまり問いをはぐらかす等々 いくつか類型があるかも分かりません。《きょう》の問いを《あさって》の(あるいは 《おととい》の)こととして捉えて答えているなどなどです。

これは 問いを拒絶しており 回りまわって 問いを抹殺する行為です。その意味で 負の内政干渉になると思うのです。

さて もしこの推論が妥当であるならば 人は この〔負の〕内政干渉を目撃した場合 どうするかになります。《義を見てせざるは勇なきなり》になるか 《君子危うきに近寄らず》かです。

わたしの考えでは 《君子》を採る人は 内政干渉する人と――消極的に言うべきでしょうか それでも――同じ穴の狢であると思われるのです。よって 《死んでいる》のは 一般的に《日本人は》ということに どうしてもなるようなのです。

はたして この議論についても 自由なご見解をたまわりたく ご教授ねがえれば さいわいです。

*《君子》を採る人は 何が《危うき》であるか・そしてその危うきを冒すことの不必要を示しておくなら 免責されると思います。

補足日時:2007/09/21 10:43
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この回答へのお礼

littlekissさん はじめまして。今後とも よろしくお願い致します。

まづは ご回答をありがとうございます。

・《うわべに こだわる無かれ》。(ANo.15=fishbowl66さん)
・《打てば響く》。(ANo.23=noema_1970さん)
・《達観》。(一連のご回答=krya1998さん)
・その何ごとにも逃げない姿勢。(=miko-desiさん)
・早々とご回答を書きこんでくださった方々。

これらのことがらを ご回答をうかがって 思い出しました。

そして もう一つ ある程度よく引用される《善きサマリア人》(ルカ10:25以下)のくだりを思い出しました。追いはぎに遭い道端で傷ついて倒れている人を だれが どうしたか / だれが かれに対して隣人となったかの話です。

そうして もはや 独り言にてお応えさせていただきたいのですが このサマリア人が運んで来た半死半生の人を迎えた旅籠屋に アウレリウス・アウグスティヌスは 自分がいるのだと言っています。(そのこと自体は めぐり合わせの問題だと思います)。

そのかれが けっこうキザに祈っています。

   おお  あなたよ 私にあなたを問い求める力をお与え下さい。
   あなたは私があなたを見出すことが出来るように創造されました。
   私があなたをいよいよ深く豊かに見出すようにという希望をお与えくださいました。
   あなたの御前にこそ わが力 そして わが弱さがあるのです。
   わが力を守りたまえ。わが弱さを癒やしたまえ。
   あなたの御前にこそ わが知とわが無知はあります。
   あなたが私のために拓きたまうたところで入り行くわたしを受け納れたまえ。
   あなたが私のために入口を閉ざしたまうたところで 叩くこの私に戸ぼそを開けたまえ。
   ・・・
   (アウグスティヌス:三位一体論 vol.15 ch.28 中沢宣夫訳)

きざでしょう!!??

お礼日時:2007/09/20 09:15

こんにちは、brageloneさん。




●とうとう littlekissさんをも巻きこんでしまいましたね。


いえ、いえ、どういたしまして。【袖振り合うも多生の縁】とも申しますし、運動不足にはちょうどよい加減のウォーミングアップにもなりもしますのでどうぞお気遣いなく。腕がぷるぷるぷる、ヤバいな。ちょいたるみしぼらなあかんなと思っていたところ。

お外にでたついでにぷらり図書館へ寄ってきました。テクストとして手頃なご本はないかなぁ~と、
で、一冊棚から手に取りこれはどじゃ?
タイトル
『漱石ゴシップ』ー小説のすき間を読むー
長尾 剛 著
ネコス/文藝春秋

第十二章 明暗より一部抜粋
P126~P219
【漱石が愛した三人の清】
『明暗』は、すべての鍵をにぎっているらしい謎のヒロイン.清子が登場、というところでぷっつり中断してしまい、彼女に関しての具体的なイメージは読者に提示されないままになっている。とくに、容貌についでは美人というほか説明はなく、どんなタイプの女性かは分からない。ただ作中、津田の思い出によると「いつでもおっとりしていた。どっちかといえばむしろ緩慢」な女性で、その眼は「何か聞こうとするうちに、信と平和の輝き」が映っていたという。
清子の人間性を多少なりとも垣間見ることができるのは、作品の最後にあたる津田との問答シーンだろう。この場面で清子は旅館で出会った津田に、あなたに待ち伏せされていたと直感した、と話す。津田は「いったい何だって、そんなことを疑っていらっしゃるんです」と問いつめるが、清子は平然として、「ただ、あなたはそういうことをなさる方なのよ」と言い返している。彼女の言葉には気負いや非難めいたものは微塵もない。しかし、津田の姑息さ、不正直さといった欠点をずばりと指摘する鋭さを秘めているのだ。
さて、「清子」という名前だが、これは『坊ちゃん』に出てくる婆やの清と同じであることに気づく。清は学問はなく理屈といったものは分からないが、坊ちゃんには「あなたはまっすぐでよいご気性だ」と、彼の"正直"という美徳を無条件で称賛してくれる。そして、不器用な坊ちゃんにくらべ世故にたけている兄を、それこそ理屈ぬきで嫌う女である。この"まっさら"な清の心を、清子の人間性と見ることはできないだろうか。清子の描写と性格が浮かび上がってくるようである。
『坊ちゃん』の清はまた、溢れんばかりの愛情を坊ちゃんに注ぐ老女である。そんな彼女に「母性」を見る者は多いが、一方で坊ちゃんに対する「女としての愛」とうけとめる研究もずいぶん多くあるのだ。井上ひさし氏は清をはっきり、メンタルな面で坊ちゃんの「恋人か奥さん」と位置づけている。でも、清はお婆さんでしょう、という人も多いかもしれない。だが、『坊ちゃん』を思いおこしてほしい。第一章で坊ちゃんが四国へ旅立つとき「失望」の様子で「髪の乱れをしきりに撫でた」清の動作など、男の前で見せる女性の姿としてとても色っぽいし、彼女の「お墓の中で坊ちゃんの来るのを楽しみに待っております」という遺言も、好いた夫を残して先立つ妻の言葉として響いてくる。
清と清子。正直で純粋、見こんだ男にそそぐ愛情は深く激しい、という点で両者を、漱石が愛する共通した女性像と見ることができるのではないか、と思う。
ところで、漱石夫人の鏡子さんは実は戸籍上の本名を「キヨ」と言う。『坊ちゃん』の清.『明暗』の清子.そして夏目キヨ。つまり、"三人のキヨ"がいるのだ。
鏡子夫人の人間像については何度か触れているが、ようするに裏表のないさっぱりした肝っ玉かあさんのような人物で、その一方、夫にかける女性としての愛情はなみなみならぬものがある。実際、自分を愛してくれる夫なら泥棒でもかまわない、とまで言っていたという。漱石に対しても、あなたに貰ってもらえなかったら私は尼になるつもりでした、と漱石への一途な想いを語っていたそうである。こうしたところも、清や清子に近いように映る。
鏡子夫人が、なぜ「キヨ」から「鏡」に名を変えたかは分からない。漱石の娘夫婦である松岡譲.筆子の娘婿にあたる半藤一利氏は、著書の中で「夫人は大そうウラナイ好きの人であったというから、恐らくは姓名判断でもして、鏡子としたのかもしれない」と推理している。(『漱石先生ぞな、もし』)
漱石は『坊ちゃん』を書いていたとき、そして『明暗』を書いていたとき、「清」という字を原稿用紙に認めながら心のうちで「キヨ」と発音し、そのたびに妻のイメージを思い浮かべていた……。こうした見方があってもよいと思うのだけど。


ほい、上記のお話にいくつか万葉のうたが…

花の色は移りにけりな徒に
我身世にふるながめせしまに

父母が頭かきなで幸くあれて
言ひし言葉ぜ忘れかねつる

大鏡~今鏡~水鏡~増鏡~吾妻鏡

また、こんな中にもしっかりと生きづいているよ。みため洋ものされど和もの。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001121/files/46187 …
モーリス.ルプラン
奇巌城
アルセーヌ.ルパン
菊池 寛 訳

この回答への補足

littlekissさん お便りありがとうございます。

noema_1970さんのご回答にちなんで ご回答を寄せられたのだと思っていたので どちらかと言うと ドライなほうでいらっしゃると思っていたら そうではないご様子ですね。

人生意気に感ず? それについては しばらく前に司馬遼太郎原作の映画化《尻くらえ孫市》を見ましたが この雑賀孫市が最たる者だと思ったところでした。

こちらは 理科系が だめなので 最近は 《宇宙に果てはあるか》だの《自己組織化》だの《半導体》だのを手に取るようになりました。どこまで明るくなりますものやら。

《津田》という名前の男だというところまでは 反応こそし得れ あとは 薄い記憶なりけり・・・

《鏡子夫人》は そんなに《一途な思い》だったのかということも 記憶が遠のいていました。漱石は 癇癪がすごかったというじゃないですか。また 初恋だかの相手に ずっと恋心を抱きつづけたのではなかったですか。

《坊ちゃん》では 〔恥づかしながらわたしの親父が 若いときには そうだったと思えるようだったので〕 次のくだりを引用したことがあります(要約)。《尻くらえ孫市》に似ている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ある時 赤シャツが坊ちゃんに言った。
――あなたは失礼ながら まだ学校を卒業したてで 教師は初めての経験である。ところが 学校というものは中々情実のあるもので そう書生流に淡白には行かないですからね。
これに対して 坊ちゃんの考えはこうであった。
《今日 只今に至るまで これでいいと堅く信じている。考えてみると 世間の大部分の人は 悪くなる〔という〕ことを奨励しているように思う。悪くならなければ 社会に成功しないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人を見ると 坊ちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。それじゃあ 小学校や中学校で嘘をつく法とか 人を信じない術とか 人を乗せる策を教授するほうが世のためにも当人のためにも なるだろう》。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
これで 質問の趣旨に合致した。

《花の色は移りにけりな徒に
《我身世にふるながめせしまに

これは 小野小町でしょう。

《父母が頭かきなで幸くあれて
《言ひし言葉ぜ忘れかねつる(巻二十・4346番)

これが 東(あづま)方言だと分かったのは このところ万葉集をひっぱり出していたからでしょうか。やまとの言葉の《お》が《え》に訛る。
・幸くあれと→・・・あれて
・ことば(言葉)→けとば(けてば ではないらしい)
・言葉ぞ→言葉ぜ

防人(さきもり=崎守)の歌。ANo.25で教えてもらった田岡俊次の論文(日米防衛協力の指針)を思い出しました。安全保障の問題は やっかいですね。理論どおりに行かない最たるものでしょうね。

《大鏡~今鏡~水鏡~増鏡~吾妻鏡》
――これについては 逆さにして振っても 知識なし 何も出て来ません。あしからず。論点あれば 指摘されたし。

《アルセーヌ・ルパン 奇巌城》
――今回 読みましたよ。 / 鼠小僧だとかの義賊を思い出すものの それほど似ているわけではない。 / わたしは デュマの《三銃士》のファンなので 面白いのだけれど。 / 菊池寛は翻訳もやっていたのですね。


やはりANo.25で 俵 万智著《愛する源氏物語 》の紹介をいただきましたが  源氏については いくらか 評論したことがあります。まさに 男女の対(つい)の関係を いくつかの類型に分けてみたものです。その類型のみ記してみます。

・《光源氏‐空蝉》なる対関係――ナルキッサ空蝉批判――
・《光源氏‐夕顔》なる対関係―― 一夫一婦という対関係理念――
・・ 夕顔の系譜としての浮舟論――
・《光源氏‐藤壺》なる対関係――《観念の資本》の動態的過程――
・《光源氏‐明石の君》なる対関係――観念の資本の《世間(差別)》形態――
・《光源氏‐紫の上》なる対関係――家族:《観念の資本》の核(かまど)――

《観念の資本》とは 共同観念(ナシオナリスム ないし ムライスム)のことを言います。その領域一杯に つまり国家なる社会形態いっぱいに 広がって 政治的にも行動するのは 《光源氏‐藤壺》なる対関係類型です。それは それとして 面白いかも知れません。

《人と人との関係》に動きを与えるのは 積極・消極両方を合わせて このような類型であるかも知れません。(その関係は とても込み入っていますので そうでないかも知れません。古いかも知れません)。この前の額田王も 似ていますよね。女性も おおいに 発言をしてもらいたいものです。

思いつくままにですので ご容赦を 今の時点で 願っておきます。

補足日時:2007/09/26 23:21
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この回答へのお礼

   きみは泳ぐことをやめたようだ
   いま
   ひとつの大きな毬となって
   浸りきっていた横町の構造に
   花びらのように接しているのだ
   きみのなかの
   沈黙も喧噪も
   きみの言葉が
   たとえ海の豊かさを奏でなくとも
   原初の日常のさなかの
   語らなくてもよいもの
   嵐のような貧しさだけを
   発見の種族を語っていさえすれば
   ぼくはきみの位置について語ろう
   きみの魅惑的な貧窮について語ろう

  *   *   *

・後半の部分です。落ち着かなかったものですから 掲げます。
・お分かりのように 自分に向けて語っているものです。(20071001)

お礼日時:2007/10/01 15:10

おはようございます!brageloneさん。




もしもし…

●…万死に…


ほんとにもう、

何がジューしてますって?

ふぅー、ご挨拶もいろいろ。

ヒツジが一匹、ヒツジが二匹、ヒツジが三匹、ヒツジが四匹、ヒツジが五匹、ヒツジが六匹、ヒツジが七匹、ヒツジが八匹、ヒツジが九匹…ひ…つじ…がぁ…ぁ…十っ…ぴっ…きぃ…(-.-)zzZ (-.-)zzZ…(-.-)zzZ…


“おまえ百までわしゃ九十九まで“って?


一人残して、ひと足お先におやすみなさいのご挨拶?
ウサギとカメの徒競走じゃあるまいし。

礼をつくしたと?

「バカいってんじゃないわ!」
『三年目の浮気ぐらい多目にみろよ』
「ひらきなおる その態度が 気に入らないのよ」

と、言ったかどうか?は、はてさて定かではありませんが…
『思い過ごしも恋のうち』ということで軽くスルーしといて下さい。



『日本書紀』

中大兄皇子
大海人皇子
額田王

不等辺三角形

この回答への補足

littlekissさん ご回答をありがとうございます。とうとう littlekissさんをも巻きこんでしまいましたね。


  あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
         (額田王――万葉集 巻一・第20番歌)

これは 実際に野原にいるとき詠んだのではなく 宴席においての即興の戯れ歌だという説があって どうもそのように思われます。

一たん嫁いだ大海人皇子のもとから離れ(離され) 大海人皇子の兄の天智天皇に寵愛されたと言い そのときの出来事として見ると 戯れ歌ながら 強烈な印象を与えるようです。つまり《袖振る君》は 大海人皇子であり 《野守》は 天智天皇だとすれば いわゆる三角関係です。

   紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも
                (大海人皇子 巻一・21番)

宴会の席でとしても 大海人皇子は なかなか上手にこたえていますよね。逃げたり隠れたりせず 否定もせず堂々として。

三角関係は その事実の指摘や認識で 一応おしまいになるものと思います。有効・無効を仕訳けして 新たに出発するほかないと。

   三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや
                (額田王 一・18)

天智天皇による近江遷都のときの歌だと言います。なんでグローバル化だと 過疎地では郵便局がなくなって不便となるのかと言ったかどうか知りませんが なんで遷都や? というわけでした。大和・三輪山を跡にするとき 人間が非情なのは仕方ないとしても 雲くらいは心あって欲しいと。――時には怒る?

(それにしても なんでわたしが 万葉集の解説をここで?)

こうなれば そろそろ 宣言しましょうか。(深表現もいいでしょう)。

   にきたつに船乗りせむと 月待てば 
   潮もかなひぬ 
   今は漕ぎ出でな
        (額田王 一・8)

補足日時:2007/09/24 01:52
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この回答へのお礼

   よろしい
   きみの言葉を信用しよう
   その個性を注目したわけではない
   きみという身元のわからないひと
   少し前から ずっと前からそこにいた
   いま見つけたのだ
   言葉たちが
   広大の内なる海を語っているからではなく
   かすかなさざ波に託して 
   かのじょたちが
   外なる亜大陸に信書を寄せているから
   和親でなくとも
   何の布告を発していなくとも
   その海をきみが受け入れたとき
   新しい世紀が始まったのだ
   きみについて語ろう
   きみの海が閉じており
   いまだ芽吹かずとも
   その無秩序の水源が
   遠い岸を 幻影のうちに取り巻いている
   きみについて語ろう

      *   *   *

   最もわたくしなるもの
   が語るもの
   ふたたび
   レアリテをくどくもの
   書物を生きるのも
   わたくしが
   書信をささやくのも
   おおいなる
   物語りよ――時には――いかれ
   おほやけなる
   組み込まれる
   和歌よ しかも匂え
   歪みを彩る
   最もわたくしなる
   華のにほひの

* こんなので ごめんなさい。
* わたしは どうやら 深読みするだけではなく 深表現するみたいです。

お礼日時:2007/09/24 00:52

こんばんは、brageloneさん。




●きざでしょう??!!

うん。思わず「ミッシェル!」と、叫ぼうかと…『禁じられた遊び』~より

ひとまず、休憩。リフレッシュタイム!連想ゲームであそびます。お気に障りましたらご容赦を…。きざと言えば、気障。はたまた気障とおもえばこれまたキザ。キザは嫌みとも言われもしよう。が、これがイヤミと一度呼ばれたならば、イヤミと言えば…ハイ、ポーズ!シェー。カシャッ。シェーと言えばカー。シャカシャカシャカ。さてさてどんな絵が現れてくるかな?まだかなまだかなぁ~ポラロイド写真に浮かび上がってきたのは…

┻ "カクテル" ~千年の霧~

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【二人零和有限確定完全情報ゲーム】情報は開示
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http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/resource/hand …

"君子危うきに近づかず"
漁夫の利?じっとしていることで得られる利…家宝は寝て待て?寝る子は育つ?いやいや、そうとばかりとも言えないのがこの世。利を掠めとられもすれば、寝るが勝ちと思いきや早く起きれば、起きたで早起きは三文の得と思える日があったりと。はたまた寝る子は育つとばかりに朝昼晩の境も知らせずにただただ寝かせておくと終いには背中と畳がくっついて離れなくなんてこともなくはなく…。もとい、背中と畳じゃなくてお腹と背中。キューすれば?濫しちゃだめよ、通ずだよ!
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この回答へのお礼

   目の鮮やかなサルタンバンコ
   三角帽子のサルタンバンコ
     トビリシはどうだった?
     次はトラブゾンかい?
   サルタンバンコの口紅が舞って
   サルタンバンコの微笑みが揺れる 

   馬車の家のサルタンバンコ
   車輪が軋むよ サルタンバンコ 
     弟が泣いているよ サルタンバンコ 
     継母が怒っているよ サルタンバンコ
   顎が綺麗だ サルタンバンコ 
   ミニが素敵だ サルタンバンコ

   悉曇文字のお通りだ 
   雨は嫌いだ サルタンバンコ
     踊る幌の中で 
     明日の心を占っておくれ
   サルタンバンコ おまえの耳輪が傾いて 
   おまえの黒髪が回るよ 
     ごらん あれがロードスだ
     海の向こうに 年が明ければ いるよ

     さあ 馬車を降りて
     サルタンバンコ ごはんにしよう
   鼻の大きなサルタンバンコ
   サルタンバンコのマントは小さい
     ベルガモの城は 懐かしいだろ
     明日はウシュクダラまで走るか
   サルタンバンコの頬が染まる
   真赤な夕陽に サルタンバンコ
     明日の心はもう出たかい?


詩をもってお応えに代えようと探していたら 見つかったものです。

ふさわしくもありませんが 中で 《ここが ロードスだ。跳べ》という成句を連想するところがあって おもしろいかもと思いました。つまり ちょっと 《嫌味》を利かしてのことです。ちょっと おふざけです。

最も万死に値する憎まれ口をたたくとしますならば 《善良な市民が一億人いる》ということと 《われらが日本が なお ブラック・ホールである》こととは 両立するように思うのです。・・・

とは言うものの わたしも キューしておらず 安穏な生活にジューしています。

お礼日時:2007/09/22 15:37

>挨拶を超えては どうなのでしょう?仕事なり何なりと挨拶を超えて たとえ事務的にせよ話をしなければならない場面があると思うのですが そういう場合です。


すべて事務的に済ますということでしょうか。
ということは いっさい 人に対しては内政干渉をしないというお考えだと理解していいでしょうか。


回答など書いたものを、まるまるその回答者などの思想や普段の行動様式だと決め付ける必要はないですね。作家なんかでもそうでしょう。とは言っても、それを書いた本人と書かれたものが全く無関係かというと、むろん、そういうわけでもないでしょう。文には個性や人柄や心情が出るとよく言われます。深読みするクセということもですね。
>事務的にせよ話をしなければならない
しなければならないんだったら当然するでしょう。
>すべて事務的
すべてとは限りません。場合によります。
>いっさい 人に対しては内政干渉をしないというお考えだと
内政干渉は基本的に、するのもされるのも好みませんが、これも場合によります。
個人的なことを言えとおっしゃるんでしたら仕事では事務的に済ますよう“努力してる”くらいです。そうしないと進まない。事務的ってのはビジネスライクってことですね?非人間的とかいうような意味で使われてます?ビジネスに限らないと思うけど、大概のことは感情を入れすぎると、スムースにいかないことが多いもんだと思います。
「内政干渉」もだけど普通にネンチャクとか絡むタイプを嫌がる人は珍しくもないと思いますが、そういうのをものすごく嫌がる人もいて、初対面でも、ちょっとでもネンチャクぽいと感じたら神経質なくらい避けようとする人もいるみたいです。内政干渉“する”のが好きな人は、けっこう多いかもしれないけど、されるのやネンチャクや絡みが好きって人の方が一般的には珍しいんじゃないかと思います。

この回答への補足

ご回答をありがとうございます。

何か この質問にかんしては 底の浅いものを無理に深いものと見立てて そこに問題を見つけ出そうとしていたかも知れないと思ってしまいました。

たしかにこの問いを思いついたとき 推測の域を出ないかも知れないと分かっていましたし 衝動的に設定したところさえあったようでした。逆にいえば 一定の社会的な傾向が見出されるなら よしとしようということでもありました。

まづ 確認です。
・回答者さんの思想と 回答者さんの分析した内容としての思想とを 混同して 述べていました。(これでいいと 案外 思っているところがありますが)。
・《〈事務的〉ってのはビジネスライクってことです》。
・《内政干渉》は 友だちであれば ある程度の秘密のことにも 口をはさむことはあるといった程度のことを念頭においていたと 今からは 思います。

そこで けっきょく問題はこうだと はっきり 言えます。

つまり まづ問いはこうです。挨拶にせよ会話にせよ 一般に人びとの交通において その問答が しっかりと行なわれること これを わたしは目指すのだけれど 現今では 叶わないという事例が目につくようですが どうお思いですか でした。

いま noema_1970さんからのご回答をもらって 分かったことは このように 問題を 明確に 捉え合い その焦点をそらさず 論点をすり替えることなく 互いに自分の考え(もしくは 分析)を伝え合うということ このことを 願っていたということです。単純ですが 単純に そうなのでした。(《深読み》のくだりまで 触れていただいたことなどが 大きいことだと感じます)。

ですから ちなみに 事務的な受け答えであるかどうか 人恋しくしたり ネンチャクなタイプだったりするかどうか これらのことは いま 関係ないわけです。あるいは 勘違いや間違いをしでかしたりすることも 問題の本質とは別だという趣旨だったわけです。

そして やはり一言多い性格を ゆるされるならば この問答をしないというその人の状態 これは 死んでいると表現したのでした。途中からは この死の状態でさえも 新しい明るい状態への移行のための その人なりに必要な段階なのかも知れないと思ったりも していたわけでした。 

もうおしゃべりは 余分だと観念します。
二往復の問答で すっきりしました。たいへんありがとうございました。

補足日時:2007/09/19 21:19
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 bragelone様。

ありがとうございました。
 貴兄様からのお礼の中のコメントほどの意味はありませんでしたが、人が回答しているのだと思って、突き放して読むことができるときに、今一度読めば、コメントの、深読みのお気持ちも理解できると存じます。
 それにしてもnoema_1970様の
 ≪挨拶したほうが身を守れるというか得策と思えばするし、しないほうが、かえって身を守れるというか得策と思えばしないし、する必要感じなかったらしないとか、ウザそうだなと感じる相手に無理にかかわり持ちたくないのは自然だろうし、ひとたび口きいてしまったらメンドー招きそうな感じのする相手なら敢えてしないこともあるんじゃないですか。反感持ってるのを気づかせるためにワザとしないこともあると思います。というか、反感持ってるのを隠す必要すら相手に感じないとか。≫
 というのは本当によくわかります。私は大きな声で、しっかりと親しく、挨拶をしているのですが、近所の一人の奥さんだけは、こちらもその方の行動原理や考え、生活の仕方を見届けきっておりますので、その態度はでているのですが、その人だけは、挨拶が重たそうで、何だろうと思ってはいました。
 これがbragelone様が、Kriyā1998は挨拶をされないという経験はないのか、といわれて、いやありますとお答えしたかたです。
 noema_1970のお話で、ウ~ムなるほど。そうか。と初めて納得でき、気持ちの落ち着きを感じました。
 でも、このご回答に対するbragelone様のコメントは、やはり凄く深読みの感じがしています。
 私はこういう事実であるという、だけの受け取りと理解で満足そのものにおります。経験していることだし、いつも不思議だなと思っていたことだから。深読みしないで、事実そうなんだと受け取り、ほっとしています。私はその人の腹の底、正体と行動形式を読み取り、その影響の力や通力には、バッシッと立ちふさがりますから。
 きっと(今のことばでは)ウザいのでしょうね。正体と行動の中身を見通して切っておりますのでね。ご回答の教えのお陰で、悩む必要が氷解しました。ありがとう御座いました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

何が何してどうなるか 分からないものですね。おもしろいと言えば そうなのですが。

よろしかったです。何はともあれ よかったです。

《挨拶が重たそう》――納得されたとお聞きしたあとでは その情況を見てみたいと思ったりするものですね。完全にわたしも 出ば亀です。

たぶん これからも 《深読み》をしてゆくと思いますが どうぞよろしくお願い致します。とりあえず このご回答には このようにてです。

お礼日時:2007/09/18 19:05

死んでるとか日本人は~と一括りに言われても戸惑いますが


挨拶したほうが身を守れるというか得策と思えばするし
しないほうが、かえって身を守れるというか得策と思えばしないし
する必要感じなかったらしないとか
ウザそうだなと感じる相手に無理にかかわり持ちたくないのは自然だろうし
ひとたび口きいてしまったらメンドー招きそうな感じのする相手なら敢えてしないこともあるんじゃないですか。
反感持ってるのを気づかせるためにワザとしないこともあると思います。というか、反感持ってるのを隠す必要すら相手に感じないとか。
人恋しくてしょうがない人だっているでしょうけど。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

のっけから正直に申すならば わたしのもっとも苦手とする思想を表現されていらっしゃると まづ思いました。

瞑想によって得られる真実のことばを受け取ったときにも――それをわたしは むしろ好むほうですし じゅうぶん みづから親しんでいたりさえするのですが―― そういう対話であると前提した場合でない限り とまどうことがあります。

今回いただいたご回答は 現実の押しも押されもせぬまるっきり実際の真実ですよね。これにも弱いです。

おっしゃるとおりであると申し上げるべきなのか 何か別の見方なりを取り上げて そこに挟んでお応えするのがいいか。・・・

そういえば これまで そうはなかった種類のご回答です。

少し というよりは かなりの時間 考えて やっと 応えをお返しすることができると思いました。

つまり 挨拶を超えては どうなのでしょう?仕事なり何なりと 挨拶を超えて たとえ事務的にせよ 話をしなければならない場面があると思うのですが そういう場合です。

すべて事務的に済ますということでしょうか。

ということは いっさい 人に対しては 内政干渉をしないというお考えだと理解していいでしょうか。

だとしますと 相対主義 そして 個人主義 のように認識させていただきます。《死んでる / 生きてる / たましいうんぬん》というのは しゃらくさい!!と。単なる飾りであると。

ありがとうございます。何かすっきりした感じです。一人相撲のようですみません。こんなお返しになりました。

お礼日時:2007/09/18 13:23

 ≪お考えを変えられたでしょうか。


  変えておりません。いじめられのことは、状況があり、それは決して、それだけが訪れてはいないと存じます。
  いじめられても明るさと積極性、そして主に対しての信頼、万物への尊崇と、拝礼は欠かせば、自殺行為となりますよね。何事もその人の道の途上のことでもあり、主の目はがないところとはありません。

 ≪《一》なる自己――)を限りなく推し進めていきます。≫
  それはそれでいいではないでしょうか。
  私は幼いときから、自分がここにいることが不思議でなりません。
  そしてそこ、ここ、あそこで話され、行動されている方も自分だと思ってきてしまい、不思議に思っていましたし、思っています。
  一なる神、主、一なる意識存在、創造者と、創造する前の意識。その一人子というのはヒンドゥにもあり、それ勉強して少しわかりました。
 だから、自己の継続一体性という、カント的な先験的統覚というのとはすこし角度が異なる思いです。でも結局同じでは在りますが。つまり過去も現在も未来も一緒ということ、どの地の何も一緒ということ。


 ≪こうして考えてきて ~~~その表現に合わせて考え進めることがよいという一点です。≫
  受容していただくことです。現代文の読み方の要領が出回っていて、そこでは予測的に、予見的に読んでいくようにと、指導しているようですが、、次には、本当に予見したり、型に嵌めて理解した通りかどうかの、検証をするために、戻ってくる作業と、自分と、読んでいる文章の気持ちのリズムのとりかたではないでしょうか?質問者様も私もどうもそこが少し足りないかなと、いおうかどうしようか思っていました。
 あまりいえませんが、率直に、私達はどうもこの受容性が不足しているなと、自分の世界を出て行こうとしていない、横着者だなと感じております。そんなことを感じてきていて、申しあげなければならないと、そして自分も反省と改善をしなければならない、思っています。
 社交的配慮なく、申しあげていますが、感想なのでお許し下さい。

 ≪《達観うんぬん》のことは 少しだけ触れますが たとえば《宇宙の金魚鉢の中に入っているだけ、と思っていたほうがいいのではないかと申しあげております。ドラマの演技でしかないと。》――このように聞いた人は ひれ伏すか逃げるか どちらかではないでしょうか。≫
 でも極く簡単なことなのですけれども。事実がそうであるから、そう思ったからといって、何も変わらない。
 どんなに思おうと、考えようと、宇宙の中の一つの出来事、夢の映画でしかないではないですか。偉いことなどは申しあげていません。
 只、思い方や見かたは楽になりました。
 もうこれにて失礼します。またお会いしましょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

いやぁという口をついて出ました感慨をそのままお伝えしてしまうほどの状態にありますが それは いままで分かっていたことが 決して分かってはいなかったと痛切に感じましたゆえです。

深いところで理解し合えたと思ったところも 決して その―― 一般的に申すならば――お一人おひとりの経験なり歴史なりの重みがあって 違っていたということなのでしょうか。

今回は 課題もいただいておりますし また 一から出直しとなります。理解の行き届かず分からないところもありますが 一つひとつ噛みしめて進んでまいります。

ひとつ 今でも わかっていることは この世界の中でのちっぽけな出来事でも それがわたしの意思による自由な選択であったものは うたかたではなく と言いますか 泡沫であるゆえに そこに込められたわが意思をわが神の みそなわしたまうものならば 誰のためでもなく 自分のために 大切に致したいと思っていることです。たとえ あやまちであったとしても。

またお会いしましょう。

お礼日時:2007/09/18 13:00

今、また到着してました。


 ≪棘を抜いたあとも 患部が膿んできたりして≫
  当然のプロセスですね。これは比喩がよく適切か、私がよく心琴を響かせないかです。

《あなたと わたしとは 無関係である。これからも かかわりを持とうとは思わない。その点くれぐれも よろしく願いたい》
 いつ深い関係になるかも知れない、唯一の方からの、唯一の者同士という意識が明確かどうかでしょう。仰せの気持ちは決してどなたもなく挨拶していると存じます。
 ≪まぼろしの問題だと思います。どうでしょう これで交通整理はできたでしょうか。≫
 優秀な交通整理です。見ている唯一の方も微笑んで、ご安心になられていますでしょう。
 まぼろしの問題なのでようかね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

たしか 新しいメール通知は ANo.16に対するわたしのお礼欄への書きこみのことだと思います。その投稿もご覧ください。

このご投稿にて お考えを変えられたでしょうか。というよりは 同じお考えを 別の角度から述べておられるでしょうか。

今度も――どういうわけなのでしょう わたくしは感じたそのままを述べすぎなのでしょうか―― 省察内容が高度すぎます。宇宙のどこかに腰をおろして 根源としての唯一者の存在と一緒に 宇宙の金魚鉢を眺めている・・・このことに 問題はないのですが・・・わたしはうれしいのですが・・・ このかたちの対話内容で 一般に通用しますか。すれば もう何にもひっかかることもないのです。

たとえば いじめに遭った人に対して わたしは 何とか もっと強くなって欲しいと――あるいは むしろ もっと本当に有効に弱くなって欲しいと――思いますが これが 見方がちがっているのかも知れません。これらの被害を受けた人びとは その人なりに自己表現をしているのかも知れません。そこを どう感性と理性とで捉えるか わたしたちに課されているかも知れません。

いやぁ 楽しい対話をありがとうございます。(ため口をきいております。平にご容赦をお願い致します。こういう場合 第一次的な感情の表出のままを抑えて 一般的な表現に従ったほうが よろしいのでしょうか。そういえば その種の訓練を怠ってきたかと思います。今回は このままにて ご勘弁を頂戴しとうございます)。

お礼日時:2007/09/18 10:17

 ≪達観をなさり過ぎです。

泰然自若となさってい過ぎです。境涯を示され過ぎです。≫今又、このお知らせが到着しました。
 bragelone様、このお言葉を戴くと、私の方は発言や、参加を封殺されかねないのですよ。
 貴兄様はそんなご意図はないでしょうが。
 私はそんなつもりではないのです。そうする意識でもないのです。お許し下さい。
 東洋のことや、ある種の思考方式を取っている方には、目的・結論たる命題やその内容それがそのまま、方法やプロセス、理論と説明であるものなのです。真理やゴールとの間、神と自分との間に距離というものを、方法や道、時間を置かない方式もありうることを理解してください。
 説明やことばを省いているのでも、高い境地をしめしているのでもないのですよ。
 それを理解することが、貴兄様の一番の課題だと今、認識しました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

いやぁ 気づきませんでした。ということは とげが抜けたあと(――わたしのばあい 回心というように言いますが そのあと――)も 同じ回心時点の心を持続するということでしょうか。

患部の治癒にかんして その時間的な過程において 確かにわたくしも その自己の同一性を保持するという基本方針です。自己の自乗(――つまりは 《一》なる存在の自乗イコール《一》で その自乗もやはり《一》なる自己――)を限りなく推し進めていきます。

この基本のほかには たとえば道草を喰ったりするときがないか などですが。そのとき 別様の考えに陥るといったことがないか ですが。つまりそのようなときには たぶん 考えを変えて捉えてみるのも よいかも知れないのではないか・・・。という脇道について どうなのか ですが。

こうして考えてきて いま分かっていることは おそらく 相手が何かを表現しているとき そのときには その表現に合わせて考え進めることがよいという一点です。

たしかに 基本は変わらないのですが。

あと 《達観うんぬん》のことは 少しだけ触れますが たとえば《宇宙の金魚鉢の中に入っているだけ、と思っていたほうがいいのではないかと申しあげております。ドラマの演技でしかないと。》――このように聞いた人は ひれ伏すか逃げるか どちらかではないでしょうか。

つまり観想・瞑想などの神秘の方面にもつながります。つながってよいと思いますが 一般には《説明やことばを省いている》ように映ると思うのですけれどねぇぇ・・・。 

・・・・・・たしかに質問者のわたしにいただいたお答えですので そんなことを言うのは 間違っていると いま――すみません いま――気づきました。

伏してお詫びいたします。(ただ 人生演技説のような考えには わたしは ならないと思いますが)。

お礼日時:2007/09/18 09:48

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