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あなたにとって歴史上(範囲が広すぎるので日本史、戦国期に限定)、汚名を晴らしたい人物は誰ですか?
凡将、愚将、悪逆など一般に言われている悪いイメージとは違うと言う話(説)を教えてください。
ちなみに私は松永久秀かなぁ・・・

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A 回答 (16件中1~10件)

蜂須賀小六


蜂須賀小六正勝は、盗賊の親分ではない。小瀬甫庵の作り話である太閤記が蜂須賀小六の荒々しいイメージとなっているが実は大変温厚な人物だった。彼は美濃と尾張の国境辺りの土豪、木曽川の川並衆らの頭領として、前野小右衛門などと組み、その後木下藤吉郎と行動をともにした。
 蜂須賀家は足利氏の流れをひくものとしているが、これはかなり疑わしい。もともとは、尾張守護斯波氏とのつながりがあるともいわれ、尾張国衙領である蜂須賀村(海部郡美和町)に住み、下地を預かる尾張の
土豪だった。小六正勝の祖父にあたる彦右衛門正成は、斯波義達と今川氏親が知多郡木田庄で戦った際、斯波氏に従い討ち死にし、弟正昭が家督を継いだ。その二男が蔵人正利で、その子が小六正勝である。
 蜂須賀家大名は後々まで盗人が大名になったと言われ続け、明治天皇までもそれを信じ、明治の始め蜂須賀茂韶当主に会った時、そのことを言ってからかったそうである。宮中晩餐会で出された盃を蜂須賀茂韶が持ち帰ろうとした。そのとき明治天皇が「蜂須賀よ、先祖の血は末代までも受け継がれているものよのう」とのただぐいのことを言ったらしい。しかし、この手の晩餐会では出された盃は持って帰るのが慣習になっていたうえに、蜂須賀茂韶は蜂須賀家の養子で、出身は徳川11代将軍家斉の22男である。

参考URL:http://kaizaemon.com/inada/inada.html
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この回答へのお礼

蜂須賀小六正勝は秀吉の交渉役として歴史家も認めるところなのに、夜盗はないでしょうね。礼儀作法が無ければ成り立たないのが交渉役だと素人考えをしてしまいますが、どうでしょう。土木技術に優れていたのも有名ですね。矢作川の橋は作り話ですよね。

>この手の晩餐会では出された盃は持って帰るのが慣習になっていた
これは聞いたことがあります。まったくもって不名誉な「いいがかり」と言えます。

稲田くん物語、長い話ですが、面白く拝見させていただきました。とくに語り口が独特ですが、作者は尾張の方でしょうか?
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/12 20:58

No.15です。


信濃は、4つの盆地からなっていて,戦国時代は,それぞれのの盆地で群雄割拠。甲府盆地をおさえれば国が治まる甲斐のようにはいかなかったようです。
それから細かいようですが,上田に城を築いたのは、息子の昌幸です。幸隆の時代は,もっと山奥。
そういえば,この真田昌幸。秀吉に「天下一の卑怯者」とののしられながら、武田、徳川、上杉,豊臣、と主君をかえ、最後には,2人の息子を関ヶ原で戦わせてまで,家を守ろうとした。まさに戦国サヴァイバーですね。
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この回答へのお礼

再度の回答感謝です。上田はおっしゃるように後々ですね。
すこし脇にそれますが藤堂高虎も主君を換えることが多く、日和見などと言われどちらかというと不評です。(ご存知かと思いますが、築城技術には素晴らしいものがありますね)
家を守る為には小大名は多少こういったことが当然必要になります。これはののしるほうがおかしいと思います。

それにしても本多忠勝。優秀な真田の血を入れることができました。徳川は真田の強さをだれよりも知っていますから。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/14 10:01

村上義清。


信濃の国にとって,武田信玄は侵略者です。
その侵略者を、2度も撃退している村上義清は、信州のヒーローです。
でもそうなると、真田幸隆は信州の裏切り者になってしまう・・・
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この回答へのお礼

義清は強いですね。
信濃に限らず守護大名がしっかりしていない地域というのは、侵略されやすい印象がありますが(特に小笠原氏)、彼の存在は信濃にとって大きかったことでしょうね。
真田も始祖の地を追われその奪回に執念を燃やし続けています。真田家(滋野一族)にとっては信濃云々より始祖の地上田が大事でしょう。
たとえ裏切り者と呼ばれてもそちらを取りそうです。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/13 22:15

思わず「お?」っと思いましたが、



役不足や器用貧乏の誤認よりはよっぽど可愛いです。^_^
驚く程に誤解なられています。

役不足
この大役者にこの役では不足だろう。

器用貧乏
器用で多芸なので良く使われ、結局その道の師匠にはなれない。
(器用なんです。)

汚名挽回(問題無し。華麗にスルー。^○^)
となると徳川綱吉ですね。

彼は理想の仏教国家を目指しますが、老中は大反対。

「民は食べ物を選ぶ余裕などありはしません。」
「これでは猟師や漁師は皆死んでしまいます。」

意見されるだけで味方もなく、仕舞いに「ひねくれてしまいます。」
人が困るように困るようにお触れを出し始めます。^^;
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この回答へのお礼

綱吉は戦国期と関係ありませんが、面白いのでもう行っちゃいましょう!
誰か「殿は菜食主義(そんな言葉はないにしてもそれに近い)であらせられるのでしょうか?」と聞いたのでしょうか。これに綱吉逆切れ!「おまえたち文句あるのか?じゃあお触れだしてそういうことにしてしまおう!魚も肉も食うな!」
嘘か誠か当時は犬も食べていたという話を何かの本で目にしたことがあります。
理想の仏教国家を作るのは大変ですね。愛の国ガンダーラ。
回答ありがとうございました。(いつもの脱線癖全開です。反省します)

お礼日時:2007/10/13 22:09

No.10 へのお礼


> 信長は絶対、認めないでしょうね(笑)。信長と松永久秀の
> 場合もそうとしか思えないシーンに出くわしますもの。

 義教暗殺は、赤松満祐・教康親子による嘉吉の変ですが、松永とはどういう関係でしょう。
 ちなみに松永が殺したのは、義輝です。
 その「シーン」とは何でしょう?

 なお、記憶だけで書いたので、第五代というのは間違いでした。
 第六代です。訂正します。
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この回答へのお礼

義教と久秀は関連はありません。もちろん義輝暗殺の疑いもかけられているのも知っています。
嘉吉の変(乱)も知っています。これらを混同したのではありませんが、文章上そうとられたのでしたらお詫びします。

さてシーンなどと言うと大げさですが、信長が真似たのではないかという久秀の才はあります。城造りにおいては天守閣の原型を信長に先んじて作ったとも、武器、雑兵の居場所としての多聞櫓をおいた多聞城など先進性もあります。これは安土城に天守閣として現していますね。

例の三悪として信長が家康に紹介したものの中でも旧主を簒奪した(三好家)、神仏を恐れない(大仏殿焼き討ち)、将軍暗殺(義輝)などですが、この老人にでも出来るものが信長自身が出来ないなどとは認めない、やってやる!ぐらいだったのでは(あくまで想像です)。
しかし三悪は誤解でしょうね。主家簒奪なんて戦国期には良くあることですし、大仏殿に立てこもったのは三好三人衆であり、そこで戦争やってしまったのであってこれは成り行き。義輝もやらなければやられていたのかもしれません(これはちとやりすぎか)。
大仏の首が落ちた日に自爆したと言うのも実はその日を選んで自ら死んでいったとの説もあります。
もちろん吝嗇であったのも有名です。名物集めもしています。
美意識も持ち合わせ、先進性もあったのではないでしょうか(私見)

汚名をきせられた歴史上の人物に沢山の回答を寄せていただいてありがとうございました。私の表現の変な質問にもご指摘いただいた皆様にも同様に感謝しております。No13様のお礼の場をお借りして重ねてお礼申し上げます。

お礼日時:2007/10/13 21:46

汚名挽回は正確な表現ではありません。

   挽回は失った物を取り戻してもとの状態にすることで、汚名挽回ではもとの汚名に戻ってしまいます。   従い本人の立場では汚名返上、名誉挽回などで、評価する人の立場では汚名をそそいでやる、名誉回復を図ってやるなどが正しい表現になります。
もっとも今の日本語では汚名挽回で意味は通じます。  「汚名返上して名誉挽回」を縮めたと理解しているわけです。

本題ですが私見では足利義昭も評価が低すぎると思います。
あちこちこそこそ逃げ回り、器量の小さい策士と見られていますが、彼の立場では止むを得なかったので、むしろ僧として幽閉されていた一乗院から間一髪遁れ、三好一党から追われてあちこち廻って逃げ切ったところは、決断力が結構あった証拠でしょう。
越前朝倉氏を頼った判断もよかったと思います。   遠くない織田信長を頼り京都へ帰ることが出来たからです。
ただ残念なことにこの頃順調に行きすぎ、気がゆるんだのでしょう、本来の警戒心が失せてしまい、辛抱が出来ずことを急きすぎたのです。
彼は徒手空拳で天下をとった頼朝を夢見たものでしょうが、頼朝の辛抱を見習うことが出来ませんでした。
織田信長の傀儡としてじっと辛抱していればチャンスはめぐって来たでしょう。   一応形式的に幕府を開けたわけで、地方の大名に対しては足利将軍の名は利用価値があり、織田信長は粗末にはしなかったでしょう。
力を養いながら時期を待つのがよかったのです。
もっとも成功しても時代は変わっているので、昔のような権力はありませんが、一応将軍として奉られたでしょう。   その後は隠居幕府消滅でしょうが彼なりの業績は挙げられたでしょう。
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この回答へのお礼

本題でお願いします。ごめんなさい。私がバカだったぁ!

義昭は生まれた時代が悪かったと解釈しております。
おっしゃるように結構修羅場をくぐっています。召抱えた人材も細川幽斉しかり明智光秀しかり豊富です。それなりだった阿波公方とは違って僧籍だったので、勉学もできていたようです。
毛利の庇護のもと生活し、秀吉のお伽衆になり、生き延びてきたことは戦国期で評価できると思います。もうちょっと我慢したら本能寺の変だったのに、惜しいことをしましたね。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/10/13 19:48

「挽回」も「返上」も当人がすることでしょう。

第三者がするなら
「再評価」または「名誉回復」というべきでしょうか。

 私は、楠正成。 文部省唱歌「桜井の決別」に歌われた「忠君愛国」「滅私奉公」の前に「親子の情」「他人への思いやり」を現代の日本人への手本として再評価したい。
 ちなみに 文部省唱歌「桜井の決別」は、Google で歌詞と伴奏が検索できます。
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この回答へのお礼

ご指摘ありがとうございました。(もうそろそろ堪忍してください)

ちなみに戦国期限定との前置きもしておりますのであしからず。
楠木正成は再評価したいですね(悪い印象は微塵もありませんが)。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/13 19:41

 足利義教(足利第五代将軍)。



 恐怖政治でも有名ですが。
 信長の前に「魔王」と呼ばれたのですが、政治的業績で言えば、比叡山の僧兵の武装解除や、九州平定など義満にもできなかった課題を解決し、足利幕府で最大領土を獲得した将軍です。

 むしろ、信長は義教の手法をほぼなぞったと言ってもいいくらい、同じ事をしています。信長は、方法論として義教のことを相当研究したのだと思われます。
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この回答へのお礼

信長は絶対、認めないでしょうね(笑)。信長と松永久秀の場合もそうとしか思えないシーンに出くわしますもの。
恐怖政治と言うと義教でしょうね。
少し脱線しますが(ついでに)、随分前に安土城下で信長生誕400年祭というのが開かれたそうです。城下では大変な賑わいだったとか。主催者側は滋賀県下のいろんな団体に参加を呼びかけたそうです。
比叡山延暦寺にも恐る恐る声を一応かけました。が、参加しなかったとか。当然といえば当然です。その時の法主が怒りをあらわに会見で訴えていました。400年経っても許せない行為でしょうね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/13 19:36

 豊臣秀次


 
 質問者様も酷評されていますし、『殺生関白』等と言う異名も有名ですね。
 
 一番有名なのは小牧・長久手の戦いでの敗戦です。でも逆に言うと敗戦はこの一つだけ。
 紀伊・四国征伐、小田原征伐での山中城攻め、奥州仕置などでは武功を発揮しています。
 (まぁ秀吉の後継者ですから、負ける様な戦には出る事は無かったはずですが)
 一般政務においても山内一豊、堀尾吉晴らの補佐もあって無難にこなしています。
 この人は古筆を愛し、多くの公家とも交流を持つ当代一流の教養人でもあったみたいですし、評判ほどの愚将っぷりではないと思われます。

 秀次が愚か者になった原因は…言うまでも無く養父・秀吉の老耄でしょうね。
 
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この回答へのお礼

>秀次が愚か者になった原因は…言うまでも無く養父・秀吉の老耄でしょうね
これも賛同しますね。酷評していますが、同情もしています。秀吉に振り回されたのは秀秋も同じ。
小牧・長久手では池田・森の将校を無駄死にさせて秀吉の怒りを買っていますね。世継ぎ問題以降、おっしゃる「殺生関白」になってしまいました。最後の切腹の場で囲碁?を側近の?(失念)として、やっと勝てたので、盤をそのままの状態にしておくように指示してから腹を切り、北向きに倒れたとか。
風流も学問も心得ていた(武術はそれなりですが)。
ちゃんと育てていればそれなりの人物だったのに。惜しいことです。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/13 08:00

松永久秀、いいですよね。


散り際が潔くて。
あのさなか、ですもの、どのおん大将も、多少ダーティなことは、しましたよ。
「弾正星」のエピソードも好きです。
荒木村重と、比べると、余計かっこいいです。

石田三成、戦下手を返上は、かばいきれないかも。
忍城は、強い姫ということで、甲斐姫にデフォルメがかかったかもしれません。
忍城水攻めは、秀吉の案という説(三成は、反対した)でも、3万の軍勢で、わずか300人の守る城を落とせなかったのは・・・。
戦下手という以外は、問題のない人物では?
今でも、人気は、高いですし。
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この回答へのお礼

ああ、嬉しい(親戚か?!?)弾正と言えば松永ですぞ。
彼のやった三悪に信長は嫉妬した?のかも知れません。しかし天守閣を発明し、多聞造りを構築した美意識。たいしたものではありませんか。
齢50を越してからのバイタリティは恐れ入ります。鈴虫飼ったりかわいい老人の一面もありますし。

三成を酷評しているのは武官派ですね。(どちらかというとそちらの連中の方が嫌いなのですが)。裏方がいなければ戦が出来ないのも事実ですよね。でも結局甲斐姫の引き立て役に回るところがなんとなく憎めないです。讒言も忠義からでたものが多いと思います。後世の本多正信の方がえぐい気がしますが。
そうそう伊丹で荒木村重の悪口を言うと恐いのでご用心。地元では結構ヒーローなんですって(作家・田辺聖子さん談)。
再度の回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/13 07:50

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Q汚名挽回

汚名返上とよく言いますが、汚名とは、お返しするものではなく
漱ぐ(すすぐ)ものではありませんか?
また、「劣勢を挽回する」とも言いますから、
「汚名挽回」だって、間違いとは言いきれないのではないでしょうか。

Aベストアンサー

「を挽回する」は失ったものをとりもどすことだから、失ったものは、いいものに決まっている。だから、「汚名挽回」はおかしいとする考え方と、「衰勢を挽回する」「衰運を挽回する」「劣勢を挽回する」を各辞書がとっているように、「挽回」には「望ましくない状態になったものを元のよき状態に戻すという意が含まれている」のであるから「汚名挽回」もおかしくないとする考え方がある。

「小生アタマが硬いもんで<汚名挽回>はちょっと言いにくい感じがするが、理論的にはそのとおりである。(高島俊男)

(高島俊男さんの「お言葉ですが 巻5」参照)


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