空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

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A 回答 (13件中1~10件)

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。


(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。
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この回答へのお礼

詳しく解説して頂いて、有難うございました。
当時の生活の一部を垣間見たような気がしてきました。
想像していたより女性の労働はきつそうですね。 井戸水はマシとは言っても冬に素手で水仕事をするのは大変ですね。
重量物を毎日扱うわけですから、もしかすると一般家庭の奥さんたちは結構マッチョだったかも知れませんね。
でも真夏の江戸時代の庶民生活 ・・ 現代人には無理が多そうですね。 まず虫なんかで精神的に参るでしょうね。 当時と違って、今の都会ではハエや蚊、あるいは蛆虫なんて本当に少なくなりましたよね。
それにガラスを建具に使っていないので、家の中は今よりウンと暗かった事が想像されました。

お礼日時:2007/10/18 10:12

江戸で長屋に潜り込むには正式には身元引受人なり出身地の証文などの証明書がなければ大家が罪にとわれます。


これは無宿人扱いになるから、受け入れられないのです。

従ってホームレスにならざるを得ません。  そうなればたちまち町役人に追捕されて人足寄場送りとなります。 
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この回答へのお礼

再度のお答え、有難うございました。
なるほど、何も無ければ無宿人扱いされるんですね。
今ならともかく、当時は人足寄場送りになるんですね。
厳しいという意見もあるでしょうが、町の中に今のように路上生活者なんておらず、案外綺麗な町並みだったかも知れませんね。

お礼日時:2007/10/18 13:27

 取りあえず、言葉がとっても困る気がします。



 当然横文字は使えませんし、明治維新後に造られた概念語の類は当時ありません。庶民レベルだと、漢語の知識はあまりないでしょう(古典落語でも町人と武家の言葉はかなり違っています。演者によっては当世風になってしまっているものもありますが)。
 逆に相手の書いている文字、これは全部崩した字で、当節「古文書」として解読の対象。これをスラスラ読めないと、日常生活で結構困ることになります。
 こっちの書く字は「手習いみてぇだ」などといわれる気が。洋数字を書いたりして、「切支丹がいる」なんてチクられたらしょっぴかれますし。
 基本的なコミュニケートできないと物凄い不審人物になってしまうことになりますので、現地の人間に渡りを付けて、しっかり手引きして貰った方が良いと思います。
 タダでさえ、現地の生活習慣に慣れていませんから不審人物ですし・・・。

 食品についてですが、基本的には魚食。ただしおかずは高いので、めったやたらと米を喰います。ざる蕎麦はおやつって位基本的に大食い。多分現代人が行ったら「おめぇ、飯喰わないけど、調子でも悪いのかい?」と言われることでしょう。
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この回答へのお礼

有難うございました。
字については本当、私もそう思いました。
今残っている江戸時代の文書なんて何が書かれているのか、判読不明ですよね。 よく時代劇に登場する町角に立てられる 「お触書」 なんかも、スラスラと意味を理解しないと一人前扱いされなかったんでしょうね。
それと、江戸時代の人はそんなに大食漢だったんですか。 一回の食事で2合以上食べたかも知れませんね。 でも今のような精米した米ではなかったように思うので、現代人には最初はご飯の匂いで苦労しそうかな。
それと肉食は少なかったので、やはり魚中心の食事だったようですね。でも現代人にとって来る日も来る日も焼き魚ばっかし ・・ これも苦労しそうですね。

お礼日時:2007/10/18 10:53

質問自体は罪がないと思うのですが、なんだかとんちんかんな回答をしている人もいますね。



私の両親はエジプトに行ったのですが、両親いわくエジプトは「昔の日本があんな感じだった」そうです。ま、昭和30年代とかそんな感じです。それでも二人とも水にあたってお腹を壊して大変だったそうです。今はなくなった言葉ですが「水にあたる」なんて言葉もあったのですからやっぱり水がダメな可能性はあると思います。
ただ、西原理恵子さんや猿岩石のようにインドでもお腹を壊さない人はいるわけで、そういう人なら大丈夫でしょう。できれば、タイムスリップする前にインドで予行演習をさせてもらいたいものです。

匂いは、人間の嗅覚というのは最もマヒしやすいものなので最初は臭くてもすぐ慣れると思います。むしろ、1ヶ月して帰ってきたら現代の排気ガスの臭いで吐きそうになるかもしれません。

朝は早いですけど、仕事はせいぜい昼くらいまで。時計がないですから時間はアバウトです。9時きっかりにタイムレコーダーを押さないと怒られるってことはありません。その日を暮らせる金があるなら、働かなくてオッケーです。金がなくなったら元締んところに行って「旦那、なんかいい仕事はないですか?」って聞けば「じゃあ今日はあめ売りやってみるかい?」なんて、まあ要はフリーターですけど周りもみんなフリーターです。
もし武士だったとしたら、勤務は一勤一休。もちろん勤務は昼すぎまでです。仕事が終ったらひとっ風呂浴びるもよし、寄席に行ったり、歌舞伎を見たり、のーんびり過ごして一日が終ります。
ポルノはないけどあちこちに歓楽街があります。ちょいとナカ(吉原のこと)行って冷やかすもよし、気に入った子がいれば遊ぶもよし。現代のように「写真に騙される」ってことはありません。格子の向こうには本人がいるんですから、顔を見て、話をして気に入ったのが選べます。ただし、当時の既婚女性はお歯黒をしていますからちょっとびっくりするかもしれません(註・でも実は戦前の時代劇映画を見ると女性がちゃんとお歯黒をしているんですよね)。
ツケが溜まれば催促されますが、アタシも二百年先からやってきてこの生活でございますと泣きつけばしょうがねえなあと大目に見てくれることもあります。義理と人情、人と人とのお付き合いが濃厚です。
そうそう、食事は現代のように種類は豊富ではないですが、食材は全て天然有機栽培です。魚ももちろん天然魚。ああた、天然のウナギなんざ二百年後には金払ってもなかなか食べられませんよ。

というわけで、困るのは病気になったら諦めなきゃいけないくらいで案外1ヶ月もしてまた帰ってきたらあまりの忙しさにめまいがしてしまうんじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

とても詳しくお話頂いて感謝します。 有難うございました。
当時の庶民は結構アバウトな生活をしていたんですねえ。 何となく身分制度の下で矛盾も多く、武士なんかに虐げられていたようなイメージがあったのですが、時代劇の影響なんでしょうね。
実は食事で困るだろうなと思っていたのですが、ドッコイ、今の方がある意味で貧しい食生活になっているかも知れないなと感じました。
江戸時代の実際の生活って本当は結構余裕があって、精神的に豊かな時代だったかも知れないですね。
その存在の良し悪しは別として、遊郭や花街があって男性たちの性欲の捌け口が多くあったわけで、今のような変態だとか子供虐待なんかのような事件はなかったのではと思いました。 
それと大部分の人間にとって、文字どおり 「働かざる者、食うべからず」 の社会だったでしょうから、今のようなグータラでも食っていけるという時代ではなかったわけで、みんな勤勉で働き者だったのではと思います。 
でも時計も携帯も無い時代って興味があります。 とても勉強になりました。

お礼日時:2007/10/18 10:45

昭和ヒトケタ生まれで四国の漁村育ちの老人です



電灯(裸電灯の20ワットで暗い)、汽車が走る、雑音入りですがラジオが聞ける、学校に通う、先生と巡査さんは洋服を着てる、町に出れば病院がある・・・

それ以外は江戸時代と大して変わらなかったのでは無いでしょうか
大人は褌と腰巻で浜仕事、巡査か村役場の人が来るとペコペコと平身低頭、夜も電気代の節約では早く寝る、蚤や虱は当たり前でした

でも少しなら我慢出来るかなと思います(蚤と虱は別として)
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この回答へのお礼

有難うございました。
ご年配の方からお答えを頂き、感謝します。
当時の生活は江戸時代とさほど大きく変わるところは無かったんですね。 お話から考えて、日本人の庶民の生活って、ここ50~60年の間に急激に変化したように思いました。 進歩したと言うべきか、文化や伝統が失われたと言うべきか ・・

お礼日時:2007/10/18 10:30

現在、地球には60億人以上の人間が生息していますが、その内、8億の人間が飢餓に苦しんでいます。



脳天気な質問をする前に、もう少し現実を学びましょう。

トイレや風呂に入るという問題以前のことが、今あなたがパソコンに向かっている間に、現在の地球上にはあるのですよね。
あなたは、多分、親の保護の中にある「現代人」であって、あなたのような人間はどこでも暮らすことはできません。

きちんとした人間ならば、江戸時代であろうが、縄文時代であろうが生きることはできます。
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この回答へのお礼

有難うございました。
江戸時代の庶民生活の実態を知りたいと思って質問させて頂きました。 飢餓の問題とは切り離して考えて頂ければと思います。

お礼日時:2007/10/18 10:25

質問者様は「空想の世界」としてこの質問を立てられたのでしょうが、現実にこれとほとんど同じか、もっと過酷な立場に立った人たちがいます。

「1960年前後に、地上の楽園と信じた北朝鮮に『帰国』した在日朝鮮人(日本人配偶者を含む)」です。

在日朝鮮人は一般に貧困階層でしたが、中には日本で事業に成功して、昭和30年代の日本でマイカーを持って何不自由ない生活をしていた人もいました。

北朝鮮大脱出地獄からの生還 新潮OH!文庫
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=30740288
の著者は、1960年頃の北朝鮮に渡る際は小学生で、一家は日本では結構良い生活をしていました。父が朝鮮人、母は日本人で、著者は日本国籍を有していました。北朝鮮に渡る際は、大量の生活物資、衣料、トラック、自転車などを持ちこんだそうです。北朝鮮人から見れば「王侯貴族」に見えたでしょう。

北朝鮮に渡り、農村に「配置」された後の悲惨な生活ぶりはこの世のものとも思えないほどです。日本人のお母さんは都会育ちでガスでの炊事しかしたことがなかったので、マキを集めてそれに火をつけて炊事するのに慣れるのには相当時間がかかり、ずっと生煮えのご飯を食べていたそうです。そして
「照明は裸電球一個、便所は屋外の汲み取り、水は井戸水か川の水を汲んで運ぶ、石鹸はほとんど使えない、洗濯は川でやる、給湯器など夢の夢、暖房といえるほどの暖房はなく、マイナス数十度の酷寒に耐える」
生活に苦しんだようです。昭和30年代の日本でも、給湯器はまだ普及していなかったと思いますが。この本の中には「家が山崩れで押し潰された。何とか材木だけは調達できたので、それを組んで掘っ立て小屋を作り、粘土と砂を取ってきて手で練って壁土を作り、手でそれを塗る」という壮絶な状況も書かれています。

江戸時代は、北朝鮮のような人為的な飢餓、山を全て禿山にしたことによる洪水、過酷な政治弾圧などはありませんが、ほぼ「今の北朝鮮」を平和にしたような生活状況と考えれば良いでしょう。ぜひ、上記の本を読んで「江戸時代の生活」を想像してください。
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この回答へのお礼

有難うございました。
北朝鮮への帰還事業で騙された人たちの想像を絶する苦難が、最近やっと実態が分かってきたようですね。 言ってみれば、逆・浦島太郎というものかも知れません。
でも比較してみれば、江戸時代=平和な北朝鮮、こう言えるかも知れないんですね。
お勧めの本、機会があれば是非読んでみたいと思います。

お礼日時:2007/10/18 10:18

まず都会か地方の田舎か立地によりかなり事情が異なります。



それにより何に困るかかなり異なってきます。
例えば匂い。 田舎であれば家畜小屋かトイレの脇に入れられ臭気に耐えられないし、都会ならそれほどでもない。
住まいも江戸では長屋に潜り込むことも難しいでしょう。
お金が異なるので生活資金を稼ぐ必要がありますがこれが難事です。

もっと条件を絞り込まないと回答にこまります。
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この回答へのお礼

有難うございました。
すみません、様々な観点から江戸時代の庶民の生活の実態を知りたかったので、あまり条件を絞らずに質問させて頂きました。
でも江戸の長屋に潜り込む事は難しいとありましたが、なぜですか?
近所の人から 「変なやつが来た」 と思われる事は別として、どんな事で苦労しそうでしょうか?

お礼日時:2007/10/18 10:05

女なので化粧が心配かな。


ほとんどの人の肌が温室育ちでどんなブランド物の化粧品でも流行物でも肌が荒れちゃいそう。
でも普通の街娘を装うなら、した方が良さそうだし。

そして本好きの私はきっと、本が読めなくて苦痛に思うと思います。
本好きでなくても瓦版など娯楽の一部は文字がすらすら読めなければ楽しめなさそう。江戸文字・江戸で一般的に使われていた言葉・文字ってどこまで現代人にも理解できるのでしょう?
江戸文字はともかく、基本は草書ですよね。厳しそう。

食事・風呂は慣れることもできそう。
個人的に牛肉豚肉が苦手なので鶏・魚メインの食事は大賛成。むしろ屋台のいなり寿司とか是非食べてみたいものがあるくらいです。

トイレは・・・江戸時代までにはちり紙が主流になってるんですよね?
手で拭くならアウトですが、ちり紙があれば大丈夫そうです。
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この回答へのお礼

有難うございました。
おっしゃるように文字と言葉で苦労しそうですね。
さまざまな当時の文書が今での残っていますが、まず何が書いてあるのか、初見で理解できる人は専門家以外いないと思います。
漢字なのか平仮名なのか、筆を切らずに続けて書いているので、現代人には難しいと思います。
話言葉もそうですね。 こればっかりは記録に残されていないでしょうから、当時の江戸っ子がどんな日常会話をしていたのか、大変興味があります。
「てやんでえ、べらんめえ」 とか、本当に言っていたんでしょうかね。

お礼日時:2007/10/18 10:01

女性か男性かによっても違うとも思いますが、、、



身分制度ですかね。でかい包丁持ち歩いてる連中がうろうろしていて、いつ斬られてもおかしくない状況で眠れますかね。または、クチのきき方がなってないとかって一ヶ月以内にバッサリやられるか。(^_^;

後は、話す相手がいない (言葉や話が合わない?) とか、庇ってくれる人がいないとか。食いぶち手に入れるための過酷な労働というのも身体が適応してないからもたないと思います。

でも、一番効くのは「希望がないこと」ですね。戻れる保証があるかないかで全然違うと思います。
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この回答へのお礼

有難うございました。
武士の存在を忘れていました。 真剣を腰に差した武士が多くいるわけで、当時のマナーを知らずに何か粗相をしてバッサリと ・・ この可能性も大ですね。

お礼日時:2007/10/18 09:56

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http://www.cleanup.co.jp/life/edo/03.shtml



http://homepage3.nifty.com/shokubun/izakaya1.html

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大まかに江戸時代でいいよ。
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控えるとすれば戦後の短い期間、江戸末期の混乱くらいかな。

Q【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったか

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越しの銭は持たなかったとうう説は間違いとわかる。

大金が回ってくる仕組みを火事が多いので大金を持たなかったという江戸っ子の説は矛盾に気付く。

2つ目の仮説。銀行はなかった。けれども頼母子講という少額を積み立てて大金を引き出す銀行みたいな仕組みがあったのでこれも嘘の仮説だと分かる。

最後の仮説の江戸っ子は貧乏だったという説。

江戸時代に流通していた通貨は金貨、銀貨、銭貨の3種類。

銭貨の価値は現在の価値で50円程度。

江戸時代の江戸っ子の日当が50円程度だった?

金貨の価値が20万円程度だった。

江戸時代の大工に月収は2万円。2万円/30日で日当で666円。

1日銭貨を13枚。

当時の大工は高給取りだったとすると一般庶民のブルーワーカーは大工がホワイトカラー職で現代の月収50万円職に値すると一般庶民のブルーワーカーの月収は25万円として6枚。

で、1日6枚で飯が3食で銭貨3枚が余る。で、相互会に毎日銭貨3枚を預けると月で99枚。1枚50円で5000円。

金貨が20万円なので月5000円で12人で相互会を組んでいるので年1回月収が6万円のときがある。

年1回大金を掴んでも6万円なら江戸っ子は20万円の価値がある金貨を一生見ることがなかったのかも知れない。

ということは、江戸っ子は宵越しの銭は持たないの話には続きがあって、(けど江戸っ子は銭貨を大金の銀貨に変えて貯金していた)。要するに1番価値がない銭貨を持たないで銀行(相互会)に預けて大金にするという仕組みが江戸にはあったので当時の人は江戸の仕組みを珍しく思い、「江戸には銀行という仕組みがある」ということを「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」と表現したのが真相ですかね。

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少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

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Aベストアンサー

すごいですねえ。
いろいろ計算して、ここまで考えると、おもしろいですね。

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江戸時代について質問したいことが幾つかあるので、質問させていただきます。

まず一つ目は、江戸時代は何世紀頃になるのでしょうか?

二つ目は、江戸時代の移動手段はなんだったのでしょうか?
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回答お待ちしてます。

Aベストアンサー

こんばんわ。
お読みいただきありがとうございます。

>>江戸時代では、吉原がありますよね。
親に売られた娘たちは、どうやって吉原にたどり着くのでしょうか?
買い手と一緒に徒歩で吉原まで向かうのでしょうか?
それとも駕籠ですか?

まず、あなたの質問から先に述べますと、すべて「徒歩」で行きました。


次に、もう少し詳しくお話しましょう。

吉原の遊女になるケースは、次の3つです。

1.女衒(ぜげん=人買い)に売られて吉原へ。
2.付き合った男(または、所帯を持った男)にだまされて吉原へ売られる。
3.借金のカタに取られて吉原へ。


1.の場合:

♪花一文目・・・と言う歌がありますが、ご存じでしょうか? 
これは、貧しい農家などの娘が女衒に買い取られる値段のことを指しています。
一文・・・時代によってかなりの差がありますが、おおよそ10円位です。
良く、江戸時代の蕎麦が8文(100円位)、風呂屋が16文(200円位)と言いますが、それよりも安かったのです。
そんなに安くても、農家などでは「口減らし」の意味がありましたので、殺すよりはマシと考えて娘を売ったのでしょうねぇ。
女衒はムダな銭を使うことはせず、どんなに田舎からでも「徒歩」で江戸まで連れてきました。


2.の場合 と 3.の場合:

これは、そのままの通りです。

ところが、幕府では「人身売買」を禁止していました。
そこで、吉原に売られた女たちは、すべて親が承知の上での「奉公」と呼ばれ、
「売った」「買った」とは言わなかったのです。
1.の場合の親は女衒。
2.の場合の親は男。
3.の場合の親は借金をした本当の親。
でした。

そして、吉原の女たちは、幕府公認でしたので、すべて「遊女」と呼ばせました。

それに反するのが、私娼(ししょう=売女・ばいた)で、詳しく述べると長くなりますので、主なところを説明すると、
★江戸では・・・夜鷹(よたか)・・・夜になるとゴザを小脇に抱えて川端などで男の袖を引っ張って事をすませる。
★京都では・・・辻君(つじぎみ)・・何となく風情がありますね。
★大坂では・・・惣嫁(そうか)・・・何でも食らいつくからとか。

遊女のランクとしては、
「太夫」(たゆう・宝暦年間頃・1751~・からは「花魁」おいらん)、「格子」(こうし)、「散茶」(さんちゃ)、「うめ茶」、「五寸局」(ごすんつぼね)、「三寸局」、「なみ局」となります。

遊女は、例えば、着物を買ったりしましたが、郭(くるわ)から出たことがありませんので、世間相場というものを知らず、親方(妓楼の主人)は、呉服屋などと結託して、10両のものを15両などとだまして、ちゃっかりバックマージンを得ていました。
当然、一度では払えませんので、親方からまた借金をする。

さらには、蒲団や座布団、火鉢、煙草盆なども1日いくら、というように、全てが貸し出しだったのです。

まあ、それでも苦界20年と言い、20年間働いてくれれば、親方も許してくれましたが、実のところは、27~28歳になっていましたので、はっきり言えば「年増女はお払い箱」だったのです。

従って、遊女は25~26歳位になると、将来を一緒に過ごしてくれる男を必死になって、客の中から選びました。

もし、男が見つからない場合などは、見世に残って「やり手婆」(やりてばばあ)として、若い者の指導に当たりました。
というより、遊女が「足抜け」(逃亡)などをした場合などは、後ろ手に縛って鴨居にぶらさげ、竹刀で叩いたり、庭の大木に縛り付けて折檻をしたりの本当の「やり手ババア」だったのです。

さて、遊女も一緒になってくれる男が決まると、
男の方から親方に「○○を身請けしたい」と相談をさせ、親方も一応は、先に述べた「親」に了解を得て、男に残りの借金を払わせ、さらに、身請けの当日になると妓楼では、赤飯を炊き、豪勢な料理を用意します。しかし、これらの金はすべて身請けする男の負担でした。
すべてが男の負担で宴が終わると、大門(おおもん)の前に待たせておいた「駕籠」で男の家に向かいました。

ここで、初めて「駕籠」に乗ることができたのです。

お役にたったでしょうか。
まだ、解らないことがあれば、いつでもどうぞ・・・。

こんばんわ。
お読みいただきありがとうございます。

>>江戸時代では、吉原がありますよね。
親に売られた娘たちは、どうやって吉原にたどり着くのでしょうか?
買い手と一緒に徒歩で吉原まで向かうのでしょうか?
それとも駕籠ですか?

まず、あなたの質問から先に述べますと、すべて「徒歩」で行きました。


次に、もう少し詳しくお話しましょう。

吉原の遊女になるケースは、次の3つです。

1.女衒(ぜげん=人買い)に売られて吉原へ。
2.付き合った男(または、所帯を持った男)にだまされて吉原...続きを読む

Q江戸時代と現代についての質問です;;

”江戸時代と現代の比較”について、今取り組んでいるのですが、
わからない項目がいくつかあるので、教えてください(><;)

(1)ごみ処理の方法の比較
(2)法律の比較
(3)生活水準の比較
(4)住民感情(ごみに対するもの)の比較

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

あなたのご質問については、各地での状況が違いますので、江戸を例にとってお話しをしましょう。

>>(1)ごみ処理の方法の比較

「よもやま話」でもお話しをしますが、とにかく、リサイクルシステムが完備されており、
例えば、大根1本にしても、庶民は、まず皮をむいて味噌汁や煮物で食べる。その後、皮は千切りにして、「いためて」食べる。葉っぱは「お浸し」などで食べる。・・・つまり、残るところがない。
しかし、武家や商家、料理屋などでは、当然、そこまでは食べませんので、残飯が出ます。これらは、農家の人たちが定期的に町内を回って回収し、農家の肥料などに使いました。
また、火事などで焼けた廃材などは、江戸は千代田城(江戸時代、「江戸城」とは呼ばず「千代田城」または「舞鶴城(ぶかくじょう)」と呼び、庶民は、ただ単に「お城」とよんでいました)のすぐ近くまでが海でしたので、柵を作って、そこへ投棄しました。
つまり、埋め立てに利用したのです。現代の「夢の島」ということです。

>>(2)法律の比較

江戸で出される「○○令」などは、基本的には、江戸の庶民に対してのみの法律でした。
また、「武家諸法度」のような法律は、大名に対してのもので、諸国の庶民は、その地の領主(大名など)の管轄で、その地だけでの法律がありました。
従って、江戸で出された「禁止令」などは、主に、江戸の庶民に対してだけの効力しかありませんでした。

>>(3)生活水準の比較

う~ん。これは難しい。
江戸時代も物価の変動があり、一概には言えませんが、
例えば、大工の賃金は年収で約120万円位といわれており、その収入の中で、妻や子ども4~5人を養っていたようですので、士農工商の人々は、自分なりの工夫で生活をした、と思います。
ただし、逆に貧乏だったのは、武士(主に、御家人)の方かもしれませんね。
少ない俸給の中で、冠婚葬祭などにしても体面が重んじられていましたから、札差などからは、借金、借金、またまた借金と、借金地獄だったようです。ですから、江戸時代も終わりに近づくと「御家人株」と言って、身分を売ることさえ行われました。
風呂屋・・・8文(約100円)
蕎麦・・・・16文(約200円)
庶民としては、士農工商の下に「非人」「穢多(えた)」と呼ばれる最下層の人々もいました。
非人:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E4%BA%BA
穢多:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%A2%E5%A4%9A

>>(4)住民感情(ごみに対するもの)の比較

江戸は、盛時で、庶民が50万人、武士は軍事上の秘密から公表はされていませんが、武家地の町割り図から見て、同じく50万人位、つまり、江戸は100万人都市で、世界一の大都会だったのです。
しかし、し尿処理など(「よもやま話」参照)や、さまざまなリサイクルシステムがあり、世界一綺麗な街だったのです。
例えば、フランスなどは、排泄物を自室の洗面器などにして、窓から道路や川へ捨てていました。
そこで、靴やドレスの裾が汚れないように考え出されたのが「ハイヒール」だったのです。

(よもやま話)
題して・・・「EDOの街はECOの街」

(1)下肥問屋
江戸の街は武家地が25%、庶民の地が15%、後の60%は農地でした。渋谷、原宿、麻布なども農地でした。
盛時には江戸の人口100万人と言われて世界一の大都市でしたが、農地が大部分だったのです。
現代では、「食い倒れ」と言うと「大阪」を指しますが、昔は、江戸が一番の「食い倒れ」でした。
こうした贅沢な庶民の排泄物は、農家の野菜作りには大変優良な下肥でした。
農家は、長屋の大家と提携して、年に数回「汲み取り」にやって来て、その代わりとして、年に「たくあん漬」10樽とかを大家に収め、大家は店子に配ったりしました。
元禄年間(1680~)頃には、下肥の争奪戦が勃発し、「下肥問屋」なる職業が成立し、下肥の値段が急騰したため、勘定奉行より「公定価格」まで提示されました。
また、大奥などのやはり優良な下肥は「葛西権四郎」なる者が一手に引き受け、堀を伝って舟で運び、農家に売買していました。

(2)古紙回収屋
紙は、当然、貴重品。
現代の「チリ紙交換」と同じように、役所や商家などで書き損じた紙は「古紙回収屋」が引き取り、また、街中を篭をしょって歩き、紙くずを拾い集めたりしました。
再生紙は、「浅草紙」と呼ばれ、トイレットペーパーになりました。
これは、今も昔も変わりませんね。

(3)古着屋
武家や大店から古着を買い取り、庶民の女性が集まりやすいように、長屋の近くに店を出すのが一般的でした。

(4)端切れ屋
これも、反物から着物を作った残りの布地を買い取り、古着屋と同じく、女性の集まりやすい長屋近くに開業。
昔は、少々の破れは布を当ててつくろいました。
良く、TVの時代劇で子どもが、何の「つぎはぎ」もない着物で遊んでいますが、とんでもないウソ。

(5)着物のリサイクル
旦那の着古し→子どもの着物に仕立て直し→おしめ→雑巾。

(6)傘の古骨買い
番傘(蛇の目傘)の壊れたものを買い取り、折れた骨は取替え、油紙も新しく張り替えて、再度、店先へ。

(7)焼き継ぎ屋
現代では、茶碗や皿などが割れると、ハイ「廃品回収」ですが、江戸時代には、立派な職業。
割れた茶碗や皿に「ふのり」と「粘土」を混ぜた「天然の接着剤」でくっつけて、火で焼けば「元通り」。

(8)たが屋
水桶などの「たが」のゆるんだ物を直す職業。

(9)らう屋
キセルの修理屋。

(10)ゲタの歯入れ屋
磨り減った下駄の歯の交換屋。

(11)古鉄買い
火事で消失した家などに使われていた「釘」を買い集め、再び、新しい「釘」にして大工などに販売。

(12)灰買い屋
家庭の灰や焼け跡から「灰」を買い取り、農家に販売。
天然のアルカリ成分なので土の再生に利用された。

(13)廃材の再利用
「ふすま」「障子」「戸」などは、全て同じ寸法。従って、取り壊した家などから、そうした物を買い取り、長屋や商家などでの取替えをした。
「柱」も数種類だけの寸法なので、古い建材ですぐに家が建てられた。

(14)風呂屋(湯屋)
江戸の街は、密集しており、一度火事が起きると広範囲に消失した。
そこで、庶民の家では「風呂」を造ってはいけない禁止令が発令された。
風呂屋を開業するには、勘定奉行所の許可が必要だった。
また、「薪」も近隣の農家から買う必要があり、高かった。
しかし、大体は町内に1軒位は湯屋があり、湯銭は8文(約100円)で蕎麦の16文の半値だったため、風呂好きな暇な大家などは朝夕の2回の風呂屋通いをした。
かの有名な大店の「三井越後屋(現:三越)」の店員でさえ湯屋通いをしました。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

あなたのご質問については、各地での状況が違いますので、江戸を例にとってお話しをしましょう。

>>(1)ごみ処理の方法の比較

「よもやま話」でもお話しをしますが、とにかく、リサイクルシステムが完備されており、
例えば、大根1本にしても、庶民は、まず皮をむいて味噌汁や煮物で食べる。その後、皮は千切りにして、「いためて」食べる。葉っぱは「お浸し」などで食べる。・・・つまり、残るところがない。
しかし、武家や商家、料理屋などでは、当然...続きを読む

Q「江戸時代の旅」

江戸時代の旅について調べています。
江戸時代の旅が当時どのような役割を果たしたのか、
またそれがいまの社会にどのように変えていったのか
その江戸時代の旅が今に伝えるものは何かを
どなたか民俗学や歴史に詳しい方
なんでもよいので教えてください。(><)

Aベストアンサー

現代の旅でいうところの出張は、参勤交代や、近江商人、富山の薬売りなどにあたりましょう。
宿場の発達、街道の整備を促したでしょうし、江戸の街道は、その道筋をたどって、現代でも大動脈です。
近江商人の商法は、地場のものを売り、現地のものを仕入れて帰るというやり方は、現代の商社に充分通じるものがあります。
観光というと、信仰が結びついた、富士詣で、伊勢参りなどがあげられると思います。
詣でるために整備された道も残り道の名前にもその名残りがあったりします。
用件のための旅もあると思います。
宿屋の客寄せの努力などのエピソードは、けっこうおもしろいものも多いです。
まず、知識の取り入れの前に江戸時代にタイムスリップしたつもりで、自身が旅をしてみては、どうですか?
疑問点なども浮かび上がると思いますが。

Q江戸時代の町屋・家屋の屋根は何で葺いていたのですか?

カテ違いならごめんなさい。
タイトルとおりですが、
江戸時代の町人の家の屋根は、瓦葺ですか?
一般庶民の家の屋根が、何で葺いていたのかの歴史を知りたくての質問です。
時代をさかのぼり教えていただけると嬉しいです。
宜しくお願いします

Aベストアンサー

初期は板葺きでその上に桟木を渡し重しに石を置いていました。

江戸は風が強く、火災が多かったので経済力のある豪商、武家屋敷などが次第に瓦葺きに移行しました。
財貨などを守るため土蔵という塗り籠めの建物はもちろん瓦葺きでした。

中期たしか5代将軍の時代に瓦葺きを奨励する政令が出ています。

Q【日本史・家紋の謎】江戸時代に300藩があって300藩主にはそれぞれの家紋があったわけだが、300藩

【日本史・家紋の謎】江戸時代に300藩があって300藩主にはそれぞれの家紋があったわけだが、300藩に同じ家紋の藩があるのはなぜですか?

しかも遠い地域の藩に同じ家紋がある理由を教えてください。

隣りの藩が同じ家紋はあり得るがなぜ遠い他の地に同じ家紋が点在しているのか。藩名も共通点がなく全然違う。

それと現在の各家庭には冠婚葬祭時に着る和服にそれぞれの家紋を持っている。

この現在の家紋は江戸時代の藩の家紋が引き継がれているのでしょうか?

今の家庭の家紋を見れば、江戸時代にどこの藩に仕えていたか分かる?

けど江戸時代の300藩の家紋に存在しない家紋を使っている家庭もある。

江戸時代に存在しなかった家紋が江戸時代以降に作られて自分の家族の家紋として使っているのも不思議です。

藩制はなくなり藩はないのに存在しない藩の家紋をわざわざ作って今も疑いなく使っている家庭は何者なのでしょう?

Aベストアンサー

まず江戸時代300藩とは言いますが、分家や一族も別々に数えて300藩ですから、同じ家紋を持つ藩が有っても当然です。
また、功績を立てた部下には主君から何かしらの家紋を下賜された武将もあり、また他家と差別化を図るために家紋をゴージャスにするなど色々とあったようです。

江戸時代では士農工商の身分制度で、武士以外は苗字を名乗るのは公式には禁じられていましたが、
家紋は特に規制されていなかったようですね。遊女・芸人でも使用したと言いますね。
もちろん葵の御紋は禁止だと思いますが…。

Q現代人が江戸時代の最初ごろにタイムスリップしたとして蒸気機関って製造できるのか

製法を知っていたとして、江戸時代の設備で農薬や蒸気船って製造可能ですか?

Aベストアンサー

ある程度の圧力に耐える金属製のものとして、火縄銃などは製造できたわけですから、蒸気機関はありかも知れません。
またタバコが存在していますし(今でもタバコを水に浸した液体はアブラムシ殺しに使えたと思う)ほかにも殺虫成分を含む植物もありますからその成分を利用して農薬もつくれるかも知れません。
基礎的な冶金術などはある程度刀鍛冶の技術などからおうようがきくかもしれません。
ただし、蒸気船レベルになりますと大きな工場が必要になりますから、それこそ藩主レベルの人間をうまく焚き付けて動かさないと無理ですね。

また、その製法を知っているという条件が、現代技術でしか利用できない知識であれば宝の持ち腐れになってしまうでしょう。
江戸時代に応用できる技術に「読み替え」ることが出来なければ、難しいでしょうね。


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