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今考えると有利だった日本が何故ミッドウェー海戦で負けたのでしょう
皆さんの理由を教えて下さい
また、自分だったらどうしたら勝っていたか教えて下さい

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A 回答 (10件)

そもそもミッドウエイ海戦を仕掛けたのは米軍空母を撃滅する目的であったはずです。

この空母は本来なら真珠湾で撃沈されているはずが山本長官の海戦時の戦争目的であったのを彼が南雲にその事を伝えていないばかりで、戦艦ばかりの撃沈で目的完了と空母索敵もせず引き上げてきたのがその後の海戦に大きなミスの繰り返しに繋がっていきます。まず最大のミスは人事であります。何故機動部隊の指揮官を航空機の指揮の経験のある人物を起用しなかったのか、勿論機動部隊を概念は出来たばかりで高官には砲術科や水雷科の連中ばかりで航空科には高官がいなかったこともあるだろうが、航空機で戦艦を撃沈する戦法は新しい戦法であったのであるから人事でも旧来の人事に囚われずに新人を抜擢していれば真珠湾攻撃の時に米軍が今後反撃に転じた時に再建に多くの時間をついやさなければならないぐらいに軍事施設や燃料タンクを破壊し、近海で訓練しているだろう空母の探査して空母同士の海戦が行われ、当時太平洋で保有していたアメリカの空母は壊滅していた可能性があります。この機会を逃したことを後悔して立案されたミッドウエイ海戦では
敵も警戒して準備している相手に挑むのであるから人事も作戦も思い切った方策を採るべき所を従来道理の考え方で機動部隊の指揮官を前の失敗にもこりず新しい人事にもせず機動部隊の運行も第一線に空母部隊を
配置して戦艦群を第二線に配置したばかりに空母部隊が航空攻撃の標的になり空母が壊滅的な損害を蒙ってしまう。もしこの配置を逆の戦艦群
を第一線に配置しておれば航空攻撃を戦艦群が受けたなら撃沈される前
に第二線の空母群からの援軍により対等の海戦になっていただろう。山本長官は世界を正確に観察いていたようではあるが、海軍内部では力が
発揮できず周りの従来の仕来りに飲み込まれてしまい自分の考えを部下にも充分伝達出来ずに戦死してしまった将軍であるようです。日本人の
欠点は非常時に従来の方式を大きく変える事が出来ない民族らしいがこのような時には独裁者でもでないかぎり思い切ったことが出来ないものです。
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あまり、指摘されることがないようですが、私は、指揮官(中でも


総指揮官の山本大将)が臆病風に吹かれたせいと考えています。
 なるほど、気の緩みや作戦上の誤判断、情報不備があり、それが空母4隻を失う直接の原因となったのでしょうが、同じような理由から思いがけずに緒戦に打撃を受けたことは、日露戦争の遼陽・旅順の戦い
など、数多くあったことです。ミッドウエーの場合と違うのは初期の
打撃を挽回しようとの気概をもっていたということです。。
 10時間近い後方にあったとはいえ、大戦艦群を擁し、空母もなお
2隻を残していた「主力部隊」が何故おめおめと逃げ帰ってきたのでしょうか。目的はミッドウエー島の占領だったはずです。
 何かの本で読みましたが、このとき山本大将は、回虫をわかして腹痛を起こし、戦意を喪失していたと考えられます。「後日を期す」とか「これ以上の消耗をしたくなかった・・・」とは逃げ口上で、体調不良にも影響を受けたか、臆病風に吹かれ、敢闘精神を失ったとしか思い
ようがありません。「最後の一艦まで戦う」決意で臨んでいたら、勝てたはずです。
 戦力においては劣勢だった米軍の方が、指揮官・兵ともにはるかに
勇敢に戦ったようです。山本大将のその前後の指揮振りを見ていると、随所に軟弱振りが目に付きます。
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この回答へのお礼

なるほど
山本大将は臆病風に吹かれていたのかもしれないのですね
貴重な意見ありがとうございます

お礼日時:2007/09/30 22:02

ミッドウェー海戦は、負けるべくして負けたと言うべきでしょう。


安易な機動部隊の使いまわしと慢心。
敗戦の原因はこれに尽きます。
昭和16年12月の開戦からミッドウェー海戦の17年6月まで、その正味6ヶ月の間にハワイから帰還したと思ったらインド洋へと休むこともも、整備を十分に行うことも出来ずにミッドウェーです。
準備も不十分、これで勝てたら奇跡です。
また、図上演習の際、実際の状況と同じ「空母3隻被弾」という判定が出たにもかかわらず、その判定を無かったことにする等、「1航艦が行けば勝利間違い無し」の思い込みが、結果として偵察の不徹底、情報秘匿の不徹底、戦力の分散等を招き、負けたのです。
しかし、連戦連勝で、冷静であるべき連合艦隊司令部を始めとして、日本全体が奢り高ぶっていたので、あの場面で誰が指揮を執っても同じでしょう。
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個別の戦闘には勝ち負けの必然はありません。


つまり米国はミッドウエーで負けていても、何時か勝てば良いという、プロ野球でマジックが点灯している状態なのに対して、戦力再生産の覚束ない日本は勝ち続けるしか無い状態だったのです。
ミッドウエーでの負ける確率が結果として偶々当たった訳で、「もしも」があれば勝敗が変わっていたかも知れませんが、負ける確率が4割でも4回続けて勝つ確率は1割ですから・・・。
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皆さんのご指摘ごもっともですが2~3指摘したい事がありますので参加します。



敗因は索敵の失敗に最大の原因があります。  レーダーを持たない日本海軍は目視に頼るしかなく、これには偵察機の高翼、低翼の影響はあまりありません。  ミッドウエーでは残存アメリカ空母の出現は覚悟の上でその為ミッドウエーの空軍基地を最初に攻撃したのですが十分な戦果が得られなかったので2次攻撃を決断したのがそもそもの誤りでした。
空母からの攻撃は搭載航空機の航続距離の関係である程度自らの位置を暴露するものです。
敵空母の所在が不明であるにもかかわらず索敵機を出しただけでその報告も未達なのにミッドウエー2次攻撃の決断をしたのが第2の誤判断です。

この為魚雷から陸用爆弾への変更が必要になり混乱を来しました。
大型陸用爆弾を搭載する攻撃機はもっとも後尾に位置している為、全部の航空機を一旦格納庫に下げる必要があります。
この為格納庫は燃料を満載し爆弾や弾薬を搭載した艦載機で一杯になります。 しかも取り外した魚雷やこれから搭載する陸用爆弾が転がっているのです。

空母の飛行甲板は防御能力は殆どありません。 
この状態でアメリカ急降下爆撃機の攻撃にあったのです。
航空攻撃をうけた艦船は避退行動をとるのが常識ですがこの為艦がかなり傾斜するので艦内の混乱を知る指揮官は躊躇せざるを得ません。
この為直進する空母は恰好な目標です。
アメリカ急降下爆撃機は350Kg爆弾を積み威力は日本軍の250Kg爆弾より大で飛行甲板に1,2発命中しても貫通し格納庫に達して火薬庫のような中で爆発したのです。  それで起こる誘爆と火災で空母は致命的な損害を受けました。

艦船による魚雷戦は目視出来る距離まで接近しなければ何の役にもたちません。

ミッドウエー海戦は不幸な誤判断の積み重ねで負けるべくして招いた敗北といえましょう。
戦艦群を先にすすめる事は航空攻撃だけで戦艦といえども撃沈されることが常識でありミッドウエーの中距離爆撃機ないし米空母の出撃を予想している場合自殺行為といえましょう。
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この回答へのお礼

たしかに自殺行為かもしれませんね
日本軍も楽勝だとおもったのが過ちでしたね

お礼日時:2007/09/30 22:04

どうもミッドウェイ海戦は真実が語られていない模様です。



関係者の話しと写真を見る限りでは雷爆転換は行われていない模様です。
魚雷という兵器はひじょうに高価な兵器でかつ一度に調整できる数は赤城・加賀で8本、蒼龍・飛龍で6本です。これは一度取り外すと調整に2時間ほど要します。そのため一度取り付けた魚雷を爆弾に取り替えるという行動はありえないそうです。
また、出撃直前の空襲といわれていますが、米軍のガンカメラに収められた各空母の甲板上に飛行機は並んでおりません。また蒼龍から飛び立った偵察機は空襲直後に飛龍に帰還しており、甲板上に何も無かったことを示しています。関係者の話しでも甲板上に飛行機があったら海に投棄して誘爆を防ぐのが常識、それが出来なかった状況にあったと考えるのが筋と言っておりました。加賀の乗組員は後ろ半分の甲板は吹き飛んでいたと語っております。

敗因はチャチな偵察計画(立案者は源田)と、偵察機の職務怠慢(筑摩一号機は敵機動部隊上空を通過している)と思われます。
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パールハーバーの真実 技術戦争としての日米海戦 PHP文庫 兵頭二十八/著


http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31624972

に、質問者様の疑問を解く情報が多く書かれていると思います。

ミッドウェー海戦で日本が4空母を喪失したのは
1. 「高高度から接近する敵急降下爆撃機を事前に発見できなかったから」
2. 「敵急降下爆撃機を爆弾投下前に撃墜できなかったから」
3. 「いち早く敵機動部隊を発見できなかったから」
4. 「敵機動部隊発見後、迅速に攻撃隊を準備して発信させられなかったから」
5. 「敵弾を受けた各空母が、攻撃準備中の飛行機の炎上、搭載した爆弾や魚雷の誘爆で消火不能の大火災を起こしたこと。飛行甲板に防御がなかったこと。密閉型格納庫のため、格納庫内の火災に対処する術がなかったこと」
といった理由があります。いずれも偶然ではなく、「システムの欠陥」があってのことです。

1)の主因は「レーダーがなかった」ことですが、ないならないで、高高度に艦攻や艦偵を滞空させて敵機の接近を監視することは可能でした。ただ、「空母機動部隊」というものを発案したのが日本であり、その戦術も「試行錯誤」の段階にあったわけですので、「高高度から接近する敵機をいち早く発見する手立てを講じなかった」ことを責めるのは酷です。

2)と4)の主因として
「零戦が空母直衛戦闘機として重大な欠陥を抱えていた。20ミリ機銃の弾薬数が少なく、すぐに撃ちつくして補給のために着艦することを要し、その度に飛行甲板をクリアーにしなければならなかった」
「上空直衛の零戦が低高度に集まっており、高高度からやってきた米軍急降下爆撃機を迎撃できる態勢の零戦が全くなかった。当時の戦闘機は上昇力に限度があり、高高度からやってきた米軍急降下爆撃機を迎撃するには、事前に高高度で待機していなければならなかった」

4)の原因としてはさらに「戦闘中の艦内で、魚雷を攻撃機に搭載すること自体が困難なことであった《上記の本に詳述。従来は知られていなかった史実です》。その上に、指揮の混乱による「魚雷→陸用爆弾→魚雷の再三の兵装転換」で時間を空費してしまった」

などなど、上記の本を読むと質問者様のミッドウェー海戦についての認識が大きく変わるはずです。題名が「パールハーバーの真実」となっているので誤解しやすいのですが、1942年の空母機動部隊を運用するのは非常に難しいことであったのが判るはずです。

「また、自分だったらどうしたら勝っていたか教えて下さい」

ミッドウェー作戦の際には、支作戦としてダッチハーバー攻撃を隼鷹、飛鷹の2隻の空母で行いました。このような無駄な作戦を止めます。隼鷹、飛鷹の2隻の空母に機動部隊直衛用の零戦と偵察用艦攻を積み、史実でミッドウェー作戦に参加した空母4隻は、攻撃専用に用います。そして、機動部隊の外周部の高高度に敵機発見のための艦攻(通信能力に優れ、爆弾や魚雷を積まなければ長時間滞空可能)を配し、かつ高高度に零戦を常時待機させます。隼鷹、飛鷹の2空母を「迎撃専用」に用いれば十分可能です。こうすれば、赤城以下の4空母は、迎撃用の零戦を発艦・着艦させる心配なく攻撃の準備に専念できます。(1)(2)(4)の問題がなくなれば、(5)の「攻撃隊を満載した状態で爆弾を受け、ガソリンに一斉に火がつき、爆弾と魚雷が次々に誘爆」と言う悲劇は避けられました。

また、日本の偵察機は、低翼構造のため、偵察に一番大事な下方視界が良くない(というより「下方視界がない」)という致命的な欠陥がありました。偵察が主任務の水偵は全て高翼構造(セスナのような構造)とします。可能ならば、偵察を主任務とする艦上機を高翼構造で作りたい所ですが。

零戦の「20ミリ機銃の携行弾数が少ない」という問題ですが、大口径のために弾薬が重く、多数は積めないと言う問題もあります。この「戦闘機搭載火器の問題」は上記の本で多くのページを割いて書いてありますので読んで下さい。
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一般的によく言われるのが[兵装転換]魚雷→爆弾→魚雷による一貫性に欠けていたことが指摘されています。



ただ、その前に海軍首脳部による図上演習などで、日本軍に都合のよい方向に考えすぎて、最悪のことを考えなかったのもミッドウェーでの敗北の大きな原因のようです。

ミッドウェー海戦ではよく南雲中将が現場の指揮官ということもあり、よく批判されていますが、近年では上記の理由もあり、連合艦隊司令部や機動部隊の参謀も批判されているようです。
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あくまで参考程度に聞いてください。



あの海戦は特別有利の戦闘では無いように思えます。
戦力はほぼ同じであり、なおかつアメリカは空母及び基地航空隊の両方を使えたことは大きいです。
またちゃんと数えたわけではありませんが、総飛行機数も恐らくアメリカ側の方が多いです。
零戦もF4Fに対して強いといえますが、珊瑚海海戦やそれ以後の海戦を見る限りでは別にF4Fが使えない戦闘機であったわけでなく、むしろかなり活躍していますので、零戦優位も海戦レベルで考えればあまり関係が無い。
搭乗員の錬度ですが、これは非常に微妙なのですが、どうも日本は開戦当初は言われているほどの高い連度は誇っていないようです。アメリカ側の方も微妙なのですが、戦闘を見る限りでは少なくてもそう劣っていたとは思えません。
また南雲中将の指揮も特別問題とは思えず、更迭されずそれ以後も機動部隊を指揮したように、常識的な指揮をしていたのでしょう。(最近南雲中将は本当に間違った判断をしていたのか疑問に思っています)

結論を言うなら、「あの程度戦力差なら別に負けてもおかしくない」と。
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こんにちは。


あの海戦は負ける選択肢の方が少なかった感じがします。

◎空母機動部隊だけ突出させないで全艦隊まとまってれば空母に被害が集中する事態はなかったと思われます。

◎空母機動部隊にミッドウェイ島基地と米機動部隊の両方を相手させる二正面作戦。最もやってはいけない作戦として常識的な物です。
最初に島の基地を爆撃したら、後は強力な戦艦部隊に島を任せてしまえば米機動部隊に集中できたでしょう。

◎よく言われる爆弾と魚雷の付け替え。
山口多聞少将の進言を容れてれば出遅れなかったでしょうね。
そもそも、水雷専門の南雲司令官が空母機動部隊の総指揮を取った事自体変だと思います。
空母が全滅した後、水雷戦をやりたかったけど駆逐艦を護衛や救助にまわしてしまうとそれが出来る戦力が無かったといいます。
なら最初から航空攻撃と併せて得意な水雷戦をしかければよかったのに。

◎巡洋艦利根のカタパルトが壊れたのは仕方が無いにしても、利根航空隊長自身が偵察飛行でミスしてますので、部隊全体に楽戦ムードがあったのかもしれません。

何より、強力な戦艦群を持ちながらあそばせていたのが不思議です。
あそこには大和も武蔵もいましたし。
動かない陸上基地を砲撃したらさぞすごい戦果になったと思わなかったのでしょうかね?
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Qミッドウェー海戦の敗因を教えて下さい

ミッドウェー海戦の敗因を教えて下さい。なぜあんなに強かった日本軍が負けてしまったのですか?理由を教えて下さい。ちなみに僕は戦史に関してはド素人ですので、その辺はご了承ください。

余談ですけど、先日新聞を読んでいたら「アベノミクス第三の矢はミッドウェー」とかいう記事が載っていて、要するに第一、第二の矢(経済政策)はうまくいったが問題は第三の矢で、これが日本の今後の経済趨勢を決するという内容でした。

それで僕は、緒戦の快進撃から一転、大敗北を喫したミッドウェー海戦の敗因とやらをどうしても知りたくなった次第です。

Aベストアンサー

○日本には防衛研修所戦史室 (現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)が編纂した「戦史叢書」という全102巻にも及ぶ太平洋戦争について書かれた公刊戦史がありまして、ミッドウェー海戦について書かれたものは、その第43巻が「ミッドウェー海戦」として出されています。
「戦史叢書ミッドウェー海戦」・・・市立や県立図書館でも置いてるところは結構あります。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E6%B5%B7%E6%88%A6-1971%E5%B9%B4-%E6%88%A6%E5%8F%B2%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E9%98%B2%E8%A1%9B%E5%BA%81%E9%98%B2%E8%A1%9B%E7%A0%94%E4%BF%AE%E6%89%80%E6%88%A6%E5%8F%B2%E5%AE%A4/dp/B000J9GX1M

この本によると次の6項目が大きな日本軍の敗因として取り上げられています。

(1)情報戦の大敗。日本海軍の暗号が解読され、米軍は日本軍の計画を察知していたのに、日本軍は敵情がよくわかっていなかった。

(2)心のゆるみ。開戦以来の戦果から心にゆるみが生じ、作戦の計画と実行に慎重さを欠いた。

(3)山本長官の出撃。山本長官が戦艦に座乗して出撃したので、その位置を秘匿するため、無線の使用が制限され、作戦指導に支障を生じた。

(4)航空戦様相の事前研究、訓練の不足。索敵、偵察、報告などの地道な訓練及び、空母の被害局限対策の研究が足りなかった。

(5)5日の航空決戦の指導の誤り。二度の兵装転換によって弱点を作った。

(6)戦艦主兵思想の転換の不十分。戦艦部隊が後方遠く離れて航空決戦に寄与できなかった。


○ちなみに当時、敵であったニミッツ太平洋艦隊司令長官は戦後に出した著書の中で、「勝利は主として情報による。・・・日本軍は奇襲を試みようとして日本軍自体が奇襲された」と述べています。また日本軍が空母戦力を分散してアリューシャン作戦を行った事を批判し、その戦力分散が無ければ米艦隊が敗北していた可能性があると述べています。

○なお、アメリカ海軍公刊戦史を編纂したサミュエル・エリオット・モリソン少将はミッドウェー海戦について、日本の空母が最も脆弱な状態の時に、米爆撃隊が偶然に日本の空母を発見し攻撃できたという、幸運に恵まれた事から「100秒足らずの時間に起こった事実の相違で、日本軍はミッドウェイに勝ち、太平洋戦争にも勝利をおさめたかもしれない」と日本軍にも勝利の可能性が十分あったことを述べています。

○英国の著名な戦史家リデルハートはその著書で日本の敗因について、十分な数の索敵機を出さなかったこと、戦闘機の援護不足、空母の防火対策が不十分、空母での兵装転換時に敵に向かって航行したこと等、他にも色々指摘していますが、最後は「・・・これらの過失は自信過剰から生じたと言っても過言ではない」と述べており、日本軍の「自信過剰」を問題視しています。

○日本には防衛研修所戦史室 (現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)が編纂した「戦史叢書」という全102巻にも及ぶ太平洋戦争について書かれた公刊戦史がありまして、ミッドウェー海戦について書かれたものは、その第43巻が「ミッドウェー海戦」として出されています。
「戦史叢書ミッドウェー海戦」・・・市立や県立図書館でも置いてるところは結構あります。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E6%B5%B7%E6%88%A6-1971%E5%B9%B4-%E6%88%A6%E5%8F%B2%E5%8F%A2%E6%9...続きを読む

Q小学生でもわかる第二次世界大戦の流れ

小学生と、知的障害がある中学生に第二次世界大戦のことについて
説明してほしいと頼まれましたが、しゃべった内容が難しかったのか
ぽかーんとされてしまいました。自分が完ぺきに理解しているというわけでもないので
説明しながら自分でもわからなくなってしまいました。

そこで、子どもにも簡単に説明できるような第二次世界大戦の
開戦きのっかけ、流れ、終戦、状況などをとても簡単に教えてください。
お願いします。
一時間以内で話せたらいいかなあと思っています。

Aベストアンサー

 こういうのでどうでしょうか?

(1) 世界は3つのグループがあった。
 A)アメリカやイギリスなどお金持ちの強い国。
  Cグループの弱い国を支配していた。

 B)日本・ドイツなど貧しくて強くなりたかった国。
  AグループからCの国を奪おうとして戦争を起こした。

 C)AグループやBグループに支配されていじめられて
  いたので支配から逃れようと運動をおこしていた。

(2) 開戦

 ・日本は朝鮮や台湾・中国の北部を支配していた。
  中国全部を支配しようと戦争を始めていたが、アメリカ
  やイギリスが邪魔をしたのでそれら強国との大戦争に
  なった。
 ・ドイツも同じく周りの国々を軍隊の力で支配し、
  アメリカやイギリスと大戦争になった。
 ・強国に支配されていた国々は日本やドイツのやりかた
  が酷かったので日本やドイツと戦いを始めた。

(3) 流れ

 ・日本とドイツの戦争のしかたは奇襲といって相手が
  油断しているときに突然襲う戦い。だから初めは
  勝つけれど、より強いAグループが本気を出すと
  日本・ドイツは負けていく。そして支配の仕方が
  酷いので支配された国の人から恨みをかい日本と
  ドイツは大敗する。

(4) 終戦
 ・負けることがわかっても日本だけ戦いつづけた。
  理由は天皇を守るためということだった。
  戦いが続く中、アメリカは原爆という大きな爆弾を
  日本の広島と長崎に落として日本は降参した。

(5) 状況

 ・この大戦争は初めは強国どうしのよその国を奪い合う
  喧嘩だった。けれど日本やドイツが少人数の偉い人の
  命令をみんなは文句を言わず聞け、一人一人の事より
  国=偉い人のほうが大事なんだという考え方と、一人
  一人の事を大切にする考え方に賛成する国々との戦い
  となり、最後は日本と80の国々との戦いとなった。

 ごめんなさい。やはり難しいですね。でもこれを下敷きに

もっとお話し的に変えたらどうでしょう?

 

 こういうのでどうでしょうか?

(1) 世界は3つのグループがあった。
 A)アメリカやイギリスなどお金持ちの強い国。
  Cグループの弱い国を支配していた。

 B)日本・ドイツなど貧しくて強くなりたかった国。
  AグループからCの国を奪おうとして戦争を起こした。

 C)AグループやBグループに支配されていじめられて
  いたので支配から逃れようと運動をおこしていた。

(2) 開戦

 ・日本は朝鮮や台湾・中国の北部を支配していた。
  中国全部を支配しようと戦争を始めていたが、アメ...続きを読む

Qなぜ真珠湾に米軍空母がいなかったのですか?

なぜ真珠湾に米軍空母がいなかったのですか?

僕は死ぬほど歴史が苦手で、ろくに勉強してこなかったことを後悔しています。

最近知ったのですが、真珠湾攻撃に参加した零戦パイロットの原田要(はらだかなめ)氏(97)は、真珠湾に米軍空母はいなかったと証言しています。

なぜ真珠湾に米軍空母がいなかったのですか?偶然にしては出来すぎではありませんか?

Aベストアンサー

太平洋には3隻しか航空母艦がいませんでした。これはドイツの海軍が大西洋で活動を激化させたのと、英国への武器援助法などのほうが重要だったので、大西洋に重点的に空母を配置したからです。

太平洋にいた空母ですが、サラトガは、サンディエゴで整備をしていました。攻撃後、あわてて真珠湾に進出しましたが1月12日に真珠湾の近くで日本の潜水艦から魚雷を撃ち込まれて大損害をだし、またもや本土のブレマートンで修理する羽目となりました。

同じ型式のレキシントンは、ミッドウェイに飛行機運んでいました。

エンタープライズは、ウェーク島に飛行機を運んでいた帰りに母港の真珠湾が襲われたので、日本艦隊を1隻で探していましたが空振りであります。6隻もいる空母機動部隊に一隻で立ち向かうのですから、温存どころか無謀に近い勇気があるものだと感心します。

航空母艦は英語でCarrier 単なるキャリアーです。文字通り飛行機運びをしていたわけですね。で、戦艦は大事に要塞地帯である真珠湾に温存されていました。

空母が温存、どころか、飛行機運びと修理していただけでです。運んでいただけですから攻撃能力もありません。

空母しか残らなかったので、空母でしか初期の戦争行動ができなかったのが真相で、珊瑚海ではレキシントンまで沈められてしまうし、ミッドウェイでは1隻が半分こわれた状態で使われています。

情勢はガダルカナルが終わるまでアメリカにとって決して楽ではありません。

陰謀とか空母を温存しておいたというウソがこの時代になっても大手をふって出てくるということこそ、歴史を学ぶ上でひっかかってはいけないホラ、都市伝説でしかないことを、見抜けるようになってください。

その証拠に、陰謀を言い立てる人は、証拠を出すことができません。ネタとしても、もう賞味期限切れでしょう。

太平洋には3隻しか航空母艦がいませんでした。これはドイツの海軍が大西洋で活動を激化させたのと、英国への武器援助法などのほうが重要だったので、大西洋に重点的に空母を配置したからです。

太平洋にいた空母ですが、サラトガは、サンディエゴで整備をしていました。攻撃後、あわてて真珠湾に進出しましたが1月12日に真珠湾の近くで日本の潜水艦から魚雷を撃ち込まれて大損害をだし、またもや本土のブレマートンで修理する羽目となりました。

同じ型式のレキシントンは、ミッドウェイに飛行機運んでいました...続きを読む

Q四式戦闘機、五式戦闘機、紫電改どれが最強だと思いますか?

四式戦闘機(疾風)、五式戦闘機、紫電改どれが最強だと思いますか?私は急降下速度と20ミリ機銃胴体装備の点で五式だと思うのですが・・・

Aベストアンサー

私の持っている本に、No.3の答えの記載とおなじで、「戦後の米軍の調査で日本の陸海軍戦闘機中で四式戦(疾風)が最優秀と評価された」と書かれています。
五式戦、紫電改の生産機数がそれぞれ約400機に対し、四式戦は約3300機と多く、実戦を経て改良が良くなされている為と思われます。
性能的にはたいした差はないでしょう。

Q太平洋戦争の原因について

自分は今まで太平洋戦争の原因は
日本が満洲や朝鮮を植民地にし、その結果アメリカと戦争になり
戦争の原因は日本が悪いと思っていました。
しかし、ある時下のリンクにある内容を読み
どちらが悪いかわからなくなりました。

本当の戦争の原因は一体何だったんでしょうか?

詳しい回答お願いします。


http://www1.toptower.ne.jp/~katumata/sub514.html

Aベストアンサー

☆一言で言うとアメリカは、その矛先を…つまり、市場確保や権益確保の矛先として、終始一貫して中国を狙っていた。
 幕末から、ず~~っとね。
 それを日本が独占しちゃったから、アメリカは”いずれ日本は叩き潰さねばならない!”と決意していた。
 結果、太平洋戦争が勃発した。

 以下に歴史的詳細を書き記す。

 幕末にペリー来航す。
 目的は、建前的には、捕鯨船の為、寄港地として、そして燃料補給地としての日本の港の開放にあった。
 しかし、本音は、巨大な人口を要する中国市場(常に、歴史上世界人口の5分の1を占める巨大市場)と貿易するための中継基地として、日本の港の開放を欲した。

 当初、アメリカはそうあからさまに日本を植民地化しようとは考えては居なかったようである。
 ただ、そんな考えは状況次第では、いくらでも変わるであろう。
 当時は何と言っても帝国主義の全盛時代だったのだから…。

 でも、その後アメリカでは南北戦争が勃発して国外に眼を向ける余裕がなくなった。

 で、話しを日本に戻す。
 幕末から明治にかけて、日本は欧米列強の脅威にさらされていた。
 植民地になっても全然おかしくはなかった。
 特に、ロシアとイギリスの脅威はやばかったと考える。
 ただ、当時のアジアの情勢が日本にとって、吉と出た。
その1:インドにてセポイの反乱が発生す。
その2:中国にて太平天国の乱が発生す。
いずれも鎮圧に多くの時間と兵力と資金を消費した。
これを踏まえて、イギリスは、アジア人を安易に植民地化すると思わぬしっぺ返しを食らうと言う経験を得た。
 又、イギリスは薩英戦争によって、思ったより日本(と言うより、正確には薩摩藩)は手ごわいと言う事を理解した。
(未だに、イギリスの海軍の記録書の中において、薩英戦争は大英帝国海軍にとり、恥辱的海戦であると位置づけている)
 アングロサクソン人(イギリス人やアメリカ人)は、手ごわい相手に対しては、結構評価するのである。
 アングロサクソン人は、まず1発殴ってみる。
 弱かったら、それまで!
 で、結構強かったら…

“なかなかやるじゃないか!日本人も!!”、と……
 と、相手を評価するのです。

 これにより、イギリスは、日本の事をあまり、強くでるよりも味方につけた方が良いと考えるようになっていきました(自国の国益に反しない限りは…)。
 それに、日本よりは、はるかに中国やインドの方が、うま味が大きかったのでそちらを優先した経緯もあります。

 又、1900年頃に中国にて勃発した義和団の乱にても規律正しい日本軍を高く評価して、その流れも踏まえて1902年の日英同盟へと発展していきました。

 もう一つの強国ロシアが残っております。
 ロシアは一貫して南下政策をとっておりました。
 理由は不凍港の領地が欲しいと言う一種の病的なまでの本能ともいえる国策にそった結果、ロシアは中国東北部(後の満州国方面)、そして朝鮮半島に徐々に勢力を浸透させつつありました。
 
 奇跡の明治維新を成し遂げた日本ではありますが、国力はまだまだ未熟です。
 又、国防上、朝鮮半島方面の安定化は必要不可欠です。
 最低でも日本にとり、中立の勢力が支配している事、あわよくば、日本の勢力圏に収めるのが国防上望ましい環境です。
(現在の北朝鮮の情勢を鑑みれば、如何に半島方面の安定化は必要不可欠であるかは、理解できると思う)

 で、朝鮮は歴史的に中国を宗主国としてあがめてきた国(地域)です。
 また、中国もそれを自負していた。

 本来であれば、日本・朝鮮・中国が一致団結して欧米列強に対抗できればよかったのですが、ダメでした。
 当初は日本もそういう考えの政治家もいたのですが、その朝鮮・中国(清)が全然当てにならない。
 朝鮮・中国ともに近代化しようと言う気配すらなかった。
 これにより日本は単独にて自主独立の道を選択したのであった。
 当時は帝国主義の真っ只中です。
 国力が未熟なまま、座して欧米列強の植民地になってしまうか?
 あるいは、悪い事とは知りながらも敢えて国力増強の為、欧米列強と同様の手法をとり、植民地(朝鮮や中国方面)を獲得するか?
 史実において、日本は後者を選び、帝国主義の道を進みました。

 話しを戻します。
 以上の如く、朝鮮の権益を巡って、日本と清は衝突しました。
 俗に言う日清戦争(1894~1895年)です。
 これに勝利した日本ではありましたら、次なる大国がいよいよ登場しました。
 ロシアです。
 1900年頃のロシアは世界一の陸軍兵力を保持する。
 海軍もイギリスに次ぐ世界第二位の戦力を保持していた。
 
 そのロシアがいよいよ、朝鮮・満州方面に勢力を伸ばし始めた。
 慌てたのが、日本です。
 清との戦争で勝利したのもつかのま、直ちに、ロシアがドイツ・フランスと共に三国干渉をしてきました。
 やむなく、日本は承諾して遼東半島を清に返還する。
 しかし、あろうことか、その遼東半島の一部をロシアが租借する。
 日本としても、たまらなかったでしょう。

 ただ、ロシアの中国進攻を問題視していたのは、日本だけではありません。
 イギリスも懸念しておりました。
 当時イギリスは中国方面のみならず、アフガニスタン方面でもロシアの南下政策に頭を悩ませておりました。
 そこで、せめて極東方面だけでも何とかしたい。
 そうだ日本と手を組んでロシアの南下を阻止しよう。
 そして、中国に於けるイギリスの権益を保持しよう!
 と考えた。

 そして、もう一つの国も同様にロシアの中国への南下政策を阻止したく考えていた。
 そう、彼のアメリカです。
 アメリカは、幕末から終始一貫して中国への進出を狙っていた。
(その証拠に、後の中国の“門戸開放”を列強に対して主張した位ですから…もっとも、どの列強も耳を貸さなかったですけど…)

 アメリカとしては、上手く日本を利用してロシアの中国への南下を押さえようと考えた。
 アメリカから見たら、広大な領地を持ち世界レベルで影響を与えるロシアよりかは、せいぜい東アジアレベルへの影響力しか保持しえない日本の方が御し易いと判断していたのであった。

 結果、日露戦争(1904年~1905年)にてかろうじて辛勝した日本はようやく、明治からの国家戦略上の目的、即ち安全保障上の観点からどうしても欲していた朝鮮半島への優越的地位の確立に成功する(特に、ロシアに対して)。
 
 アメリカとしても、朝鮮半島までは日本が支配することを容認していた。
 桂―タフト協定にて、日本が朝鮮を支配する事とアメリカがフィリピンを支配する事を相互に承認する協定を締結した。
 
 イギリスも日本が朝鮮を支配する事を容認するかわりにイギリスがインドを支配する事を容認する条約を締結した。

 フランスとも互いに“ベトナムー朝鮮”の相互支配を承認しあった。

 ロシアに関しては、日露戦争に敗北した事により、朝鮮はおろか、中国東北部から、大きくその勢力を後退せざるをえなかった。

 ただ、ここから、日本とアメリカの関係がぎくしゃくし始める。
 アメリカとしては、中国方面に経済的に進出して経済的利益を得たいと考えていた。
 一方の日本は、日清戦争・日露戦争という二つの大きな戦争を経て多くの兵の犠牲の上に、ようやく獲得した中国東北部の権益を独占したいと考えるようになった。
 現に、満州鉄道問題にていったんは、アメリカの富豪(企業)に鉄道敷設の権利を与えると言いながら、土壇場でキャンセルして日本は権益の独占を図った。
 これに対して、アメリカは反発した。

 次なる、ターニングポイントは第一次世界大戦です。
 アメリカを除く列強は欧州での戦争に集中せざるをえなくなった。
 この状況下にて、日本は火事場泥棒的に中国に於ける権益拡大に走った。
 世に言う“対華21か条の要求”です。
 これに対して、アメリカと同盟国であるイギリスは日本に対して不信感を募らせた。
 特に、イギリスは“中国における自国の権益が脅かされるかもしれない…加えて、日本はわが国からの要請である重巡洋艦(金剛クラスといい、当時の世界水準から見てとても強力が軍艦であった)を地中海方面に援軍として派遣して欲しいと頼んだのに、駆逐艦を派遣して誤魔化した。日露戦争の時には、さんざん日本のためにロシアのバルチック艦隊が日本海へ遠征するときの寄港地を制限したり、スエズ運河を渡航禁止にしてバルチック艦隊を疲弊せしめて、日本海海戦の影の支援者として助けてやったのに…。これならば、日本はあまり頼りになりそうもない。ならばいっその事アメリカと組んだ方が国益に沿うな”
 と考え始めたのです。
 アメリカも当時締結されていた日英同盟をひどくやっかんでおりました。
 何とか破棄させようともくろんでおりました。
 結果として、第一次大戦後のワシントン条約の軍縮の流れの中、日英同盟をどさくさに紛れて解消させました。

 日本の運気は、この日英同盟の解消以降確実に下がっていきました。

 ちょっと先に、第二次世界大戦の二大遠因について述べておきます。

1、多額賠償金による国の疲弊(ドイツが該当する)。
2、世界恐慌(1929年)の発生に伴う、ブロック経済化。(日本・ドイツ・イタリアが、これにより疲弊する)

ブロック経済化とは…世界恐慌に対処するべく列強は、それぞれ独自の勢力圏を設定した。
勢力圏を設定することにより、その他の国からの輸出入品に莫大な関税を掛けて、その他の国を締め出す。

アメリカ:南アメリカ大陸と北アメリカ大陸を勢力圏と設定。
イギリス:広大な植民地(アフリカやインド・オーストラリアなどの英連邦など)に設定
フランス:自前の植民地(アフリカやベトナムなど)と東欧を勢力圏に収めて設定した。
ソ連:広大な領地があったので賄えた。又、5ヵ年計画の真っ最中にて殆ど世界恐慌の影響を受けなかった。

 以上は、何とか自前にて必要なもの(石油とかゴムとか鉄鉱石とか)を自国の設定した勢力圏にて賄えた列強である。
 これらを持てる国と言う。
 一方、残った列強はどうなったか…
 
ドイツ:ようやく賠償金による国内不況から脱しつつあったその矢先に世界恐慌の洗礼を受けて、どうしょうもなくなった。
イタリア:殆ど植民地をもっておらず、また自前で賄えそうな資源にも恵まれていなかった。
日本:言わずとしれた無資源国です。
外国に商品(せいぜい生糸製品ですが)を売って、外貨を稼いで世界恐慌による経済打撃を立て直そうとするも、どこもブロック経済化していて高関税にて売却できない。
 じゃあ、どうするどうする…仕方ない。中国方面を日本の勢力圏に収めて他国と同様に中国を含めたブロック経済化して少しでもこの難局を乗り切ろう。
 そう考えた日本は中国に対して日本製品を優先して買うように求めるが、中国は拒否する(まあ、当然ですね^^;)。
 
 ならば、…とばかりに死中に活を見出そうと中国方面への軍事的進攻を目指した。(日華事変の発生…後の日中戦争へと発展した)

 これに強行に“待った”を掛けたのが、アメリカです。
 アメリカは、虎視眈々と中国市場への参入を狙っていた。
 これに対して、まずはロシアが邪魔となった。
 よって、日本を上手く使用してロシアの勢力を駆逐することに成功する。
 しかし、今度は日本がその勢力を中国に伸張し始めてしまった。
 で、それ以降は、日本の存在を邪魔に思うようになった。

 ドイツやイタリアも日本同様に世界恐慌の荒波に飲み込まれてしまい経済的に抜き差しなら無くなってしまった。
 
 それで、ドイツやイタリアは全体主義にて国難を乗り越えていこうと判断した。
 日本も同様に全体主義にて対応した。

 自国の経済ブロックの拡大を目指して日独伊は勢力拡大に乗り出した。
 ドイツは中欧(オーストリア方面)や東欧へ
 イタリアはエチオピア併合
 日本は中国(満州方面)への進攻

 これら3国は近代経済を支える原油・鉄鉱石・ボーキサイト(アルミの原料)などを産出する地域を殆ど有していなかった。
 自国経済の破綻を回避するべく、やむなく対外侵略の手段に訴える事となった。
 
 アメリカ・イギリス・ソ連は殆ど自分の勢力圏にてこれら原料を確保できる“持てる国”だったのに対して日本・ドイツ・イタリアは“持たざる国”だったのである。

 ただ、既に世界の勢力圏の割り当てはほぼ決定していた。
 いずれの地域もどこか列強の勢力圏だったのである。
 そうなると、持たざる国が国益確保の為に進出しようとすると十中八九既得権益を要するその他の列強(持てる国)と衝突するのが必至であった。
(数少ない空白地といえるのが中国であった。この中国も列強が侵出して半ば半植民地状態であったのだが…)


即ち、第二次世界大戦は持たざる国が持てる国に対して起死回生の一手として、戦争と言う手段に訴えたのが実情である。

で、1939年に第二次世界大戦の勃発。
破竹の進撃を続けるドイツに対して、連合国の一つであるフランスは開戦からわずか、1ヶ月で降伏する。
オランダも本土を占領されてかろうじて亡命政権がイギリス本土にて落ち延びる。
 イギリスは、かろうじて海軍力にて勝っているのでイギリス本土上陸を阻止しているが連日深夜のロンドン爆撃に痛めつけられていた。
 同時に有名なドイツ海軍のUボートにより商船を沈められ、本土補給線をズタズタにされて青息吐息の状態であった。
 イギリスのチャーチル首相は残っていた大国アメリカの大統領ルーズベルトに助けを求めた。
 
 アメリカとしても、もともとの故郷(出身地)と言う思いのあるヨーロッパがナチスドイツの支配下に収まることをよしとは考えなかった。
 又、ドイツ国内においては、有名なユダヤ人虐殺が始まった。
 当時、アメリカの政財界においてじょじょにその勢力を広めつつあったのがユダヤ人であった。
 ユダヤ人たちは何とかヨーロッパの同胞を助けようと考えた。
 アメリカ大統領ルーズベルトも本来、植民地であったアメリカが宗主国イギリスを始めとしたヨーロッパに救世主の如く颯爽と登場してヨーロッパをナチスドイツの手から開放するという設定に強くひかれていた。
 
 ただ、アメリカ大統領ルーズベルトは選挙公約として“アメリカ市民の皆さんやその息子さんを戦場に送らない事”を公約して3選を果たせたという経緯から、アメリカから先立ってドイツに対して開戦するという選択肢を持ち合わせていなかった。
 何とか、ドイツから先にアメリカに先制攻撃させたかったのである。
 しかし、ドイツも第1次世界大戦の苦い経験から工業大国のアメリカの参戦により敗北したという経験から、幾らアメリカがドイツを挑発しても先制攻撃しようとはしなかったのである。

 このとき、アメリカは気づいた…そうだ日本とドイツは同盟関係にある。
 日本を挑発して日本を追い詰めて日本に先制攻撃させたらドイツは三国同盟の関係からドイツもアメリカに参戦してくる。
 そうなれば、アメリカは正々堂々とドイツを攻撃できる。
 そして、ドイツと日本を倒したら戦後の覇者は我がアメリカとなる。
 中国・そして、ヨーロッパを新たにアメリカの勢力圏に収められる!と……

(それに、ルーズベルト大統領は反日本・親中国だったので、なお更、日本たたきに走ったのであった。
 ただ、補足説明しておくと、アメリカとしてもあまり日本を追い詰めようとは考えていなかったフシも見受けられる。
 しかし、日米激突が必至となったターニングポイントは1940年の日本によるフランス領土インドシナへの侵攻からであった。
 日本としては当時ナチスドイツの傀儡政権であったといて、ヴィシー政権から承諾を得てのインドシナへの進攻であったが、これがアメリカの逆鱗に触れた。
 インドシナとアメリカの植民地フィリピンとは眼と鼻の先である。
 このままではアメリカの国益が侵害される。日本を止めねばならない。とアメリカは考えた)

当時の日本は近代国を支える石油や鉄鉱石代わりにくず鉄をアメリカから輸入していた。
それの輸出をアメリカは止めた。
近代工業国家にとって、原油は必須である。
あいにくと、当時の日本の勢力圏(日本本土・朝鮮・満州)には、原油産出地がなかった。
(戦後、満州方面にて原油の産出地が見つかるが当時は発見できていなかった)
 で、アメリカは、日本に最後通牒、いわゆるハル-ノートの受諾を迫った。

1、日独伊三国同盟の破棄
2、フランス領土インドシナからの撤退
3、中国からの撤退。
大きな要素はこの3つです。
日本にとり、一番障害となった条件は3の中国からの撤退でした。
上述の如く、世界のブロック経済化からの不況から脱出する為にやむなく中国に進出した日本であったが、その中国から撤退してしまっては、経済的に立ち行かなくなる。
 特に満州国からの撤退は日清戦争・日露戦争と言う多くの日本兵士の犠牲の上に獲得しえた既得権益と日本の陸軍の中枢は考えていたのでどうしてもその要求を呑む事ができなかった。
 アメリカとしても、中国の国民党の蒋介石の顔を立ててあえて中国からの撤退の条件の中に満州国からの撤退も含めるかどうかについて曖昧にしていたようである。
 場合によっては、満州国からの撤退は別と捉えていたフシもあるが、日本の中枢は少なくとも中国からの撤退とは満州国も含むと判断した。

 原油がなくては日本国内も工場も停止してしまう。
 それまでは、対米避戦を考えていた日本海軍も(このままでは海軍の軍艦を動かせる石油の備蓄が1年半~2年でなくなる!と切羽詰って)次第に対米戦もやむなしと考え始める海軍の実力者も出始めた。

 こと、ここに至って日本は対米戦もやむなしと判断して太平洋戦争への突入していった。
 
 1941年の太平洋戦争の直前となっては、もうアメリカは対日本戦をやる気、満々だったので幾ら日本が外交上譲歩しても戦争は不可避だったでしょう。

 それこそ、日本がハルノートを受諾して中国から撤退して、日本の国民が何千万人(2千万人くらいだったかな?ちょっと記憶があやふやで申し訳ない)もが、飢餓で死亡して日本経済が滅茶苦茶になってもOKだったら、何とかなったかもしれない。
 要するに、アメリカの要求は幕末(幕末の日本の人口は2600万人~3000万人)にまで領土を戻せ!と言ったようなものですから。

 (因みに、ABCD包囲網についてだが、オランダ(D)はイギリス本土に亡命政権を持ちイギリスの意向には逆らえない。
 イギリス(B)は何とかアメリカの支援(参戦)が欲しい。
中国(C)国民党もアメリカにせっせと武器支援も貰っていて、アメリカの意向には逆らえない。
 で、アメリカ(A)は、日本と戦争する気が満々。
 日本の近場の石油産出地のボルネオ島はオランダの植民地だから、幾ら日本がオランダに石油の輸出を希望してもオランダは拒否する。)

こういわれたら、日本としては、にっちもさっちも行かないので戦争に活路を見出そうと考えたのです。
 日露戦争も大体似たような国力差がありましたが、奇跡的に辛勝できたので、“夢よもう一度“と言った感じだったのでしょう。
 ただ、日露戦争当時は、当時の求められる最良の同盟国イギリスがおりました。
 仲介国たるアメリカもおりました。
 しかし、太平洋戦争にはいずれも存在しなかった。
 日本海海戦に相当する大勝利もなかった。
 
 結果、日本の敗戦となったのです。

 アメリカは、日本に先制攻撃(ハワイ奇襲攻撃)させることにより、得たり!とばかり参戦していった。
 つまり太平洋戦争の勃発です。

総括:

 東京軍事裁判ははっきり言って茶番です。
 日本は確かに侵略国であった。
 中国や朝鮮から責められても仕方ない側面もあった。
 しかし、同時に日本が欧米列強からの被害国でもあった。
 即ち、植民地を獲得して国力増強に努めねば、早晩どこかの植民地にならざるを得ない世界情勢にあった。
 
 欧米列強も同じ穴の狢である。
 アメリカ:フィリピンを植民地化
 イギリス:インド・シンガポール・アフリカなどに広大な植民地を持つ
 フランス:フランス領土インドシナ・アフリカなどに植民地を持つ
 オランダ:現在のインドネシアを植民地にもつ。
 
 以上を踏まえると日本以上に欧米列強は帝国主義を貫いて植民地を保持していた。
 
 ソ連は、日本と日ソ中立条約を締結して条約期間中であったにも拘らず、日本に攻めてきた。
 明らかな条約違反をした。

 日本を悪者と設定するのであれば、欧米列強は日本以上に悪者です。
 ただ、まあ、国際関係は単純に勧善懲悪にて判断できるものではない事を付記しておきます。

 私の考えは以上です。
 


 
 

 

 

☆一言で言うとアメリカは、その矛先を…つまり、市場確保や権益確保の矛先として、終始一貫して中国を狙っていた。
 幕末から、ず~~っとね。
 それを日本が独占しちゃったから、アメリカは”いずれ日本は叩き潰さねばならない!”と決意していた。
 結果、太平洋戦争が勃発した。

 以下に歴史的詳細を書き記す。

 幕末にペリー来航す。
 目的は、建前的には、捕鯨船の為、寄港地として、そして燃料補給地としての日本の港の開放にあった。
 しかし、本音は、巨大な人口を要する中国市場(常に、...続きを読む

Q中学の歴史 日中戦争ぐらいがよくわかりません

今、満州事変から日中戦争あたりの勉強をしています。
教科書には説明がないので、疑問点がでてきました。

日本は実質あんなに大きな満州国を手に入れ、
しかも、当時日本の景気は回復しているという状況で、
なぜ二二六事件がおこったり、日中戦争へと進んだのですか?

また、犬養毅で、政党政治は終わったのに、二二六事件当時の総理も
命を狙われたというのはどうしてですか?

中学生にわかりやすく教えて頂けると助かります。

Aベストアンサー

満州事変は昭和6年から9年までです
日本はこの事変によって昭和8年に世界恐慌から脱しました
ところが9年に戦争が終わり、7・8年に起きた大冷害で東北太平洋岸が大打撃を受けます
冷害は4・5年と続き、6年は大豊作(豊作貧乏状態)でした
7・8年は大冷害で壊滅的な被害を蒙ります
これに昭和大津波が発生して岩手・宮城は泣きっ面に蜂な状態だったのです
ですが、当時の議会は東北復興より朝鮮半島への助成を優先しました(議事録が残っています)
東北は立ち直れない状態だったのです
農村は4年の凶作と豊作貧乏が重なって崩壊しますが、政府は無策だったのです
これに我慢しきれなくなった青年将校がクーデターを起こしたのが226事件です

日中戦争の発端は偶発事件ですが、世論は戦争特需を期待します。政府も戦争を止める勇気が持てませんでした。少なくとも戦争が続く限りは国債発行を行って公共事業を行う事ができるのです。

もしも今、クーデターが起きたとしても何もしない&増税ばかり考える野田政権に同情する人はほとんどいません

あの当時と現在はほとんど変わらないと思うと解りやすいかもしれません

満州事変は昭和6年から9年までです
日本はこの事変によって昭和8年に世界恐慌から脱しました
ところが9年に戦争が終わり、7・8年に起きた大冷害で東北太平洋岸が大打撃を受けます
冷害は4・5年と続き、6年は大豊作(豊作貧乏状態)でした
7・8年は大冷害で壊滅的な被害を蒙ります
これに昭和大津波が発生して岩手・宮城は泣きっ面に蜂な状態だったのです
ですが、当時の議会は東北復興より朝鮮半島への助成を優先しました(議事録が残っています)
東北は立ち直れない状態だったのです
農村は4年の凶...続きを読む

Qどうして南部仏印に進駐したのか?

僕は歴史の授業で、日本軍が南部仏印に進駐したことによって米国が態度を硬化させ、ハル・ノートに至ったと教わりました。
では、どうして日本は反発覚悟で南部仏印に進駐したのですか?

大東亜戦争は自衛のためだったとは思いますが、援蒋ルートを遮断するなら北部仏印まででよかったのではないでしょうか?

Aベストアンサー

↓の回答は、質問が求めるているものは、↓の南仏印進駐への理由とその経緯であって、それ自体やその後の事への評価や回答者の意見ではないということと、当時の日本の政府や軍人がどのように考えてしまったのか?ということであるという前提でのものです。

>では、どうして日本は反発覚悟で南部仏印に進駐したのですか?

回答:資源の確保と援蒋ルートの遮断の為で、ビルマルートよりは簡単だと判断されたからです。

南進論自体は、スパイ(尾崎秀実)の工作だと思いますが、その細部(南北仏印への進駐)は、それに乗せられた政府と軍人によるものだと思います。

日本は、ドイツのフランス占領を契機に外交交渉をして、1940年に北部仏印に進駐しました。
それが原因で、米国は屑鉄の対日輸出を全面的に止めました。

その3ヵ月後、タイと仏印との間で国境紛争が起こります。
日本は、間に立って調停を行い、1941年タイ・フランス平和条約が成立させます。
(この功績で日本の評価が上がった事に不満な米英は、オランダ領インドシナに日本への石油の禁輸の圧力をかけました。)
その為、日本は南方に資源を確保する必要に迫られました。

一方で、英国はビルマルートから中国に支援をしていました。
このビルマルートの遮断と、南方の資源確保の為に、日本は南部仏印にも進駐する必要がありました。

日本は仏印政府と交渉して1941年に南部仏印に進駐しました。
これは外交による平和的なものでしたが、アメリカはこれを南方への侵略準備と見なしました。

参謀本部の田中第一部長は手記に「仏印、タイを我が軍事的結合圏内にすみやかに編入するため、取りあえず、仏印南部に所要の兵力を進駐させる必要がある。
その目的は全仏印の実質的把握…更にタイに、にらみを利かせ…情勢に応じてはビルマに進駐する為の基地とするにある。
これによって対支封鎖の陣形は完成される」と書いています。

また御前会議の理由書にも
「…最近米国ヲ中心トスル英米蘭支ノ戦略態勢強化…若シ帝国トシテ速ヤカニ之ニ対抗スル措置ヲ執ルコトナク…日ヲ閲スルニ於テハ…支那事変ノ 解決ハ更ニ遷延スヘク…帝国トシテハ此ノ際仏印・タイ全域ニ渉リ帝国ノ軍事的地歩ヲ先制確保スル要極メテ緊切ナリ…」
とあります。

以上から、日本の真の目的は支那事変の解決であり、仏印進駐はその為の資源確保の必要からのものです。

その支那事変ですが、戦争を仕掛けているのは中国です。
英米蘭はそれを理解せずに、被害者である日本だけに制裁をし、加害者の中国には支援をしています。
(彼らはWWIIの終戦後、朝鮮戦争やベトナムでやっと中ソに騙されている事と共産主義の危険性を理解しましたが、既に後の祭りでした。)


スパイ(尾崎秀実)の工作ですが
欧州で独ソ戦が始まったとき、日本は↓の選択を迫られました。
北進論:ドイツを助けてソ連を攻撃する。
南進論:資源確保のために南方に進出する。

ソ連のスパイである尾崎の任務は、日本を南進論に導くことでソ連が日独に挟撃されることを阻止することでした。

日本は支那事変の和平を成立させる方向で動いていましたが、ナチスドイツの快進撃を材料に、近衛と尾崎が三国同盟を締結し南進に向かわせました。

http://www.youtube.com/watch?v=5aowyJM8Cpc

↓の回答は、質問が求めるているものは、↓の南仏印進駐への理由とその経緯であって、それ自体やその後の事への評価や回答者の意見ではないということと、当時の日本の政府や軍人がどのように考えてしまったのか?ということであるという前提でのものです。

>では、どうして日本は反発覚悟で南部仏印に進駐したのですか?

回答:資源の確保と援蒋ルートの遮断の為で、ビルマルートよりは簡単だと判断されたからです。

南進論自体は、スパイ(尾崎秀実)の工作だと思いますが、その細部(南北仏印への進駐)は、...続きを読む

Qもしも、真珠湾攻撃をしなかったら・・・

太平洋戦争の発端は真珠湾攻撃と聞いています。
それでは、日本が真珠湾攻撃をしなかったら、日本はどのようになったのでしようか。
何が理由で、大国と戦争をしたのですか。

Aベストアンサー

 大東亜戦争(国際法上に於ける正式名称・East Asia War)の発端は真珠湾攻撃ではありません。ワシントンDC及びロンドンで米英蘭に対して日本が宣戦布告したのが発端です。
 この宣戦布告に基づいて真珠湾・フィリピン・マレーシアに同時攻撃を行いました。続いてインドネシアへの攻撃が行われます。
 もし真珠湾攻撃をしなかったらですが、米国太平洋艦隊が無傷だっただけのことです。米国国民が対日戦に賛同するかは微妙です。フィリピンを巡る戦いのために米国国民が2年も3年も戦争を支持するとは思えません。

> 何が理由で、大国と戦争をしたのですか
中国との戦争を止めるためです。米英が国民党政府をバックアップしていたのが判っていましたのでその供給元を戦争に引きずり出して彼らのアジアに対する影響力を排除しない限り安定がないと思ったから戦争したのです。

Q戦艦の対空砲火

こんにちは。
戦艦の対空砲火の威力について教えて下さい。
太平洋戦争において、大和、武蔵をはじめとするわが国の戦艦のほとんどが米軍機によって沈没させられましたが、

1.わが国の戦艦は対空砲火(高射砲・機銃)によって具体的にどの程度の米軍機を撃墜できたのでしょうか(○○作戦において大和は米軍機○機を撃墜した等)

2.かりにわが国戦艦が、マリアナ沖海戦で米軍が使用したVT信管(砲弾が外れても目標物が近くにあれば自動的に炸裂する)を使用していれば、様相はかなり変わったのでしょうか。

3.わが国戦艦が使用した三式段によって実際に米軍機が撃墜された戦闘はあるのでしょうか。あるとすると実際に何機を撃墜したのでしょうか。

4.大和、武蔵などほとんどの戦艦が魚雷によって沈没させられていますが、接近する魚雷を戦艦からの機銃掃射によって爆破させることはできなかったのでしょうか。

軍事には素人ですので、どうぞ教えて下さい。

Aベストアンサー

1) 戦艦大和他の第二艦隊が撃滅された「坊の岬沖海戦」の場合、米軍の損害は「艦載機10機」であるようです。
この海戦の場合「母艦への着艦が夜になったため多数の飛行機が着艦に失敗して失われた」といった事情がありませんので、
米軍の損害10機=第二艦隊が対空砲火で撃墜した機数
となるでしょう。

2) 様相はあまり変わらなかったとする論者がいます。
なぜ敗れたか日本海軍 光人社NF文庫
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/31828766
に「VT信管は化け物か?」と題して、質問者さんの疑問(2)を考察し、結論として「否」としています。
主な理由は
「対空射撃式装置の性能がアメリカは桁違いに優れていた」
ということで詳細に説明されています。
筆者は、防衛大学校を卒業して護衛艦に乗り組んでいる際に、米軍が第二次大戦中に主用していたのより性能の劣る米国製対空射撃式装置で対空射撃訓練を行い、5インチ速射砲(第二次大戦時の高角砲に相当)に「時限信管」を使用した対空砲弾を使用して、飛行機が曳く吹流しに名中断を与えているとのことです。

なお、筆者によりますと、5インチ(12.7センチ)高角砲の命中率は
アメリカ 30%~50%
日本 0.3%
と、100倍以上の差があったと言います。

また、VT信管は「高角砲弾が目標の20メートル以内を通過した時に炸裂する」ものでしたが、日本の対空射撃式装置の性能があまりに悪いため、実戦では「どこを撃っているのか分からない」状態であり、そもそも米軍機の20メートル以内に高角砲弾を通過させることができず、VT信管があってもなくても同じだったろう、と筆者は言っています。

上記の本は質問者さんの疑問の多くを解いてくれると思いますので、ぜひお読み下さい。

3) 日本側では、マリアナ沖海戦やレイテ沖海戦で、戦艦の三式弾射撃で何機かの米軍を撃墜している、と言っています。
一方、ウィキペディアには
「米軍側の資料には『パンパンと破裂するがまるで花火のようで、実際の被害は少なかった』との記述も存在し、対空射撃での確実な戦果は、ほとんど確認が無いとされる」
と書かれています。

米軍の飛行機が日本の飛行機より工作精度が良く頑丈で、燃料タンクや乗員の防御も優れていたことを考えますと、
「三式弾の焼夷弾子は、日本機には有効だったが、米軍機には威力不足だった」
ことがあったことは有り得ます。

4) 軍艦の対空機銃は、水面に向かって射撃することも出来ました。
太平洋の戦闘、大西洋の戦闘で、「自艦に向かって来る魚雷の航跡を発見して機銃で射撃した」という話はいくつか聞いた記憶がありますが、その射撃で魚雷を破壊できたという話は聞きません。
ただ
「飛行機が、敵の潜水艦が発射した魚雷を上空から発見し、魚雷に体当たりして魚雷を破壊した」
という話はあります。

そもそも、魚雷を発見した軍艦は急転舵して魚雷に艦首を向ける運動をし、魚雷の命中を避けようとします。魚雷に艦首を向ければ、艦首を左右に分ける波ができますので、そこに敵の魚雷が来てもどちらかに流れてしまい、命中しません。戦史でも「敵の魚雷を発見して急転舵して艦首を向けたが、艦首に魚雷が命中した」例はありません。

急転陀する軍艦から、自艦に向かってくる魚雷を狙い撃ちして命中させるのは不可能と思われます。
「水中の物体は海水という分厚い盾に守られていますから、撃てたとしてもなかなか破壊はできなかったでしょう」
ということもありますが、それ以上に
「魚雷が自艦に迫っているという状況下で、物理的・心理的に、魚雷に機銃弾を命中させることは難しい」
ということではないでしょうか。

1) 戦艦大和他の第二艦隊が撃滅された「坊の岬沖海戦」の場合、米軍の損害は「艦載機10機」であるようです。
この海戦の場合「母艦への着艦が夜になったため多数の飛行機が着艦に失敗して失われた」といった事情がありませんので、
米軍の損害10機=第二艦隊が対空砲火で撃墜した機数
となるでしょう。

2) 様相はあまり変わらなかったとする論者がいます。
なぜ敗れたか日本海軍 光人社NF文庫
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/31828766
に「VT信管は化け物か?」と題して、質問者さんの疑問...続きを読む

Q特攻隊の司令官は約束を守ったか?

私の父が亡くなりました。
88歳でした。
父は先の大戦に行きましたが戦争体験を
聞いても口をつぐんでほとんど話しません。
数少ない話として
父は大学の工学部に在学していたため学徒動員を免除されていたのに
大学を休学し志願して予科練に入隊したようです。
木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河と
いう爆撃機に乗っていたようです。
多くの同期の人が沖縄方面に出撃し戦死、同期の生き残りは
ほとんどいないと言う事を聞いたことがあります。

多くの指揮官は特攻隊員に「自分たちも後から必ず行く」と訓示していたが
宇垣中将や大西中将や他の上級将校たちの終戦の日の行動は調べると解かりましたが、
実際現地で特攻隊員を送り出した現地司令官たちはどうしたのでしょう?
実際約束を守って出撃したのでしょうか?
それとも約束を反故にして戦後恩給をもらい続けたのでしょうか?
解かる人がいればお教え下さい。
学徒動員された人や予科練に志願した多くの人は沖縄の海に眠り
生き残った人も「苦労をかけた]という感謝状一枚もらっただけなのに
実際送り出した司令官は生き延びて、ずっと恩給をもらったというなら
なにかやりきれない気分となります。

私の父が亡くなりました。
88歳でした。
父は先の大戦に行きましたが戦争体験を
聞いても口をつぐんでほとんど話しません。
数少ない話として
父は大学の工学部に在学していたため学徒動員を免除されていたのに
大学を休学し志願して予科練に入隊したようです。
木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河と
いう爆撃機に乗っていたようです。
多くの同期の人が沖縄方面に出撃し戦死、同期の生き残りは
ほとんどいないと言う事を聞いたことがあります。

多くの指揮官は特攻隊員に「自分たちも後から必...続きを読む

Aベストアンサー

「父は大学の工学部に在学していたため学徒動員を免除されていたのに大学を休学し志願して予科練に入隊したようです。木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河という爆撃機に乗っていたようです」

父上様は、海軍の「飛行予備学生」を志願して士官搭乗員(少尉以上)になられたのでしょう。
「飛行予備学生」については、下記の本を読んで頂けるとどういう制度か分かります。

海軍飛行科予備学生学徒出陣よもやま物語―学徒海鷲戦陣物語 (光人社NF文庫)
http://www.amazon.co.jp/dp/476982324X/

「予科練」というのは、今で言うと高校生くらいの「少年」を教育し、下士官搭乗員にする制度です。父上様のような、大学レベルの教育を受けていた方は対象外です。

さて、特攻隊が編成される際は、海軍なら航空艦隊司令長官、陸軍なら航空軍司令長官といった中将クラスの指揮官が出向いたようです。こうした人が、特攻隊員に訓示をします。

また、質問者さんは「現地司令官」と言っておられますが、佐官クラスの「航空隊司令」や「航空隊飛行長」
といった立場で、特攻隊員を選考したり、実際の出撃を指揮したりする将校がいました。また、海軍や陸軍の中央で特攻作戦に関わった将校もいました。

そうした人たちの、敗戦時・戦後の身の処し方を述べます。最初の3名が、敗戦時に自ら死を選んだ人です。

大西瀧治郎 海軍中将:
レイテ沖海戦の際に、第一航空艦隊司令長官として特攻隊を編成し、送り出した。敗戦時には軍令部次長。特攻隊員に詫びる遺書を残して自決。

宇垣纏 海軍中将:
軍令部次長に転じた大西中将の後任のような形で、第五航空艦隊司令長官として、九州から沖縄方面への特攻作戦を指揮。8月15日に「玉音放送」を聞いた後、最後の特攻隊に同乗して戦死。「最後には自分も行くという、特攻隊員への約束を果たした」という擁護意見と、「死なないで済む若者を道連れにした」という批判意見が常にぶつかる。

寺本熊市 陸軍中将:
陸軍航空本部長として敗戦を迎え、玉音放送が放送された8月15日に自決。陸軍では数少ない「知米派」で、高い見識で知られており、寺本中将の自決を知った人は「寺本中将が自決するなら、先に自決しなければならない者がいくらでもいる」と驚いたそうです。
一般に、寺本中将の自決と、陸軍航空特攻の関係が指摘されることはありません。陸軍航空本部長は、陸軍航空隊を「直接に」指揮する職務ではないからです。私見ですが、寺本中将が自決したのは「陸軍航空の特攻について、誰かは責任を取らねばならない」と考えたからではないかと考えます。

富永恭次 陸軍中将:
レイテ沖海戦の後、陸軍の第四航空軍司令官として、特攻隊を編成して送り出した。米軍がルソン島に上陸して自分の身が危なくなると、上級司令部に無断で、部下を置き去りにして飛行機で台湾へ移動。「敵前逃亡」とみなされる行動です。その責を問われて予備役に編入され、即日召集されて、ずっと格下の職である「臨時編成の武器もない師団の師団長」として満洲に送られ、敗戦後にソ連軍の捕虜となる。10年後の1955年に日本に帰還して恩給生活を送り、5年後の1960年に68歳で死去。「帝国陸軍の恥さらし」という意見以外は見た事がないです。

菅原道大 陸軍中将:
1944年12月に第六航空軍司令官となり、敗戦まで、陸軍航空隊の特攻作戦を指揮。長崎県出身ですが、戦後は、埼玉県の飯能で農民となり、養鶏に従事しました。ジャーナリストが取材に行くと「自分はどんなに罵倒されても良い、だけど特攻隊の若者を悪く書かないでくれ」とだけ言い続けたそうです。1983年に95歳で死去。

源田實 海軍大佐:
この人は「特攻の指揮官」ではなく、海軍中央の参謀です。もともと、戦闘機パイロットでした。大西中将が第一航空艦隊司令長官としてフィリピンに赴任する前に、軍令部参謀の源田大佐が、「もはや、飛行機が爆弾を抱いて敵に体当たりするしかない」と全てお膳立てをしていたというのが定説です。源田大佐は、その後、海軍の精鋭を集めた343航空隊司令として防空戦闘を指揮しましたが、この時に部下の飛行長(戦闘機パイロット)と下記の問答をしました。下記は、飛行長の証言によります。ジョークではありません。
源田「ウチの隊も特攻隊を出さねばならないか」
飛行長「分かりました。では、私が特攻隊長となって、海軍兵学校出身の士官搭乗員を引き連れて特攻します。その次は司令が特攻隊長となって残りの者たちを率いて下さい」
源田「・・・慎重に考えよう」
源田は戦後は航空自衛隊に入って航空幕僚長に上り詰め、退官後は参議院議員となり、帝国陸海軍将校として一番幸せな戦後を送った人と言えるでしょうが、「源田さんが、軍令部で特攻を立案したんですね?」という質問には一貫して「ノー」と言い続けました。個人的には、富永と同じくらい卑怯だと思います。

山本栄 海軍大佐:
「最初の特攻」とされる、関行夫大尉の上官(201航空隊司令)。戦後はカソリックに帰依し、伝道生活を送ったが、自分が海軍大佐であったこと、最初の特攻隊を送り出したことは、信者には一切話さなかったそうです。

玉井浅一 海軍大佐:
上記の、201航空隊の副長。のち、航空隊司令として特攻作戦に携わる。戦後は日蓮宗の僧侶になった。特攻隊員の慰霊に尽くしたとされています。

中島正 海軍中佐:
フィリピンや台湾で、航空隊の飛行長、副長として「特攻隊員を選定し、出撃の順番を決める」という、特攻隊員の死ぬ順番を決める仕事に携わる。当時の部下の印象は「軍人と言うより役人のような印象」だったそうです。フィリピンでは、「中島中佐がいる基地には降りるな。降りたら特攻隊にされる」と、搭乗員の間で恐怖を持って騙られたそうです。当時、ある航空基地に着陸した搭乗員は、その航空基地の指揮官の指揮下に入るとされていました。
戦後は航空自衛隊に入り、空将で退官。特攻については何も語らなかったようです。
なお、中島中佐は戦闘機のパイロットであり、太平洋戦争の前半は、「飛行隊長」として、操縦桿を握って数多くの戦闘に参加しています。その頃については、特に悪い評判は聴きません。

「父は大学の工学部に在学していたため学徒動員を免除されていたのに大学を休学し志願して予科練に入隊したようです。木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河という爆撃機に乗っていたようです」

父上様は、海軍の「飛行予備学生」を志願して士官搭乗員(少尉以上)になられたのでしょう。
「飛行予備学生」については、下記の本を読んで頂けるとどういう制度か分かります。

海軍飛行科予備学生学徒出陣よもやま物語―学徒海鷲戦陣物語 (光人社NF文庫)
http://www.amazon.co.jp/dp/476982324X/

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