江戸時代 苦労せず一生安楽に暮らせた『美味しい商売(職業・身分)』は何でしょうか?
 殿様? 大名や旗本にしても、実際は楽じゃなかったようで・・・。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (10件)

日本橋石町(こくちょう)の時の鐘をつく人。


鐘の音が聞こえる限りのところから、お金が入ってきたので、相当、おいしい職業だと思います。

お寺さん・・・独占事業ですし、治外法権ですし、死人に限りがあることは、ありませんし、法事や、お墓の維持費や、説話会など、四方八方から、お金が入ってきます。

参考URL:http://kkubota.cool.ne.jp/tokinokane12.html
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 鐘を突く人、辻源七っつぁんはいい商売ですね。
 お寺、確かに死人は無限に出ます。正に丸儲け。寺請制度で美味しくなったんでしょう。

お礼日時:2007/10/01 19:12

苦労のほどは知りませんが・・


とにかく羽振りが良かった職業は札差(ふださし)でしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

札差(ふださし)でしょう。・・・おっしゃる通り、ご家老も先にお辞儀をしたとか・・・。
 ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/02 06:19

以前何かの本で読みましたが、貸家業、今で言うマンションのオーナーなど楽な商売と思います。


奈良茂の子孫を題材にした小説で、先代は紀文と張り合って豪遊したが、子孫は地道に暮らせるように店を閉め、貸し家を生業とするように手配して亡くなった、息子は仕事が無いのでやることも無く、さりとて生活に困るわけでもないが豪遊は出来ない生活で、無気力になって引きこもりになるという粗筋だった記憶です。
資料では大正時代にご子孫が千住で質屋をやっていましたから、ご子孫も資産家だったんでしょうね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 貸家業はいいと思います。戦前まではよかったです。最近は店子の権利が強くなりすぎて、ヘンな店子に入られてしまうと追い出しもできず、困ってしまいます。

お礼日時:2007/10/02 06:17

髪結いの亭主


はいかがですか。
商売ではないけど、広義の身分の分類に入ると思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

髪結いの亭主・・・これはいいや! しかし、亭主に納まるには?
 我輩じゃ無理じゃな、自信なし。

お礼日時:2007/10/02 06:14

博打ですね。



寺銭と言う言葉が残っていて、寺で行います。
自社奉行の管轄なので
町奉行の与力と言えど手出しは出来ません。

しかも胴元が丸儲けです。

次が力士。

十両では十両の給金です。
郷土力士は、国(藩)の自慢と自信でもあり、城主も鼻高々です。
地元でも手刀は切りまくりでしょう。^^;

次が商人。
買占め、闇カルテル、価格操作、賄賂は当たり前。
御用商人ともなれば、ブランドで各国の藩主も御用します。

次が歌舞伎役者。おいらん。

浮世絵だけでも大儲け。
現代の芸能人(特権階級。)

次が夜盗。
国の外へ逃げれば無罪に近い。
火盗改めでもなければ国を超えて捜査は出来ない。

私の藩の与力では駄目与力だとでも言っているのか?
大問題になりかねない。

火付け盗賊改めも、評判が悪く、一時廃止された程。
隣の国で良い人を演じればそれで良し。(完全犯罪成立)^_^

きっぱり!

「悪党」ならば
>苦労せず一生安楽に暮らせた!!

「太く!!長く!!」^^;

完全犯罪。
権力と癒着。合法的殺人。
人を「ハメル。」(濡れ衣を着せる。)

幕府役人との癒着。
権力を利用しまくる!! ^_^;
    • good
    • 0
この回答へのお礼

「悪党」ならば
>苦労せず一生安楽に暮らせた!!
・・・現在の左団扇の天下り役人のようなものかな。

お礼日時:2007/10/02 06:12

ANo.5です。



お城将棋で給金をもらうよりも、町に出てカモを見つけて賭け将棋で、ふんだくったほうがいいかもしれません。

天野宗歩クラスなら楽儲けですが、その場合は素性がわかるので、ほおかむりをして指さなければお金になりません。。。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

天野宗歩は強かったらしいですね。ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/01 20:39

お城で将棋を指してお金をもらう人。

[棋士]

おそらく才能さえあれば、楽な仕事だったと思われます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。
 う~ん、自分だけがウンと強く、他が飛車角落ち程度であれば楽でしょうがねえ。

お礼日時:2007/10/01 19:15

> 江戸時代 苦労せず一生安楽に暮らせた『美味しい商売(職業・身分)』



そんな職業はありません。金入りが良かった商売としては死体処理屋(人も動物も)、オアイ屋(糞尿屋)、危険公共土木(お台場建設など)でしょう。
台場建設だけで75万両(現在のお金に換算すると600億円相当)の巨費が注ぎ込まれています。

身分に関しては勘弁してください。この方々は子供のお墓すら作れるほどのようです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/10/01 19:04

札差、蔵前でしょう。


株を入手するのが大変ですが一旦なってしまえば御安泰。
札差は銀行のようなもので融資先さえ誤らなければ大丈夫。
蔵前は現在の倉庫業で荷物さえあればシンパイ無用。

身分では将軍家。 まじめにやれば苦労しますがのんびりしておればそれなりに苦労なし。
検校という身分も手に入れるのが大変ですがその身分についてしまえば美味しい身分でした。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

検校・・・これ、美味しそうですね。ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/01 19:03

商人の中の「金貸し」とか「質屋」とか。



時代劇の見すぎかもしれませんが。。。。

私の祖先は商人で「うどん屋」だったのですが、貧しかったらしいです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 早速のご回答ありがとうございます。
 ご先祖様はうどん屋さんですか。うどん屋チェーンの親玉ならば羽振りがいいでしょうが、当時はチェーンなんてないでしょう。食べにくるお客が貧乏人でしょうから、うどん屋も「清く貧しく」っていうことなんでしょうねえ。
>「金貸し」とか「質屋」とか。
・・・これはなかなかよさそうな商売です(貸付金の取立てをうまくやる必要がありますが)。
 ありがとうございました。


 

お礼日時:2007/10/01 12:23

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q江戸時代の酒場

時代劇に登場する居酒屋は、現在の蕎麦屋にあるような木製のテーブルや腰掛が出てきますが、ああいうテーブルに腰掛けて食事をするというスタイルは、実際には大正時代のカフェという酒場が出来てからだそうですね。
また、酒樽に腰掛けてカウンターのような席の酒場も見たことがありますが、これも江戸時代には有り得ない光景だったようです。
江戸時代の実際の酒場は、ほとんどが今で言う座卓だったのでしょうか?
また、こうした時代劇の誤りを指摘した本などがあれば教えて頂けると幸いです。宜しくお願いします。

Aベストアンサー

酒を飲むお店はいろいろありますけど、酒屋が店先で酒を飲ませる形、屋台の店、そして居酒屋は「煮売り屋」からの発展系と思います。
この煮売り酒屋ですけど、

http://www.cleanup.co.jp/life/edo/03.shtml



http://homepage3.nifty.com/shokubun/izakaya1.html

を見ても、お盆の上の皿に料理を盛って畳に置いて食べていますから、座卓もなかったと思いますよ。

Q江戸時代。職業や商売に関連した色

看板、服装、持ち物などの色で、その店やその人の職業や地位、商売が分かる例はありますか。
例えば、札差、両替屋、飛脚屋、遊郭などが特定の色と結びついていますか。
ただし、将軍家と僧侶・神官を除きます。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

樋口清之氏によると

のれんは普通は木綿で地は紺染めだが、
江戸の煙草屋だけは、のれん、日除けとも
茶染めで、品物が書いていなくても、
長い習慣からすぐ判ったとのこと。

他にもあってもよさそうですが、他の例は
見つかっていません。

Q最も、平和だった(失われる命が少なかった)江戸時代の時期っていつらへんですかね?? もし、好きな過

最も、平和だった(失われる命が少なかった)江戸時代の時期っていつらへんですかね??

もし、好きな過去の時代で生きられるなら、と言う問いに対して、江戸時代と答えたのですが、江戸時代には飢饉も有りましたし………

Aベストアンサー

大まかに江戸時代でいいよ。
今の戦後の70年多少の栄枯はあっても大してさはないでしょう。
その程度の差なんです。
控えるとすれば戦後の短い期間、江戸末期の混乱くらいかな。

Q江戸時代と身分

江戸時代の日本は、農民が土地に縛り付けられて、身分の固定によって浮上する機会もなく、現代のような「個人」は観念されない社会だったということですが、農民が過酷な年貢に苦しみ一揆・逃散・駕籠訴をすることはあっても、三圃農法によって中世からの脱却がはかられた欧州と違って江戸期の日本では革命的な動きや身分闘争というものは全く起こらなかったのでしょうか?

農民は親も自分も子も孫も、農民の子はずっと農民という身分に疑問をいだいたり、そこからの脱却を考えたりはしなかったのでしょうか。

吉田松陰は天皇の下にみんな平等という思想を持っていたようですが、江戸時代にこういった(擬似)平等的な考えをもっていた人物は他にもいたのでしょうか。

ご意見を賜れれば幸いです。

Aベストアンサー

 安藤昌益という人がいました。↓他の方とダブりました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E6%98%8C%E7%9B%8A
http://www006.upp.so-net.ne.jp/hizumi/
 西洋のことは知りませんので、西洋との比較というのはできませんが、江戸時代は階級闘争が起こりにくい時代だったといえますね。
 チョッと無責任な放言になりますが、何時の時代でも革命的行動を起こすのは、『度胸があり、食うに困らぬ、ヒマな、インテリ臭い人間』だと思います。
 吉田松陰も一面ではそういう人物ですし、維新の志士達、5.15や2.26事件の青年将校、戦前から戦後にかけての左翼思想家、安保闘争時代の全学連などもそうだと思います。
 世の中の乱れに乗じて、このような人達がアジリ、共鳴する人が多く出てくれば、世の中が変わる方向に動くと思いますが、江戸時代は難しかったと思います。
 自由平等というような近代西洋の思想を持った人は、ヒマなインテリの間にはごく稀にいたと思いますが、一般大衆の間に広まるのは難しかったと思います。
 体制側の情報統制(知らしむべからず)、倫理思想の普及(辛抱、服従、あきらめ)、一般大衆はせっせと働いて食べるのに精イッパイ(生かさず殺さず)ということだったと思います。不埒なことを考える余裕はなかったんでしょう。
 辛抱、服従、あきらめ、長いものに巻かれろ、といった考え方は当時の人の体に染み付いた考え方であり、生き延びるコツだったと思います。今のサラリーマンも同じですがね(笑)。
 しかし、ストーカーみたいなしつこいのが居るね。無視が一番。
 

 安藤昌益という人がいました。↓他の方とダブりました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E6%98%8C%E7%9B%8A
http://www006.upp.so-net.ne.jp/hizumi/
 西洋のことは知りませんので、西洋との比較というのはできませんが、江戸時代は階級闘争が起こりにくい時代だったといえますね。
 チョッと無責任な放言になりますが、何時の時代でも革命的行動を起こすのは、『度胸があり、食うに困らぬ、ヒマな、インテリ臭い人間』だと思います。
 吉田松陰も一面ではそういう人物ですし、維新の...続きを読む

Q江戸時代について

江戸時代について質問したいことが幾つかあるので、質問させていただきます。

まず一つ目は、江戸時代は何世紀頃になるのでしょうか?

二つ目は、江戸時代の移動手段はなんだったのでしょうか?
馬車などはあったのでしょうか?

回答お待ちしてます。

Aベストアンサー

こんばんわ。
お読みいただきありがとうございます。

>>江戸時代では、吉原がありますよね。
親に売られた娘たちは、どうやって吉原にたどり着くのでしょうか?
買い手と一緒に徒歩で吉原まで向かうのでしょうか?
それとも駕籠ですか?

まず、あなたの質問から先に述べますと、すべて「徒歩」で行きました。


次に、もう少し詳しくお話しましょう。

吉原の遊女になるケースは、次の3つです。

1.女衒(ぜげん=人買い)に売られて吉原へ。
2.付き合った男(または、所帯を持った男)にだまされて吉原へ売られる。
3.借金のカタに取られて吉原へ。


1.の場合:

♪花一文目・・・と言う歌がありますが、ご存じでしょうか? 
これは、貧しい農家などの娘が女衒に買い取られる値段のことを指しています。
一文・・・時代によってかなりの差がありますが、おおよそ10円位です。
良く、江戸時代の蕎麦が8文(100円位)、風呂屋が16文(200円位)と言いますが、それよりも安かったのです。
そんなに安くても、農家などでは「口減らし」の意味がありましたので、殺すよりはマシと考えて娘を売ったのでしょうねぇ。
女衒はムダな銭を使うことはせず、どんなに田舎からでも「徒歩」で江戸まで連れてきました。


2.の場合 と 3.の場合:

これは、そのままの通りです。

ところが、幕府では「人身売買」を禁止していました。
そこで、吉原に売られた女たちは、すべて親が承知の上での「奉公」と呼ばれ、
「売った」「買った」とは言わなかったのです。
1.の場合の親は女衒。
2.の場合の親は男。
3.の場合の親は借金をした本当の親。
でした。

そして、吉原の女たちは、幕府公認でしたので、すべて「遊女」と呼ばせました。

それに反するのが、私娼(ししょう=売女・ばいた)で、詳しく述べると長くなりますので、主なところを説明すると、
★江戸では・・・夜鷹(よたか)・・・夜になるとゴザを小脇に抱えて川端などで男の袖を引っ張って事をすませる。
★京都では・・・辻君(つじぎみ)・・何となく風情がありますね。
★大坂では・・・惣嫁(そうか)・・・何でも食らいつくからとか。

遊女のランクとしては、
「太夫」(たゆう・宝暦年間頃・1751~・からは「花魁」おいらん)、「格子」(こうし)、「散茶」(さんちゃ)、「うめ茶」、「五寸局」(ごすんつぼね)、「三寸局」、「なみ局」となります。

遊女は、例えば、着物を買ったりしましたが、郭(くるわ)から出たことがありませんので、世間相場というものを知らず、親方(妓楼の主人)は、呉服屋などと結託して、10両のものを15両などとだまして、ちゃっかりバックマージンを得ていました。
当然、一度では払えませんので、親方からまた借金をする。

さらには、蒲団や座布団、火鉢、煙草盆なども1日いくら、というように、全てが貸し出しだったのです。

まあ、それでも苦界20年と言い、20年間働いてくれれば、親方も許してくれましたが、実のところは、27~28歳になっていましたので、はっきり言えば「年増女はお払い箱」だったのです。

従って、遊女は25~26歳位になると、将来を一緒に過ごしてくれる男を必死になって、客の中から選びました。

もし、男が見つからない場合などは、見世に残って「やり手婆」(やりてばばあ)として、若い者の指導に当たりました。
というより、遊女が「足抜け」(逃亡)などをした場合などは、後ろ手に縛って鴨居にぶらさげ、竹刀で叩いたり、庭の大木に縛り付けて折檻をしたりの本当の「やり手ババア」だったのです。

さて、遊女も一緒になってくれる男が決まると、
男の方から親方に「○○を身請けしたい」と相談をさせ、親方も一応は、先に述べた「親」に了解を得て、男に残りの借金を払わせ、さらに、身請けの当日になると妓楼では、赤飯を炊き、豪勢な料理を用意します。しかし、これらの金はすべて身請けする男の負担でした。
すべてが男の負担で宴が終わると、大門(おおもん)の前に待たせておいた「駕籠」で男の家に向かいました。

ここで、初めて「駕籠」に乗ることができたのです。

お役にたったでしょうか。
まだ、解らないことがあれば、いつでもどうぞ・・・。

こんばんわ。
お読みいただきありがとうございます。

>>江戸時代では、吉原がありますよね。
親に売られた娘たちは、どうやって吉原にたどり着くのでしょうか?
買い手と一緒に徒歩で吉原まで向かうのでしょうか?
それとも駕籠ですか?

まず、あなたの質問から先に述べますと、すべて「徒歩」で行きました。


次に、もう少し詳しくお話しましょう。

吉原の遊女になるケースは、次の3つです。

1.女衒(ぜげん=人買い)に売られて吉原へ。
2.付き合った男(または、所帯を持った男)にだまされて吉原...続きを読む

Q江戸時代の身分制度について。

こんにちは(*゜ー゜*)

江戸時代に出来た身分制度
「士・農・工・商・えた・ひにん」
の「えた・ひにん」の意味と区別がわかりません。というか、学校で習った記憶があるのですがすっかり忘れてしまいました。教えて下さい。

また、今は小中学校では教えてないという文章を見たことがあるんですが本当なんでしょうか。

Aベストアンサー

非常にやっかいな質問ですが
歴史的事実として回答します。

江戸時代社会の士農工商・えた・ひにんといった
上下の身分的仕組みとして政策的に作り出されました。

「えた」はある業種の手工業者で
「ひにん」は遊芸人や職業を持たない人々でした。

「ひにん」については一種のアウトローですので特に説明する必要もありませんが(社会的・政治的にどこにも属していない人たち)「えた」について簡単に説明します。

中世の賤民は農業から離れた仕事をしているものほど賤視され手工業者や商人の多くも賤民視されていましたので「えた」「ひにん」だけに限られなかったものが、江戸時代の身分秩序の成立のなかで最末端に置かれてしまい時をたつにつれ差別が相当ひどいものになり、この業種以外の仕事に就けないとか住居も町はずれにあり動けないといったことになりました。

半農半工の「えた」は村(農業共同体)の生活からだんだんはじき出され(例えば村祭りからの疎外や用水の権利など)社会外の社会を作らされました。

政治的なねらいとしては人口の80%以上を占める農民から支配階級の武家が年貢や労働力を確保するためや、これに対する不平不満(一揆や越訴)を押されるために分裂支配する必要があったわけです。そして最底辺に置かれた「えた」「ひにん」といった人々を権力機構の末端の仕事(牢番・処刑・城内の掃除)をさせ身分秩序を支える役目を担わされました。

江戸時代も中期にはいると武家の生活水準も高くなり農村に対する態度も変わり商業経済もすすみ農村も変貌を止め町人が台頭し経済的には武士の上に立つようなり農民を押さえるようになって来ました。
このことは幕府や藩にとって社会基盤の危機にほかなりませんから身分制度を厳しくする必要がでてきました。特に8代将軍吉宗のころから身分規制を非常に厳しく行っています。逆に考えますと取り締まりの対象となるような反動が盛んになったと考えられます。
(例えば社会での差別が厳しくそれに対し立ち上がったとか・・)

この身分制度も明治4年8月の解放令まで続くことになります。

最後に「ある職業」と書きましたが
差別に繋がる恐れがありますので
ここには記載できません。ご了承下さい。

非常にやっかいな質問ですが
歴史的事実として回答します。

江戸時代社会の士農工商・えた・ひにんといった
上下の身分的仕組みとして政策的に作り出されました。

「えた」はある業種の手工業者で
「ひにん」は遊芸人や職業を持たない人々でした。

「ひにん」については一種のアウトローですので特に説明する必要もありませんが(社会的・政治的にどこにも属していない人たち)「えた」について簡単に説明します。

中世の賤民は農業から離れた仕事をしているものほど賤視され手工業者や商人の多く...続きを読む

Q「江戸時代の旅」

江戸時代の旅について調べています。
江戸時代の旅が当時どのような役割を果たしたのか、
またそれがいまの社会にどのように変えていったのか
その江戸時代の旅が今に伝えるものは何かを
どなたか民俗学や歴史に詳しい方
なんでもよいので教えてください。(><)

Aベストアンサー

現代の旅でいうところの出張は、参勤交代や、近江商人、富山の薬売りなどにあたりましょう。
宿場の発達、街道の整備を促したでしょうし、江戸の街道は、その道筋をたどって、現代でも大動脈です。
近江商人の商法は、地場のものを売り、現地のものを仕入れて帰るというやり方は、現代の商社に充分通じるものがあります。
観光というと、信仰が結びついた、富士詣で、伊勢参りなどがあげられると思います。
詣でるために整備された道も残り道の名前にもその名残りがあったりします。
用件のための旅もあると思います。
宿屋の客寄せの努力などのエピソードは、けっこうおもしろいものも多いです。
まず、知識の取り入れの前に江戸時代にタイムスリップしたつもりで、自身が旅をしてみては、どうですか?
疑問点なども浮かび上がると思いますが。

Q江戸時代の身分間の移動について

従来,江戸時代は強固な身分制のもと,百姓,町人間の移動は困難だとう認識が強かったと思いますが,実際に百姓,町人の身分間の移動は法令等で禁止されていたのかなという疑問がわいてきました。単なる民衆の「慣習」として「身分は変わることはできないと」と認識されていたのか?それとも法令では禁止されたのか?
「帰農令」等,改革で百姓(農民)を江戸から農村にかえすような命令も出ているので結構移動していた可能性があると思うんですが,これは人別帳などは書き換えず,不法に移動してたのでしょうか?

そこで質問ですが
(1)百姓,町人の身分間の移動は実際には法令等で禁止されていたのか?
(2)たとえば百姓から町人(逆の場合も)なるときには正式にはどのような手続きがなされたのか?もし法令等で禁止されているのであれば,不法に身分を変わっていたのか。
このことについて詳しい方ぜひ回答をよろしくお願いします。

Aベストアンサー

ご質問の答ですが、
(1) 禁止されておりません。
(2) 特に手続きなどはありません。大名や旗本に正規の武士として召抱えられ、あるいは御家人以上の幕臣に登用されれば、出身が百姓だろうが町人だろうが「自動的に武士身分を獲得」しました。この身分は世襲されます。
「御家人株を買う」というのは、実際は「カネを出して、御家人の養子になる」ことを指します。町人や百姓の出身者を武士が養子にすることは禁じられていませんでしたので、これが可能であり、俗に「御家人株の売買」と言われていました。

質問者様は既にご存じのようですが、「江戸時代は強固な身分制のもと,百姓,町人間の移動は困難」という歴史認識は既に過去のものです。明治時代に、江戸時代を暗黒時代に見せるためにそのような歴史教育がなされたようですが、実態は異なりました。江戸時代というのは、現代人が想像する以上に風通しが良く公正な社会でした。

そして、
「百姓が、『御家人株を買う』などの『裏技』を使わなくても、実力と運があれば、正真正銘の武士になる」
ことすら可能でした。その実例を紹介します。

江戸の訴訟 御宿村一件顛末
高橋 敏 (著)
岩波新書
http://www.amazon.co.jp/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%AE%E8%A8%B4%E8%A8%9F%E2%80%95%E5%BE%A1%E5%AE%BF%E6%9D%91%E4%B8%80%E4%BB%B6%E9%A1%9B%E6%9C%AB-%E9%AB%98%E6%A9%8B-%E6%95%8F/dp/4004304709/

という本があります。これは、相模国のある村の名主が、村で起きた事件について江戸に出て訴訟を起こし、目的を達成した経緯を詳しく書いた本ですが、この本の中には

「その庄屋の兄は、その土地の領主である旗本、
本郷泰固 (訴訟の当時は将軍の御側衆。後に若年寄に上り、1万石の大名となる)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%83%B7%E6%B3%B0%E5%9B%BA
の用人を務めていた」

ことが記されています。

「旗本家の用人」というのは「大名家の家老」に相当する地位であり、この事例のように「御側衆を務める旗本の用人」であれば、諸大名の江戸留守居役や江戸家老と対等に交渉し、陳情を受けます。そのような地位に「百姓出身者」が就いているわけです。この用人が、どのような経緯で領主である旗本に仕官し、用人の地位まで出世したのかは既に歴史の霧の彼方で知る術がなく、この本にも記載がありません。
※ 歴々の旗本であり、若年寄にまで昇って大名に列せられた本郷泰固の子孫も現在では不明である旨、前掲書に書いてあります。

ご質問の答ですが、
(1) 禁止されておりません。
(2) 特に手続きなどはありません。大名や旗本に正規の武士として召抱えられ、あるいは御家人以上の幕臣に登用されれば、出身が百姓だろうが町人だろうが「自動的に武士身分を獲得」しました。この身分は世襲されます。
「御家人株を買う」というのは、実際は「カネを出して、御家人の養子になる」ことを指します。町人や百姓の出身者を武士が養子にすることは禁じられていませんでしたので、これが可能であり、俗に「御家人株の売買」と言われていました。

...続きを読む

Q【日本史・家紋の謎】江戸時代に300藩があって300藩主にはそれぞれの家紋があったわけだが、300藩

【日本史・家紋の謎】江戸時代に300藩があって300藩主にはそれぞれの家紋があったわけだが、300藩に同じ家紋の藩があるのはなぜですか?

しかも遠い地域の藩に同じ家紋がある理由を教えてください。

隣りの藩が同じ家紋はあり得るがなぜ遠い他の地に同じ家紋が点在しているのか。藩名も共通点がなく全然違う。

それと現在の各家庭には冠婚葬祭時に着る和服にそれぞれの家紋を持っている。

この現在の家紋は江戸時代の藩の家紋が引き継がれているのでしょうか?

今の家庭の家紋を見れば、江戸時代にどこの藩に仕えていたか分かる?

けど江戸時代の300藩の家紋に存在しない家紋を使っている家庭もある。

江戸時代に存在しなかった家紋が江戸時代以降に作られて自分の家族の家紋として使っているのも不思議です。

藩制はなくなり藩はないのに存在しない藩の家紋をわざわざ作って今も疑いなく使っている家庭は何者なのでしょう?

Aベストアンサー

まず江戸時代300藩とは言いますが、分家や一族も別々に数えて300藩ですから、同じ家紋を持つ藩が有っても当然です。
また、功績を立てた部下には主君から何かしらの家紋を下賜された武将もあり、また他家と差別化を図るために家紋をゴージャスにするなど色々とあったようです。

江戸時代では士農工商の身分制度で、武士以外は苗字を名乗るのは公式には禁じられていましたが、
家紋は特に規制されていなかったようですね。遊女・芸人でも使用したと言いますね。
もちろん葵の御紋は禁止だと思いますが…。

Q江戸時代における身分による名前の特徴

江戸時代の人名などを見ていると、大名などは今でもそこそこ使えそうな名前をしているのに対し、
町人などの名前は今では見ることのできないような変わった名前をしている気がします

別の質問で、町人のような変わった名前のつけ方の理由はわかったのですが、そこで新たな疑問が湧いてきました

落語では名前でその人物のキャラ付けがわかったりしますし、インドでは名前を名乗ればカーストがわかるなどと言いますが
日本でも、武士や農民や商人や工人 更にその中でも八百屋や魚屋や大工など職業ごとの名前の特徴などはあるのでしょうか

回答お願いします

Aベストアンサー

明治以前では、本来農民や商人は苗字を許されていません。
だから当時は、土地の名前が苗字の変わりに使われいたことがほとんどです。
これは日本に限らず、例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチは、
ヴィンチ村のレオナルド、という意味です。

そのため有名な商人は、紀伊国屋、蔦屋など、屋号がそのまま苗字のように使われています。
ほとんどが地名をそのまま苗字のように使いました。
ただ、当時は、土地によって職業が固まっていたりしたので、〇〇村といえば、刀鍛冶だとか、陶芸だとか決まっていたので、地名=職業のようなイメージが常識としてあったようです。


人気Q&Aランキング