1700年頃にイギリスで活躍した、ネルソン提督が、日本に来たという記録はありますか?ネルソン好き、古代船好きのイギリス人のお父さんに本をプレゼントしたいのですが、なかなか良い本がみつかりません。もし、ネルソンが日本に来た時の船との絵などがあれば、和書・洋書問わずに手に入れたいので、ご存知の方がいらっしゃったらぜひ、教えてください!

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A 回答 (1件)

ネルソンは日本に来ていません。

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この回答へのお礼

仮説で、あるはずのない本を探してしまっていました。。。
どうもありがとうございました!

お礼日時:2007/09/18 01:51

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Q【日本語と古代ラテン語の共通の言葉】 秦氏は地中海から来た?

与謝野鉄幹・晶子の孫で言語学者の与謝野達氏の『ラテン語と日本語の語源的関係』(サンパウロ社刊)を読みました。
彼は「伝統的な日本語の単語の多くがラテン語を起源としている」と主張しています。
日本語約700語を題材に、その語源と見なされるラテン語を詳しく紹介しています。
比較言語学の最新の概念を使いこなしながら、長時間かけて丁寧に考察された興味深い労作です。

一例を挙げると
こころ←corculum」
哀れ←avare」
こい(恋)← cupio
上げる←aggero
下げる← suggero
起こす←occurso
がんばれ←quam vale
おめでとう←omen datum

などのルーツはいずれもラテン語と喝破し、
「2世紀以降のやや俗化したラテン語か派生語が、何らかの理由で日本の古代期に入り、日本語の形成に影響を与えた」と推測している。

もし、↑の日本語の起源が古代ラテン語だと仮定した場合、その流入経路はどのようなルートだと思いますか?

(1)人がローマからインド洋を渡り、東洋に至る航海が言語をアジアに繋いでいたかもしれない。(文化人類学者の山口昌男氏)
(2)秦氏は地中海周辺から来た古代ラテン語を操る民族であり、秦氏の言葉が日本語に与えた影響は大きい。(考古学者の和田宗耶氏)

など様々な意見がありますが、古代ラテン語が日本に流入する可能性はあるのでしょうか?
大相撲の掛声の「ハッケヨイ」もラテン語だと聞いたことがあります。

与謝野鉄幹・晶子の孫で言語学者の与謝野達氏の『ラテン語と日本語の語源的関係』(サンパウロ社刊)を読みました。
彼は「伝統的な日本語の単語の多くがラテン語を起源としている」と主張しています。
日本語約700語を題材に、その語源と見なされるラテン語を詳しく紹介しています。
比較言語学の最新の概念を使いこなしながら、長時間かけて丁寧に考察された興味深い労作です。

一例を挙げると
こころ←corculum」
哀れ←avare」
こい(恋)← cupio
上げる←aggero
下げる← suggero
起こす←occurso
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Aベストアンサー

この手の説に共通しているのは

こじ付けでも何でも 自説に有利なものを強調し

不利なものを無視してしまうことです

どのような言語でも 10や20は 見方によれば一致します

これが 意味有る一致なのか、無意味なのかは 充分な検証が必要です
さらに 現代の発音では似ていても、昔はそのようには発音されていなかった可能性も高いです

単なる物語として 面白がって読むのがよろしいでしょう

つい先日読んだものに

五木の子守唄の おどまかんじんかんじん の かんじん は
韓人 のことで 秀吉の朝鮮征伐の際に 強制連行された 朝鮮人 のことだと 主張している人たちがいるが

熊本での発音は くゎんじんくゎんじん で 音が異なる と 論破された例がありました

誰かが TVでしゃべれば 単純に信じてしまう人が多いようですね

Qネルソン・マンデラはなぜ刑務所に入れられたのですか?

ネルソン・マンデラはなぜ刑務所に入れられたのですか?
わかりやすく説明よろしくお願いします。

Aベストアンサー

WIKIPEDIAの「ネルソン・マンデラ」を参照下さい。
「アパルトヘイト」とは南アフリカの「人種差別政策」のことです。
「在学中の1944年にアフリカ民族会議(ANC)に入党。その青年同盟を創設し青年同盟執行委員に就任して反アパルトヘイト運動に取組む。その後1950年、ANC青年同盟議長に就任する。
1952年12月にANC副議長就任。1961年11月、ウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)という軍事組織を作り最初の司令官になる。それらの活動などで1962年8月に逮捕される。1964年に国家反逆罪終身刑となりロベン島に収監される。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%A9

Q【歴史・日本史】なぜアメリカのペリー提督は日本の静岡県下田市に初上陸したのでしょうか? 当時の静岡

【歴史・日本史】なぜアメリカのペリー提督は日本の静岡県下田市に初上陸したのでしょうか?

当時の静岡県下田は何があったのでしょうか?

アメリカは緻密に計算して、初上陸場所を静岡県下田に選んで上陸して来たとしたらその理由はなんですか?

それともたまたま上陸したら、静岡県下田で、江戸幕府の本陣がどこにあるのか知らずに前偵察なしで来たのですか?

なぜ下田に上陸したのか理由を教えてください。

Aベストアンサー

歴史を勝手に変えてはいけません。 ペリーは浦賀沖に来航し、初所陸したのは久里浜です。 下田は日米和親条約によって箱館とともに開港された港です。 ペリーが浦賀沖に来航したのは、浦賀が江戸に近い東京湾の入口だったこと、幕府にフィルモア大統領の親書を手渡すために久里浜に上陸したのは、久里浜が浦賀の隣で上陸しやすい入り江だったからです。

Q鉄鋼船と亀甲船

いつもお世話になっています。
文禄の役の制海権について教えてください。

1・信長が九鬼氏に造らせた鉄鋼船は文禄の役に出陣しなかったのでしょうか?(そもそも秀吉は鉄鋼船をまだ造っていたのでしょうか?)
2・出陣していた場合、制海権は互角ぐらいにはなっていたはずなのにボロ負けしているのはなぜ?
3・その文禄の役で、李舜臣率いる朝鮮水軍に亀甲船なるものが登場し、日本軍を打ち負かすのですが、予め日本の侵略対抗策として用意していたと考えてよいのでしょうか?急造したとは思えませんが。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

1) 信長の作らせた鉄甲船は、玄界灘を渡れるような航洋性を持ちません。あくまで、瀬戸内海専用の軍船です。

構造的には、欧州の地中海で軍船として使われていた櫂で漕いで進退する喫水の浅いガレー船に、巨大な上部構造を載せたようなものとされています。海上での機動力はほとんど無視して「浮かぶ要塞」として使われたものでしょう。櫂で動かせる限度を超えた重さと大きさと思われますので。

上部構造が鉄の板(数ミリ)で覆われているため、当時の海戦で敵の船に火をつけるために多用された火矢を跳ね返すのが最大の威力です。さらに、数ミリの鉄の板が硬い木の「装甲」に裏打ちされているため、合成するとかなりの強度があり、火縄銃の弾も跳ね返したはずです。

信長の水軍(伊勢水軍主体)と戦った瀬戸内海の毛利水軍は、火矢と火縄銃以上の攻撃力を持ちませんので、鉄甲船を攻撃する手段を持たなかったことになります。

志摩の海賊大名である九鬼氏が建造して熊野灘を経由して大阪湾に回航したという話もありますが、果たしてどうでしょう。熊野灘回航は、上部構造を取り付けない船体だけの状態で行なったのではと個人的に考えます。それでも、竜骨のない日本式の船舶ですからかなり困難な回航になりますが。

2) 仮に玄界灘を超える鉄甲軍船を作るとすれば、
* 西洋式の竜骨を備えた構造でなければ、上部構造が重い鉄甲船は玄界灘を渡れない。
* 櫂で人力で動かすのではなく、西洋の帆船と同様に風力で動かすのでなければやはり玄界灘を渡れない。
となり、当時の日本では建造不可能です。日本で建造された最初の西洋式帆船は、江戸時代になって、イギリス人ウィリアム・アダムスが浦賀付近で建造したものです。徳川家康の求めによるものです。

朝鮮出兵当時に日本と接触していたポルトガル人やスペイン人は、西洋帆船の売却も建造技術の提供も一切拒否していました。ついでに言うと、大砲の売却や大砲鋳造技術の提供も一切拒否していました。日本が大砲を装備した西洋帆船を持てば、東洋の両国の植民地(フィリピン、マカオ等)があっという間に日本の手に落ちてしまうからです。

私は、玄界灘を渡った日本水軍の軍船や兵員輸送船がどのようなものだったのか非常に疑問なのですが、その中に鉄甲船が入る可能性はゼロです。

3) 日本水軍と朝鮮水軍の戦いは、文禄の役の最初は日本の方が優勢でした。だから、物資や兵員を無事に朝鮮に渡して快調に進撃できました。

「文禄の役で、李舜臣率いる朝鮮水軍に亀甲船なるものが登場し、日本軍を打ち負かす」と質問者様はお考えですが、そもそも日本水軍はそんなに弱くなく、「李舜臣の朝鮮水軍が日本水軍を打ち負かした」という話はかなり朝鮮側に有利に誇張されたものです。

李舜臣
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E8%88%9C%E8%87%A3

質問者様が重視しておられる亀甲船が具体的にどのようなものだったのかは明らかではありませんし、どの程度の威力があったのかも良く分かりません。伝説の中の存在であり、韓国文化の常として、史実とは関係なく誇張して伝えられていると考えた方が良さそうです。

亀甲船
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E7%94%B2%E8%88%B9

信長の建造させた鉄甲船については、外国の宣教師が現物を見てローマに報告した手紙がありますので、「当時のヨーロッパにも存在しない、鉄で装甲した軍船が実在し、ヨーロッパ人の目で見ても強力な(強力に見える)軍船であった」のは確かです。

1) 信長の作らせた鉄甲船は、玄界灘を渡れるような航洋性を持ちません。あくまで、瀬戸内海専用の軍船です。

構造的には、欧州の地中海で軍船として使われていた櫂で漕いで進退する喫水の浅いガレー船に、巨大な上部構造を載せたようなものとされています。海上での機動力はほとんど無視して「浮かぶ要塞」として使われたものでしょう。櫂で動かせる限度を超えた重さと大きさと思われますので。

上部構造が鉄の板(数ミリ)で覆われているため、当時の海戦で敵の船に火をつけるために多用された火矢を跳ね返す...続きを読む

Qイギリス王室は何処から来たの?

 イギリスの王室は過去に絶えてしまい、オーストリアから迎えた人たちだという話を聞いたような気がするのですが、本当なのでしょうか?
 本当だとしたらどんないきさつで今の王室の人たちが選ばれたのでしょうか?また、イギリス国民は見んな知っているのでしょうか?

Aベストアンサー

 
  イギリスの王室は、過去何度も絶えています。この場合「家系が絶えた」というのは、王家の継承者が、正統な継承権を持つものとしていなくなったという意味です。
 
  歴史的に有名なエリザベス一世はテューダー王朝最後の女王で、テューダー家は確か、ヘンリー七世の時、前の王朝の断絶を受けて王位につき、テューダー王朝を創始したはずです。
 
  しかし、エリザベス一世処女女王は、後継嗣子がいなく、その兄弟姉妹も近親も正統な王位継承権を持つ者はいなくなったので、1603年、エリザベスの崩御と共に、スコットランド王国国王ジェームス六世を、イングランド王国国王として迎え、ここで、スコットランドのステュアート家の後継者である王を迎えたので、イングランドの王室は、テューダー王家からステュアート王家に変化するのです。ジェームス六世は、イングランド王位継承権を持つ、スコットランド女王メアリーの息子で、メアリーはイングランド王位を主張して、エリザベス一世に処刑されているので、メアリーの息子ジェイムス六世にイングランド王位継承権があり、彼がエリザベスの後を襲って、イングランド王になり、「イングランド王国国王ジェイムス一世兼スコットランド王国国王ジェイムス六世」となたのです。
 
  スコットランド王国とイングランド王国は、同じ人物を王とする別の王国で、1707年、アン女王の時、両王国は統一して、グレート・ブリテン王国になります。
 
  ステュアート王家は、名誉革命で、1688年ジェイムス二世が王位を追われ、フランスに亡命した後、ナッソー伯爵兼オレンイェ公爵オランダ総督ウィーレム三世が、その妻で、スチュアート王家出身のメアリーと共にイングランド兼スコットランド王位についたのですが、メアリーの方が王位継承第一位であったので、王家はステュアート家のままで、この二人の後を継いだアン女王が1714年に崩御すると、後継者がいないので、血縁を過去に遡って、ドイツのハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィッヒを、グレート・ブリテン国王に迎え、ゲオルク・ルートヴィッヒが、グレート・ブリテン王ジョージ一世となります。
 
  ジョージ一世は、同時にハノーファー侯ゲオルク・ルートヴィッヒでもあり、王家が、ここで「ステュアート家」から、「ハノーファー家」に変わります。
 
  グレート・ブリテン王国国王は、以降、ハノーファー選帝侯を兼ねていますが、1801年、グレート・ブリテン王国は、アイルランドを併合して、グレート・ブリテン及びアイルランド連合王国となり、当時のジョージ三世(ハノーファー侯ゲオルク三世)は、グレート・ブリテン及びアイルランド連合王国(以下「連合王国」)国王となります。また、ハノーファー選帝侯家は、公家になり、やがて王家になります。
 
  1837年に、連合王国王位を継いだ、ヴィクトリア女王は、1901年まで在位しますが、彼女の崩御の後、王位を継承したのは、ヴィクトリアと、そのクイーン・コンソートのザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバートのあいだに生まれたエドワードで、1901年エドワード七世即位と共に、家名を、ハノーファー王家から、「サックス=コーバーグ=ゴータ家」に変えます。
 
  連合王国の王家は、1901年からは、サックス=コーバーグ=ゴータ王家です。しかし、1910年にエドワード七世から王位を継承したジョージ五世は、1914年、第一次世界大戦において、ドイツと戦争状態になった為、王家名を変え、サックス=コーバーグ=ゴータ王家から、ウィンザー王家に名称を変更します。
 
  それ以降、現在まで、ウィンザー王家の名で、連合王国王家は、現国王エリザベス二世で、英国を統治しています。
 
  イギリスの王家と言っても、11世紀のノルマン・コンクエストで、プランタジネット王家が英国王となったと言っても、この時のイギリスは、イングランドであって、まだ、ウェールズは独立国で、ウェールズ大公が君主であり、イングランド王国国王ウィリアム一世は、ノルマンジー公爵を兼ねていました。プランタジネット家のジョン失地王は、その名の通り、北フランスのノルマンジーの領土を失い、それ以降は、英国王とは、イングランド王のことでした。
 
  プランタジネット家以降は、何らかの意味で、王家と血縁を持っていた人物が、先の王家が断絶すると、新しいイギリス王家を創設した訳で、色々な王家が、イギリス王位につき、やがて、イングランド王国は、ウェールズを併合して、イングランド+ウェールズのイングランド王国となります。
 
  更に、スコットランド王国とも王国合併して(併合ではありません)、グレート・ブリテン王国になったことは以上に述べた通りです。そのグレート・ブリテン王国が、アイルランドを併合して、グレート・ブリテン及びアイルランド連合王国になったのも以上説明した通りです。この後、南アイルランドの26州が、1922年にアイルランド自由国(1949年にアイルランド共和国に改名)として独立して、北に残った6州が、連合王国に留まったので、イギリスの国名は、グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国となっています。
 
  >本当だとしたらどんないきさつで今の王室の人たちが選ばれたのでしょうか?また、イギリス国民は見んな知っているのでしょうか?
 
  上に説明したように、王家の正統後継者が絶えると、その王家の血縁の別の家が王位につき、新しい王家となって継承されて来たということです。イギリス国民は、少なくとも普通教育を受けた人は、自国の歴史ですから、みな、概ねのことは知っているはずです。細かいことは、日本人でも、日本の歴史をよく知らない人がいると同様に知らないかも知れませんが。別に秘密でも何でもないので、調べれば、すぐ分かります。
   
  >ハノーファー家
  >http://village.infoweb.ne.jp/~isamun/monarchs/people/hanover.html
  

参考URL:http://village.infoweb.ne.jp/~isamun/monarchs/people/hanover.html

 
  イギリスの王室は、過去何度も絶えています。この場合「家系が絶えた」というのは、王家の継承者が、正統な継承権を持つものとしていなくなったという意味です。
 
  歴史的に有名なエリザベス一世はテューダー王朝最後の女王で、テューダー家は確か、ヘンリー七世の時、前の王朝の断絶を受けて王位につき、テューダー王朝を創始したはずです。
 
  しかし、エリザベス一世処女女王は、後継嗣子がいなく、その兄弟姉妹も近親も正統な王位継承権を持つ者はいなくなったので、1603年、エリザ...続きを読む


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