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私は無神論者で神の存在を否定しますが世の中には神の存在を信じている人がかなり居ますがこれってどう考えればいいですか。

A 回答 (16件中1~10件)

> 回答有り難うございました.貴方様は専門家の方です。


> 貴方様が考えておられる定義をお教えいただけませんか?
> よろしくお願いします

 結局、あなたはあなたの定義を述べることを放棄したわけですね。これを指摘された後に「実は…」は通じないということは、認識しておきましょう。
 このことはつまり、あなたは定義を考えずに「否定」という単語を使ったとことが確定したことを意味します。「否定」という言葉の効果は、非常に強力なのですが、その効果だけに目が眩んでそれに伴う必要な義務をろくすっぽ考えずに使ってしまう人が多いのです。そして、あなたもその一人だということがこれで確定しました。
 強力な効果を実際に発揮するには、そのすべての義務を果たした上ででないとなりません。果たしていないことが判明したら、「否定」を使った人の評価は地に落ちます。
 つまり、あなたの評価は地に落ちました。
 自業自得ですが、今後、気をつけましょう。

 例えて言えば、モデルガンで強盗を企んだ犯罪者が、凶器がモデルガンだとばれて周りの人質から袋叩きにされるようなものです。

 では、専門家として回答しましょう。
 宗教の各宗派ごとに、神の定義が作られます。
 従って、一義的な「神」一般の定義は存在し得ません。

 それゆえに、No.11 の回答になるのです。

 要するに、あなたの否定する神も、「無宗教」という宗教の一宗派の神に過ぎないということですね。
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この回答へのお礼

何となく解ったようです.有り難うございました。

お礼日時:2007/10/13 20:23

No.11 の補足


> それでは私の定義を申し上げます。

 この補足の中には、結局「神」の定義が書かれていないのですが、何なのでしょう?

> 宇宙の端は無いと言われています。しかしその証明は出来ません。

 それは宇宙物理学の話ですね。神の話とは関係ありません。

> 神も無いので証明出来ません。無いものを有るとは証明出来ない。
> これが無心論者の私の考えです。

 これではトートロジーですから、単なる証明放棄ですね。証明ではないので、敢えて言えば信念の言明でしょう。この言明からは、あなたが「無いと信じたい」ということはよく分かるのですが、「ある」と信じている人にとっては何の効力も無いとは思いませんか?

この回答への補足

回答有り難うございました.貴方様は専門家の方です。
貴方様が考えておられる定義をお教えいただけませんか?
よろしくお願いします

補足日時:2007/10/13 18:59
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無神論者も有神論者も、実は同じ場所にいます。

つまり、よくよく考えれば神の存在・不在は「決めようがない」のにもかからず、「居るか居ないかのどちらかである」と思ってしまっているところですね。

たとえば、「前世はあるか」と問われたとき、現世からは何もわかりようがありません。どんなに科学的に考証しても、「科学力の不足でわからないだけだ」と反論することは永遠に可能ですし、逆に、どれだけ前世の存在を示す証拠が出てきても、「その証拠は間違いではないか」と続けられます。

すなわち、一定のルール内という取り決めが特に存在しない場合、「正しい」とか「間違いだ」とかに意味がないのです。

「正しい」というのは、前に「~的に」と付けないと使えないものです。1+1=2は「数学的に」正しい。でも数学じゃないなら?たとえば泥団子2個を繋ぎ合わせて大きな泥団子「1個」にした場合は、「1+1=1」でしょう。この式を書くとき、「数学的じゃなくなった」わけですが、解釈として成り立っていないわけではありません。また、この解釈が数学的解釈より「劣る」とも言えません。

なぜ「1+1=1解釈」と「1+1=2解釈」が等価なのか。数学的解釈の方が「上」じゃないのか、と言いたくなるところですが、原理的に「ルール同士に優劣はない」のです。優劣というのは、一定の基準(つまりルール)にしたがって決められるものですから、ルールの優劣には「ルールのルール」が必要なことになり、そしてルールのルールの優劣を決めるにはルール・ルール・ルー…で以下は無限後退。つまり、ルールは最終的な根拠であって、これ以上に遡って根拠を求めるとは出来ません。これが「正しい」の限界です。

「神は存在する」という命題は正しいかどうか。これは使用するルールによって決まります。ある人は科学ルールを使って「間違いだ」と言い、ある人は宗教ルールを使って「正しい」と言うでしょう。どっちも一緒です。

ご質問は「神の存在を信じる人をどう考えればいいか」ですが、「神の存在が正しくなるルールを使ってるんだな」くらいでいいと思います。

ちなみに、私は科学ルール派です。汎用性、応用力、現象の説明能力などを吟味してこれにしました。究極的には好みで選んだだけです。
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この回答へのお礼

回答有り難うございます。納得しました。

お礼日時:2007/10/13 17:50

有限しか見ない世界観→無神論者


無限を垣間見る世界観→有神論者

単純にこういうことでは?
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この回答へのお礼

有り難うございました

お礼日時:2007/10/13 16:51

>どう考えればいいですか?



 感識できないものを、有るとも無いとも断定する事は出来ません。だから、有るという説の人と、無いという説の人が存在し得る、と考えれば良いのでは?

 有神論者がかなり居るのは、無神論の根拠がそれだけ弱いからではありませんか?あなたの無神論の根拠は何ですか?
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この回答へのお礼

宇宙の端は無いと言われています。しかしその証明は出来ません。神も無いので証明出来ません。無いものを有るとは証明出来ない。これが無心論者の私の考えです。有り難うございました。

お礼日時:2007/10/13 16:55

> 回答有り難うございました。

神とは定義のしようがない
> もの。分けが解らなくなりました。どなたか教えてくだ
> さい。

 それはおかしいですね。
 あなたは自分で「神の存在を否定します」と言っているじゃないですか。この言葉を書いた時点であなたが「否定」しているものの定義を揚げればいいんです。
 定義が無ければ否定もできませんから、定義はあるはずです。

 あなたの言う「神の存在を信じている人」の部分での「神」の定義が、それと違うことだってあるでしょう。というか、私の見た所100%そうなりますが、そういうことはよくあることです。

 つまり、あなたが神の定義を述べられなかったのは、この不整合に自分で気付いたからじゃないですか?
 要するに、あなたの問いに対する答えは、そういうことです。
 はっきり言えば、あなたが否定する「神」と、他の人が信じている「神」とは、別物です。従って、別に何の矛盾も無い、ということですね。

この回答への補足

それでは私の定義を申し上げます。宇宙の端は無いと言われています。しかしその証明は出来ません。神も無いので証明出来ません。無いものを有るとは証明出来ない。これが無心論者の私の考えです。

補足日時:2007/10/13 16:35
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この回答へのお礼

有り難うございます。宗教被害に遭われる方が方々であるので
こんな質問をしてみました。

お礼日時:2007/10/13 16:49

簡単に答えられる話ではないですよね。


「神は妄想である―宗教との決別」という本を読むことをお勧めします。高名なリチャード・ドーキンスが書いた本で、真正面からこの課題に取り組んでいます。
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この回答へのお礼

有り難うございます。宗教被害に遭われる方が方々であるので
こんな質問をしてみました。

お礼日時:2007/10/13 16:48

自分の有意識が世界であるとの思い込み


無意識を含む無限の広がりを意識しないことによる

しかし
逆説的だけれども
無神論者の方が真の神の意味を認識するに至り易いということはあるかも知れない

科学的な観察によるガイア理論より西田哲学が考察した絶対無や
量子力学といった共通言語としての現代科学が強制的に眼を開かせる

人も自然のもの
開眼にも
結実にも
時期がある
成長過程における成熟の時期により
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この回答へのお礼

有り難うございました。あまりにもいろいろな考えがあるので
驚いています

お礼日時:2007/10/13 17:56

自分とは何かが原理的に究明不可能と思えば神を信じざるを得ないのではないでしょうか。

無神論もそういう意味では宗教の一種ではないでしょうか。自分を究明することが可能と考えているのならばそれこそ無神論だと思います。
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この回答へのお礼

有り難うございました

お礼日時:2007/10/13 17:52

この質問は素朴でいて実に面白いと思いました。



まずは私の意見を述べさせて頂くと、
ごく自然な行為だと認めるべきだと思います。
古来、人間はこうして部族や民族を守ってきました。
世界各地で違う教えをもってしても仲良くやってきました。

信仰心とは、一つに不安の解消というところがあると思えます。
人は歳を経ると自ずと拠り所を失ってゆきます。
誰も居ない何もない暗闇が続けば、人は何かにすがりたくなるものです。
kaiga123さんとしても、神は信じなくても漠然とした何かを、
心に巡らすことはあると思います。

きっと、その漠然とした何かをどうにか形にしたい、
切なる願いが信じるべき神を生み出したのかもしれません。
そしてその神を信じる人々にもそれぞれ価値観や考えがあります。
別の教えを作ったり、自分の拠り所となる場所を
築いたりしてきました。

神を否定するのは勝手ですが、
人を否定するのは哀しい出来事です。。
ただ何故か信仰にはそういう側面が付きまといます。
例えば自分だけが正しいと生きて行けば、
人の意見を素直に受け入れられなくなってしまいます。
それは神の存在如何に関わらず人間に内在する問題のように思えます。

信仰とは、偉大なるものに触れ怖れを抱ける喜びだと考えます。
先人の知恵を学べるのは良い機会で素晴らしい体験だと思います。
私は神や仏を信じる姿勢でいますが、かと云って特にすがる気はありません。
自信を持ってどちらも良くそのどちらも大切だと考えています。

本来、宗教は人の為にあるのであって、
信仰の為に人があるのではないと言いたいところです。
そこを差し違える方は人として尊敬に値しないと考えています。
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この回答へのお礼

有り難うございます。宗教被害に遭われる方が方々であるので
こんな質問をしてみました。

お礼日時:2007/10/13 16:46

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