たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

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A 回答 (2件)

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。


地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop …
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この回答へのお礼

時代によって藩が違うということを失念していました。
でも、このサイトこそ自分が求めていたものです。
理想通りです。ありがとうございました!

お礼日時:2007/10/03 19:25

この回答への補足

お早い回答ありがとうございます!
この地図も大変わかりやすいのですが、もう少し欲を言えば
国名ではなく、藩名が載っている地図が欲しいです。
藩主が何家だったか、ということまで書いてあればもう言う事ないです。
注文がめんどくさくてすいません。

補足日時:2007/10/03 19:12
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Q越後高田藩歴代藩主の支配領域地図

高田藩の簡単な歴史を調べています。
初代松平忠輝は75万石、最後の榊原政敬は15万石と言われています。
各城主の支配地域についての地図を見つけることが出来ずに困っております。

Aベストアンサー

現在の新潟県上越市にあった藩ですね。
まずは地元の市史や県史を探しましょう。上越市は以前は高田市でしたから「高田市史」も探しましょう。当然「新潟県史」も。

他にも掲載されている資料があるでしょうが、探すのは大変ですね。
小生こんな場合は図書館のレファレンス(調査相談)を利用しています。図書館の専門家が探してくれるので早くて確実です。大きな図書館でないとやっていませんが、新潟県では県立図書館がしています。netからの問い合わせも可能です。一般に1週間程度で返事がもらえ、資料のコピーにも対応してくれます。しかし対応は図書館によって異なるので各図書館のwebページで確認してください。

なお明治維新当時の領地は「れきはく」が公開している「旧高旧領取調帳」のデータベースで検索できます。
http://www.rekihaku.ac.jp/doc/t-db-index.html の中ほどにある「旧高旧領取調帳」をクリック。
「旧国名」の右の V をクリックして「旧領名」を選択。その右の枠に「高田藩」と入力すると村名、村高などが出てきます。
ちなみに高田藩の領有した村数は931か村、高の合計は221117石余と出てきます。

現在の新潟県上越市にあった藩ですね。
まずは地元の市史や県史を探しましょう。上越市は以前は高田市でしたから「高田市史」も探しましょう。当然「新潟県史」も。

他にも掲載されている資料があるでしょうが、探すのは大変ですね。
小生こんな場合は図書館のレファレンス(調査相談)を利用しています。図書館の専門家が探してくれるので早くて確実です。大きな図書館でないとやっていませんが、新潟県では県立図書館がしています。netからの問い合わせも可能です。一般に1週間程度で返事がもらえ、資料のコピ...続きを読む

Q【日本史・家紋の謎】江戸時代に300藩があって300藩主にはそれぞれの家紋があったわけだが、300藩

【日本史・家紋の謎】江戸時代に300藩があって300藩主にはそれぞれの家紋があったわけだが、300藩に同じ家紋の藩があるのはなぜですか?

しかも遠い地域の藩に同じ家紋がある理由を教えてください。

隣りの藩が同じ家紋はあり得るがなぜ遠い他の地に同じ家紋が点在しているのか。藩名も共通点がなく全然違う。

それと現在の各家庭には冠婚葬祭時に着る和服にそれぞれの家紋を持っている。

この現在の家紋は江戸時代の藩の家紋が引き継がれているのでしょうか?

今の家庭の家紋を見れば、江戸時代にどこの藩に仕えていたか分かる?

けど江戸時代の300藩の家紋に存在しない家紋を使っている家庭もある。

江戸時代に存在しなかった家紋が江戸時代以降に作られて自分の家族の家紋として使っているのも不思議です。

藩制はなくなり藩はないのに存在しない藩の家紋をわざわざ作って今も疑いなく使っている家庭は何者なのでしょう?

Aベストアンサー

まず江戸時代300藩とは言いますが、分家や一族も別々に数えて300藩ですから、同じ家紋を持つ藩が有っても当然です。
また、功績を立てた部下には主君から何かしらの家紋を下賜された武将もあり、また他家と差別化を図るために家紋をゴージャスにするなど色々とあったようです。

江戸時代では士農工商の身分制度で、武士以外は苗字を名乗るのは公式には禁じられていましたが、
家紋は特に規制されていなかったようですね。遊女・芸人でも使用したと言いますね。
もちろん葵の御紋は禁止だと思いますが…。

Q長府藩主家(毛利秀元の家)の幕府からの厚遇

毛利秀元は、もともと毛利輝元の嗣子でした。輝元に実子の秀就が生まれたために身を引いて別家を立てた人で、官位は正三位参議と高く、関ヶ原の役以前は山口20万石を分知され「毛利家一門筆頭」であったようです。輝元の陣代を度々任され、優れた武将として多くのエピソードを持っています。

関ヶ原の役の後、防長2国に押し込められた毛利家の中で、長府5万石を分知されて「一門筆頭、正規の大名」の立場になったわけですが、秀元本人はともかく、2代目の光広、3代目の綱元はいずれも四品に上り、将軍の偏緯を与えられています。綱元は侍従にも任じられています。この「四品、侍従、将軍の偏緯」と言う待遇は、国持大名である毛利本家の当主と同じです。5万石の大名としては、他に例がない厚遇と思われます。
http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/chugoku/chofu.html
4代目・5代目は四品には上っても将軍偏緯は与えられず、秀元の直系が途絶えた6代目以降は「普通の5万石の大名」扱いになっていますが。

秀元は江戸時代に「戦国の最後の生き残り」的な尊敬を受けた人だったようですが、1651年に生まれた3代目の綱元(秀元の孫)にまでその余慶が及んだということでしょうか?4代目に至り、将軍の偏緯を受けなくなったのも何か理由がありそうです。

毛利秀元は、もともと毛利輝元の嗣子でした。輝元に実子の秀就が生まれたために身を引いて別家を立てた人で、官位は正三位参議と高く、関ヶ原の役以前は山口20万石を分知され「毛利家一門筆頭」であったようです。輝元の陣代を度々任され、優れた武将として多くのエピソードを持っています。

関ヶ原の役の後、防長2国に押し込められた毛利家の中で、長府5万石を分知されて「一門筆頭、正規の大名」の立場になったわけですが、秀元本人はともかく、2代目の光広、3代目の綱元はいずれも四品に上り、将軍の偏...続きを読む

Aベストアンサー

類似の質問が以前ありました。
http://oshiete.homes.jp/qa2740833.html

ご質問の主眼が以前のものとは若干違うような気もしますが、私も回答しているので、いちおう紹介しておきますね。

Q幕末期の長州藩主について

幕末期において長州藩は大活躍をします。
しかしなぜか藩主は有名ではありません。
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黒船が来航してから明治政権樹立まで約15年、長州の藩主は何をしていたのでしょうか?
子供だったとしても大人になっているはずですが。
ぼんくらだったとしても数々の歴史的決断を下しているはずで、もっとクローズアップされてよいはずです。
明治になってからも活躍しなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

幕末長州の毛利敬親(たかちか)は「そうせい公」とあだ名され、藩内の派閥である攘夷派でも幕府恭順派でも「そうせい、そうせい。」といって、#2の方の仰るように、特に藩主として積極的に国政に口を挟まなかったようです。薩摩の島津久光とは対照的ですね。高杉晋作や井上聞多(馨)が思う存分大暴れできたのは、この凡庸とした(?)敬親公の人柄によるものだと思いますが。大久保一蔵も薩摩じゃ久光公の顔色伺いが大変だったようですからね。ようするに、偉人かも知れないが、傍目には「つまらない人」に映るので、ドラマでも大した役にはならないのです。官軍だろうと賊軍だろうと自説をもって大暴れした人たちは、良くも悪くもドラマに描きようがあるのですが・・・。

そのうち、敬親公親子の物語を書く人がでてきて、偉人として再認識される日が来るのでしょうか・・・。

でもやっぱり、ドラマ性はないよな・・・。

Q毛利隆元が死去した頃の、藩の歳入は?

先日、「戦国争乱を生きる」(舘鼻 誠,著)という面白い本を読みました。
特に「父の偉業・子の重圧」章の、毛利元就の跡継ぎという重圧に苛まれながらも国政に励む毛利隆元に頭が下がりました。
ところで気になった事があります。
この章に「隆元の死後、歳入が三千~四千貫文滞り、輝元が財政が苦しいとぼやいた」という記述があります。
同書の他の章に、百六十貫文=約1120万円とあるので、三千貫文=2億円程度だと思います。
既に大大名になっていた毛利家が、年間三千~四千貫文減ったくらいで財政が苦しくなるのか疑問です。
それとも、歳入=歳出で殆ど手元に残らない状況だったので苦しくなったのでしょうか。

そこで、戦国時代の藩財政に詳しい御方、ぜひご教示ください。
毛利隆元が死去した頃の、藩の年間の歳入はどれくらいだったのでしょうか?

Aベストアンサー

直接の説明になりませんが、太閤検地が行われ前の島津家の例があります。

この時の検地によって、島津本家は太ります。
一つには穏田など個別の国人が隠していた田畑を暴きました。
二つには面積の変更面積の単位を変えた、360町歩→300町歩単位としました。

で、検地の結果各部下に与えられた石高は、額面通り。実質は変わらないで大隅・薩摩で額面が2-3割増えたそうです。
で、増えた分の一部は太閤蔵入地となり、残りは島津家本家が取った。
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/5752/seki-01.htm

島津本家が太ったというのは、当時の部下の日記に書いてあった。伊集院某だったような記憶がある。

で、太る前はどうだったかというと、有力部下とそんな大差がなかったそうだ。

毛利家も島津家同様に戦国時代においては、(太閤検地の前においては)有力国人の中の最有力者程度でした。
豊臣政権下で優遇されなかった吉川家が広家の段階で14万石程度なので、毛利本家も直轄領としては多めに見ても20万石いくか行かないかと推測します。

20万石だと10万貫文程度なので、五割を税収として 年予算 5万貫文
3-4千貫文といえば 10%近い金額だから そりゃぁ 苦しいでしょう

直接の説明になりませんが、太閤検地が行われ前の島津家の例があります。

この時の検地によって、島津本家は太ります。
一つには穏田など個別の国人が隠していた田畑を暴きました。
二つには面積の変更面積の単位を変えた、360町歩→300町歩単位としました。

で、検地の結果各部下に与えられた石高は、額面通り。実質は変わらないで大隅・薩摩で額面が2-3割増えたそうです。
で、増えた分の一部は太閤蔵入地となり、残りは島津家本家が取った。
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/5752/seki-01.htm

島津...続きを読む


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