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歴史地図なんかで満州国に重なって東部内蒙古王侯領てのがありますが
あれってどういったものだったんですか?
徳王とか関係してたんでしょうか?
外蒙古は一体となっていたみたいだけど、内蒙古は○○盟というのが沢山あって
あまり統合されていなかったようなんですけど
一つのまとまった領域だったのでしょうか?
あと、西部王侯領とか、外蒙古王侯領とかもあったのでしょうか?

A 回答 (3件)

私の持っています歴史地図にも、「東部内蒙古王侯領」というのがでています。


大体南満州鉄道西部から、大同付近までの地域です。
清朝時代の行政区分で、東蒙古に相当する地域です。
満州国は、当時の東北三省(盛州、吉林省、黒龍江省)と東蒙古からなりますから、「東部内蒙古王侯領」は、満州国時代の行政区域ではなく、それ以前の行政区域であると思われます。
その視点から見ますと、外蒙古が独立した時に、日本軍との関係で、独立も中華民国領にもならなかった地域があります。
それが、「東部内蒙古王侯領」ではないかと思われます。
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この回答へのお礼

なんか分かったような分からないような
あやふやな地域だったんでしょうね

お礼日時:2007/10/10 09:54

その地図を見ていないのではっきりした事は言えませんが・・・



清朝時代、モンゴル人は民族としては統一されておらず、多くの部族があり、それぞれの部族に王がいました。そして、その部族ごとに、清朝は外蒙古と内蒙古において土地(放牧地)を与えていました。

1911年に清朝が倒れた時、外蒙古は一人の指導者を立てて一つにまとまり、ロシアの支援を受け独立します。その時、軍を内蒙古に派遣し、一時はその大半を制圧しましたが、中国に配慮したロシアからの撤兵要求があり、内蒙古から撤兵しました。その後も外蒙古はロシアと、その後に成立したソ連の影響下にあり続け、1924年にはモンゴル人民共和国となります。そうしたロシア・ソ連という後ろ盾があった為、外蒙古は一つにまとまっていました。

一方の内蒙古は、1932年に満州国が建国された時、その東部内蒙古と呼ばれる内蒙古の東部地域が、日本により満州国に組み込まれました。そして、その地に住むモンゴル人の自治が認められる特別行政区となります。行政区分として「興安東省・興安西省・興安南省・興安北省」の四省が置かれました。東部内蒙古王候領は、こうした満州国に組み込まれたモンゴル人の土地の事だと思います。

東部内蒙古が満州国に組み込まれた時、西部内蒙古と呼ばれる西の地域は中国領のままでした。しかし、西部内蒙古にいた「徳王」は、満州国建国を一つの機会と捉え、西部内蒙古にいるモンゴル人の他の王達を集め、独立を視野に入れた自治権拡大運動に乗り出します。
そして1937年に盧溝橋事件が発生すると、日本軍の支援を受け西部内蒙古を中国から解放し「蒙古連盟自治政府」を成立させました。
ただ、日本側の思惑もあり、東部内蒙古と西部内蒙古が合併する事はなく、東部内蒙古は満州国内の自治区のままでした。
その為、当時の内蒙古は満州に統合された東部内蒙古と、「徳王」の自治政府が治める西部内蒙古に大きく二分されていました。

盟というのは「アイマク」と呼ばれる土地の行政区分の事だと思います。現在の日本でいうと県みたいなものです。
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>満州国に重なって東部内蒙古王侯領てのがありますがあれってどういったものだったんですか?



清時代、蒙古は広大な地域を放牧で暮らしていました。
が、次第に漢民族が放牧地を耕作地に変え、住み着くようになったのです。
そこで、モンゴル人の間で「反漢民族」「反清国」「独立」を主張する者が表れます。
1911年、外モンゴル(現在のモンゴル地域)在住の彼ら王侯は清国からの独立を宣言。
1913年、外モンゴル・チベットと国交樹立。
(現在、チベットは中国に侵略され、インドに亡命政府樹立。日本にも連絡事務所有り)
1915年、ロシア・中華民国が外モンゴル独立を承認。
となり、現在のモンゴル国となります。

内モンゴル地域では、日本軍に配慮して(中国は)現状を見て見ぬ形を取ったのです。
そこで、(外モンゴルに対する言葉としての)内モンゴルでは、清国・中華民国・満州国領土内に蒙古王侯領が点在したのです。

余談ですが、現在のヨーロッパ。
マルタ・ルクセンブルク・リヒテンシュタインなどは、ヨーロッパ版王侯領がそのまま独立国として存在しています。
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