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「考える」と「哲学する」とは違うものでしょうか。同じものでしょうか。
違うとすると、何か「哲学すること」に固有の技法、頭の使い方があるのでしょうか。
よろしくお願いします。

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A 回答 (11件中1~10件)

[わたしが「在るとはなにか?」と考えたとき、私の出す答えは「在るとは、、在るってことだ」というような具合で、思考が進みません。


これ「我思う、ゆえに我あり」程度ですよね。ギリシャの時代も今も変化なしですね。これ哲学でも何でもないですね。こんなの学んでも意味無いということです。たとえば、
一茶の句:かえるの子そこのけそこのけお馬が通る。程度のものですね。言葉遊びでしかないですね。たとえば、
芭蕉の句:荒海や佐渡によこたう天の川 、これが哲学ですね。
これほどの差異があるものですね。註:天の川が北極星ですね。
「「哲学する」にはなにか固有のコツや方法があるのでは、
ということですが」 「ありますね」
そのひとつはあなたの持っている知識や常識をすべて白紙に戻して再度論理的に考えてみる方法ですね。これは何故・何故という方法ではないですよ。まず頭の中をすべて見直して納得できるものと納得できないものを分類し、納得できるものについて更に何を根拠に納得したかを見直すのです。その根拠を白紙に戻し、それを繰り返す方法ですね。納得できないものについては書を読み根拠を探すのですね。その中で納得できるものがあれば、同じ過程で見直します。
このようにしてあなたの頭の中の金歯を捜すのですね。一個もないときはすべて捨てて学びなおしですね。やってみればわかりますが殆どがごみ知識ですね。ごみ知識をふるいにかける過程を「哲学する」といってもいいですね。
追加の参考まで
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この回答へのお礼

再度回答ありがとうございます。

哲学する方法として、「すべて白紙にもどす、、、」は大変興味深いです。
なにより、哲学する技法があるとおっしゃって頂けたことに、勇気付けられました。だからといって、それが出来るかどうかは怪しいですが。

#芭蕉の句が哲学である、というのは、残念ながら分かりませんでした、、

お礼日時:2007/10/07 13:10

ANo2です。

ANo4さんの、Wikpediaを参照すると、哲学の対象が『真理、善、美、正義、神、存在、時間、知識、本質、同一性、理性、因果、意識、自他などといった事柄が含まれる。・・・』とあり、一般に抽象的である。とされています。貴方は、これらから何を考えますか?

 私には、これらの言葉(概念)には普遍性があるように感じます。あるいは普遍性が込められた概念。時代や状況によって価値観などが変わるように、その時代にあった具体的な解釈をすると思います。例えば真理ですが、言葉の意味は辞書を引けば分かるでしょう。でも、具体的な事象はその時代・人間・視点などで違う。でも、真理は普遍的に真理である筈です。戦争は正しいか?人殺しは悪い、と言いながらも戦争中の人殺しは正しいとする国がある。両国にとって戦争はどんな意味を持つのか?第三者からは、戦争による環境破壊は、地球を消滅させる反逆行為であり、人類の敵であるとか。

 時間:古代ギリシャ時代は、朝日が登り、日が沈むまでの長さ?一年すれば元に戻る尺度。月の満ち欠けなど。でも永遠に人類は生を営むのか。永遠なる尺度は本当の意味で永遠と言えるのか?
人類が大昔から考えてきた根本真理のような事柄に感じます。
 それで、多くの先人は何時ごろから、どんな考え方をしてきたのか?そこで哲学の歴史や研究をする。そこには学び方や考え方はあるのが普通で先人に学ぶ。私個人は、哲学に関心はあっても専門以外の素人。

 例えば、ドイツ人でニーチェと言う人が居ました。Wikipediaで調べると出てきます。彼は『神は死んだ。』といった事で有名です。当時のキリスト教国で神を冒涜する発言は斬新な考え方でした。けれども、資本家には思い切った手法が取れる規制の解除で有ったと思われます。逆に見れば、人道的な欠如に走ったとも考えられます。ヒットラーの少し前の時代だったと記憶してます。

 哲学的な思考は、時として反社会的な暴動(イデオロギー)を起こしえます。無論、政治や社会の動きと連動しているのでしょうが。私的には、学問は真実の探求で有るものの、その目的は人類の普遍的なプラスであるべきと考えます。その辺が基本かと。それは、反社会思想は結果として排除されるものと考えます。

 現代はパソコンを使って哲学するとかでも良いと思います。その道に進めば、方法論や実践があるように思います。それと、学びと実践がセットでなければ机上の空論となり得る。
 
 長々書いてしまいましたが、以上です参考に。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
参考にさせていただきます。

お礼日時:2007/10/08 00:20

 「考える」には、広い意味があると思われます。

途方もなく、あっちがいいか、こっちがいいか、迷っているだけの時でも、「考える」といい、優柔不断などと女の子に嫌われたりしますね。「哲学する」のとそれを勘違いされて悔しい思いもしますね。
 では、「哲学する」とは何か。「哲学する」は「考える」のカテゴリーに含まれるものですが、その中で、一定の条件を満たすものと思われます。その一定の条件とは、論理的思考によって、ある分からないものの真相、真理を究明するというという事です。
 それは「哲学」だけではなく、あらゆる学問の性質です。当然です。あらゆる学問は哲学から派生したのです。つまり、学問=哲学なのです。ところが現在は内容が細分化され、それぞれがそれぞれ研究を深めて行きます。現在の哲学の役割、位置関係は、それぞれの学問から上がって来た末端的な研究結果をもとに、では結局この世とは何なのかを、総括し思想化するものです。だから哲学は、言葉で考えるだけ。物理的確証は、各学問がやってくれますから。
 論理的思考で、何か分からない事を判然とさせようとするなら、それはもう「考える」だけでなく、「哲学する」と言えるのではありませんかね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

そういえば、昔は学問は哲学しかなかったんですよね。
でも他の学問では対象を観察したり、仮説を立ててそれを実験によって証明したり、ということをやりますね。
それが哲学にはない、だから論理的に考えることが決定的に大事だ、という感じでしょうか。

#ただ、個人的には、論理は後から検証できるものではないかと思うのですが。
#自分が考えたことが論理的かどうかはわかるが、論理的に考えるというとピンとこないというか。

お礼日時:2007/10/07 22:53

「考える」深度、の問題ということでしょうか。


「対象の違い」と言えば、そうも言えるのかもしれません。

犬でも猫でも、よく観察しながら心沿わせるように接していると分かりますが、彼らだって彼らなりに「考える」ことはしています。とくに、食べていくこと自体が大変なノラともなりますと、子どもを持ったメス犬やメス猫などは、あの狭いひたいなりに、子の先行きを考えて、いろいろとやっているのが感じ取れます。もちろんヒトである当方のほうが圧倒的に知能が高いですから、彼ら彼女らの願いや意図は透けて見えるようなわけなのですが。また彼ら彼女らにおいても、その願いや意図は、往々ヒトにおいて、よく見られるように隠すものではなく、分かってもらいたい思いだけでいっぱいなのです。

分かり易くするために我々一般の日常的な例にたとえてみましょう。
おなかがすいた。なぜだ。さっき食べたところだ、なぜもたないか。食べた量が問題か。カロリーの問題か。それとも体調の問題か。
これらのことよりも、どうしたら、何を食べたら空腹を満たせるかということばかりを考える人もいる。

何かを食べたい、と思い立つ。どこに行けば、それがあるか。どうやって、それを手に入れようかばかりを考える人もいれば、なぜ自分は、それを食べたいと思うのか、を考える人もいる。

好きな人に、こちらと同様な気持ちになってもらいたい。そのためには、どうすればいいか。どうやったら相手が自分の欲求を受け入れてくれるのか。そればかりを考える人がいる。なかには相手の本音は、おおよそ分かっていたとしても、そんなことは二の次で自分の要求を呑ませる手段のことだけを考える人もいますが、これは論外として
なぜ自分は、あの人が好きか。あの人のどこに惹かれるのか。そうした面に惹かれる自分とは何者か。人を好きになるのは、なぜなのか。それは何のためなのか…そういうことを考える人もいる。
ですから心理学方面などは哲学と切っても切れない関係がある。

howとwhy

辞書では哲学とは「根本原理を追求する学問」と説明されています。

「人間は手段ではなく目的である」とは、かのカントが残したコトバだそうですが
『純粋理性批判』の「純粋」というのは「一切の経験から離れて」先験的領域に原理的に係わるという意味合いを持っている、のだそうです。

大学の哲学科では確かに哲学史中心にやるそうですが、古今東西の先達が到達した地点を探り、彼らの用語を知り、自らの思考に役立てようとすれば、それだけでアッという間に数年は過ぎて行ってしまうことでしょう。
私個人は書物よりもナマの人生経験から学ぶことのほうが質、量、衝撃とも圧倒的に上まわっていますし、そこから、いろんな方面の根本的なことがらへと思考をつないでいく切っ掛けも得ますが、そうもいかない人には読んでも読んでも読んでも、なかなかキリもつけられず追いつかないことだろうと察しております。
なにしろ自分などより数倍優れた思考能力、洞察力を持ち得た先達は世界じゅうに引きも切らずなのですものね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

やはり対象によっても「考える」、「哲学する」どちらになるかは変わってくる気はします。
今日の夕飯で哲学できるとは思いませんし。
対象の設定は「哲学する」には重要なんでしょうね。
それとは別に、設定した問いをどう考えるか、という点で哲学固有の方法があるのかなあ、と思ったもので。

いま気がついたのですが、哲学者の著作は彼らが哲学した「結果」なのか、哲学している「過程そのもの」なのかでずいぶん変わりますよね。
後者であるなら、哲学者の著作自体が、彼ら固有の考え方を表しているとも言えるのではないかと考え始めました。
そう考えれば、哲学書を読むことが「哲学する」方法のヒントになりえるのではないかと。

お礼日時:2007/10/07 20:08

#芭蕉の句が哲学である、というのは、残念ながら分かりませんでした。


この1句は「二河白道」に通じています。「二河白道」は検索すれば言葉の意味が出ています。「荒海」「佐渡」「天の川」をそれぞれ「二河白道」の二の河と白い道に対比すればこの句の意味が読み解けます。哲学の道は言葉遊びではなく深い味わいがあるものなのです。参考に
がんばってください。
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この回答へのお礼

なんとなく分かったような気がします。
お手数おかけしました。

お礼日時:2007/10/07 15:50

>ちなみに私は組み込み屋でして、回路やソフトウェアを作るのに外してはならないルールはありますが、どうしてそのような回路、ソフトウェアを作ったのか、選んだのかは本人でも説明できない場合があります。


暗黙的にそう考えてしまったとしか言えないという、、

何かいいですね。
何かを極めるという感じがあって
仕事をしている姿が目に浮かぶようです。

方寸の美
名人は幽境に遊び
無心なる筆先には神霊が宿る。
的な実践哲学ですか。
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この回答へのお礼

いえ、自分的には、それはぜんぜん哲学とは思っていないんです。
ただ、自分が考えるときは、それほど秩序立ててというか、何かの思考法を使っているわけではないので、「哲学する」というのも方法があるわけではないのかなあ、という気持ちで書きました。

お礼日時:2007/10/07 13:40

「考える」と「哲学する」とは違うものでしょうか。

同じものでしょうか。
違うものですね。「考える」は猿でも犬でも脳のあるものならすべての生物がやっていることです。「考える」をあらゆる対象、物理、化学、経済などなどに絞っても本来の「哲学する」にはなりません。
わかるように説明すると、北極星の周りにすべての星が回ってますね。北極星以外の星をいかに追求しようとも北極星にはたどり着けないということなのです。つまり不動ではない、仏教的には諸行無常、変転の中にあるということですね。変転の中にある学問でしかないのですね。
北極星とは過去の偉人がいうように「不動の真理」ですね。
一般に言う「考える」学問はこの諸行無常の学問ですね。諸行無常の学問から不動の北極星を見つけることができるだろうか? と考えると難しいとしかいいようがないですね。「哲学する」ということは「北極星」を見つけようとする「考え」なのですね。物理を極めても、数学を究めても到達できません。回路の設計に明け暮れても到達するものではありません。私もかってはそのプロでしたがね。
「哲学する」ためにはとうぜん技術が必要です。技術なく「哲学する」ことはまず無理ですね。砂浜で金歯を捜すほど難しいことはないでしょう。そりゃ金属探知機を持っていったほうが見つけ安いよね。
北極星を指差す師を見つけることが一番手っ取り早いですが、その師さえ見つけることあたわずでしょう。本物を見つけるということは万巻の書を読み何かの分野で極めても、それをすべて白紙に戻す技術がないと到達し得ないんですね。それが「哲学する」ですよ。
参考に
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

はじめて「違う」という回答をいただきました(笑)
私は、「哲学する」ための技術があるのでは、と思っていたのですが、googleで検索してもそれらしい技法というのは見つからないんです。

わたしが「在るとはなにか?」と考えたとき、私の出す答えは「在るとは、、在るってことだ」というような具合で、思考が進みません。
それで、「哲学する」にはなにか固有のコツや方法があるのでは、と考え、質問させていただきました。

お礼日時:2007/10/07 11:33

既に他の方もお答えになっていますが、根本的には同じもので、違うとすればやはり考える対象についてでしょうかね。


哲学的な考えは抽象的で、精神的なものが多いと思います。
ただの一般人でも、多くの方が思春期時代などには「生きる意味」とかについて哲学的に考えた事があると思いますし、別に技術などは必要ないと思いますよ。もちろん、知識があればより深く考える事は出来ると思いますが。

Wikipediaの「哲学」の項目も貼っておきますので、参考にどうぞ。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6

この回答への補足

回答ありがとうございます。

他の方も言うとおり、やはり「同じ」なんでしょうかね。
「哲学する」は考える対象が問題であると。

ところで、
>別に技術などは必要ないと思いますよ。

の部分ですが、そうすると、必要ないということは「哲学する」技術は存在はしているのでしょうか。

補足日時:2007/10/07 09:19
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私は物理学者ですが、若い頃哲学の本を読んでいたら「哲学とはそれが何をやる学問であるかが判るようになったら判るようになる学問である」と書いてあり、狐につままれたような気がしました。



「その点、物理学は違う、もっとしっかりした学問である」と天狗になっていました。それから「んん十年」たった今、「物理学もそれが何をやる学問であるかが判るようになったら判るようになる学問である」ことがやっと判るようになって来ました。人間の知的営みは、どんな分野でも深いですね。

哲学も物理学も、いつもいつも「考えて」いると判るようになるらしいですよ。

ところで「考える」と言うことについてですが、研究生活を送っていながら「考える」とは、カヤック(私の趣味)をしているときも、馬鹿話をしているときも、眠っているときも、何も考えていないときも、ちゃんと私の頭は考えているようです。私の拙い経験では、夜中の3時ごろに夢枕に女神様が現れて、私が研究している問題の答がなんであるかを教えてくれた場合がほとんどでした。
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この回答へのお礼

いま考え直すと、私が過去に勉強した物理学とは、過去の大物理学者が遺してくれた記録であって、それをもって「物理する」とは言わないですよね。
私がやったのはせいぜい、「物理学学」程度(笑)

ちなみに私は組み込み屋でして、回路やソフトウェアを作るのに外してはならないルールはありますが、どうしてそのような回路、ソフトウェアを作ったのか、選んだのかは本人でも説明できない場合があります。
暗黙的にそう考えてしまったとしか言えないという、、

私は何か「哲学する」に過剰な期待を抱いていたのかもしれません。

お礼日時:2007/10/07 09:15

 基本は同じようですね。

問題は何を考えるかです。悪い例では、犯罪を計画する。これは哲学ではない。同じ考えるでも、考える対象や目的が違うようです。生活に追われている人は、金儲けを考えるかもしれませんから、事業を考えるかもしれません。

 学ですから、学問です。で、『古代ギリシャでは学問一般を意味し、近代における諸科学の分化・独立によって、新カント派・論理実証主義・現象学などの諸科学の基礎付けを目指す学問、生の哲学・実存主義など世界・人生の根本原理を追求する学問となる。』とあります。

 分かりましたか?何かこう疲れます、ね。でも意外と大事そうな気もします。以上

この回答への補足

回答ありがとうございます。

やはり、考える対象によって「考える」・「哲学する」が決まるんでしょうか。
そうすると、私が「哲学する」対象について考えていると、これは既に私が「哲学している」ことになるのでしょうか。
するとたとえば、大学の哲学科では、「哲学する」こと自体に対する方法・技法などは教えず、相互理解のための哲学用語や、過去の(大)哲学者の思想のみを教えているのでしょうか。

私は、「哲学する」にはなにか「考える」とは異なる、哲学する方法・技法のようなものがあるのかと考えていたのですが、、

補足日時:2007/10/07 08:40
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Q哲学を学ぶ意義とはなんですか?

現在、大学で哲学の授業を学んでいます。

しかし、その授業を学ぶに当たって、
なぜ、哲学を学ぶのか、また、
哲学を学ぶことで得られるものは何かということを
考えるようになりました。

哲学を学ばれている皆さんは、なぜ、哲学を学ぶのでしょうか?
哲学を学ぶことに対して、何を求めているのでしょうか?
出来るだけ詳しく、そしてたくさん書いていただけると
とても参考になります。

Aベストアンサー

>哲学を学ばれている皆さんは、なぜ、哲学を学ぶのでしょうか?
>哲学を学ぶことに対して、何を求めているのでしょうか?
⇒2つの観点から申しあげます。「個人」と「人間・人類」との観点です。

(1)哲学の授業は多く哲学史に関わりますが、その目的の1つは、先哲たちがどのように「知を愛したか」を伝えるためだと思います。ご存知のように哲学(philosophy)とは、文字通りには、「愛知」を表わす語ですね。すなわち、「哲学する」とは、「好奇心を持つ・知識や智恵を得たいと願う」ことですね。
では、それは何のためか、あるいは、何の効用があるか。一言で言えば、「生きるための英知を獲得すること」でしょうか。ヨーロッパの図書館などには Discendo liberior. と書いてありました。「学ぶことによってより自由に」といったような意味らしいです。つまり、学ばない状態では、人は多かれ少なかれ無知蒙昧・迷信・妄念・偏見…などにとらわれているが、「学ぶことによって、その桎梏を解き、自由になれる」ということなのだと思います。「哲学は、我々を迷信や妄念から解放してくれる」のです。

(2)かつて哲学は諸学問を1つに束ねて統合し、これに指針を与えるという役を果たしていました。そして、それは今日でも変わらないはずです。すなわち、現代の哲学は、極度に細分化し専門化した諸科学を統合し、これに指針を与える機能を持つ、少なくともその使命がある、と言えるでしょう。この高度に文明化した現代にあっては、とりわけ尖端技術など「地球生命を左右するような科学を束ねて、今後に向けての当為を示す」という重大な使命を哲学は負っている、とそう思います。環境汚染の解決や異民族間の争いの収束を模索するとき、人間にとっての「本当の幸福」を考えるとき、そして、人類の未来を思うとき、哲学は最も重要で、最も頼りになる(ならねばならない)、学問なのだ、と言い得るのではないでしょうか。

>哲学を学ばれている皆さんは、なぜ、哲学を学ぶのでしょうか?
>哲学を学ぶことに対して、何を求めているのでしょうか?
⇒2つの観点から申しあげます。「個人」と「人間・人類」との観点です。

(1)哲学の授業は多く哲学史に関わりますが、その目的の1つは、先哲たちがどのように「知を愛したか」を伝えるためだと思います。ご存知のように哲学(philosophy)とは、文字通りには、「愛知」を表わす語ですね。すなわち、「哲学する」とは、「好奇心を持つ・知識や智恵を得たいと願う」ことですね。
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Q人間は考える葦である とは?

ふと頭をよぎったのですが、、
「人間は考える葦である」とはどういう意味なのでしょう? また誰の言葉なのでしょう? 簡単な質問ですみません。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む

Q哲学科で勉強することって???

高校を卒業したら大学に進学しようと思っている高校2年生です☆☆
どの学部に進学しようか迷っているときに、哲学科がある大学があることを知りました。
哲学に興味があったので、そういう学科で勉強したらおもしろいんじゃないかなって思ったんです。
でも、哲学科という学科があるということを知っているだけで、どういうことを勉強しているのかを全く知りません。
そこで!!哲学科に通う学生さん、もしくは哲学科で何を勉強するのかを知っている人はぜひ教えてください!!!!
自分でも大学のパンフなどで調べたのですが、より詳しい情報とかもお願いします!!

Aベストアンサー

おはようございます。
私は哲学科を卒業した者です。
皆さんが言われているとうりです。
大学によりますし、また、講師によってもかなり違ってきます。
つまり、高校までの授業とは違い、大学になると学ぶ分野が細分化されて、
学生が自分で学びたい科目を選択してゆくことになります。とくに3・4年ではそれが顕著になってきます。
教授たち自信、自分が研究している分野があって、その分野に強いわけですから、その分野のことを講義してきます。
もちろん人によりけりで、一般的なことを話す講師もいれば、専門的なことを
話す講師もいます。

ですので私が大学に進学するときには、自分の学びたい教授のいる大学に進むものがいました。

一口に哲学といっても意味合いが広すぎます。
それは古代ギリシアの自然哲学者たちが「なぜ」と考えること自信を学問とし、
その考えることを「知を愛する」ことである「philosophy」と名づけました。
その思考することである学問から、数学や音楽、天文学などが生まれ、哲学は
「万学の女王」と呼ばれています。

しかし、現在、哲学も細分化され、皆さんの言われている分野が主な研究対象となっています。
形而上学や、科学哲学といっても、一般の人には全然ぴんと来ないでしょう。
ここでそれを語ろうとすると、はっきり言ってきりがありません。
哲学とは定義づけすることの難しい学問ですから、その領域もとても広いのです。
また幾多の哲学者もさまざまな謎を出し、疑問に答え、論理を導き出しています。
その考えを知るだけで、途方もない時間が必要です。

抽象的なことばっかり言っていますが、これが「哲学とは何か」に対する答えだと思ってください。
しかし、あまり漠然とした答えでは何の参考ともなりませんので、さわりを少しだけ。


この世になぜものが存在するのか、そしてそのことを人間はなぜ認識するのか、どうやって認識しているのか。
また、目に見えないもの(神・真理・無限・絶対・永遠)は存在するのか。
有と無の関係。世界はどういう原理で作られているのか。 
そして、人はなぜ生まれてきたのか、どうやって生きていくべきなのか。


と、大雑把ではありますが、こういうことを考える学問です。
以上のものは主に古代哲学からの疑問ですが、現代では、
論理学や科学、数学なども絡み、さらに難解です!
その論文などは日本語で書かれていても、とても日本語とは思えません。
はっきり言って、実際学ばないとわからないと思います。
明確な答えが出ない物事を、真剣に思考するという、恐ろしい学問です。

1・2年の一般教育では、主に「哲学史」「哲学者の考え」を聞くこととなるでしょう。
そして、3・4年で、専門的な事を学び、自分の納得のいく答えを探すこととなります。


ただ、卒業したら社会の中、実生活では、正直役に立ちません。
ですので、#2さんの言われるとうり、変な人が多いのが特徴です。
もちろん普通の人もいますが、他の学科と比べてやっぱり・・・

よく哲学は「ごみの山」だと言われます。
ぜんぜん役に立つものはないのですが、その中に、ひょっとすると、
すごい宝があるのかもしれないと・・・

あなたは、哲学に興味がある時点で、かなり変わった人です。
ぜひ、そのまま哲学科へと進み、その生き方、考え方に磨きをかけてください!

まだ言いたいことは山ほどあるのですが、きりがありませんので、これくらいで。


最後に、哲学がいかに現実離れしているかの実例としてよく引き合いに出される
哲学の開祖タレスの2つの逸話で〆たいと思います。

「あるときタレスは天体観測のため空を見つめて歩き、熱中のあまり前方の井戸に気づかず落ちてしまった。この事件について、足元のこともわからないのに天のことばかり知りたがるのは滑稽だとトラキア人の女奴隷に笑われた。」

                        プラトン 『テアイトス』

「タレスが貧乏であったことから、世人が哲学などは生活に何の役にも立たないと
非難したところ、彼はその天文学の知識からその年のオリーブの豊作を察知し、
早いうちにミレトス中の搾油機を安く借り集め、時期が来て人々が必要としたとき
高く貸して大もうけした。」

                       アリストテレス  『政治学』  

おはようございます。
私は哲学科を卒業した者です。
皆さんが言われているとうりです。
大学によりますし、また、講師によってもかなり違ってきます。
つまり、高校までの授業とは違い、大学になると学ぶ分野が細分化されて、
学生が自分で学びたい科目を選択してゆくことになります。とくに3・4年ではそれが顕著になってきます。
教授たち自信、自分が研究している分野があって、その分野に強いわけですから、その分野のことを講義してきます。
もちろん人によりけりで、一般的なことを話す講師もいれ...続きを読む

Q「考える」とはどういうことか。

こんにちは。

唐突な質問ですが、「考える」とはどういう事を言うのでしょうか?例えば、何かを「考えて」いると自分で思っていても実際の問題は何も解決の方向に向かっていなかったり(政治を考える大衆の例)、何年も心の中にあって特に「考え」ていると意識していなかった問題が、数年後に突然解答を持って心の中に現れてくることがあります。


僕は、中学高校のころ自分は物事をとても深く考えていると錯覚していました。しかし、その当時考えていたことはといえば、井の中の蛙のようなもので、まったく幻想に基づいていました。物事を考えるのに必要な「材料」に決定的にかけていたのだと思います。


質問文も少しまとまっていないところがあると思います。僕の心の中もまとまりをつけるのが困難な状況なのです。誰か妥当な回答を下さい。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

まず初めに、一冊の本をご紹介しておきたいと思います。東大で哲学を教えてらっしゃる野矢茂樹さんの『はじめて考えるときのように』(PHPエディターズ・グループ、2001年)という本です。中学生でも読めるようなやさしい文体で書かれた哲学の本ですが(植田真さんの絵もすてきです)、そこで書かれていることは、哲学や心理学の学際的な研究領域である「認知科学」の入門書にもなっていると思います。「認知科学」というのは、人間の認知行為(たとえば記憶・想起・学習・検索・計算など)を対象にする学問で、AI(人工知能)の開発などにかかわっています。とまぁ、「認知科学」というのは、人間の思考を研究する学問なわけです。

野矢さんの本は、できれば図書館などで借りてご自分で読んでいただくとして、僕は認知科学的な知見、とりわけ状況論というパラダイムを紹介してみようと思います。状況論という見方は、人間は頭でものを考えるのではない、と言います。目でものを見るのでも、耳で音を聴くのでもない、とも言います。目や耳や脳は、見たり聴いたり考えたりすることの一つの契機でしかない、というのが認知科学おける譲許運の立場です。

では、僕らは、どのようにして「考える」のか?ということですが、先にも「人間は頭でものを考えるのではない」と述べたように、単にそれは自分の脳の内部で起きている事件ではありません。状況論は、「外側のリソース」ということを強調します。そもそも「考える」とは、自己の外側に「考える対象」を必要とします。事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ、ってことですね。

そのように考えると、Evianusさんがおっしゃるようなこと、たとえば「何年も心の中にあって特に考えていると意識していなかった問題が、数年後に突然解答を持って心の中に現れてくる」というようなことは、外側のリソースとの関係で、理解できると思います。つまり、新しいリソース(「刺激」と言い換えてもいいかと思いますが)を感知したとき、そこから改めて思考が始まるのだと言うことでしょう。脳との関係で言えば、あらかじめできていた回路を繋ぐ新しいニューロンの繋がりが生まれたということです。

僕は、Evianusさんが「物事をとても深く考えていると錯覚」しているとは思いません。僕らは、そのとき、その場所で、利用可能なリソースを可能な限り用いて思考しているわけです。そこに深いも浅いもないのではないでしょうか。ある刺激について、それをなんでもないものと捉えるか、リソースと捉えるかは人それぞれなのですから。ただ、Evianusさんが比較的、外部の刺激に対して敏感な人であるということは言えるだろうと思います。

そして最後にぜひお読みいただきたいのは、講談社から2002年に刊行されている『辞典 哲学の木』の「考える」だったかな「思考」だったかな、そのあたりの項目を、読んでください。項目執筆者は、上でもご紹介した野矢さんです。

まず初めに、一冊の本をご紹介しておきたいと思います。東大で哲学を教えてらっしゃる野矢茂樹さんの『はじめて考えるときのように』(PHPエディターズ・グループ、2001年)という本です。中学生でも読めるようなやさしい文体で書かれた哲学の本ですが(植田真さんの絵もすてきです)、そこで書かれていることは、哲学や心理学の学際的な研究領域である「認知科学」の入門書にもなっていると思います。「認知科学」というのは、人間の認知行為(たとえば記憶・想起・学習・検索・計算など)を対象にする学問で...続きを読む

Q個人的に哲学を学ぶにはどうしたらよいか

 哲学とか心理学に興味があるので、その手の本は沢山持っていますが、学び方が良く分かりません。大学で学ぶ人間はどのように学んでいるんでしょうか?普通は何からはじめればよいのでしょうか?

 知人が哲学の大学(通信制)に7年行っているので、話しを聞いたら"最初から学ばないと今の哲学が分からない"と言われました。哲学が発展してきた歴史をすべて頭の中に網羅していけということでしょうか?
 2チャンネルなどの哲学の掲示板に行っても、わけのわかない論争を繰り広げられていて…哲学書を読んだことの自慢みたいのが飛び交っていますが、たとえば私の質問を見てくれた、哲学者(?)の貴方は、哲学の書をやっぱり沢山読んでいるんですか?

 私は文章を書くのが好きなので、哲学的な考え方ができれば創作に役に立ちそうだなと思って、哲学を意識しておりますが、これまでの哲学を振り返っていたら、仕事も手につかなくなり、寿命が来てしまいそうです。
 また、生半可な知識だと訓話にもならず、似非哲学になってしまいます。哲学が何も見えないんですけど、何をしたらいいと思いますか?アドバイスをお願いします。

 哲学とか心理学に興味があるので、その手の本は沢山持っていますが、学び方が良く分かりません。大学で学ぶ人間はどのように学んでいるんでしょうか?普通は何からはじめればよいのでしょうか?

 知人が哲学の大学(通信制)に7年行っているので、話しを聞いたら"最初から学ばないと今の哲学が分からない"と言われました。哲学が発展してきた歴史をすべて頭の中に網羅していけということでしょうか?
 2チャンネルなどの哲学の掲示板に行っても、わけのわかない論争を繰り広げられていて…哲学書を読んだこと...続きを読む

Aベストアンサー

大学で哲学を学ぶ人間は
先哲の思考の跡を辿りながら自己の思考を鍛えるわけですが,
当然のことながら哲学書は原著で読みます。
アリストテレスを読むなら古代ギリシア語,
ナーガセーナならパーリ語,フッサールならドイツ語です。
しかも,ひとくちに原著と言っても
版による違いや編集者による違いがあったり,
ときには偽書なんてものもあるので,
テキスト・クリティーク(文献批判)と呼ばれる手続きを踏むことが要求されます。

一方,大学で心理学を学ぶ人間は
実験,観察,調査,面接といった実証的研究法を叩き込まれます。
データ解析のために統計学や情報処理の知識も必須です。
心理学は実証科学として哲学から分離独立した学問ですので当然のことです。
思弁的論考だけの卒論では卒業させてもらえません。

哲学や心理学で飯を喰おうというのであれば
上記のようなトレーニングが要求されますが,
そうでないのなら
まずは哲学史や心理学史の流れを頭に入れることから始められてはいかがでしょう。
独学者にありがちな独善的な思い込みに陥らないためにも,
学問の歴史的全体を俯瞰して
大まかな見取り図を頭の中に描いておくことは大切だと思います。

手ごろなものとして,こんな本はどうですか。

池田晶子(著)
『考える人―口伝西洋哲学史』 中公文庫

木田元(著)
『反哲学史』 講談社学術文庫

大学で哲学を学ぶ人間は
先哲の思考の跡を辿りながら自己の思考を鍛えるわけですが,
当然のことながら哲学書は原著で読みます。
アリストテレスを読むなら古代ギリシア語,
ナーガセーナならパーリ語,フッサールならドイツ語です。
しかも,ひとくちに原著と言っても
版による違いや編集者による違いがあったり,
ときには偽書なんてものもあるので,
テキスト・クリティーク(文献批判)と呼ばれる手続きを踏むことが要求されます。

一方,大学で心理学を学ぶ人間は
実験,観察,調査,面接といっ...続きを読む

Q哲学科に進学したことをとても後悔している

私は、現在、大学で哲学を専攻しています。
大学の哲学科に入学する前は、哲学が好きだったのですが、
大学の哲学科に在籍する内に、日本における哲学に対するネガティブなイメージに押しつぶされ、自分が哲学科の学生であることに強いコンプレックスを感じるようになり、哲学に対する意欲を失ってしまいました。また、大学の哲学科のカリキュラムも(一応、世間的には一流大学と評価されています)ひたすら語学の学習ばかりをやらされ、
肝心の哲学の授業は、教授がぼそぼそと聞き取りづらい声で、
話すのを聞かされるだけで、こんなことなら、法学部にでも行って、
趣味で哲学書を読んでいた方が、よっぽどマシだったのではないか
と今になって気づきました。

そして、哲学科であると言うと、周囲に奇異な目で見られることが頻繁にあり、(たとえば、文学部で英文学を専攻しているというのと、哲学を専攻しているというのでは、明らかに相手の反応が異なる。)
それが原因で、元々内向的だった性格が更に内向的になり、
情緒不安定な状態になっています。

哲学専攻の同級生は、哲学研究者を志望するとても勉強熱心な優等生タイプと、哲学は単位を取るのに必要なだけ手際よく勉強し、一流企業への就活にエネルギーを費やすタイプに二極化しています。しかし、
自分はそのどちらでもなく、いたずらに無為な日々を送っています。

このまま大学を卒業して、「哲学科卒という十字架」を一生背負って生きていくことに底知れぬ不安を感じます。このまま文学部哲学科を卒業するべきなのか、疑問を感じています。中退や編入も真剣に考慮し、某旧帝大の経済学部の編入試験に合格したのですが、なぜか、入学辞退してしまいました。

現在、自分は4年生で卒業間際ですが(就活はしなかったので、
内定は得られず、卒業後の進路は未定です)
自分が今選択に悩んでいるのは、
一このまま哲学科を卒業する
二今からでも、哲学科卒という経歴を回避するために卒業せずに、
他大学他学部への編入を再び目指す、あるいは中退してしまう
という選択をどうするべきかということです。

勿論、以上のような悩みは神経症・強迫症的な悩みであり、
自分の精神的未熟さや弱さが基底にあることは自覚しています。
また、大学で哲学を専攻すると決定したのは、自分自身であり、
誰に強制されたわけでもありません。

それゆえ、自分の悩みが嘲笑とともに、黙殺されるのも覚悟しています。だが、自分にとっては、非常に深刻な問題で、日々、過去の進路選択への激しい後悔と、将来に対する不安に、押し潰されそうなのです。

自分自身で色々考えていても、思考が堂々巡りをして、
突破口を見出せない状態が続いております。
そこで、皆様から、多角的な視点からのアドバイスを頂ければ、
幸いです。何卒、よろしくお願い致します。

私は、現在、大学で哲学を専攻しています。
大学の哲学科に入学する前は、哲学が好きだったのですが、
大学の哲学科に在籍する内に、日本における哲学に対するネガティブなイメージに押しつぶされ、自分が哲学科の学生であることに強いコンプレックスを感じるようになり、哲学に対する意欲を失ってしまいました。また、大学の哲学科のカリキュラムも(一応、世間的には一流大学と評価されています)ひたすら語学の学習ばかりをやらされ、
肝心の哲学の授業は、教授がぼそぼそと聞き取りづらい声で、
話すの...続きを読む

Aベストアンサー

どのような「ネガティブなイメージ」でしょうか。
アカデミックな場面でもたれているイメージと、
世間一般でもたれているイメージでは、ちがうような気がします。

世間一般のほうですが、就活で困るというのは深刻です。
が、哲学科でも、学部卒のことなら、それほど気にしなくてもよいのでは。
修士や博士卒なら、偏見の目で見られても仕方ありませんが、
それは哲学科だけに限られることではないでしょう。
学部卒でそこまで偏見の目で見るのは明らかにおかしいので、
運の悪い面接官に当たったくらいに思うしかないと思います。
できれば、偏見の目で見られているからこそ、発奮していい就職をしてやるぞ、
と思いきることができればよいのですが。
哲学科の友人がそうでした。

日常生活であれば、てきとうに切り返す方法を身につけるしかありません。
そういう場面での偏見は、抑圧ど同時に促進になったりもするので、
かえってそういった偏見を生かしてうまくキャラづけするか、
うまくそういう話題にはまらないように言動を調整していけばよいと思います。
仲のいい友達からそう思われているのであれば、
コミュニケーション上の振りだと考えていけばよいのでは。
そこまでするような相手でなければ、話すことを避けるか、
無視すればよいと思います。
無視できないのであれば、それは、耳に飛びこんできた自分への評価を、
すべて自分のなかに位置づけていかないと、
と強迫的に思っているのかもしれません。
ときには、評価を無視することも大事だ、
と意識して自分に言い聞かせるようにしないと、切りがありません。
自分にたいする肯定的な評価、否定的な評価のどちらについても、
正当として受けいれなければならないもの、
不当として拒否し、正さねばならないものに加えて、
正当だろうが不当だろうがどうでもいいものがあります。
その辺りを選別していければ、だいぶ気が楽になるのではないでしょうか。

カリキュラムについて。
哲学の本を読むと、その語学力に舌を巻きます。
日本語で読んでさえ複雑な論理で書かれていて難しいのに、
それを英語だけでなく、フランス語やドイツ語で学んでいるわけで。
専門家になれば、ただ正確に読めればよいというわけではなく、
限られた時間で正確に読み解くことが求められるのでは。
語学の学習があるというのは、
本来なら個人で訓練してもおかしくないところを、
わざわざ教員がつく上に単位が出るのだから、むしろ贅沢な話では。
……という感じで、各授業に意味を見出せばよいと思います。
この語学の講義では、これを目標にする、のように。
予習も、ただ読むのではなく、短時間で読みきれるように練習するなど。
そうでないと、語学が多いのは辛いかもしれません。

ただ哲学書を読むだけなら、ほかの学部でもできると思いますし、
がんばれば今年出た現在の哲学者の論文を読むこともできます。
しかし、その論文の生の評価、いまの雰囲気といったものを知るには、
やはり哲学科に在籍しないと無理なのではないかと思ったりもします。
部外者として哲学をかじっていたほうが楽しいのは当たり前で、
研究者になるための訓練としては面倒なことのほうが多いだろうと思います。
加えて、教員にやる気がなかったりすると、
学生のほうも面倒なことをやる気さえ起きないかもしれません。
ただやはり、質問者さんについては、部外者ではなく哲学科で学ぶメリットに
まったく目を向けていないところが気になりました。
哲学科に在籍していなければ、もっと後悔しているかもしれません
(どちらのほうが後悔することになるかはわかりませんが)。

いずれにしても、後悔先に立たずということで、
まずいまの自分の立場を肯定するところから始めてみては。
メリットを最大化し、デメリットを最小化する方向に努力するしかありません。

どのような「ネガティブなイメージ」でしょうか。
アカデミックな場面でもたれているイメージと、
世間一般でもたれているイメージでは、ちがうような気がします。

世間一般のほうですが、就活で困るというのは深刻です。
が、哲学科でも、学部卒のことなら、それほど気にしなくてもよいのでは。
修士や博士卒なら、偏見の目で見られても仕方ありませんが、
それは哲学科だけに限られることではないでしょう。
学部卒でそこまで偏見の目で見るのは明らかにおかしいので、
運の悪い面接官に当たったくら...続きを読む

Q哲学しすぎて鬱病になったんですが…

少し長くなります。
僕は高校時代、宗教にハマり、その反動から大学ではニーチェなどに傾倒して哲学書を自己流に読み漁りました。
大学では理系にいたのですが、哲学趣味が高じて卒業後は文学部哲学科に学士入学をしたいと強く考えるようになりました。しかし、親の反対や、哲学という学問としての不毛さを考えるにあたり、去年の夏(四回生)、周囲に流されるまま理系の大学院を受験することとなりました。
その際、将来を悩むあまりノイローゼになりつつ死ぬ気で勉強した僕は、入試が終わった次の日に急に、人生はなんて無意味なんだ…というネガティブな感情や漠然とした不安に急に襲われました。あの時はただひたすら時間が過ぎるのを待つしかできず、何をしていても死ぬのが怖いという感情しか持つことができませんでした。
冬まで我慢しても状況はよくならなかったので、病院に行ったところ鬱病と診断されました。薬のおかげでなんとか最近は、快の感情も感じられるようになったのでした。

しかしついさっき、去年の夏に鬱病を発病した瞬間がフラッシュバックしてきて、今にも押しつぶされそうになりました。
今現在、その感覚を紛らわすために質問を書いています。
単に蒸し暑くて去年を思い出したせいか、はたまた昼に読んだ、中島義道さんの『カイン』のせいか。
この感情が続くのなら様子を見てまた病院に行こうと思います。

うーん、結局何が言いたいのか自分でもわからなくなってきました。
つまり、皆さんは哲学的に悩みまくって、すごく虚無的な気分を感じたりすることはありませんか?そのときは何を思って気分転換していますか?
僕は、哲学の本なんて手を出すんじゃなかったと思ってしまうんですが、哲学をやってよかったことがあれば教えてください。

少し長くなります。
僕は高校時代、宗教にハマり、その反動から大学ではニーチェなどに傾倒して哲学書を自己流に読み漁りました。
大学では理系にいたのですが、哲学趣味が高じて卒業後は文学部哲学科に学士入学をしたいと強く考えるようになりました。しかし、親の反対や、哲学という学問としての不毛さを考えるにあたり、去年の夏(四回生)、周囲に流されるまま理系の大学院を受験することとなりました。
その際、将来を悩むあまりノイローゼになりつつ死ぬ気で勉強した僕は、入試が終わった次の日に急に、人...続きを読む

Aベストアンサー

読んだ本がまずいですね。中島義道の『カイン』ですか。忘れましょう。カントはよいですが、中島はイケません。根性悪です。私は、あなたのように多くの本を読んではいないと思います。どうせ哲学から離れられないのなら、『眠られぬ夜のために』あたりにしておきましょう。

 哲学って、答えがないのが答えなんです。しかし、論理も必要とされますし、おおよその道筋はつけなくてはなりません。そこで無理をして、わからないことを、さもわかったかのように論じてしまうんです。詭弁って大昔から指摘されていますが、自分は他人の詭弁を指摘できても、自分の詭弁は自覚しにくいのです。誰もがその落とし穴にはまります。

 そりゃ、まったく考えないよりはいいですよ。でもね、確信的な成果を上げるときは、人は考えていないのです。なぜなら、知っていることを実行したにすぎないからです。何もできないのは、知らないからです。自分は知らない、それを知ることが大切で、あなたはそれに気づき始めたから悩むのです。そして、それでいいんです。

 かくいう私も、悩みばかりですよ。こうしてあなたに回答を書くことで、自分とも向き合えました。ですから、あなたには感謝しなければなりません。あなたもこうしてご質問をされたなら、誰かへのご回答で返してください。考えも少しはまとまります。それに、あなたは豊かな学識をお持ちじゃありませんか。人の役に立つにはと考えれば、必要以上に意識は自分に向きません。他のご回答もあなたの助けになるでしょうし、ご回答者自身のためにもなっているのです。

 誰もが悩みを持っていることは、このサイトを一望すればわかります。あなたがこうして悩みを打ち明けられるのは、大変正直でいいと思いますよ。誰もが、何も知らないのですから、知らないことを恥じないでください。少し、そこから離れましょう。

読んだ本がまずいですね。中島義道の『カイン』ですか。忘れましょう。カントはよいですが、中島はイケません。根性悪です。私は、あなたのように多くの本を読んではいないと思います。どうせ哲学から離れられないのなら、『眠られぬ夜のために』あたりにしておきましょう。

 哲学って、答えがないのが答えなんです。しかし、論理も必要とされますし、おおよその道筋はつけなくてはなりません。そこで無理をして、わからないことを、さもわかったかのように論じてしまうんです。詭弁って大昔から指摘されていま...続きを読む

Q「輩(やから)」ってどういう意味ですか?

テレビやラジオで関西の芸人さんが「ヤカラや」って言ってるのを聞いたことがあるのですが

意味が分かる方、教えてください。

関西方面の言葉(大阪弁)なのでしょうか?

Aベストアンサー

大阪出身のものです.
疑問に思われたということは,一般に使われている「・・・する人たち」というような意味ではなく,いきなり一つの名詞のようにして「やから」が出てきたのではないですか?
もしそうなら,それは「やくざや不良など,理不尽な言い分を押し付ける人」という意味に使われているものです.特にやくざ限定というわけではなく,街のおっさんでも,変な因縁をつけてきたら,やからです.
また,「やかられる」(=因縁をつけられる,からまれる)などという言葉もあります.

Q銀行口座開設にあたってのかかる時間、口座番号について。

銀行口座開設にあたって、窓口で手続きしたらどのくらいの時間で口座が作れるでしょうか?

また、その場で口座番号はわかるのでしょうか?

Aベストアンサー

身分証明書、ハンコをお忘れなく。通帳は当日持って帰ることが
出来ますがキャッシュカードは自宅に郵送になります。10日前後
かかりますね。

Q赦すと許すの意味の違い

赦すと許すの意味の違いを教えて下さい
どこからかの引用ではなく、言葉で解りやすく説明してくれるとありがたいです

Aベストアンサー

意味としては、どっちも同じ使い方ができるんですが。私の解釈
赦す:罪などをなしとすること。宗教的なところで使われることが多いですし、そういう意味合いが強いかと。恩赦とかいいますしね。

許す:上の意味もありますけど、何かをすることを認める、許可するという感じかと。


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