ソクラテスの考える、彼の思想が反映される、理想国家論とは
どのようなものだったのでしょうか?
教えてください。よろしくお願いします。

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A 回答 (3件)

美しい国.日本のような



決して皮肉ではありません.
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 ごめんなさい。

少しぶっきらぼうだったかもしれません。

 もし、これがあなた自身の疑問であれば、先の回答のとおりです。
 もし、これがテストかレポートの問題であれば、出題者が大馬鹿者です。

 後者の場合、いかに出題者が大馬鹿者であるか、こんこんと諭してやって下さい。もちろん、それなりに理論武装する必要がありますが。
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 ソクラテスに関しての伝記的事実に関しては不明な部分が多く、彼の生涯についてはプラトンおよびクセノポンの著作を通じて知り得るのみです。

しかも、プラトンとクセノポン、両者のソクラテス描写は大きく隔たっており、一般にはプラトンの伝えるソクラテス像が知られているものの、専門の研究者たちの間では「それだけでは済まない」という見解が確定しています。
 つまり、「ソクラテスの思想」を確定的に捉えることは不可能です。彼自身、一つも著作を残していませんので。
 そして、プラトンおよびクセノポンの証言をもってしても、「ソクラテスの思想が反映された理想の国家像」は、直接的・具体的な形では見出されません。ソクラテスの弟子たちは、「なぜソクラテスは、あえて毒杯をあおいで刑死せざるをえなかったのか」という課題を、それぞれに考えただけです。そこからプラトンらの論じる「国家論」が生まれたのです。
 ですから、申し訳ありませんが、質問自体、無意味です。
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Qソクラテスの思想とソフィストの思想の基本的な違い

ソクラテスの思想とソフィストの思想の基本的な違いが
いまいちはっきり分かりません。
レポートの参考にしたいので教えてください。

Aベストアンサー

 あ、ほっといてごめんなさい。考えて見れば、何か発言がないと返事の書きようもないんですね。
 えー、この質問の10こくらい前の方に、12月28日付けの「ソフィスト」関連質問があります。もうごらんになりました?
 それを見て、何かまだ疑問がありましたら、この回答へのコメントという形でお尋ねください。

Q超越論的弁証論 理想一般について

人はどのようにしてある対象が空想か理想であるかを判断するのでしょうか?

Aベストアンサー

わたしはここは質問に対して回答をする場であって、「自由」に自説を開陳する場であるとは考えていませんし、またそのような場を求めているわけではありません(現にそうしていらっしゃる方を批判するつもりは毛頭ありません。ただ、わたしはそうではない、と言っているだけです)。レポートの課題なら、漠然と与えられた設問に答えることも必要でしょうが、ここでの回答に際しては、質問される方の問題意識をできるだけ正確に理解することが必要だと考えていますし、そしてまた、その問題意識を整理し、鮮明にしていく助けになればと考えています。

そこで先回のように逆に質問をさせていただいたわけです。自由に書いてくださいと言われても、逆に困ってしまいます。

ただ、補足要求をしておいて、結局何も答えないというのは、お互い、気分の悪いものですから、このご質問も「超越論的弁証論」と表題にあるように、あくまでカントの『純粋理性批判』の「超越論的弁証論」における「理想」に限定して、回答します。


たとえばわたしたちがこういう場で、誰かの書いた文章を読むとする。断片的な文章であっても、やがてわたしたちはそれをまとめあげて、ひとつの組織だった書き手のイメージをいつのまにか自分の内に築いていきます。何度かそれを重ねるうちに、しだいに相手のが「どんな人か」をも理解できるようになります。そんなふうに、わたしたちはさまざまな要素を相互に関連づけ、統一するプロセスを、「こころのはたらき」としてもっています。そうしてカントはここに「判断」が働いているといいます。

木の幹の一部の拡大写真を見て、これは「木」だ、と判断するように、わたしたちのあらゆる知覚や思考や概念はこのように統合-判断を繰りかえしている。そうしてその裏には、こうした判断を下す「高等裁判官」が控えている、とカントは考えました。この高等裁判官が下す判断を「統覚による超越論的かつ先天的な統一」とカントは呼んだのです(まあほかにもいろんな呼び方をして、わたしたちの頭を混乱させるのですが)。
この統覚で重要なのは
・経験にさきだってあたえられること……だから先天的
・経験に由来するものではないこと……だから超越論的
この点です。

ではこの統覚の超越論的で先天的な統一は、いったい何によってささえられているのでしょう? 経験とは関係ないのだとしたら。
カントはそれは「わたしが考える」ということだというのです。「考えているわたし」、すなわち自我は超越論的であり、知覚に先立ってあたえられたものである、と。

わたしたちはさまざまな場面で考えます。それらは経験的なコギトであると同時に、経験を超えたものとも関係をもっている、ともいうのです。
もう少し、「経験と経験を超えたもの」について説明します。

たとえばわたしたちは目の前でわんわんと吠えている毛むくじゃらの生き物を見て「犬がいる」と思います。その判断は、現在のわたしたちの感覚や、過去の経験の記憶からつくりだされたものであり、空間と時間の形式のなかで統合され、実体として構成されます。

犬が飼いたいな、とニール・テナントが歌う。「大きな犬じゃなくて、チワワがいい」という歌詞を聴きながら、わたしたちはそれぞれに、その歌に出てくる犬のイメージをふくらませていきます。その犬は現実にはいない犬ですが、やはりわたしたちは過去の経験の記憶をもとに、空間と時間の形式のなかで統合し、実体として構成していきます。

犬と遊ぶときのわたしたちは、世界に一匹しかいない具体的な犬と関係しながら、同時にその向こうに抽象的な犬とも関わっている。犬の歌を聴きながら、そこに歌われる実際にはどこにもいない「チワワ」と関係しながら、抽象的な犬とも関わっています。その抽象的な「犬」は経験のなかには存在しません。経験したことがないから、わたしたちはその抽象的な犬を知ることができません。けれども、逆に、わたしたちの個々の犬経験が依拠している「なにものか」なのです。

このような経験することができないにもかかわらず、なおかつあらゆる経験の底にあるものをカントは「物自体」と呼びます。

わたしたちの判断は、経験そのものにたいしてのみ、なりたつものです。わたしたちは、残念ながら経験の外にある世界を知ることはできません。カントはわたしたちの経験世界を「現象界」と呼びますが、「個々の犬」と「抽象的な犬」の関係にあたるように、現象界が依拠する「なにものか」の世界がある、現象界はこれを超えたものを前提としている、というのです。けれども、その世界がなんであるかは決して知ることができません。

この「物自体」の世界は、ほんとうに存在するのでしょうか。
存在するというどのような証拠があるのでしょうか。
カントによれば、そのような証拠はなにもない、といいます。それは、わたしたちが要請することができるだけです。

わたしたちは、個々ばらばらの固体からなる世界に生きています。けれども、わたしたちはそれを感性的な空間へと分析し、空間的に構成しなおします。個々の固体を一様性のもとに分類し、原因と結果という形式に帰着させていきます。それもみなすべて、わたしたちのこころのはたらきです。
わたしたちは、ここに法則を見いだします。法則ということは、すなわち、この経験が継続することを要請し、未来へと当てはめようとしていることにほかなりません。いちどきりの出来事を「経験」と認識するのも、それが継続することを要請しているからです。

ところで、ここに非常に興味深いことがあります。
わたしたちは、出来事を「経験」ととらえ、因果関係の形式に置くとする一方で、わたしたちは自分の行為は自分に責任がある、と考えていることです。
わたしたちは自分の行為をいつも因果律に従って説明します。こういう理由でこうしたんだ、このような動機があった、と、行為を因果律の下に置く。にもかかわらず、自分に責任があることを認めます。そうして、責任をともなうということは、「それをしない自由はあったのだが、あえて自分はそれをした」というふうに、「自由」を要請しているのです。

この「自由」は現象界に属するものではありません。
現象界ではあらゆる出来事が、先行する出来事を原因とする因果律の下に置かれているからです。もし自我に責任があるものであるなら、自我は「物自体」の世界になければならない、ということになります。

わたしたちは、自分が知ることのできない「物自体」の世界が、秩序を持った知的な世界であることを前提としています。わたしたちのひとつひとつの行為はそうした前提をともなっているのです。わたしたちの行為は、先行する出来事によって決定されているかに見えますが、もしそこで「自由」に行為することができるとするならば、「物自体」に属する自我が要請されているのです。

さて、長くなりましたが、いよいよ「理想」です。
わたしたちは「脚の長い男の子がわたしの理想」というふうに、おっそろしく粗雑にこの言葉を使ったりしますが(ちなみにわたしの理想は脚の長さとは関係ありません)、カントの「理想」は、逆に、おっそろしく立派なものです。なにしろ「理想とは理念によってのみ規定せられうる、いな、それどころか規定せられているようなものである」(B.596)というのですから。

超越論的弁証論では神の存在論的証明を批判します。そうして、神は「理念」としてある。そうして、その神の理念によって規定されているのが、この理想である、と。

この理想は、わたしたちの個々の経験が「物自体」を前提としているように、人間の理性が前提としているもの、理性にとっての前提として、わたしたちを行為へと導くもの、ということになります。

空想とは、質問者さんが#2の方の補足欄でおっしゃっておられるように、何ら行為をともなわないもの、その意味で

> 現実世界へ働きかけることはなく

ということ、カントに即していうなら、現象界とは関わり合いをもたない、どこまでもいく理性のみのはたらき、と言えるかと思います。

以上、長くなりましたが。

わたしはここは質問に対して回答をする場であって、「自由」に自説を開陳する場であるとは考えていませんし、またそのような場を求めているわけではありません(現にそうしていらっしゃる方を批判するつもりは毛頭ありません。ただ、わたしはそうではない、と言っているだけです)。レポートの課題なら、漠然と与えられた設問に答えることも必要でしょうが、ここでの回答に際しては、質問される方の問題意識をできるだけ正確に理解することが必要だと考えていますし、そしてまた、その問題意識を整理し、鮮明にし...続きを読む

Q西洋思想と東洋思想との比較思想について学ぶにはどうすればいいでしょうか

私は西洋哲学(主に分析哲学)や仏教哲学(インド・チベット中観思想、唯識思想、日本仏教思想、西田哲学)に興味を持っており、その両者を比較して研究することにも関心があります。
そこで次の2点について質問します。
1比較思想を行っている有名な学者さんはどのような方がいらっしゃるでしょうか?
2また比較思想の学科を置いている大学はどのようなところがあるでしょうか
何卒、ご回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

参考意見です。
 最初に注意しておきたいのは、安易に比較研究をしようとすると多くは薄っぺらな結果しか出てきません。これを行えるのは、実力のある学者か、天才だけです。
 とはいえ、普通の東洋思想の研究者は、西洋思想の中の自らの研究領域に似ている分野に関する知識は最低限もっています。現代は西洋人の研究者と交流することが多いので、東洋思想だけやって、西洋思想は知らないでは済まされない時代になっているからであり、なにより比較によってその思想が鮮明になるからです。
 例えば、唯識を学ぶのであればカント哲学のあたりは当然勉強していますし、道教を研究するならばキリスト教の知識は必須です(そして道教とキリスト教は驚くほど似ていることがわかる)。
 日本では何故か西洋思想研究が人気で、東洋思想研究は閑古鳥状態なので良質な学者が少なく、世間で売っている東洋思想に関する書物の大半は嘘つきだと思ってください。故に私は東洋思想を主軸にして研究を進めてゆくことを勧めます。
 
 比較思想研究を試みている人は多く、仏教学者では中村元、三枝充悳の名が挙がりますが、やはり井筒俊彦の著作は必読です。

 比較思想といったら京都学派の名が挙がりますが、問題も多いです。ハイデガーを禅の用語を使って訳してますが(『時と有』・・・。
 研究は基本的に原典の読み込みから出発しますので、文献学をしっかりと学べる大学が宜しいと思われます(以外に文献を読めない人が多く、特に仏教関係の読みはデタラメで、まともに読めている人はほんの一握りしかいません)。
 

参考意見です。
 最初に注意しておきたいのは、安易に比較研究をしようとすると多くは薄っぺらな結果しか出てきません。これを行えるのは、実力のある学者か、天才だけです。
 とはいえ、普通の東洋思想の研究者は、西洋思想の中の自らの研究領域に似ている分野に関する知識は最低限もっています。現代は西洋人の研究者と交流することが多いので、東洋思想だけやって、西洋思想は知らないでは済まされない時代になっているからであり、なにより比較によってその思想が鮮明になるからです。
 例えば、唯識を...続きを読む

Qブッダとソクラテス(実はプラトン?)の思想の異同は?

中央公論、田中美知太郎責任編集 「プラトンI」から池田美恵訳 『パイドン』の10章(ステファヌス索引65b)
「さあ、それでは、知恵の獲得そのものについてはどうだろう?肉体は妨げになるのかならないのか、もしその探求に当たって人がこれと協力するとすれば。
つまり、こういう意味だ。視覚や聴覚は人間になんらかの真実を教えるのか、それとも、その点についてなら詩人でさえ、いつもくりかえし語ってくれているのではないか、われわれの見聞きすることは何一つ厳密ではないと。しかも、肉体のもつこの二つの感覚が厳密でも確実でもないとすると、ほかのものは言うまでもない。いずれも、この二つよりは劣っているのだから。そうは思わないか」

さて、質問です。
ここからは自ずと「五蘊皆空」を連想します。主人公ソクラテスは、即ち著者のプラトンはブッダが説く「五蘊皆空」と同じ認識にあるやに読めます。ブッダは此処から「色即是空」を導き、プラトンは最終的に「イデア」を導きました(?)。言わば同じ認識から一方は「無」を、他方は「有」を導いたことになります。
また、ほとんど同時代を生きた二人が一方は解脱し輪廻から外れることを確信したことによって、他方は肉体は滅んでも魂の不死不滅を確信したことによって、共に従容として死に就いたことにも関心をもちます。
ブッダとソクラテス(実はプラトン?)が正反対といってもよい結論に到達した理由は何ですか。このことが東西の後の二千数百年間に及ぼした影響も多少は視野に入れて回答して下さると一層、有り難いです。
よろしくお願いします。

中央公論、田中美知太郎責任編集 「プラトンI」から池田美恵訳 『パイドン』の10章(ステファヌス索引65b)
「さあ、それでは、知恵の獲得そのものについてはどうだろう?肉体は妨げになるのかならないのか、もしその探求に当たって人がこれと協力するとすれば。
つまり、こういう意味だ。視覚や聴覚は人間になんらかの真実を教えるのか、それとも、その点についてなら詩人でさえ、いつもくりかえし語ってくれているのではないか、われわれの見聞きすることは何一つ厳密ではないと。しかも、肉体のもつこの二つの...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは。
僕なりに書いてみたいと思います。

ブッダは
「諸行無常」
起こるもの(「行<サンカーラ>」関係を持って条件が整ってなりたっている)は永遠や実体といえるものでなく瞬間瞬間変化生滅し続けている。

といい、五蘊もドゥッカ(「苦・空」たいしたことの無いもの)といっていると思ってます。

そこで我々が価値を入れたり煩悩を出したりする原因として五取蘊があると見つけたと思います。

「取」は執着といいましょうか。

もっと深い心の捏造のシステムにまで観察を深めているように思います。

西洋で行なわれる考え方に多く感じるのは「有」の前提条件です。
その根は深いものなのでしょう。

<<「五蘊皆空」と同じ認識にあるやに読めます。>>

とありますが、よく調べるとまったく違うものと解るかもしれません。

五蘊とは生命の分析結果だと思います。
その一切は無常であるととくのですから。

「魂の不死不滅」が入る隙は無いと思います。

何か参考になれば幸いです。

Qソクラテスの死の意味について教えてください。ソクラテスが自ら死を選んだ理由です、

ソクラテスの死の意味について
教えてください。
ソクラテスが自ら死を選んだ理由です、

Aベストアンサー

無知を自覚していない人は無知だ等という自説を説いたソクラテスは、政治家達の反感をかい、異分子として排除するため裁判にかけられ、死刑判決を受けます。が、もし、ソクラテスが自分の考えを説かずに、今後一切黙れば、死刑を見逃し生かしてあげよう、という条件を言い渡されます。が、ソクラテスは、自説を曲げ、お上に従って生きても、それは生きているとは言えない、植物人間と同じだ、それならば、死刑を受け入れる事を自ら望んだのです。つまり、ソクラテスは魂を売り渡し、飼い慣らされた豚になるよりも、自分の信念を貫き通す事を選んだのです、死を持って。そこにソクラテスの意思の強さ、ソクラテスの死の尊さがあるのです。支配に屈しない、元祖パンクロッカーと言えます。かっこいいですね。私も踏襲しています。自分が正しいと信じた事を貫き通します。それにより多少石が飛んで来る事があっても。でも、本当の強さと自信があれば、そんな小石はものともしません。ソクラテスのように、命を落とす事に比べたら。。


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