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テレビなどで太平洋戦争前後の映像を見ていて疑問に感じる時があるのですが、当時は日本国男子の全員がある年齢になると徴兵の義務が課せられていたように聞いています。 いわゆる赤紙というものですね。

もし拒否したり逃亡したりすると、非国民として厳罰が待っていたはずです。

ところが戦争末期になっても、当時の映像では普通のサラリーマン風の男性が街中を歩いたり、家族と買物や散歩したりしている光景を見る事があります。 おそらく年齢的には徴兵に取られておかしくないような世代かと思われます。

考えれば、あの戦争中でも男性が必要となる職場が多くあったように思います。 たとえば鉄道関係者、警察官、消防士、医師、自治体の公務員、電気・ガス会社の社員、あるいは建設関係 ・・・ などなど、女性だけでは運営出来ないと思うのですが、これらの男性たちには徴兵義務が免除されていたのでしょうか? 

それとも、形だけ一旦徴兵に取られてどこかの軍部に属し、その後に 「派遣」 という形でまた元の職場で以前同様の仕事を続ける、そして家から通う ・・・ こんな制度だったのでしょうか? たしか軍艦を建造する造船所の技師や職工はそんな身分になっていたと、どこかで聞いた覚えがあるのですが、ハッキリしません。

もしそうなら、そんなラッキーな職業には具体的にどんなものがあったのでしょうか?

健康上の問題で徴兵が免除された人は除くとします。

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A 回答 (7件)

高等文官試験に合格した官僚(今で言うキャリア)は基本的に徴兵免除だったそうです。

また、軍といえども、徴兵関係は役所(陸・海軍省)の仕事ですから、本省勤務の人間は、他省庁でも、キャリア組でなくても「余人を持って代え難い」という名目で徴兵免除、或いは徴兵されて即日帰郷などの措置が取られたそうです。この時に、上司や同僚に嫌われているとその措置をしてくれない、なんてこともあったとか。これはコネの方ですね。

金の方ですが、まぁ、人間の世界ですから露骨な袖の下で徴兵名簿の書き換えなどということもあったでしょうが、45年には徴兵検査を受けた者の9割が実際に動員されたということですから、それほど多い事例ではなかったと思います。
むしろ、金持ちの子弟は、高学歴ですし、働く場所も親の力などで選べますから、軍属名目の勤務先に勤めたり軍関係の仕事に従事したり、満州国政府に勤めるとか、ということで結果的に徴兵逃れが出来たケースが多かったのではないでしょうか。

アメリカではこれが結構多くて、大統領選挙の時の経歴で問題になったりしますよね。徴兵逃れのため州兵の、しかも空軍(一番戦場に行かないポジション)に親の力で入隊するとか、カナダに移住しちゃうとか。
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この回答へのお礼

有難うございました。
なるほど、あの悲惨な戦争の最中でも金とコネのある人とない人と、随分と扱いが違っていたんですね。 同じ国民なのにと思いますね。
徴兵制を導入している国では古今東西問わず、どこも同じような状況になるようですね。 勉強になりました。

お礼日時:2007/10/17 14:51

基本的に、徴兵をされるのは20歳前後の若者が中心です。

というのも、やっぱり人間30過ぎると兵隊としてはあまり役に立たないのです。まずは体力が劣ります。それに、30過ぎると「突撃ィ!」といってもなかなかやりません。死ぬのが惜しくなるんですね。
それと病気持ちや体力に劣った奴というのも徴兵の対象外です。

ちなみに私の祖父は小学校の教師をやっていたのですが、戦争終盤になると教師達も軍事訓練を受けなければならなかったそうです。ところが、やってきた軍人が祖父の教え子だった人だそうです・笑。相当やりづらかったみたいですよ。
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この回答へのお礼

有難うございました。
当時、街でブラブラしていたのは30歳過ぎのサラリーマンだったんでしょうか。 
たしかに家庭がある兵士なら、戦況が苦しくなったら早々にギブアップして捕虜になる道を選ぶ人が多くなって統率が取れなくなるでしょうね。

お礼日時:2007/10/17 14:46

近衛文麿の息子や北白川宮の戦病死の話はよく引き合いに出されますが、“皇族だって戦場へ行くんだ”という庶民の戦意高揚のために出兵させられ“ババを引いた”とする見方が一般的です。

庶民が出兵させられた状況とは全く異なります。
昭和になってからも“金の力”は同じでした。氏族、家族、皇族が庶民と同じレベルで赤紙を受け取ったなどと思っている人は、少なくとも当時の徴兵状況を研究をしている人には誰もいないでしょう。
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この回答へのお礼

有難うございました。
太平洋戦争中でも金の力で徴兵を免除される人たちがいたんですねえ。 こういう人たちは非国民と非難される事はなかったんでしょうか。 お隣の韓国では親のコネを使って兵役から逃げる人がいて、随分マスコミなんかで叩かれていると聞きました。
やはり戦場に送り込まれたのは、貧乏所帯で若い世代の次男以下の男性ばかりという事になるんでしょうか。
そうだとすると、地獄の沙汰も金しだいという諺どおりになると思います。

お礼日時:2007/10/17 11:27

そもそも日本の動員率は参戦主要国の中では低い数字ですよ。


学徒動員後の1944年の段階でもドイツ18%、ソ連25%、アメリカ8%に対し日本は6%でしかありません。
(延べ率にするとアメリカ以上になりますが、これは本土決戦に備えたいわゆる「根こそぎ動員」によって終戦間際に急激に増えたからです)
つまり動員されてない男性の方がずっと多いのです。
日本は原則的に戦場は海外であり、多数の兵員を動員しても補給に使える船舶がありませんし、装備する武器の生産も足りていません。
だから普通のサラリーマン風の男性が町中を歩いているのは何でもない当たり前のことなのです。
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この回答へのお礼

有難うございました。
お話のとおりだと、徴兵に該当する年齢の人でも戦場に行かず、街で普通に仕事をしていたサラリーマンたちも結構いた事になるんですねえ。 となると、どんな人が不本意ながら赤紙一枚で引っ張られていた事になるんでしょうね。 気になるところです。 今では何となく日本男子全員が戦場に送り込まれていたようなイメージで捉えられているように思います。

お礼日時:2007/10/17 11:22

 竹槍事件を除けば、大正期以前(30代後半以降)に徴兵検査を受けた人たちは徴兵されていませんから、街中にサラリーマンがたくさんいてもおかしくないと思いますが…。



 あと、No1さんがのお金で徴兵を免れるのは、大正期には廃止されてます。(華族、氏族は殆ど徴兵されていないと仰りますが、近衛文麿(元首相にして藤原氏以来の最高位の貴族)の息子は、ちゃんと満州へ出征しそこで捕虜になってシベリア抑留中に死亡しています。皇族にも中国で戦病死された北白川宮もいらっしゃいます。)
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この回答へのお礼

有難うございました。
大正期以前に徴兵検査を受けた人は戦場に行かなくてもよかったんですね。 太平洋戦争中は年齢が30台後半以降になっていた人たちですね。 この人たちが戦争中でも街で普通に生活をしていた事になるんですねえ。
竹槍事件を Wikipedia で調べてみたのですが、陸軍は無茶苦茶な事をしていたようです。 日本は負けるわけです。

お礼日時:2007/10/17 11:17

軍隊と言うものは金や資源を浪費するものです。

従って徴兵制による国民皆兵と言っても、男子を全て軍人にしてしまったら国が成り立ちません。
例えば韓国で現在行なわれている様に、徴兵年齢に達したら健康検査を受け、健常者は通常一定期間の兵役に付き、兵器の取り扱い等の技術を身につける。
兵役期間終了後は社会復帰するが、兵役に適さない年齢に達するまでは予備役となり、国の指令があれば軍に復帰する。

と言うのが一般的な徴兵制度です。

戦時下で幾らでも軍人数が欲しい時でも、食料・兵器・軍装等が無制限にある訳ではないですから、基本的にはその用意がある人数分を予備役から選択し、赤紙が発行されました。

その選択については、様々な公式・非公式の基準があり、必ずしも「美しく」無かったのは#1さんの言う通りです。
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この回答へのお礼

有難うございました。
> 男子を全て軍人にしてしまったら国が成り立たない ・・
そこなんです、不思議に思っていたのは。 戦争中といっても、内地は内地で普通どおりの社会生活をしているわけですから、男性がひとりもいないという事は考えられないし ・・
やはり徴兵を免除される人たち、あるいは職業というものがあったんでしょうね。
この辺、当時でも公平・不公平と指摘されるケースもあったのでしょうね。

お礼日時:2007/10/17 11:10

全員が徴兵にとられたわけではありません。

同年代のある割合が徴兵されたのです。

つまりお金を払うと免除されたのです。当時のお金で300円程度(今の価値では600-1000万円であったとされます)であったはずです。写真などに写っているのは「お金持ち」というわけです。そのため、財閥や華族、氏族には徴兵された人はほとんどいません。

貧乏人はお国のために死んで、金持ちは国を利用して儲ける。これは昔も今も日本では同じ状況です。

いやー、日本は美しい国ですね。
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この回答へのお礼

有難うございました。
お金があれば戦場に行く事はなかったんですか ・・ 初めて知りました。 「国民一丸となって ・・」 とかスローガンがあったようですが、この事実を知っている貧乏人の気持ちは複雑だったでしょうね。

お礼日時:2007/10/17 11:05

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Q戦争に行かなくて済んだ人達って?

昭和10年代後半、大学生でさえ召集されたあの時代に五体満足で健康な20~30代の男子で
戦争に行かなくて済んだのはどんな人達なんでしょうか?
わざと徴兵回避して村八分になった人達を除いて召集されなくても
堂々としていられた人達の場合です

Aベストアンサー

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年度に作成し、予め警察署に保管、動員令が下令されると発行するものです。
 また、中央とは別に、その地区を管轄とする師団から、戦死、戦傷、戦病などの要員で人員の不足があった場合、管轄地域で召集令状を発行しました。
 これを、臨時召集令状と言い、師団毎に随時作成されています。
 比率から言えば、日中戦争勃発後、後者の令状が多く発行されています。

 この発行の基礎資料になったのが、各市町村役場の兵事課から提出された在郷軍人名簿です。
 これには軍隊の経歴、召集回数、健康程度、家族関係、思想関係、治癒見込(病気の場合)などが記述され、このほか体格等位に徴兵検査の結果を記入、役種に兵役種類が記入され、更に特・分業、特有の技能が記入されています。

 充員召集令状を発行する場合、特・分業、特有の技能に注目し、中央が作成した動員計画の必要技能召集する部隊の練度、任務の軽重なども勘案して、召集を決定します。
 他に、体格等位、健康程度などを重視して必要兵を抽出していきます。
 海軍の場合は、更に思想関係も重要視されたようです。

 さて、召集記録の欄の末尾に「召集延期者」略して「召延」という朱印が押されると、召集対象外となり、召集令状は来ることがありませんでした。
 これには甲、乙と二つの区分があり、甲は絶対召集しない人、乙は人がいない時に初めて召集対象となる人です。
 この召集延期の制度は昭和2年から開始され、制度が年ごとに拡大していっています。
 ちなみに、この規定は、陸軍動員計画令(永年動員計画令)に記載されたものです。

 例えば、1943年当時の戦時召集延期者は以下の通りです。

1.侍従、侍医、東宮傅育官、皇宮警察官吏、皇宮警察部消防夫
2.陸海軍部隊に在職し余人を以て代うべからざる者、及び特種の雇用人、工員にして必要欠くべからざる者
3.鉄道又は通信業務に従事し、必要欠くべからざる者(一般国民対象)
4.船舶(50t以上のもの)乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
5.民間航空乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
6.国土防衛に直接関与する業務に従事し必要欠くべからざる者
7.陸軍大臣の指定する工場又は事業上に従事し必要欠くべからざる者(一般国民対象)
8.都道府県、地方事務所、警察署、市区町村の官公吏にして兵事事務を主管する者各一名(一般国民対象)
9.帝国外の地に於いて執務を執行する帝国官吏中、必要なる者、並びに外地最高司令官、朝鮮台湾軍管区司令官
10.帝国議会の議員
11.国民学校教員中必要なる者(一般国民対象)
12.上記の外、国歌総力戦遂行の為に緊要なる業務に従事する者にして、必要欠くべからざる者

 つまり、一般人は輸送、通信関係の職員、陸軍大臣指定工場技術者、兵事係などの召集業務担当者が全面的に免れ、教師も一部が召集対象から外れています。
 また工場の熟練労働者も対象となっています。
 但し、工場などに於いてその選出は各工場に任されていた為、工場幹部の親戚が事務屋として入っていて、召集延期者として選出させた事例もあります。
 この場合は、発覚すると即座に召集されるようになっていました。

 1944年からは、臨時召集延期制度が始まります。
これは、航空機工場、特に重点機種(疾風とか飛燕とか言った戦闘機、飛龍などの爆撃機)の生産従事者は全員この対象となって、召集を延期されています。
 また、これ以外の航空機生産従事者、交通関係従事者、鉱山技師、炭坑夫、造船関係従事者、特攻兵器製造従事者は、例え徴兵検査で入営することが決まっていても、一定期間その入営を延期する「入営延期制度」対象者となっています。
 この制度も1944年から開始されています。

 これより先、1943年3月からは、既に入営した人で、軍需生産に必要な人でなおかつ、「軍の統率、団結、軍の士気上差支えなき範囲内に於いて」召集解除し、職場に復帰させると言う「特別召集解除制度」がありました。

 また、本土の食糧不足が深刻化していた1945年には、根刮ぎ動員があった反面、「召集要考慮制度」というもので、軍需生産だけでなく、農林水産業従事者も対象にしています。

 これらの総数がどれくらいあったかと言うと、召集延期制度が、1941年には10万人程度だったのが、1945年には85万人、臨時召集延期制度は不明、入営延期制度は、1944年で20万人、1945年で6万人、特別召集解除制度は1943~45年で4。3万人、召集要考慮制度は160万人が対象となっています。
 戦時中の在郷軍人数は約500万人、召集要考慮制度を除くと、総数で115万人以上に上っています。
 また、充員召集計画で召集令状を発行されていたのに、その充員召集計画自体が取りやめとなった為、結果的に召集されなかった人も多かったようです。(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

うちの母方の祖父。福井出身で戦争当時大阪にいた。
薬剤師だったので徴兵されずに済んでいた。(戦局が悪くなっても製薬する人が内地に必要だったので)

 休みの度に薬をたくさん持って福井に帰り、薬を配って換わりに越前米をもらう。
 ↓
 福井から船でまだ稲作技術が発達していない北海道へ渡る。
 ↓
 米を売ってお金に換えて大阪に戻る。

と、いうのを延々とやっていたそうです。(生活板)

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年...続きを読む

Q戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍人、民間人合わせて310万人の人が死亡し、都市面積の30%が消失したと言われています。
しかし、310万人の死者は一見多いように見えますが、1億人の人口から見たら3%で、97%の国民は生き残っているわけです。
また、国土が焼け野原になったと言われますが、都市面積の70%は無傷だったわけです。

これらのことから見ても、当時の国民で、肉親や親戚に死亡した人がおらず、空襲も受けなかった人はかなりの数がいるはずです。
その中でも、農村部に住んでいる人であれば、食料にも不自由せず、普段通りの生活をしていた人も多くいたと推測されます。
もちろん時代が時代ですから、派手なパーティーをやったり、観光旅行にでかけたりということはできなかったでしょう。
しかし、戦後世代の人が教わったような、日本中が地獄絵と化したというのはちょっと大げさなのではないでしょうか。

当時は情報も統制され、日本がどんどんやられているというような情報は入って来なかったでしょうから、いずれ自分たちも攻撃を受けるというような危機感もなかったと思われます。
当時の国民の、少なくない数の人たちが、実は普段通りの平和な生活を送っていたと推測されます。
戦時中、実際にこのような普段通りの平和な生活を送っていた方の体験談を聞かせていただけませんか。
また、そのようなことを紹介したサイトなどがあれば教えて下さい。

なお、私が聞きたいのは「戦争中、普段通りの生活をしていた人の話」であって、「そんな人はいない」とか、「そのような質問は不謹慎だ」というような回答はお断りします。
質問の趣旨を理解した上で回答をお願いします。

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍...続きを読む

Aベストアンサー

 母は田舎にすんでいたので、まったく戦争の影響はなかったそうです。
確かに統制品は手に入りにくかったらしいですが、食べるのにはまったく困らなかったそうですよ。
 よく、都会から食べ物を分けてくれって人が来たらしいです。

 父は逆で都会で生活していたので疎開をしました。
疎開には、集団疎開と縁故疎開ってのがあるんです。
中でも悲惨なのが集団疎開です。学校の力関係が24時間中です。いじめっ子はずっといじめ、いじめられっこはそれこそ現代で言うイジメなんかと比較できないほど酷かったらしいです。

 また、縁故疎開っていうのも、ようするに都会のこじゃれたガキが、自分の親戚をたよって田舎に疎開するんです。すると、もちろんその子のキャラにもよりますが、めちゃ人気者になった人もいたみたいです。

Q戦時中、みんな何をしていたのでしょうか?

度重なる質問申し訳ありません。
戦時中について興味を持ち調べてみたところ、次から次へと疑問が噴出してきまして。
さて、今回の質問ですが。
まだ徴兵検査を受けていない、20歳以下の人達についてです。進学して学校に通っていれば、学徒動員などがあったようですが、小学校を卒業後に就職した人達はどのような仕事をしていたのでしょうか?
やはり、学徒動員するほど人手が足りなかったわけですから、彼ら学生に混じって軍需工場などに動員されたのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

☆小学校

昔は数え年で年齢を数えていました。
生まれたときが1歳、その後正月が来るたびに年齢が上がります。
小学校へ入るのは毎年4月です。
1~3月生まれは「早行き」とか「7つ行き」といって、数え年7歳で入学、それ以外は「おそ行き」とか「8つ行き」といって、数え年8歳で入学でした。
小学校を卒業するのは数え年13歳か14歳で、卒業すると家業を手伝うか、男子は丁稚奉公、女子は女工さんや女中奉公に出て「食い扶持」を減らすのが多かったようです。

小学生たちは、昭和17年以降、12月8日には近くの神社へ必勝祈願のお参りをしました。
千人針を縫ったり、千羽鶴を織ったりして「武運長久」を祈りました。
山へ入って、松の根っこを拾い集めました。
松脂から松根油というのを作って燃料にしたのです。
大勢の男を湯船にいれ、おならをさせ、それを集めてメタンガスを作る実験があったとか無かったとか。
そんな話が、当時では笑い事ではなかったのです。

毎日のように防空訓練というのがありました。
防空頭巾をかぶって防空壕へ非難したり、バケツリレーで消火する訓練です。
出征する兵隊さんを日の丸の小旗を振って送り出すこともありました。

☆中学校、女学校

昭和に入ると、裕福な家庭や都会では、中学や女学校に入ることが多くなります。
いまとは違い、「男女16歳にして席をおなじゅうせず。」といわれ、男女共学ではなかったのです。
中学に入るとすぐ始まるのが、軍事教練と学徒動員です。
女学生の場合、看護訓練などもあったと思います。
軍隊から派遣された教官が中学生を心身ともにしごきあげます。
「一億一心」「鬼畜米英」「海行かば~」と、お国のために命をささげる訓練です。
戦火が激しくなると近くの工場へ学徒動員されます。
軍事物資の生産に狩り出されるのです。
しかし、原材料がなくなると工場の掃除や草むしりです。
動員された工場に爆弾が落とされ死傷者がでることもありました。

幼年兵学校というのもありました。
少年航空隊というのもありました。
予科練習生というのもありました。

☆「甲種合格」

男子は(多分)16歳になると全員徴兵検査を受けることになり、甲種、乙種、丙種に分類登録されます。
「甲種合格」といって喜んではいられません。
先ず最初に徴兵されるのは「甲種合格者」です。
密かに喜んでいたのが「丙種合格者」かも知れません。
しかし、戦争に行かずに街中をうろうろしていると憲兵に捕まり鉄拳制裁を受けます。
あの家にも、この家にも、次々と「赤紙」が届き「恩賜の煙草」を戴き徴兵されていきます。
「練兵場」という場所に集められ訓練を受けた後、戦場へと送り出されます。
しかし、送り出された兵士たちに、弾薬や食料はわずかしか送られません。
そんなものは現地で調達しろというのが「大本営」の方針だったのでしょうか。
旧厚生省調査によれば、日本人戦没者は310万人、内訳は軍人軍属230万人、空襲被災者80万人だそうです。
軍人軍属の犠牲者のうち半分以上は「餓死、病死」といいます。
「復員」した人の話では、蛇、トカゲ、蛙などはご馳走のうち、飢えを紛らわせるために靴の半皮に水を含ませてしゃぶることもあったそうです。
当時の日本の人口が6000万人だとすれば20人に1人が戦争で死んでいったことになります。

戦争末期には殆どの成年男子は戦場へ駆り出されました。未成年者も予科練や特攻隊に志願していきました。死を覚悟して。
沖縄では看護兵として狩り出された女子学生までもが、本土防衛のため、戦闘に加わって死んでいったそうです。

☆小学校

昔は数え年で年齢を数えていました。
生まれたときが1歳、その後正月が来るたびに年齢が上がります。
小学校へ入るのは毎年4月です。
1~3月生まれは「早行き」とか「7つ行き」といって、数え年7歳で入学、それ以外は「おそ行き」とか「8つ行き」といって、数え年8歳で入学でした。
小学校を卒業するのは数え年13歳か14歳で、卒業すると家業を手伝うか、男子は丁稚奉公、女子は女工さんや女中奉公に出て「食い扶持」を減らすのが多かったようです。

小学生たちは、昭和17年以降、1...続きを読む

Q戦時中の富裕層について教えて下さい。

戦時中の富裕層について教えて下さい。


戦前から戦後にかけて、日本のお金持ちor身分がいい人達はどんな生活を送っていたのですか?
また、敗戦でなにか生活様式に変化がありましたか?
特に若い世代について興味があります。


・20歳前後で結婚前の若者(男女)はどんな生活スタイル?
・戦争中は富裕層の御令嬢は何をしていた?


その他何でも構いません。当日の富裕層についての情報を頂けたらうれしいです!!

Aベストアンサー

 戦時中の世相風俗を知るには、当時の雑誌、新聞をアーカイヴなどで読むことをお勧めします。それ以前の満州事変当時の世相であれば、たとえば中村正常とか龍膽寺雄らのナンセンス、モダニズムと呼ばれた小説を読んでみてください。現代の世相と何ら変わらないことに驚かれるでしょう。

 戦時中の富裕層の若者は、一般に其々の学校に学びながら、休日は繁華街に繰り出し映画館や喫茶店、撞球場や卓球場などの遊技場で遊んでいました。ところが、戦局が悪化してきた1943年(昭和18)ごろになると、有識者や政府から学生(生徒)たちも軍需工場に動員すべきという主張が現れ、これがやがて学徒動員令として実現化しました。なお、この有識者というのは戦後一転して市民運動で活躍した著名な方々でした。

 当時の新聞(現代仮名遣いに改め)から引用すると、

> 箱入り娘は旧観念 男子と職場交替

> 不急学校の整理は当然 市川房枝女史談

> この決戦が始まってから下層階級には遊休女性はすでに一人もいないはずです。ただ、中産階級以上の家庭では圧倒的に多く所謂不急学校ともいうべき花嫁学校、料理学校、洋裁学校その他何々講習会といった教養施設に篭る子女は全国で相当数に上っていましょう。したがってこれらの整理は当然のことですが既存施設を全て閉鎖したりなどはせずに割烹学校を栄養士養成所に転換させるとか ~ 決戦女性は家庭と共に職場を持つのが当然であります。(43年5月4日 東京新聞)


> 政府こそ躊躇せず女性を徴用なさい

> 婦人代表総蹶起の感激

> 中央協力会議第二日、第一委員会が緊急国民動員に関する議題に入ると宛ら婦人代表の独壇場となり花木チサヲ、羽仁説子、村岡花子、桐淵とよ、山高しげりの各委員が期せずして各自の立場から女性勤労の強力な指導、施設の飛躍的前進を要請 ~ 「徴用の即時断行こそ女子の勤労観念を徹底せしめ工場、事業者側は勤労管理を万全ならしめる、政府は躊躇するところなく未婚女子徴用を断行されたい」(43年7月16日 毎日新聞)

 それでも、やはり抜け道はあるもので、富裕階層のお嬢様のなかにはコネを使って国策会社や官庁の臨時雇いとして採用され、タバコや食券の配給などがあると職員の代わりに並んだりとちゃっかり労働を免れた方々がいたようで、これまた当時の新聞紙上で非難されました。

 戦時中の世相風俗を知るには、当時の雑誌、新聞をアーカイヴなどで読むことをお勧めします。それ以前の満州事変当時の世相であれば、たとえば中村正常とか龍膽寺雄らのナンセンス、モダニズムと呼ばれた小説を読んでみてください。現代の世相と何ら変わらないことに驚かれるでしょう。

 戦時中の富裕層の若者は、一般に其々の学校に学びながら、休日は繁華街に繰り出し映画館や喫茶店、撞球場や卓球場などの遊技場で遊んでいました。ところが、戦局が悪化してきた1943年(昭和18)ごろになると、有識者や政府...続きを読む

Q第二次世界大戦の日本兵の死亡率

あの戦争で何人の日本兵が戦地に赴き、そのうち何パーセントぐらいが帰還したのでしょうか。ご存知の方、宜しくご教授ください。
(出典も教えて頂ければ幸いです〉

Aベストアンサー

戦死者数は130万人を超えるとされていますが(原朗「戦時統制経済の開始」『岩波講座日本歴史20』近代7)、単なる戦死というより、日本軍は飢餓とも戦っていました。これこそ無謀な戦争といえる現実でした。

NHK取材班編 太平洋戦争 日本の敗因2「ガダルカナル 学ばざる軍隊」(角川文庫)
>アメリカ軍は結局この日本軍の撤退の動きにまったく気がつかず、奇跡的な成功だったといわれる。これは『戦争叢書・南太平洋陸軍作戦2』によれば、1万0665人であった。これはガダルカナルに上陸した総人員3万1358人のおよそ三分の一であった。戦死・行方不明は合わせて2万1138人、そのうち戦闘で死亡した兵士は5000人ほどと推定され、残りの1万5000人以上が飢えと病に倒れたのであった。
 
 精神論だけで勝とうとする日本軍の指導者について以下のように記載してあります。
 >またアルビン・クックス教授は、このノモンハン事件(死傷率70%)の失敗が太平洋戦争でも繰り返されたもう一つの大きな点は、事件の指導者(辻正信、服部卓四郎)が責任も取らずに再び太平洋戦争も指揮したことにあるとしている。

インパール作戦でも半数は補給作戦もなく、飢えと病で死んでいます。NHK取材班「責任なき戦場 インパール」(角川文庫)

 
 

戦死者数は130万人を超えるとされていますが(原朗「戦時統制経済の開始」『岩波講座日本歴史20』近代7)、単なる戦死というより、日本軍は飢餓とも戦っていました。これこそ無謀な戦争といえる現実でした。

NHK取材班編 太平洋戦争 日本の敗因2「ガダルカナル 学ばざる軍隊」(角川文庫)
>アメリカ軍は結局この日本軍の撤退の動きにまったく気がつかず、奇跡的な成功だったといわれる。これは『戦争叢書・南太平洋陸軍作戦2』によれば、1万0665人であった。これはガダルカナルに上陸した総人員3...続きを読む

Q太平洋戦争中、男は命を捨てて戦ったが、女はま○こで済んだか?

太平洋戦争中、男は命を捨てて戦ったが、女はま○こで済んだか?

このような間違った妄想が、頭のなかで住み着いてはなれません。
太平洋戦争中、将兵は命がけで戦い、そしてたくさん死んでいきました。女は性器をつかうだけで、なんとかなりましたという、なんともやっかいな考えが、私の頭のなかにあるのです。この間違いを正してください。お願いします。

Aベストアンサー

現代の日本に住んでいると、あまりにも単純で荒唐無稽なお話ですが、戦前の日本人の一部にも質問者同じような考えを持っていた人も沢山いたのかもしれないなあとふと思いました。


どのような回答を行おうか真剣に考えましたが、とりあえず質問者の疑問に回答し、その後に戦争の愚かさと、その戦争を抑止する単純な考え方だが、最も有効な考え方によって起こった悲劇を紹介しましょう。


女性も兵器製造等に携わっています。戦争は兵器の製造、兵器の貯蔵、兵器の移送、兵器の使用を繰り返すことと、戦争に欠かせない情報伝達を行わねば成り立ちません。ここで兵器の使用を行う兵士を再生産する為には、男の赤ちゃんを産むこと、即ち男女の睦事が前提ですから、戦時政府も多産婦を表彰しています。だから質問者の考えは間違いだと決めつける訳にはいきません。


しかし、情報通信、兵器の生産、兵器の貯蔵等には女性や子供や老人も関わっています。当時の日本軍の秘密兵器「風船爆弾」の製造には、記録によると、一部の地域では原料の楮の栽培、抄紙に学徒動員された地方の女子学生が携わっていますし、東京に集められた和紙をこんにゃく糊で貼り付ける作業はほとんど東京の女子学生によって行われました。手の平を傷めるほどの重労働に耐え、国が戦争に勝つ日を思って頑張ったそうです。近代的な戦争は国家の総合力ですから、女性の力無くしては戦えないということです。


ここからは、記事【2008年12月1日 AFP】の引用になります。
パプアニューギニア東部のオカパ(Okapa)地区の女性たちが、1986年から20年来続く部族間戦争を根絶しようと、男の子が生まれたらひそかに殺す習慣を10年前から行っていたことが明らかになった。豪ナショナル(National)紙が報じた。


 同紙によると、同地区のギミ(Gimi)では、長きにわたる部族間戦争で男手が減り、多くの女たちが育児もままならない状況にあるが、前週ゴロカ(Goroka)で行われた平和と和解のための集会で、2人の女性が「赤ちゃん殺し」を告白した。


 女性たちの話では、戦士となる男の子が生まれなければ、戦争に参加する男の数が減り、部族戦争そのものがなくなるとの考えから、村の女たち全員が約10年前、生まれた子が男児だった場合には例外なく殺すことで合意したという。


 具体的に何人の赤ちゃんが殺害されたかは不明だが、女性の1人は、息子を殺した母親は複数いると話した。同紙によると、この女性は「(赤ちゃん殺しは)許されざる犯罪だが、それが女として部族戦争を終わらせるためにできる唯一のことであり、そうするよりほかはなかった」と涙ながらに証言したという。(c)AFP


「日本の戦時政府の多産婦を表彰」と「オカパ(Okapa)地区の女性たちの選択」は、カードの表と裏の関係にあるということなのですね。

参考URL:http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2544473/3573738

現代の日本に住んでいると、あまりにも単純で荒唐無稽なお話ですが、戦前の日本人の一部にも質問者同じような考えを持っていた人も沢山いたのかもしれないなあとふと思いました。


どのような回答を行おうか真剣に考えましたが、とりあえず質問者の疑問に回答し、その後に戦争の愚かさと、その戦争を抑止する単純な考え方だが、最も有効な考え方によって起こった悲劇を紹介しましょう。


女性も兵器製造等に携わっています。戦争は兵器の製造、兵器の貯蔵、兵器の移送、兵器の使用を繰り返すことと、戦争に...続きを読む

Q戦時中の日本国民の生活は、本当はどうだったのか?

数日前、家でNHKのファミリーヒストリーという番組をたまたま観ていました。
この番組は各界の有名人の家族の歴史を探って紹介しており、私が観た時は女優の余貴美子の家族でした。
余貴美子さんはお爺さんとお婆さんが台湾人で、日本で一旗上げる為に来日し商売を起こし、東京で手広くビジネスを展開していたそうです。
その中で、私が"あれっ"と思った事があったのですが、余貴美子さんのお爺さんは戦時中には乾燥バナナを台湾から輸入して、大儲けし大豪邸を建てたという事でした。
戦争中と言えば、物資が不足しているイメージがありますが、豪邸なんて建てられるのでしょうか?
それに国家の命運がかかっている時期に豪邸を建てるなんて贅沢な事を世間は容認したのでしょうか!?
私は、戦争中にそんな事をすれば批判されそうな気がします。
戦時中に、それも台湾出身者が日本でビジネスをし、その上、大儲けをする。
台湾人がそうなんですから、日本人や朝鮮人などでも大儲けし、景気の良かった人はたくさんいたのではないでしょうか!?

それから話は変わりますが、数週間前の読売新聞の日曜版の中の新刊本を紹介する欄で、本の名前は忘れましたが、戦時中の事が書かれた本の内容が一部紹介されており、戦争中に日本国内で温泉旅行ブームが起こったと書かれていました。

戦争中に温泉旅行ブームは意外な気がしたしたが、戦況の悪化に伴い日本国民の生活はどんどんと厳しくなっていったのは確実だとは思いますが、これまで日本国民がメディアから聞かされてきた様な、戦争中は主食に芋やすいとんを食べていて非常に貧しかったというのは、数ヶ月、半年、一年間の事なんでしょうか?
私は、戦争が始まる頃からか、その少し前頃から日本国民は自由がなく、食べる物にも事欠いて、窮乏生活を強いられていたと思っていました。

事情通のみなさん、実際はどうなんでしょうか?

数日前、家でNHKのファミリーヒストリーという番組をたまたま観ていました。
この番組は各界の有名人の家族の歴史を探って紹介しており、私が観た時は女優の余貴美子の家族でした。
余貴美子さんはお爺さんとお婆さんが台湾人で、日本で一旗上げる為に来日し商売を起こし、東京で手広くビジネスを展開していたそうです。
その中で、私が"あれっ"と思った事があったのですが、余貴美子さんのお爺さんは戦時中には乾燥バナナを台湾から輸入して、大儲けし大豪邸を建てたという事でした。
戦争中と言えば、物資が不足...続きを読む

Aベストアンサー

「戦時中」と言われるておられる時期(期間)と、庶民生活に影響が及んだ期間についてのイメージが錯綜されて伝えられているために判り難いのか思います。

イメージが錯綜してしまう原因はおそらく次の2点の影響が大きいのかと思います。
(1)歴史本や教科書は政治史が中心になっています。
(2)表現の自由や報道の自由というものが、昭和初期から徐々に制限され始めました。特に共産主義思想や社会主義思想への弾圧が強化され続けました。
これに対する反動として、第二次世界大戦後の暫くの間、いわゆる左翼系思想に基づいた教育が続いた結果、左翼系思想に対する制限の強化が殊更に強調されて伝わってしまっています。

(2)の影響で
「私は、戦争が始まる頃からか、その少し前頃から日本国民は自由がなく」
というイメージを持たれたのだと思います。

庶民生活への経済的影響は昭和2年の金融恐慌が発端となりました。
昭和12年の盧溝橋事件を切っ掛けに軍事費が財政を圧迫し始めました。
同時に米英を中心とした今で言う経済制裁が始まりました。

昭和12年 9月 東京市内の円タクの深夜営業禁止
      10月 東京市内の銭湯の朝湯禁止
      12月 東京に木炭バス出現
昭和13年    代用品と呼ばれる品物が出現
           陶製のナベ、竹製のスプーン、鮫皮の靴、鮭皮のハンドバッグ、木製バケツetc
昭和14年 6月 料亭の営業を午前0時までに制限
      12月 歳末大売出し禁止、門松廃止
昭和15年 1月 後楽園球場で炭焼きが始まる。神宮球場が木炭倉庫に転用される。
       5月 東京市が外米(輸入米)6割混入の米を配給する。
       8月 「ぜいたくは敵」「ぜいたくは出来ない筈だ」などの標語が発表された。
           同時に啓蒙と称する取り締まりが始まる。
      10月 浅草で「代用食展」が開かれる。
          ダンスホールの営業禁止
昭和16年 4月 六大都市で米穀配給通帳が発行され配給制度が始る。外食券が発行される。
       5月 「肉なしの日」が実施される。・・・実質的には市中の食肉は欠乏していました。
       8月 食堂や料理屋での米食を禁止し、販売時間制とする。
       9月 砂糖、マッチ、小麦粉、食用油の集成配給切符制度が設けられる
      10月 配給米の輸送をトラックから電車に切り替える。(ガソリン不足)
      12月 東京市内の妊婦診断の結果、
           栄養不良により半数が罹病しているかあるいは障害があることが判明
昭和17年11月 家庭用蔬菜の登録販売が始まる。
      12月 東京市内ガス使用が一戸一孔に制限される
           「欲しがりません勝つまでは」の標語が発表される。
昭和18年 4月 鉄不足を補うために銀座の街路灯が撤去される。
       6月 東京の昭和通りの街路樹が取り払われ畑に転用される。
昭和19年 3月 バー等の飲酒サービス店閉鎖
       4月 六大都市の学童給食用に米を一人7勺配布する
       9月 学童給食の米を廃止しパンを支給する。 
       11月 都民食堂と称する雑炊食堂が設けられる
           物価が高騰し始める 前年比13,3%上昇
昭和20年 6月 都民食堂(雑炊食堂)600軒が外食券食堂となる。朝食25銭夕食50銭
       8月 六大都市の主食配給が一人2合1勺となる

以上で、徐々に物資が手に入り難くなり、食糧事情が悪化して行く様子がイメージできましたでしょうか。
余貴美子さんのお話や、温泉ブームの話については、何時の時代でも金をかき集める才能がある方はおられます。

終戦と同時に、都市という都市が焼け野原になり、工場という工場が破壊されたところへ、満州や朝鮮半島、台湾などから着の身着のままの引揚者や復員兵が帰ってきたのですから戦後の窮状は惨々たるものでした。
この記憶と、戦前戦中の物資の欠乏との記憶が混同して伝えられているのも止むを得ないことかと思います。

社会が暗かったか明るかったかは、その日その日を送っていた人達がどのように受け取っていたか次第です。
当時の流行歌がyou yubeに沢山投稿されていますので聞いてみて下さい。
昭和11年 わすれちゃいやよ、ああそれなのに、東京ラプイソディー
昭和12年 青い背広で、人生劇場、人生の並木道、妻恋道中、マロニエの木陰
昭和13年 別れのブルース、支那の夜、満州娘、初j恋、雨のブルース
       (エノケン一座が旗揚げ)
昭和14年 名月赤城山、東京ブルース、港シャンソン、懐かしのボレロ、一杯のコーヒーから
       (後楽園球場の入場者2万人)
昭和15年 湖畔の宿、誰か故郷を想わざる、ラバウル小唄
       (東京競馬場第九回ダービー入場者6万人、銀座のお汁粉屋が19軒を越える)
       (芸能人の英語風芸名禁止)
昭和16年 北上夜曲、明日はおたちか、船頭さん、たきび
       (街頭でのスナップ写真が流行する)
昭和17年 婦系図の歌、新雪、勘太郎月夜唄、湯島の白梅、鈴懸の径
昭和18年 十三夜、南国の夜、スキー
昭和19年 惜別の歌
       (俳優座が結成される)
昭和20年 りんごの歌
       (12月31日 NHK第一回紅白歌合戦が実施される)
戦前も戦中も庶民は軍歌ばかり歌っていた訳ではありません。

出典:江戸東京年表 小学館




      

「戦時中」と言われるておられる時期(期間)と、庶民生活に影響が及んだ期間についてのイメージが錯綜されて伝えられているために判り難いのか思います。

イメージが錯綜してしまう原因はおそらく次の2点の影響が大きいのかと思います。
(1)歴史本や教科書は政治史が中心になっています。
(2)表現の自由や報道の自由というものが、昭和初期から徐々に制限され始めました。特に共産主義思想や社会主義思想への弾圧が強化され続けました。
これに対する反動として、第二次世界大戦後の暫くの間、いわゆる左翼系思...続きを読む

Q徴兵制から逃げ切れるのは2012年現在で何歳以上?

wikipediaを見ると徴兵制に肯定的な政治家の方がたくさんいて、今はそういう方々が台頭している気がします。未来憲法改正して徴兵制が実施されるとしてそれは何年位かかる作業でしょうか。かつての徴兵制は20歳から40歳、末期には17歳から45歳となってますが平成時代においては何歳ぐらいが範囲になるでしょうか?逃げ切れる安全圏は現段階で何歳以上の中年でしょうか?わかる質問だけでいいので教えてください。

Aベストアンサー

予備自衛官を参考にすると38歳ですかね・・
 特殊技能があればそれ以上もあり得えると思いますね。飛行機の整備など

http://www.mod.go.jp/pco/oita/06_reserve/reserve.html

Q召集令状(あかがみ)の年齢範囲、免除事項!!

皆様、はじめまして。戦争時の召集令状(あかがみ)の年齢範囲や、免除事項(身長、体重、軽いイメージとしてこれで免除?と思われるような事項)を教えていただけたらと思います。

また、召集令状から逃亡した人もすくなからずいたらしいのですが、
戦後そういった人たちは罰せられたのでしょうか?

なにとぞ、お願いいたします。

Aベストアンサー

 質問は徴兵検査の事だと思いますので、その件に関してお答えします。

 まず年齢範囲ですが、戦前の日本は国民皆兵が基本でしたので、「兵役法」によって、17歳から40歳までの男性が特定の条件の者を除いてすべての者が兵役に服するようになっていました。日本軍軍人となるには三つの道があり、それには「徴集」「召集」「志願」がありましたが、これは今回省きます。また17歳からの最低年齢ラインが設けられてはいますが、実際には20歳になってから徴兵検査を受けていたこともご承知ください。

 さて肝心の徴兵検査ですが、まず対象者は身体検査(体格検査)を受けますが、これには甲種・乙第一第二・丙種・丁種・戊種の5段階に分けられており、この中で甲、乙種合格が兵役に服務し、丙種は国民兵役(予備役)には適するが。現役には不適。丁種は兵役には適さない者。戊種は病中病後の者で、甲乙の判断が付きにくい者というように分けられています。

 細かく見ていけば、まず優先的に徴兵検査ではねられる者に、結核感染者及び性感染者がいます。次に年齢別に基準が設けられた身長・体重・胸囲に達しない者は「筋骨薄弱」者として不合格になる可能性がありました。視力では航空兵や戦車兵などといった兵科が、メガネを使用した時点での矯正視力が0・8以下であれば不合格となっていましたが、とうぜんこの場合歩兵や他の丙種では合格ということになります。色盲も不合格になる兵種が多々ありましたが、これらは長くなりますので割愛します。

 喘息患者などもその症状の度合いにより兵役免除された例がありますので、そのときそのときの本人の病状で弾力的に判断されたこともあるようです。

 また古くまで遡れば徴兵されると家族が生活できないような事情の場合や、中等学校やそれ以上の学校に在学している場合などは「徴集延期」が認められたこともあったようですね。

 以上の内容はいわゆる建前的な規則であって、実際にはそれほど緩やかではなかったり、逆に温情的な判断が融通されたようなこともあって、これが全てではないということだけはご承知ください。

 実際にはもっと詳細な規則があり、書き足りない部分が多々あるのですが、これくらいでも何かのご参考になれば幸いです。

 質問は徴兵検査の事だと思いますので、その件に関してお答えします。

 まず年齢範囲ですが、戦前の日本は国民皆兵が基本でしたので、「兵役法」によって、17歳から40歳までの男性が特定の条件の者を除いてすべての者が兵役に服するようになっていました。日本軍軍人となるには三つの道があり、それには「徴集」「召集」「志願」がありましたが、これは今回省きます。また17歳からの最低年齢ラインが設けられてはいますが、実際には20歳になってから徴兵検査を受けていたこともご承知ください。

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Q太平洋戦争時の徴兵について

太平洋戦争時の徴兵について

昨日「15歳の志願兵」を見ていて、ふと思ったので教えてください。
学徒出陣もそうですが、兵力不足の為に徴兵猶予中の学徒が出陣させられたり、一応「志願」で中学生が徴兵されたり、本当に「根こそぎ」な状況だったというのを、よくドラマや映画で見かけます。

でも、空襲や原爆体験者の話などの中で、父親が家に居た、というのをよく目にします。
昨日のドラマ内でも男性教師がけっこう残っていました。
一方では、男性教師は全員徴兵されて、学校には女性教師しか残っていなかった、というのを目にしたこともあります。

実際はどうだったのでしょうか?
戦争末期にも、意外と多数の男性が兵役につかずに残っていたのでしょうか?

Aベストアンサー

現在の自衛隊には入隊の年齢制限というのがありまして、「18歳以上27歳未満の者」と決まっています。一応、その年齢なら入隊はできるということになります。
世界中どこの軍隊でも似たようなものだと思います。特殊技能(医師や何らかの研究機関)を持っているなら話は別かもしれないですが。

つまり、基本的にはその年齢の範囲が「兵隊として使える」という範囲だと軍隊は経験上判断しているということだと思います。ちなみに、軍隊の世界では昔から25歳くらいになるとオッサン扱いで、30代ともなると「じいさん」と呼ばれるそうです。ついでに、ホストの世界も25歳くらいでオッサン扱いで、30代はおじいさん扱いらしいですよ。
兵隊つーのは結局のところ体力勝負なので、年をとった人間だと体力もないし視力も悪いしで使い物にならないということになるのです。また、軍隊つーのは時に無謀なこともやらせることもあります。丘の上にあるトーチカを占領しろみたいなね。人間年をとると臆病になりますから、オッサンやじいさんの兵隊にそれをやらせようとしても皆な死ぬのが怖くてへっぴり腰で戦って話にならないなんてことにもなります。自動車事故なんか、若い人は無謀運転で事故を起こしたりしますが年齢と共にそういう事故は減っていくわけです。

しかし、国家存亡の危機なんていうとそんなこといってられませんから、上限を少し広げ、下限を少し広げ、となるわけです。また視力が悪かったり色盲だったりして徴兵検査で不合格になる人もいます。
また沖縄みたいにもうそこが戦場になってしまうと年齢もヘッタクレもあるかとなって14歳で兵隊扱いにされた鉄血勤皇隊みたいのが出てくるわけです。しかし、一応14歳は徴兵できない建前ですから「日本軍鉄血勤皇部隊」ではなくて「志願民兵部隊鉄血勤皇隊」となっているわけです。

第二次大戦末期のドイツ軍となるともうベルリンにソ連軍が来るなんてレベルですから年齢どころの騒ぎではなくなるので、60歳のじいさんだろうが小学生だろうが銃持って戦えなんてなるわけです。映画「ヒトラー最後の12日間」ではおじいさんや小学生くらいの子供が出てきますがあれは本当の話なのです。でも、いざ子供を兵隊に無理やり仕立てたといっても肝心の武器がなかったらしくて、実際に部隊に送られた子供たちが武器がないので僕たちどうすればいいですかと古参の兵隊に聞いたら子供が使い物にならないことくらい兵隊も分かっていますから応援してろなんていわれたという話が残っています。

ドイツは今も昔も徴兵制なので、60歳のおじいさんも軍隊の経験がありますからいきなり軍隊に放り込まれてもどう立ち回ればいいか分かります。また、韓国なんかじゃ中学の体育の授業で軍事教練がありますから中学生をいきなり軍隊に放り込んでもそんなに手間はかからないわけです。
しかし、現代の日本人は元自衛官以外は軍隊の経験が皆無なので、いきなり軍隊に放り込まれても全く使い物になりません。そもそも「だいいちそーていは、ひとよんさんまる」なんていわれたってフツーの人はその意味すらわかりませんからね。
管理教育全盛の80年代に育った私たちの世代は運動会などに合わせて行進訓練なんかをしましたから、たぶん今のゆとり世代の方々より軍隊じゃ使い物になるはずです・笑。

現在の自衛隊には入隊の年齢制限というのがありまして、「18歳以上27歳未満の者」と決まっています。一応、その年齢なら入隊はできるということになります。
世界中どこの軍隊でも似たようなものだと思います。特殊技能(医師や何らかの研究機関)を持っているなら話は別かもしれないですが。

つまり、基本的にはその年齢の範囲が「兵隊として使える」という範囲だと軍隊は経験上判断しているということだと思います。ちなみに、軍隊の世界では昔から25歳くらいになるとオッサン扱いで、30代ともなると「じいさん...続きを読む


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