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徳川幕府の滅びた原因に国内と国外からのプレッシャーがあったとあるサイトで読んだのですが、具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?3~4つずつ挙げていただけると嬉しいです。(もちろん一つでも構いません)

よろしくお願いします。

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A 回答 (6件)

>具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?



(1)将軍家の衰退
(2)世界の重商主義台頭の波に乗り遅れた
(3)19世紀欧米列強の帝国主義に抗し切れず、開国せざるを得なかった
(4)諸藩の人材育成に大きく遅れてしまった

(1) 将軍家の衰退
家康によって樹立した徳川幕府も三代将軍家光までで、それ以降優秀な将軍は現れず、衰退します。 家康は将軍家を補佐するため水戸藩、尾張藩、紀州藩を御三家として、この中から優れた人材の発掘を命じています。 

八代将軍の吉宗は紀州藩の殿様から将軍になり、享保の改革を行い、徳川幕府を建て直しました。 しかし、19世紀に入ると将軍は凡庸で、これを補佐する老中にも人を得られず、弱体化して行きます。

(2) 世界の重商主義の波に乗り遅れた
世界は18世紀後半にイギリスで始まった産業革命でそれまでの農業中心から工業中心に変わっていきます。 しかし、日本はこの世界の進歩発展をわずかに長崎の出島でオランダ人を通してしか知ることが出来ませんでした。 

士農工商の厳格な身分制度で経済の実験を握っていた商人を一番低い身分に置いたまま。 これでは世界の波に乗り遅れるのも当然です。 19世紀に入ると、日本にも佐久間象山(さくましょうざん)のように洋学といって欧米の先進技術に精通した研究者はいました。 しかし、徳川幕府は彼を登用しませんでした。 

(3)欧米列強の帝国主義の波に抵抗できなかった
前の世紀に産業革命を経験したイギリスに触発され、ドイツ、フランス、オランダ、ロシア、アメリカはアジア、アフリカに進出し、植民地を巡って競争を繰り返します。 19世紀の後半になると、関心は極東に向けられます。 彼らは強大な武力を背景に徳川幕府に開国を迫ります。 

彼らの武力にたいし、長州藩が1863年馬関海峡を封鎖し、馬関戦争が勃発しますが、鉄砲と大砲の火力の差を骨の髄まで知らされることになります。 この戦争によって、徳川幕府は欧米列強との武力の差を知ることになります。 
 
(4)人材育成の遅れ
徳川幕府の他の諸般に対する一番大きな差は人材育成の立ち遅れにあります。 徳川幕府は昌平坂学問所を作り、旗本の子弟育成に当たります。 しかし、ここの教授陣には洋学の」素養もなく、旧態依然とした朱子学に根ざしたもの。 

19世紀の日本には各地に優れた私塾がたくさんありました。
広瀬淡窓(たんそう)の咸宜園(かいぎえん)、緒方洪庵の適塾、吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)などです。

幕末の偉人に大きな影響を与えた吉田松陰は10才の時、時の長州藩の藩主に新春の進講講義をして論語を説いたほどの俊英でした。 そこで藩主の毛利公は参勤交代の列に14才の松蔭を加え、江戸に連れて行き、佐久間象山に洋学を学ばせ、さらに広瀬淡窓に博愛の心を学ばせています。 

このように各藩は子弟の教育に励んでいます。 長岡藩小林虎三郎による米百俵(こめひゃっぴょう)の逸話も子弟教育に対する熱意を示すものです。

しかし、権力の座にあった徳川幕府は子弟教育に大きく遅れを取り、薩摩長州を中心とした勢力との権力闘争に敗れてしまったのです。 

これは長年政権与党の座に居続けている自民党の若手議員が、」ひ弱で無能なのと似ていませんか。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。

まとめて頂きありがとうございます。
とても分かりやすかったです。

>(4) 人材育成の遅れ
とても私には思いつきませんでした。確かに何百年も徳川氏が牛耳ってたわけで、中にはあまり出来の良くない徳川さんもいたと思います。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/09/25 15:56

再びANo.4です。



余談ですが・・・

わたしはテレビでよくやっている「徳川埋蔵金」なんてあるわけがないと思っています。

そんな「お金」は幕末の軍資金でとっくに消えていると思います。経営者が自分の会社がつぶれそうなとき隠した「お金のありか」を忘れると思いますか?

「溺れる者は藁をもつかむ」というじゃありませんか。

チョット本筋からそれちゃいましたね。すみません。
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この回答へのお礼

SU-COさんありがとうございます。

徳川埋蔵金一昔前もの凄く流行っていたのを思い出しました、懐かしいです。
たしかにそうですね。。実際弱った権力を取り戻すために、戊辰戦争で戦ったりしているわけですし、お金残ってるのかは疑い深いですね。

とても興味深いです…ありがとうございました。

お礼日時:2007/09/25 15:52

miritaさん、こんにちは。



教科書どおりの回答じゃないかもしれませんが、

当然「外圧」がきっかけになったと思いますが、結果的には「徳川株式会社」に運営資金がなくなってしまったからだと思います。

もともと5代将軍「綱吉公」あたりからずっと財政は下降線をたどってましたから、吉宗期に倹約令を発したものの、幕末期まできていよいよもたず、その弱体化した幕府の足をすくおうと薩長が立ち上がったという背景もあるのだと思います。

昔からものをいうのは、「お金」です。「お金」が無ければ人もモノも動きません。

ちょっと古い話ですが、米国×日本(太平洋戦争)・米国×アフガニスタン・米国×イラク(第1次・第2次湾岸戦争)をみても圧倒的な経済力(=軍事力)格差が必然的な結果をもたらしました。潤沢な運営資金がなかったから薩長にも勝てなかった、につきると言えるのではないかと思います。

徳川幕府も家康公がご存命の初期はその圧倒的な権力を利用して諸国からの「資金集め」は可能でした。
その後の世襲で求心力を失い、弱体化し疲弊していったと考えるのが自然だと思います。最初の弱体のきっかけは「島原の乱」です。

決して「黒船」が来たから江戸幕府が「滅亡」したのではなく、それが倒幕運動のきっかけとなり、薩長が勇気をもって決起したけれども、けっこう弱かったということだったのでなかろうかと想像いたします。

織田信長もお金がなければ、「鉄砲」も買うことができない、ただの怖いオジサンだったかもしれません。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまって申し訳ありません。。

なるほどです…経済的な理由も大きく関わっているのですね。

>決して「黒船」が来たから江戸幕府が「滅亡」したのではなく、それが倒幕運動のきっかけとなり、薩長が勇気をもって決起したけれども、けっこう弱かったということだったのでなかろうかと想像いたします。

とても分かりやすく説明していただきありがとうございます!

お礼日時:2007/09/25 15:47

当時の徳川幕府は危機に対応する能力を失っていました。


1.それまで政務については幕府専任であったのに、諸大名に発言を許し参画させる程自信を失っていました。

2.経済的にも財政は逼迫し幕府の御金蔵は空で農本主義の年貢に頼る政治は破綻していたのは殆どの諸藩と同様でした。 
一部の藩では幕府へ領地返上を考えていたくらいです。
これは後の版籍奉還がスムースに進行した由縁です。

3.全般的に改革願望が国民的な念願となっていました。 「ええじゃないか」運動や伊勢参りが爆発的に発生したのはその現れです。
社会全体が閉塞状態からの脱出を願っていました。

4.財政革新に成功していた一部の諸藩は強力な発言権をもち幕政を左右するようになり、これが倒幕派と佐幕派に分裂して争う事になりました。  国内が内戦状態になったのです。 
幕府はこれに対しても強力且つ有効な対処ができませんでした。

5.孝明天皇の崩御で精神的な後ろ盾を失いました。  天皇は狂信的攘夷派でしたから幕府にとってはお荷物ではありましたが反面佐幕派でもあったので利用できたのですが、崩御の後の明治天皇の動向は不明でした。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまって申し訳ありません。。

国内の体制がもろくなっているところに、外国からのプレッシャー等が重なり、国内が更に混乱し倒幕したのですね。

詳しく教えていただきありがとうございます。
とても参考になりました。

お礼日時:2007/09/25 15:44

まず、徳川幕府ですけど、米を中心に運営された農業政権ですけど、時代は既に商業資本が中心になっており、矛盾が出ていた。


そのため、大名の中にも商業資本を上手に利用して藩政改革に成功した勝ち組と、倹約一本で時代に取り残された負け組みが出てきます。
そんなときに黒船の襲来があり、時の老中阿部正弘は全国の諸大名に意見を求めた。
これまで幕政は譜代大名によって行われ、将軍はめくら判を押すだけでよいとされ、外様・親藩は一切政治に関われなかったのですけど、これにより全国の武士が日本という国を意識するようになり、天下国家を論じるようになる。
その中で下級武士が台頭し、従前の固定した身分制度ではどうしようもなくなり、人間が流動化して藩という単位から、日本人として何をなすべきか、自分は日本のためになにが出来るかという、思想によって動く人間が出てきた。
藩単位でも、水戸藩は尊王主義の藩であるが、阿部正弘が存命中は徳川斉昭を何とか抑えきったが、彼が死ぬと一気に尊王に傾き、地球が寒冷期に入ったことで、西国諸藩の生産性が上がった反面、佐幕派の東北諸藩は生産力が落ちるなどのファクターが重なり、力を背景に薩摩藩は徳川家定に篤子(天璋院)を嫁がせ、幕政に関与しようとした。
こうしたことが重なり、幕府の威信は落ち、倒幕につながったと思う。

幕府の最大の支持者は孝明天皇だが、この天皇が亡くなったことでもはや流れを押しとどめるものはいなくなったと思う。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

徳川幕府が農業政権だったとは知りませんでした。。
江戸幕府の特徴に商人達の台頭があると思うのですが、それはそういった経緯なのですね…

>全国の武士が日本という国を意識するようになり、天下国家を論じるようになる。自分は日本のためになにが出来るかという、思想によって動く人間が出てきた。

この思想の代表的な人物・事件等ってあるのでしょうか?それとも文化的な流れの一部ということでしょうか?これが倒幕に結構関わっているような気がします…

孝明天皇は幕府の支持者だったんですね。
とても参考になります。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/09/19 11:54

国外からは、開国してくれという要求がありました。

これを下手に拒むと植民地化されかねない。
しかし、国内はまだ当時の西洋列強とどれだけ武力の差があるかなんて知らないので、開国するなという要求が起こりました。これが攘夷です。

つまり、国外と国内の要求に板挟みになってしまい、思うように有効な手が打てず、国内の不満が一気に高まりました。これが、やがて倒幕へと繋がっていくのです。

この回答への補足

国外→開国要求があり
それに対しての、
国内→攘夷(開国反対…?)

この2つを上手くコントロールできなくなて江戸幕府は滅びた、ということでしょうか??

できましたらもう少し詳しくどのような経緯で江戸幕府の倒幕に至ったのか教えていただけないでしょうか?

よろしくお願いします。

補足日時:2007/09/19 11:36
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/09/19 11:42

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Q≪江戸幕府は、なぜ崩壊に向かったのか?≫

江戸幕府は、なぜ崩壊に向かったのですか?

詳しく、簡単に教えてください。

よろしくお願いします。^_^

Aベストアンサー

日本人独特の閉鎖主義が生み出したんだと思います。

江戸初期に鎖国をして貿易を出島に限定していた形式は間違っていないと思います。
しかし時代は流れているので、その流れを読むことが出来なかったのが、
平和ボケしていた江戸幕府でしょうね。

黒船襲来なんてのは、湾岸戦争時に自衛隊を出す出さないで揉めた政府と一緒では無いでしょうか?
開国すると幕府の法度が…などと言っていたと予想されるので。

いづれにせよ。流れとして開国は必要だったのです。
それが、外国によって

開国させられた

と言う受身の幕府に国民の不満は表面化しました。
※元々不満はあったが、言えなかった。

アヘン戦争の勃発です。
これが日本に大きな影響を与えた事は確かです。

日本にとって中国とは「先生」であり様々な文化を教えてくれた国です。
大きな中国が英仏に犯されていると知った時に、
やはり国内に憂いを抱く事が多かったはず。

倒幕で盛んに動いた薩摩長州なんてのは西国で長崎が近いのと、
もともと英仏蘭とも交流可能であったこと。

江戸はそういった情報が収集できなかったことかも知れません。
黒船の威嚇によっての開国ではなく、幕府自らの決断で開国していれば
また違った結果になったでしょうね。

となると、幕臣に有能な人間がいなかった、と思いがちですが、そうではないです。
小栗とか勝とか人材はいました。
いたからこそ、鳥羽伏見まで幕府は頑張れたのだと思います。

でも体制を変えられなかった。従来を重んじる文化が滅亡した原因でしょうね。
鎖国をしても幕府だけは海外情報を積極的に収集し、体制を変更し、
時代を読む動きをしていれば…と思いますが、そんなに易しい話では無いでしょう。で

崩壊すべくして崩壊した。新時代を作るために。
客観的に見て、あれだけキッチリした体制なら、変更も楽で無いです。

日本人独特の閉鎖主義が生み出したんだと思います。

江戸初期に鎖国をして貿易を出島に限定していた形式は間違っていないと思います。
しかし時代は流れているので、その流れを読むことが出来なかったのが、
平和ボケしていた江戸幕府でしょうね。

黒船襲来なんてのは、湾岸戦争時に自衛隊を出す出さないで揉めた政府と一緒では無いでしょうか?
開国すると幕府の法度が…などと言っていたと予想されるので。

いづれにせよ。流れとして開国は必要だったのです。
それが、外国によって

開国させられ...続きを読む

Q江戸幕府の終わり

ある本に「1867年10月14日、江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上しました。これをもって江戸時代は、終わりました。」と書かれていました。
 そして、ある本には、「1868年3月14日、公家や各藩の大名たちを京都御所に集め、天皇にかわって三条実美が、新しい政治の方針を示した五か条の御誓文を読み上げた。これをもって江戸時代は、終わりました。」とありました。
約半年の違いなのですが、歴史上、どの時点をもって江戸時代は、終わったと考えられているのでしょうか。
 大政奉還しても旧幕府の考え方を持った少数派がいて、幕府としての機能を果たしていたという考えの人もいました。いろいろな考えがあると思います。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

前者は江戸幕府の機能停止を、後者は新政府の活動開始を「象徴する出来事」があった日ですね。双方とも、それ自体がある程度の時間をかけて進展した歴史の経過なので、その日を境に突然江戸時代が明治時代になる決定的1日を想定するのは非現実的です。そんな日付は、入試に回答する場合を除けば、決める必要もありません。

しかし、一つの考え方として been の個人的意見を述べるならば、諸外国から見たわが国政府、つまり、国際法上の権力の所在で判断するのが客観的だと思います。国内の佐幕派残党の活動などは、権力移行の過程で生ずるよくある現象なので、時代の終り(始め)を画する重要な要素とはいえないでしょう。国際社会から見れば、江戸幕府の権力返上は国事について諸外国と交渉する地位を放棄したことを意味するので、これをもって江戸時代の終りと考えるのが比較的説得力があると思います。

Q徳川家はなぜ天皇家をつぶさなかったのか

徳川家はなぜ天皇家をつぶし、最高の権威を手に入れなかった

のでしょうか?

自分は徳川家が早い段階で天皇家を滅びさせていれば

明治維新は起きなかったのではないかと思っています。

徳川家は惜しいことをしたと思うのですが、やはり天皇家は

日本人にとって切っても切れない存在だったのでしょうか?

Aベストアンサー

ヨーロッパの王権神授説は有名ですが、中国でも漢民族の王朝の交代
に際しては、武力による旧王朝の打倒であれ家臣や姻族による簒奪で
あれ、タテマエだけでも禅譲という形式を取ったります。徳を失った
皇帝が徳のあるものに権力を譲るという「形式」ですね。イスラムは
宗教と王権が合体?していますね。前の方々も述べられているように、
要は、武力や経済力による実効支配だけではダメなんですね。

日本の場合、天皇からの権力の委任という形を取っているのが特徴で
すね。ですから、天皇家をつぶす為には、天皇に代わる権威(支配の
正統性)が必要なのです。徳川に限らず、結局のところ、力では圧倒
しても、天皇に代わる権威を見出せず、実行できなかったのだと思い
ます。

平家は都落ちに際し安徳天皇を拉致?しますが、京都には天皇家の家
長である後白河院が健在であったため、焼け石に水。
承久の乱では、北条義時が天皇家の家長である後鳥羽院の島流しを敢
行しますが、北条得宗専制ですらまだ始まってはおらず、あまりにも
時期尚早。天皇を頂点とする公家勢力・寺社勢力の息の根を止める以
前に、まだそれ以下の鎌倉「将軍」の権威で武士の統合が必要な時代。
元弘の乱の後醍醐天皇の配流と、建武新政崩壊後の南朝への攻略は、
持明院・北朝の存在を前提としたもので、天皇家抹殺の意図なし。
足利義満による皇位簒奪計画という学説もありますが、事実だとして
も未遂。
織田信長が将軍や関白などの官職を受ける意志がなかったとすれば、
どのように権威(支配の正統性)を樹立するつもりだったか、興味深い
ところ。信長自身の神格化?がそれという説も。
豊臣秀吉は天皇を中国に移し、自分はインド方面まで手を伸ばすつも
りだったとか。天皇を一国王としての地位に留め、その地位を保証す
る世界皇帝になることで、天皇を超えようとしたという説も。
で、本題の徳川家ですが‥
徳川家康の場合は、京都や大坂を掌中に置くのに時間がかかり過ぎ、
短期決戦できなかったのがネックでしょう。家光の代までに幕府も安
定し、禁中並公家諸法度などで従来の権門(公家・寺社)を幕府の法制
下に置き、武家官位と公家官位を分離するなど、色々と手は打ってい
るようですが‥
でも綱吉になると、生母桂昌院に従一位を貰って喜んでみたり‥
そうこうしているうちに将軍の継承問題、そして改革と挫折の連鎖の
時代となり、天皇家に構っている余力はない‥ 要は支配の正統性の
問題は、権力を握ったらすぐに手を打たないと、手遅れになるという
ことですね。

あと、蛇足ではありますが、源・平・藤原・豊臣などの「氏」が、
日本の場合天皇から与えられるという性格を持つという点も、天皇制
存続に関して何らかの意味を持つのかもしれません。平清盛・源頼朝
・平(北条)義時・源(足利)義満が姓を自分で決めて自称せず、織田信
長・徳川家康が源・平姓を名乗り、羽柴秀吉が豊臣姓を貰って喜んで
いるうちは、天皇の風下に甘んじるという一面を持ちます。もっとも、
姓を自分で決めて自称するとか、姓を捨てて天皇家と同じ無姓となる
という発想自体が、思考力の枠を超えるものでしょうけど。でも、信
長あたりは長生きしていたらやっていたかもしれないし‥

ヨーロッパの王権神授説は有名ですが、中国でも漢民族の王朝の交代
に際しては、武力による旧王朝の打倒であれ家臣や姻族による簒奪で
あれ、タテマエだけでも禅譲という形式を取ったります。徳を失った
皇帝が徳のあるものに権力を譲るという「形式」ですね。イスラムは
宗教と王権が合体?していますね。前の方々も述べられているように、
要は、武力や経済力による実効支配だけではダメなんですね。

日本の場合、天皇からの権力の委任という形を取っているのが特徴で
すね。ですから、天皇家をつぶす...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q江戸幕府が財政難な理由

天下をとった徳川がいつも財政難なのは何故でしょう?
金や米が必要ならいくらでも税金をかけられるし通貨も発行できるのに災害や飢饉でもないのに財政難になる理由がわかりません。
単に乱費でしょうか?

天下を取り損なった信長や徳川家より所領が少ない秀吉はこの財政難の幕府よりもっと財政難だったのでしょうか?

Aベストアンサー

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんでした。
幕閣のアリバイ工作にはなったでしょう。
一方江戸時代の中頃1730年前後から大阪で米の先物取引が始まっていました。
現在世界中で行われている商品先物取引は大阪が発祥の地です。
つまり現物取引と先物取引が現在と同様に混在して市中価格が決まっていました。
ただでさえ経済に疎い幕閣には到底理解ができなかったようです。
この程度の経済知識のレベルでの判断でやる市場介入ですから効果を期待する方が無茶でしょう。

ではなぜ制度的にやらなかったのか、という点については、いろいろ議論はあります。
幕府という組織はあくまでも軍事組織で、勘定方も戦費調達係のような位置づけではじまりました。
市場は全くの自由経済市場でした。
おそらく、室町時代からあった座という独占経済体制を織豊時代に破壊して楽市楽座という自由経済体制に移行させていた考え方がそのまま継承されて放置されてしまったためかと思います。
関ヶ原の戦も終わり100年程経ったころには、経済力は完全に町人の手に移ってしまっていました。
いわゆる元禄時代の到来です。
政治体制は戦国時代のままで、肝心の武家自身の日常生活は貨幣経済に飲み込まれていました。
この状態で、幕府による米の専売制度化は不可能に近い状態になっていました。
そもそも元禄時代直後の享保の改革などいう経済政策を行わなければならなくなったのは、家康時代にセッセと蓄えた資産を食いつぶしてしまった結果でした。
ロクに財源もないのに専売制は到底やれるものではありませんでした。

>インフレが起こっても米を売って現金に変える幕府には米価と他の商品との価格の比率が変わらなければ問題ないと思うのですが何か間違っていますでしょうか?
需要と供給の関係です。
一つは、大名連中は収入=米を増やすためにセッセと領内の新田開発を進めました。
年貢といいますのは、あくまでも村単位で課税されるもので現在の所得税にように個人単位のものではありませんでした。
村の中で誰が納めるのか、ということになり、当然大地主の裕福な農家が納めることになりました。
つまり一定規模以下の農家は無税でした。
この年貢を負担した農家を本百姓、無税の農家を水呑百姓と呼びました。水呑は正式な身分呼称として扱われた名称です。
大地主は租税負担を軽減するために実際に農作業に従事していた人達に田畑を小分けして割譲しました。
他人の田んぼと自分の田んぼでは労働意欲が違いますから自然に村全体の収穫量は増大していきました。
田畑の割譲は「たわけ!」と悪口に使われるほど武家は嫌って禁止もしましたが収まりませんでした。
禁止令がでていますが、それ以降の日付の割譲契約や売買契約の書状が沢山残っています
ということで米の供給量は年々増えていきました。
武家が米を現金に換えるのは大阪か江戸でした。
つまり、この二大都市では米は必然的に潤沢にありましたから米の相場価格は下がり続けました。
年ごとの作況による上下は当然ありました。
一方、衣住のほうは平和な時代ですからいくらでも需要がありました。
食も米以外の食材への需要もいくらでもありました。食材も贅沢になっていきました。
そもそも倹約令なるものが度々だされるのは、年々贅沢になっていき倹約令そのものに効果がなかった結果です。
インフレになれば即値上がりしました。
つまりインフレ効果は米価には影響が極めて少なかったとお考えください。
武家の収入は米だけですから、たちまち貧乏になってしまいます。

>何故大名は国元だとお金を使わないのでしょう?
まったく使わないのではなく江戸にいるよりも使わなくて済んだということです。
戦が無い時代の大名というのは、冠婚葬祭、節句行事などが最重要な仕事でした。
これに伴う贈答費用いわゆる慶弔費、交際費です。
年々派手になり半端な費用ではありませんでした。
しかも最も喜ばれるのが小判でした。
江戸時代の金貨である小判というのは、通貨であるとともに贈答用の景物という性格も持っていました。
大判は景物として最高のものでした。(むしろ通貨としては使われませんでした)
幕府もたびたび倹約しろ!といいますが幕閣自身が見栄の張り合いをやっていましたからどうにもなりません。
大名と呼ばれるお殿様は日常は一汁一采が普通でたまにつく魚も鰯か干物でした。
これが来客となるといわゆる大名料理がずらりと並びました。
形式第一主義社会を生きるのは大変です。
つまり国元に引っこんでいれば交際費はかかりません。
江戸城へ出かかるための行列をそろえる必要もありません。
形式見栄の時代ですから、喰うものを喰わなくても行列は飾りました。
食材も潤沢に現物が手に入ります。

蛇足
交易で得る金額などたかがしれていました。
木造帆船で運ぶ貨物量などたかが知れています。品物の価格もしれたものです。
100両のツボを1万個売ってもせいぜい100万両です。幕府や大名家の財政規模とは桁が違います。
秀吉の時代とは経済規模が違います。そもそも人口が違います。
交易で財政が潤うのであれば長崎での交易を独占していた幕府が財政難に陥る訳がありません。
薩摩島津家は500万両余の借金を抱えていました。
40年年賦払いなどとムチャクチャをやって明治時代も廃藩置県になるまで借金返済に走り回っていました。
金もろくに払わない薩摩の江戸藩邸に近寄る町人はいませんでした。

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんで...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q明治維新・倒幕の理由

明治維新をあまり知らないのですが、当時、倒幕のための戦いをしていた薩摩藩や長州藩の人達は大政奉還の後、明治政府の今で言う、総理大臣、経済産業大臣、厚生労働大臣などになったのですよね?
てことは単に力ずくで名誉が欲しかったので倒幕戦争を起こしたということでしょうか?
坂本竜馬だけがそのようなものに興味がなかったというのも聞きました。
わかる方よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>単に力ずくで名誉が欲しかったので倒幕戦争を起こしたということでしょうか?

基本的には、質問者さまの考えで正しいでしようね。
徳川家に対する積年の恨みを晴らすとか、低下した幕府を改革するとかは「後世に誕生した話」です。
江戸時代は、徳川家を盟主とする各藩の連合国家です。
各藩は、一種の独立国家ですね。
そうすると、力のある藩は「弱体化した幕府に代わって、政治を行ないたい」との考えが生じます。
その為には大義名分が必要ですから、天皇家が望む「攘夷」に便乗(当時の多くの藩は、攘夷は不可能と考えていました。明治新政府が、すばやく国際化を目指した事でも理解できます)したようです。

幕府を倒し、明治新政府が誕生しても、政府内では「出身藩毎に政争」が多かったようです。
これも、政府内での藩を基準とした主導権争いです。

>坂本竜馬だけがそのようなものに興味がなかったというのも聞きました。

竜馬の考えは、人材を藩の枠を超えて登用する事を考えていました。
この考えは、当時の倒幕派にとっては危険な思想でした。
特に、薩摩藩では怒りが心頭したようですよ。

竜馬暗殺犯人は?
幕府・新撰組又は関係者というのが定説ですね。
ですが、当時の(京)都で囁かれた説で「黒幕=薩摩藩」があります。
犯人は「チェストー」と叫び一太刀で竜馬を斬ったとの事。
チェストーは、薩摩示現流。示現流と言えば殺しの○次郎。○次郎といえば薩摩藩士で西郷ドンと盟友。
当時の神官・坊主の日記に記述があるそうですが、真相や如何に?

>単に力ずくで名誉が欲しかったので倒幕戦争を起こしたということでしょうか?

基本的には、質問者さまの考えで正しいでしようね。
徳川家に対する積年の恨みを晴らすとか、低下した幕府を改革するとかは「後世に誕生した話」です。
江戸時代は、徳川家を盟主とする各藩の連合国家です。
各藩は、一種の独立国家ですね。
そうすると、力のある藩は「弱体化した幕府に代わって、政治を行ないたい」との考えが生じます。
その為には大義名分が必要ですから、天皇家が望む「攘夷」に便乗(当時の多くの藩は...続きを読む

Q最初の天皇はなぜ誕生したのか?

初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?
神武天皇は、国王(日本で一番偉い人)みたいなものだったのですか?

Aベストアンサー

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

いずれにせよ『魏志』倭人伝などの記述から、卑弥呼が活躍する前後(3世紀)にあっては「倭国大乱」と評価できる内戦状態が、その規模は別として事実あったのでしょうね。もちろんその戦闘状態は天皇の出現と無関係であるとも思えないんです。その様な中、詳しい経緯はわかりませんが、倭国大乱と呼ばれる混沌とした戦乱の世にあって、統一的国家としてのヤマト政権を樹立するだけの武力ないし交渉力が、4世紀段階における天皇(大王)の祖先にあったことは疑う余地はないのかな?と思いますし、考古史料などが語る結果から帰納法的に糸を手繰りつつ明らかにしようと試みている、3世紀から4世紀にどのような経緯で歴史がつながるのか?といった問題は、識者はもとより僕に限らず古代史に興味を持つ者が一番知りたい部分なのです。

ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたの...続きを読む

Q徳川家が250年続いた理由

徳川家は江戸幕府を開いて、実に250年間もの間、権力の頂点に君臨し続けました。その以上に驚くことは、250年もの間、内戦が起きず平和状態を保ったことです。

よく、徳川繁栄の理由は「徳川家に害為すものは、どんな小さなものでも処理してきた。」と言われていまが本当なのですか? 具体的に徳川家は何をしてきたのでしょうか? 黒船が来るまで、敵対勢力がいなかったからでは無いでしょうか?

Aベストアンサー

体制が継続したということなら、世界には他にももっと長く続いたところがあります。
ヴェネツィア共和国 1000年間も続いています。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%84%E3%82%A3%E3%82%A2%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
他にも、スコットランド王国、デンマーク王国、トルコ帝国、ロシア帝国、李氏朝鮮、明国なども長いです。
 
日本の平安時代も江戸時代より長いし、奈良時代は同じ政権と考えればさらに少し長くなります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%8C%BA%E5%88%86%E8%A1%A8
徳川幕府だけが長いのではないでしょう。
 
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
鎌倉時代に北条家、平安時代に藤原家が、事実上政権運営し、トップは形式化したように、江戸時代中期には老中などが政権運営の中心になり、徳川将軍の親政ではなくなります。幼くして将軍になったり、病弱だったり、政治には関心がない人もいますから。
http://chie.yakudachidata.com/cpdata/cpi/irekisi/%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%80%80%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%B0%86%E8%BB%8D%E4%B8%80%E8%A6%A7%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E7%89%B9%E5%BE%B4/
http://biofantasy.fc2web.com/kikaku/shougun.html
こうした体制は、共和国的な面があります。 
さらに江戸時代は、一つの中央集権国家というよりは、幕藩体制と云われるように封建連合国家で、いわば小国分立の状態です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html
http://homepage1.nifty.com/saga-t/kappa/daimyou/daimyou-main.html
全国が10国に分かれている程度なら、1つの藩が勢力を蓄えて大望を懐いたり、幕政にクレームを出すこともあるでしょう。 しかし、藩は、ほとんどが狭く、経済力も小さなものに分けられています。その上、政略結婚による連合を阻止する禁制や城郭改修の自由なども奪っています。 他の回答者が指摘されているように、幕府は藩に参勤交代や大工事の負担も命じます。 各地方勢力は、地域内で生きるのが精一杯になります。 表向きでは幕閣が幕政を取り仕切っていますので、不満は、徳川家に向うではなくて、老中などの幕閣に向かってしまいます。
現代では、国家とは離れた位置にある行政府が政治をし、政党政治や議会制政治がされるので、不満は国家体制に向かうよりも、政権や政権政党や政党、議員や官僚などに向かっていきます。 江戸時代も少し似ていて、不満があったとしても、不満を向ける攻撃対象が拡散するような状態でもあったのです。 現将軍を倒す、徳川家を滅ぼす、徳川幕府を倒す、朝廷や天皇家を倒すというようなことは、発想面からも、考えにくいことだったと思います。 隣接した藩相互で利害対立はあっても武力攻撃すれば、取り潰しの憂き目に遭うことは必至なので、武力衝突ではなく幕閣の裁定に訴えるようになってしまいます。
現代世界で、領土拡大欲求から隣国に攻め入る、食糧危機を乗り越えるために隣国に攻め入るというようなことはおきにくいです。それをしたら、国際制裁とか第三国やアメリカなどが介入して目的を果たせないどころか、やられてしまうことがわかるからです。 江戸時代も似ていて、藩は他国を攻撃できない状態です。 
江戸時代でも、天草の乱、飢饉などで暴動、世直し一揆、打ち壊し、大塩平八郎の乱などは起きるのですが、一藩の力で静圧できそうもない危険があれば、近隣各藩や幕閣派遣の兵が鎮圧します。

天皇家、朝廷・摂政関白、将軍、幕府の老中
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%94%BF%E3%83%BB%E9%96%A2%E7%99%BD%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E6.B1.9F.E6.88.B8.E6.99.82.E4.BB.A3.E3.81.AE.E6.91.82.E9.96.A2
は形式化します。
 
一血統の縦の流れで家系を長期間維持することは現実には難しいので、徳川も天皇家もバトンタッチはします。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B0%8F#.E5.BE.B3.E5.B7.9D.E5.AE.97.E5.AE.B6
 
日本がアジアの東端で西側にしか隣国がないこと、隣国との間に海があることなど、大陸と近い九州北部には防衛体制を7世紀から固めていて、実戦歴も4回あり、開戦しても労多く損失も多く、実益が期待できる可能性と考え合わせざるを得ないことなども、日本が他国と戦闘状態にならなかった理由だと思われます。
19世紀以降ならば、火力、艦船、兵站など軍事力が著しく発達しますから、九州北部の防衛線だけでなんとかなる状態ではなくなりました。(現実に、日本各地に異国の艦船が来て騒ぎになります)明治にならなくても、徳川代の続きでも、対外戦争は始まったでしょう。(薩英戦争はおきました)
 
日本が他国と比較的長期に戦闘にならなかったのは、地理的環境(隣国関係、航海や貿易の広がりがまだ極東まで及んでいない)と軍事力の発達過程が中途半端だったという時代の問題でしょう。 
国内で内戦が激しくならなかったのは、明確で不動の元首が存在しない政治機構であったこと、幕藩体制で小藩分立させ、地域での勢力連合結成を妨げたる施策をとったことが基本で、各藩の経済力を削がせる施策がさらに効果を高めたためだと思います。

体制が継続したということなら、世界には他にももっと長く続いたところがあります。
ヴェネツィア共和国 1000年間も続いています。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%84%E3%82%A3%E3%82%A2%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
他にも、スコットランド王国、デンマーク王国、トルコ帝国、ロシア帝国、李氏朝鮮、明国なども長いです。
 
日本の平安時代も江戸時代より長いし、奈良時代は同じ政権と考えればさらに少し長くなります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8...続きを読む

Q豊臣家が一代で(二代で)滅亡した理由は?

タイトル通りです。

天下統一をはたした豊臣家は、何故事実上一代で滅んでしまったのでしょう?

秀吉びいきの父などは「正室に子どもができなかったからだ」などと言っているのですが、養子や側室の子どもが跡を継ぐなんてよくあることだと思うし、これが原因とはならない気がするのですが…。

私が考えたのは
・家康が際立って有能な上、際立って野望マンマンだったから。
・秀頼と淀君が無能だったから。

かなー。と思ったのですが、全く根拠はありません。感覚的な感想です。

歴史に詳しい方、詳細を教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

「秀吉が秀次を殺してしまった」これが豊臣政権にとって致命的であったという見解があります。

秀次の事績を詳しく見ると決して無能な人ではありません。秀次が1591年に関白となり、秀吉の後継者として認知されると、多くの大名が秀次に忠誠を誓い、秀次は無難に政務をこなしています。文化人としても及第レベルであったようです。逆に、秀次が無能であったとか人望がなかったという具体的な証拠(同時代史料)はありません。

伊達政宗、最上義光、細川忠興のような、関ヶ原の合戦以後まで見事に生き残った有能な大名たちが秀次と親密であったようです。秀次の人物の大きさが推定できます。

秀次が「殺生関白」と言われる奇行を繰り返したという話は、秀次を悪者にするための創作と見てよいと思います。また、秀次とその家族を地獄に突き落とした「秀吉の実子・秀頼の誕生」ですが、秀頼が本当に秀吉の子だったのかは極めて疑わしいと思いますね。これは私見ですが。

秀頼が登場せず、秀次が豊臣政権を確実に受け継いてから1598年に秀吉が死んだとします。史実では関ヶ原の合戦があった1600年に32歳となっている秀次は、まったく異議なく関白として国家運営を継続したでしょう。豊臣家の家臣に過ぎない徳川家康による政権奪取など、誰も夢想もしなかったはずです。家康は一人の大名として生涯を終えることとなったでしょう。

国力を浪費した朝鮮出兵は行われず、聚楽第の破壊、肥前名護屋城や伏見城の建設といった無駄な大工事も行われません。恐らく、16世紀最後の10年間の日本史はまったく違った平穏なものになったでしょう。

実子がなかった秀吉や弟の秀長と異なり、秀次には4人の男子の他何人も子供がいましたので、秀次の死後(1630年代?)に後継者を巡って世が乱れることもなかったでしょう。この時代、権力者の重要な仕事は「後継者を確実に作ってお家騒動を防ぐこと」ですから、秀次はこの点でも合格です。

家康は多くの男子を儲け、彼らが「御三家」といった形で別家を立てて徳川家の権力継承をサポートしました。秀次の多くの男子(史実で死んだ時点で4人、その後もどんどん生まれたはず)は、長男以外は別家を立てて豊臣家の柱石となります。秀次の娘たちは、有力な大名の正室となり、その大名家と豊臣家との関係を深めます。要するに、家康や秀忠がやったことを秀次がやるわけです。

ウィキペディア 豊臣秀次 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
秀次の子孫がずっと関白位を継承し、「江戸時代」ではなく「大坂時代」が17世紀後半から続く、という形になったと推定されます。

「秀吉が秀次を殺してしまった」これが豊臣政権にとって致命的であったという見解があります。

秀次の事績を詳しく見ると決して無能な人ではありません。秀次が1591年に関白となり、秀吉の後継者として認知されると、多くの大名が秀次に忠誠を誓い、秀次は無難に政務をこなしています。文化人としても及第レベルであったようです。逆に、秀次が無能であったとか人望がなかったという具体的な証拠(同時代史料)はありません。

伊達政宗、最上義光、細川忠興のような、関ヶ原の合戦以後まで見事に生き残った有...続きを読む


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