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悟りを得るために何故修行をしなければならないのでしょうか?
悟りというのは、何か悟る必要性のある状態がある場合に(人生の無常を感じて悩むとか、自分の存在意義が無いのを悩むとか)、それが解決した場合に、それを悟ったということであって、わざわざ悟るために修行をするというのはおかしいのではないでしょうか。
身体的に苦痛になるような修行をして悟るというのは、
単なるランナーズハイの状態で恍惚感を得て、それを悟ったと
思い間違いをしているのではないかと思います。
修行をして恍惚感を得ても、それが悟りだと決め付けるのは全く
間違いではないでしょうか?

A 回答 (6件)

>>悟りというのは、何か悟る必要性のある状態がある場合に(人生の無常を感じて悩むとか、自分の存在意義が無いのを悩むとか)、それが解決した場合に、それを悟ったということであって、わざわざ悟るために修行をするというのはおかしいのではないでしょうか。



大人になった人は、だれしもが「人生の無常を感じて悩むとか、自分の存在意義が無いのを悩む」という経験を持っているのではないでしょうか?これらのテーマで悩んだ経験の無い人は、精神的には、まだまだ「子供」だってことだと思います。

そして、ちょっと考えたくらいでは、これらの問題は解決しません。

ゴータマ・ブッタは、釈迦族の王子であって、文武両道に優れ、4人の后を得て、さらに子供もいました。将来は王様になるのが当然であり、その実力十分だったのですが、29歳で、その国と地位と、4人の妻と子供を捨てて出家しました。(普通に考えれば、無責任で、迷惑千万な行為ですね。後ろ指さされまくり!)

彼が出家した理由は、人生の無常というか、「生老病死」についての疑問が、その1つでした。彼の家庭教師役になる僧侶(バラモン教僧侶等)たちに、「この問いに答えてくれたら、出家は止める」と言ったわけですが、誰も納得できる回答をすることはできませんでした。もちろんブッタ自身も、その時点では、回答を持っていませんでした。

そして、出家して「師を求める旅」に出るわけですが、求める優れた師に出会うことなく、「地上には師になる人はいない」ってことを知るわけですね。(このあたりの話は、手塚さんや、里中満智子さんの「ブッダをめぐる人びと」のマンガなど、いろいろありますね)

もちろん、そうした疑問を「無かったこと」にして日々の生活に埋没することも可能ですし、生きていくためには、ご飯を食べないとダメですから、篭って瞑想・禅定ばかりしてないで、働いてお金を稼ぐ必要があります(一部のセレブな人は除く)。そーして、普通の人は、日々の生活に追われて(埋もれて)うん十年後に死んでいくわけです。でもって、「あるわけねーだろう」と思っていた「死後の世界」を目にして、「あーあ、私の人生、結構無駄ばかりだったなあ・・・もっと、あのとき考えておけばよかった」って後悔をするわけです。まあ、そのときに激しく後悔しないためには、「人生とは?」っていうレベルの悟りが必要であり、そのためには、ちょっとは修行が必要ってことでしょう。


>>修行をして恍惚感を得ても、それが悟りだと決め付けるのは全く
間違いではないでしょうか?

これは、そのとおりです。間違いでしょう。「悟り」のオマケとしての「恍惚感」はあるでしょうが、苦行などしていて「恍惚感を得たから悟った」ってことはないですね。ちなみに、ブッタが悟ったとき「このまま恍惚感の中で死んでいこう」なんて思ったそうです。もちろん、そんなことを天が許すわけなく、その後に布教活動が始るのですけど。

まあ、その人が悟った人かどうかは、その人の生活態度など見ていれば、普通の人でも、解ることでしょうけどね。(若いキレイな娘、何億円ものお金、ヤクザの脅しなどで、動揺するとかで、いつかバレる)
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この回答へのお礼

有難う御座います。

お礼日時:2007/10/19 19:01

>どうして、それが「煩悩や苦悩を持っている状態」より


>良いのでしょうか?「煩悩や苦悩を持っている状態」の方が
>「煩悩や苦悩を持っていない状態」より上だと思うのですが。
>「煩悩や苦悩を持っていない状態」って所謂馬鹿と同じだ(御免なさい)と思うのですが。

意味を読み取り間違いされていませんか?
私は一言も「煩悩や苦悩を持っていない状態」とは書いていませんよ。
どのような悟りを開くにせよ、そこにたどり着くまでに煩悩や苦悩があり
誰しも心にそういうものがあります。
しかし、それにまだ心を惑わされているような状態ではまだ悟ったとはいえません。
「煩悩や苦悩を超える境地」とは、その根底に煩悩や苦悩をあることを前提になっています。
そして、自分の持つそれらをすべて見据え、考えて、それらに対して
自分が何をどうすればいいのか見えてくるものがあります。
それが、僧侶ではない私ができる「悟り」だと理解しています。
(僧侶として仏門に入られた方は別の悟りがあるかもしれませんが)

>また、時と場合によって「煩悩や苦悩を持っている状態」が
>生ずるので、「煩悩や苦悩を超える境地」って、そういう境地を求める
>こと自体現実逃避だと思うのです。
これはまさにオウムの教義にのめりこんだ信者たち、そのものです。
僧侶の修行とオウム信者たちがやっていた修行の違いはここにあるのです。

仏門に入った僧侶は、現実をいかに受け止め、心の持ちようを如何ようにするか
それを自分で悟るために、修行をするのです。

かつてのオウムの信者たちは、個人個人が社会の中で認められない存在である自分を
オウムという宗教が認めてくれて、まさにその現実から逃避するために、
「修行」と称する行動により「悟り」と称した錯覚・幻想で、
修行していない人間より解脱したと勝手に思い込んでいた(思い込まされていた?)のです。

いってきますが、僧侶にだって人間ですから煩悩や苦悩はあります。
仮にどんなにお金持ちで自分のほしいものは何でも手に入る人でも、煩悩や苦悩はあります。
この世の中に煩悩や苦悩のない人間などいません。
逆に言えば、そういうものがまったく持たなくてもいいような人生を
送っているような人に、悟りが開けるわけがありません。
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この回答へのお礼

有難う御座います。
ただ、「仏門に入った僧侶は、現実をいかに受け止め、心の持ちようを如何ようにするか、それを自分で悟るために、修行をするのです。」
というのは、自分(僧侶)の心の内部だけで、落ち着きを持つということですね。
僧侶の中で自殺希望者の相談を受けている僧侶もおられるようですが、
他人の苦しみにはあまり関心がない、自分の苦しみには悟りを開く、というのが仏教のように思えます。他人が自ら苦しんで悟りを開くために来れば応ずるということはあるとは思いますが。
苦しんでいる人に修行をして悟りを開くようにというのは、極めて迂遠なように思えるのですが。

お礼日時:2007/10/19 19:10

悟りとは宗教的な事柄なので、それを社会問題のカテゴリで問うことはちょっと疑問ですが、まあ理解している範囲で回答します。



悟りを得るとは何かというと、個人的な悩みを解決することではなく、もっと大きな真理を体得することだと思います。

じゃあ、何でわざわざ悟りを得るために修行しなくてはいけないかというと、凡人が俗世間にいてはそれが難しいからですね。

次に他の方の回答にあるように、肉体的な苦痛を受けることだけが修行ではありません。
そういう苦行至上主義は、二千数百年前に仏教を開いたお釈迦様自身が否定しています。

過去の偉大な宗教者の足跡をたどると、一時的にはそういう苦行をするかもしれませんが、たいていは座禅を組んで静かに瞑想する中で悟っているようです。

以上、ご参考まで。
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この回答へのお礼

有難う御座います。
「悟りを得る」というのが「もっと大きな真理を体得する」
ということだと言っておられますが、「もっと大きな真理を体得する」とはどういうことなのでしょうか?「もっと大きな真理」と言葉だけで
言われると良くわかりません。それは現実に体得しないとわからないものだと言われますと、それはそうかもしれません。
そうすると、仏教というのは、各々の自分勝手な宗教だ、個人個人が「大きな真理を体得する」ための宗教だ、その集合体だということなのかもしれません。仏教を殆ど知らないので申し訳ありませんが。

お礼日時:2007/10/19 00:31

修行をしない俗世では、悟りを開くのに邪魔になる煩悩が多すぎるからです。



心を無にするには、それらの煩悩や煩悩につながることから自分を断ち切らねば
いけないことから、俗世から離れて修行すると言われています。

>身体的に苦痛になるような修行をして悟るというのは、
>単なるランナーズハイの状態で恍惚感を得て、それを悟ったと
>思い間違いをしているのではないかと思います。
これはオウムが修業体験と称する行為で薬物を使って、このような状態に
して、自分は悟って解脱したのだと錯覚させるやり方をしていました。

悟りとは、
>単なるランナーズハイの状態で恍惚感を得て、
で悟れるものではありませんし、
>身体的に苦痛になるような修行
をすることで、煩悩や苦悩を超える境地を自分で切り開くことであり
修行をすること自体に意味がないわけではありません。

ただ、そのような苦しい修行をしなかったとしても、精神的な鍛錬は
積んでおかないと、悟りは開けないと思います。

この回答への補足

御免なさい。
ただ、「煩悩や苦悩を持っている状態」が解決して
「煩悩や苦悩を持っていない状態」が生じても
また、時と場合によって「煩悩や苦悩を持っている状態」が
生ずるので、「煩悩や苦悩を超える境地」って、そういう境地を求める
こと自体現実逃避だと思うのです。

補足日時:2007/10/19 00:21
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この回答へのお礼

有難う御座います。
ただ、悟りとはどういうことをお考えなのか、
また、それがどうして悟りと呼べるのかが良くわかりません。
回答者様は悟りが「心を無にすること。」とか
「煩悩や苦悩を超える境地」であると言っておられるようですが、
どうして、それを悟りだと言えるのでしょうか?
どうして、それが「煩悩や苦悩を持っている状態」より
良いのでしょうか?「煩悩や苦悩を持っている状態」の方が
「煩悩や苦悩を持っていない状態」より上だと思うのですが。
「煩悩や苦悩を持っていない状態」って所謂馬鹿と同じだ(御免なさい)と思うのですが。

お礼日時:2007/10/19 00:18

>身体的に苦痛になるような修行をして悟るというのは、


「苦行」と「修行」を混同されておられるようですね。

「修行」には「肉体的な苦痛を一切伴わない、精神的な物」もあります。

ただ「精神的な瞑想のみ」で、質問者さんの言うような「ランナーズハイの状態での恍惚感」を得る事も可能かと思いますので「ランナーズハイの恍惚感を悟りと勘違いした説」は否定しません。

でも「精神的な瞑想のみで、ランナーズハイの恍惚感を得られるレベルに達している」としたら、それは「一般人から見たら、まるで悟ってるように見える高レベルの修行僧/修験者」なのではないでしょうか?

「苦行のみ」では「修行した事」にはなりませんし、悟りも得られないでしょう(たぶん、です。当方、修行僧でも修験者でもないので「たぶん」としか言えません)

「苦行と修行の違い」について、再質問してみては如何でしょうか?
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こんにちわ。

手塚治虫の漫画「ブッダ」に同じように
ブッダがバラモン教の荒修行に疑問をもつというシーンがありますね。
http://comics.yahoo.co.jp/10days/tedukaos01/buxt …

最初は世俗の煩悩から逃れるために無心になるための修行。。(手段)が
より激しい修行をすることがもてはやされる(目的)に転嫁したという
ことのようです。修行を否定するわけではありませんが、まったく同感ですね。
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この回答へのお礼

有難う御座います。
手塚治虫の「ブツダ」も
また、見てみたいと思います。

お礼日時:2007/10/19 00:21

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