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仏教について 知りたいです。おしえてください。

(1) 目覚める(仮りに 即身成仏と表現します)ためには ブッダの知恵(般若)が推進力であり しかも それ自身が 到達すべき彼岸(つまり涅槃)であると理解してよいでしょうか。

(2) 目覚めた涅槃のあとには 何があるでしょうか。
  (つまりは 上の(1)で すでに 人は彼岸に到達しうると前提しました)。
  (素人考えでは 衆生済度かと思いますが)。

(3) 衆生済度というとき 成道が 知恵(般若)によって成り立ったのと同じように 人が この知恵によって行なうのでしょうか。それとも この知恵は 誰にも備わっていて そのことを指し示せばよいということでしょうか。

過去に次の質問を問うています。(参考まで)。
・仏教は《目覚めよ》という以外に何を言っていますか
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3423110.html
・ブッダは 絶対ですか
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3428914.html

教えて!goo グレード

A 回答 (8件)

bragelone様 お世話になります。

先の投稿( ANo.7 )の「補足」及び「お礼」を頂戴して、ハタと気付いた事があります。それは既存の概念や理論、そしてその典拠等への私自身の理解の深浅のムラです。つまりは 真に体験を伴った知識で智慧が充満しておれば(と言いますか、取り戻していれば)、もっとシンプルに多弁を労さずとも伝える事ができるのではないか?…と言う事です。さりとてツイツイ bragelone様のお題に反応してしまう自分も居て妙な矛盾も感じています(苦笑)。兎に角、如何ともし難い道半ばの半人前にも拘らず自論を展開させて頂きます事、そして恥も外聞も省みず投稿致します事をお許し下さい。今までの投稿と自らの体験を踏まえつつ、また仏教の枠を超え(ココではご法度になりますでしょうか?)出来るだけ交通整理をしながら投稿したいと思いますが、あくまでも自論の域を出ず正誤は定かではありません、因ってご参考程度にお読みになられる事を希望します。

> 《心の起こらぬ。起こさぬのではなく 起こらぬ》という最初の最初での人間存在のあり方――これを わたしは 自然法爾と捉えましたが―― これに立つことと 同じ内容をおっしゃっているのではないか こう思いました。変な言い方になりますが 即身成仏の起ころうとする以前の即身成仏です。

○恐らく bragelone様がお尋ねになりたいのは「 本当の本当の所、我々は何者なのか?つまり、私が私である所以とは? 」…に尽きるのではないのでしょうか?( 違っていたらゴメンナサイ )私も同様の思いで日々試行錯誤をしております。瞑想に於いては【 個 】が【 全 】を認識しようとする作業( 真我の探求 )は徹底的に【 削ぎ落とす 】という事に尽きるようです。つまり唯識においての【 前五識 ( 眼識、耳識、鼻識、舌識、身識 ) 】が曇らせる本当の自分( 真我 )を知る為に、自分(【 個 】)に付随しているありとあらゆる事項を総て削ぎ落とす事で【 全 】への帰一を図る…、と言うより【 全 】その物になる(!)事が一つの終着点のようです。ある部分、これを即身成仏と言っても良いのかも知れません( 加持の合一との違いもあるはずですので一概に申せません。実は私がお坊様に訪ねたいくらいなのです… )。また、以前に瞑想の師匠が【 神々が羨む瞑想をするんだ! 】と話して下さいました。つまり【 全 】その物になった時点に於いては、実際には神仏を遥かに凌駕するということらしいです。言い換えれば「大日如来」すらも我の一要素であり、曼荼羅も現象界の説明に過ぎない…と言う事になります( 恐らく仏教関係者からしますと、とても畏れ多く不敬に映ると思います。後が怖いです…笑 )。

上記は過去の投稿『> さらに申し添えれば私の中では【空】とは【「個」と「全」の構造認識(「関係性の側面⇔独立性の側面」の双方向性を含有する大宇宙である自分自身)】すら消滅した状態では無いかと想像しております。正に【在りて在るだけ】、名称すらも付与できないと…(【空】を【空】と名付けば【空】で無し)。』(【 自由意志について( http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3286135.html?ans_cou …​ ) 】の ANo.22に記載。)…の補足にさせて頂きます。また、前の投稿の【 己こそ 己の寄る辺 己をおきて誰に寄るべぞ 良く整えし己こそ、まこと得難き寄る辺をぞ得ん 】とも大いに関連し表現こそ違えど同意文と理解しております。

そして、翻って見ますに この事実を文字のみによっての理解は不可能に近い… 否、実の所 絶対に不可能であろうと思います。重要なのは瞑想を伴った神秘体験であり、その中で また それより先 我々が肉体だけが自分では無いと言う事実【(肉体は)死んでも(魂は)死んでない】を認識するための作業(瞑想以外のある種の神秘体験)も付随して必要になるかとも思います。うぅ~ん、況や 意識の世界は方程式で紐解くようには参りませんね…。以前に我々の世界は全宇宙の10億分の1の世界だと申し上げました(【 ブッダは絶対ですか( http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3428914.html?ans_cou …​ ) 】の ANo.14に記載。)。これはご承知とは思いますが ダークマターやブラックホール、はたまた 存在する総ての銀河とその空間ですら 全宇宙の10億分の1の世界(!) と言う驚くべき事実です。その10億分の1の内、我々が知り得た地球世界などほんの微々たる物です。所謂、滓の滓…です。実に知らない事だらけなのです…。所詮、我々の思索の貧弱さが解ると言うものですね(失笑)。有体に言えば、文字の周波数の粗さはたかが知れています。寂しいかな実体験の無い文字説明( 分別を極めた )はするもされるも結局は不毛( 戯論 )と言う事になってしまうようです( 厳しいですが… )。

因みに先の投稿で真言密教の秘密曼荼羅十住心論を紹介させて頂きました。第六住心・他縁大乗心は法相宗( 唯識 )に相当すると弘法大師・空海も述べておられますが、上記の投稿を踏まえて申し上げる( 紹介しておきながら反駁とは…苦笑 )のですが、私は第十住心・秘密荘厳心の次に敢えてもう一度【 唯識 】を掲げたいと思っています。何故なら対象を認識している間( 秘密荘厳心と言えども )は相対世界であり、現象界であり、実在界(※)の深奥にある真我とは余りにも周波数がかけ離れているからです。神仏を超越し個が消滅した全一なる自己が絶対の自分なのだと考えますし、そのものになり得た自分に認識作業はありません。ですから 在りて在るだけ。名称すら付与できない…。と考えるのです。この事実を体解し、現象界に存在する自分自身を通じ自他の救済を取り敢えずの目的として、そして その体験を通じ事実としての「 本当の本当の所、我々は何者なのか?つまり、私が私である所以とは? 」を知り、全知全能である自己を取り戻すことが目標になると思います。…であればこそ( 真理と真我を得ればこそ )人生の諸問題は瞬時に氷解し、多くの悩める人を救う事が出来ると信じます( 何せ未体験ゆえ、ココで初めて「信じる」と言う言葉を使わせて頂きます!笑 )し、『 大日経住心品・三句の法門 』にある【 菩提心を因と為し、大悲を根本と為し、方便を究竟と為す 】をむねとする「利他の方便」による「衆生済度」の実践にも立ち返り、その事を人生の有らん限り尽くすべきではないか?と考えます。もう少し余計な事を申し添えれば( 真理と真我を得れば )【 総て意のまま、不可能は無し! 】…と。

※10億分の1を超えた物質化しない意識のみの( 現象界に多大な影響を及ぼす )実在界。通常は実在界の働きかけが現象界に及ぶ時に限り、我々は五感で知覚できる。その現象は不可思議な事も当然の事も含まれ、我々の現象界を影で支え( …と言いますか、実際は現象界は滓に過ぎないが )、我々の想いもその範疇に組み込まれている。それ故、想いは総て現実化する( 不幸な事も幸せな事も過去に於いて想ったままに! )し、総て偶然の入り込む余地は寸分も無く必然であり、その現象はそれまでの自分自身そのままの投影に過ぎないのである。想いを整えて「阿頼耶識」へ より周波数の細かい「種子」を植えつけ続けたいものです( 既出でスミマセン )。

あぁ、絵空事に映りますね…。もう良いですね?!。最後までお付き合い下さいまして、ありがとうございました。本当に楽しい遣り取りでした。感謝します。(了)
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この回答へのお礼

bonnnou03さま むろん おしえていただきつつなのですが きびしくもあり たのしい対話を ありがとうございます。まことに ありがとうございました。 

そっけないと思われないようにですが 簡潔に お礼とさらに今回述べられたことに対する思いとを記しておきたいと存じます。

共に海を航く旅であったかも知れません。(終わりではないですが)。ご修行とご省察の道にあって 《信じます》というご見解をうかがって 彼岸でなくとも 付近の水な門に入ったように感じました。(歴史的なご発言なのではないでしょうか)。

《成る》という概念 これが 深く持たれていると感じます。
結果として わたしの信仰のばあいも 新しき人に成るのですが 成ろうとしてのことではありません。成れると思ってのことではありません。成れないと思った瞬間 成れたと自己満足したのでした。見放されたと もうあきらめたとき いくらかひかりが差したのでした。

それによりますと 半人前も一人前も あるいは極悪非道の輩も いっさい関係ないということのようでした。

こんな感想になりました。また お会いしましょう。

お礼日時:2007/11/03 10:13

bragelone様 お世話になります。

暫く時間を頂戴しておりました。仕事でなかなか時間が取れず、失礼をしておりました。さて、引き続きの投稿になります。毎度クドイようですが一般者の適当な戯言ゆえ間違いもあると思います。改めて参考程度にお聞き頂けますと幸いです。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

> (1))《自然法爾》これは おそわるところによりますと 《禅》では …云々

○恥かしながら私は「禅」に付きましてはあまり詳しくないのですが、「禅」は密教に於ける【 三密 】のうち【 意密 】に相当すると何某の本で読んだのを記憶しております。また、有名なのは修行の道程が記され、約800年前に中国で生まれたとされる【 十牛図( http://www.kodaiji.com/entoku-in/cows/index.html ) 】がございます。この一連の流れには如何にも大乗仏教らしい悟りへの階梯が垣間見えますので、ご参考にされると宜しいと思います。因みに「真言密教」には【 秘密曼荼羅十住心論( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%98%E5%AF%86% … )( http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/jyujyushinnro … ) 】がございます。こちらは弘法大師・空海が著したもので、人の心の発達過程と当時の東アジア地域に於ける統合宗教として「真言密教」を位置付けたしたものです。併せてご参考にされてください。


> (2)…誰もが 目覚めた人・ブッダであるのだから ブッダであることに目覚める。この方法に いくらか 議論が生じている。修行の問題をも含む。

○確かに誰一人として、基本的には根幹が仏陀であり、仏性を宿さない者は居ないと私は思います。しかし、その本来の自分自身の姿に気付けず、苦しみの中で蠢いているのが我々人間なのだと思います。この差を埋める「行」の極みが(方法として)【 三密加持 】であり【 即身成仏 】と言えると思いますが、実はこの「行」に付きまして折りしも、先だって瀬戸内海に臨む とある教会( 不動明王をお祀りする )に行く機会がございまして、御歳86歳になられる祈祷師からお話を頂戴致しました。その際のお言葉が…「滝行や水行、山野を駆け巡るばかりが行ではないぞ。わしはお座布の上が修行の場じゃ。一つ事 決めてやり抜くも行。日々そのものが行なんじゃ。」…でありました。「行」に付きましては大壇上に【 三密加持 】と構えなくとも自らの求める所に「行」の場を求め、弛まず続ける事が大事なのだと私は思います。


> (3)論理的な説明の問題。特にいわゆる近代人の合理精神にも分かるように説明するという課題。

○私は体験が大事だと考えます。これは以前にも述べた事がありますが、知識の積み重ねだけでは実感が伴い難いと思うからです。論理的な説明はこの体験の裏づけとして行うものであり、個々人においてその都度必要な体験の意味付けを… そして、その意味付けに必要なソースを自らの手で得る所に本当の気付きがあると思います。何故我々は肉体を持つか?知識だけで総てが解決するのであれば脳だけで良い筈です。様々な人生経験としての「体験を伴った知識」の積み重ねの上に、神秘の大実在を瑜伽の行法によって肉身の上に体験するという【 即身成仏 】が分別を超えた所に存している以上、文字による説明はある部分までは可能でも、実の所 結果的には無理なのではないかと考えています。


> (3-1)信仰の構造のごとき問題。信念や思想に留まらないとすれば 絶対者とわたしとの関係は如何?と。【 「絶対」は「絶対」であって「絶対」以外の何者でもない 】につきましては(a)絶対者と相対世界との両方を一緒にした内容のように見受けられる。(b)一緒であっても 区別があれば分かるように思うが 通底しあっているという印象だ。というのが現段階での飲みこみです。

○こちらに付きましても先の投稿【 自由意志について( http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3286135.html?ans_cou … ) 】の ANo.21 と ANo.22 に於いて述べさせて頂いております所の【 「個」と「全」の構造認識(「関係性の側面⇔独立性の側面」の双方向性を含有する大宇宙である自分自身) 】を以って応えとさせて頂きます。


> (3-2)《【 智慧 】は総ての存在に内在し、この大宇宙に遍満している》とき やはり この仏性は 絶対者であるのではないか。つまり相対の世界・特には人間という存在を超えた領域であろうと捉えられます。それでこそ 一切衆生悉有仏性という現実があるという論理であろうと考えられます。…

○この場合の【 智慧 】と【 仏性 】とは ほぼ同意であると思います。ただこの【 智慧 】及び【 仏性 】と呼ばれるものが「人間という存在を超えた領域であろう」とは言えないのではないか?と思います。何故なら《【 智慧 】は総ての存在に内在し、この大宇宙に遍満している》又は《 一切衆生悉有仏性 》と言う事に対して矛盾を生じて参りますし、寧ろ(ほぼ同意の繰り返しになりますが)人間及び森羅万象の総てに於いて【 智慧 】と【 仏性 】は存する…、と申しますか【 智慧 】及び【 仏性 】そのものと私は理解しております。


> …しかし 自己を救済できる者が自己自身であったとしても 人間は あるがままの自己をもってしてはその救済を達成することができない。・・・調御によってよく自己を制御し得た者のみが 満足し 疑惑を超え 安らぎに到達することができるという。(石井米雄:戒律――上山春平・梶山雄一編著『佛教の思想』1974 p.116f.)

○私が知るところで、恐らく同じ内容と思うのですが【 己こそ 己の寄る辺 己をおきて誰に寄るべぞ 良く整えし己こそ、まこと得難き寄る辺をぞ得ん 】…が思い浮かびました。唯識的な理解も必要と思いますし、やはり行為の総てが「行」と言う理解の中で自己の内外を整える(【 自由意志について( http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3286135.html?ans_cou … ) 】の ANo.22にも記載。)日々の連続が結局は自己救済に繋がると理解しております。


因みに仏教(大乗仏教)と密教はその性格を異にします。これを密教サイドからは【 顕教と密教 】と言う区別を以ってしています。当然、宗派による解釈の違いは自ずとございますが、弘法大師・空海は数多の著作によってその違いを述べられております( 例:三教指帰・弁顕密二教論・秘密曼荼羅十住心論・般若心経秘鍵…等々)。また一方、人間を題材として様々な考察が為されている現代に於いて、同一現象を似通った表現でありながら文言が違うと言う事は多々あります。大切な事は【 理論より先に体験! 】であろうと考えます。体験してこの肉身に於いて神秘の実在を体現し【 智慧 】を取り戻しさえすれば、言葉も不要になるであろうと思いますし、誰彼問わず人生に於ける諸問題は氷解していくのでしょう。そしてその事実を伝える事は大宇宙の欲する所…、所謂【 空 】(相対世界が極まれり、存在総てが全一した状態「絶対」)への回帰と言う巨大な生命現象(本来の自分自身でもあるが)の流れに沿うものと考えます。このような理解の下、私は日々を過ごしております。(まぁ、殆ど夢物語に映るでしょうが…笑)…と言う事で参考程度にお読み頂けたらと思います。

最後までお読み下さり、本当にありがとうございました。(謝)

この回答への補足

ご回答をありがとうございます。

むつかしいぃ!!! です。密教・修行体験・そもそも空 ゆえにだと思うのですが。

思いきって かつ大胆に わたしなりに勉強をすすめさせていただきます。とお断わりした上では かなり本当に大胆になれるかも知れません。

まづ 次のご主張をまだ飲み込んでいなかったと知りました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 さらに申し添えれば私の中では【空】とは

  【「個」と「全」の構造認識(「関係性の側面⇔独立性の側面」の
 双方向性を含有する大宇宙である自分自身)】

すら消滅した状態では無いかと想像しております。正に【在りて在るだけ】、名称すらも付与できないと…(【空】を【空】と名付けば【空】で無し)。
(【意志について】http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3286135.html ANo.22)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《心の起こらぬ。起こさぬのではなく 起こらぬ》という最初の最初での人間存在のあり方――これを わたしは 自然法爾と捉えましたが―― これに立つことと 同じ内容をおっしゃっているのではないか こう思いました。変な言い方になりますが 即身成仏の起ころうとする以前の即身成仏です。

そうしますと――この乱暴な推論にも耐えていただくとしますと―― 十住心論の秘密荘厳心 これも 難なく 受け容れられます。というよりも おしえていただいたサイト(秘密曼荼羅十住心論)での解説すら 超えて理解しうるほどです。

いわく
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《第十住心》
 ・世界 即ち大日如来と自己が一体化した究極の境地 機根を持つ者を 法界に入れしむ。
 ・修行者の心と 仏 そして生きとし生ける者一つ一つの心が互いに溶け合っている様子を悟る。
 ・身語意の働きを本尊の働きと合一して初めて この真理の世界にはいることができる。
 ・《行人慇懃に修習して よく三密を本尊に同ぜしむれば この一門より法界に入ることを得る。即ち これ普く法界門に入るなり。》
(秘密曼荼羅十住心論 http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/jyujyushinnro …
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
空海さんにも楯ついたかたちになりました。だって 《法界門に入る》かどうかの以前の問題だと思われるからです。無門の門とさえ言うその以前の世界だと思うのです。いかがでしょう? 蛮勇すぎますか?

ただそこで 依然として雲の中にあってくすぶっていることは この自然法爾をどこから得るかです。上の直前の引用の中の《機根》には じつは 《(信仰心と能力のある)》というふうに 括弧書きの注釈がついています。ですから 人間の能力か それとも これを超えた信心(つまりは 絶対者)かです。そうなるはづです。――ここまでの推論は いいと思うのですが。

bonnnou03さんの場合 信心とは――少なくともそれを前面に出しては―― おっしゃっていないと思いますが それでは 《空を超えた空》は つまりは秘密荘厳心の奥の秘密荘厳心なる智慧は 人間に内在しつつ しかも超えているというからには 人間能力と同じでありつつ 超えているということになるでしょうか。ここが よくわからないところです。しかも どのようにお尋ねしていいかも わからないところです。
そして体験 いえ その前に体験 という見取り図になるでしょうか。

ここに いま最大の焦点があると思います。

いわく
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
様々な人生経験としての「体験を伴った知識」の積み重ねの上に、神秘の大実在を瑜伽の行法によって肉身の上に体験するという【 即身成仏 】が分別を超えた所に存している以上、文字による説明はある部分までは可能でも、実の所 結果的には無理なのではないかと考えています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
すなわち 即身成仏は
 ・分別を超えた所に存している
 ・文字による説明はある部分までは可能でも、実の所 結果的には無理 なのではないか
です。基本的には あるいは 簡単に言えば 聖道門ということでいいのでしょうか。・・・と言っても この聖道門が 今度は 詳しくははっきりしない・・・。

頭をがらりと変えまして こういう問いかけは いかがでしょうか。

   キリスト(子なる神)とよばれる人間イエスは 十字架上の死に
  いたるまで あくまで ふつうの人間であった。磔の刑に際して奇
  蹟を起こすことはなかった。

補足日時:2007/10/31 14:19
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この回答へのお礼

   それは もしかれが ふつうの人間でない振る舞いを十字架上で
  行なっていたなら われわれ人間が その自分たちの能力によって
  その目指す最終の目的を実現することに 無力感を覚えてしまう。

   (たとえば 十字架上で 奇蹟を起こしてなどいたなら キリス
  トだから出来たのだということで 人間としての努力には あきら
  めを感じてしまう)。

   しかも もしキリストなる神でなかったなら その人間の努力は
  たしかに人間の持てる能力があれば 十分に実りをもたらすことが
  できると思ってしまう。何でも自分たちの力で出来てしまうと つ
  まり 超経験の力は 要らないと思ってしまう。

ブッダの智慧は はたして どのように捉えられるでしょう?
というご質問なのですが。よろしくお願い致したいと存じます。

お礼日時:2007/10/31 14:33

仏陀についてあれこれ考えるより、仏陀になってしまえばいいんじゃないですか。


それじゃだめなんですか?
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 おっしゃるとおり 《仏陀になってしまえばいいん》です。《だめ》じゃないです。
 
 そして わたしたちの生における自己表現としては 言葉による表現と社会生活行為そのものとしての表現があります。

 もしブッダになった人たちがまだ少数であるときには 説明が求められます。ですから《仏陀についてあれこれ考える》のではなく 《ブッダであることは どういう人間生活であるのか》を説明する必要があります。

 いまひとつの道としては――たしかに おっしゃるとおり―― 《生活》というのですから 社会における暮らしをよくするには どうするか このような広く市民社会学の問題として取り組むという行き方があると思います。ブッダのブの字も言わないで ブッダとして生きる道です。

お礼日時:2007/10/26 06:56

bragelone様 お世話になります。

4日間ほど出張に出ておりましたので投稿が遅くなりました。大変失礼致しました。どうぞお許し下さい。さて、先の投稿にも書きましたが(くどいようですが…笑)私はお坊様ではありませんので、今回の投稿も どうか参考程度にして頂きますよう希望します。それでは宜しくお願い申し上げます。

> (補足の…)(1)《即身成仏とは智慧を認知する(目覚める・悟る)で宜しいのではないか?…》とおっしゃるとき 《瑜伽の行法によって肉身の上に体験する》修行は 不可欠ですか。

○はい、その通りです。即身成仏において【 三密加持 】は必須です。これが無ければ実体は掴めません。「事相と教相」の両立を重んじる密教では この【 三密加持 】を無くして【 智慧 】を語ることは【 虚論 】と称され、あまり良い目では見られていないようですね。


> (補足の…)(2)(a)この《智慧》は 【 一切衆生悉有仏性 】の《仏性》と同じだと思うのですが 根本識としてのアーラヤ識にあるのでしょうか。存在に内在するけれども その人間存在を超えていると言うべきはたらきなのでしょうか。

○私は【 智慧 】は総ての存在に内在し、この大宇宙に遍満していると考えます。それは「仏性」と言う性質に於いても、「阿頼耶識」等の意識と呼ばれる物に於いても、当然 人間(当人は気付いていない場合が多いと思いますが)に於いても…です。「お礼欄」で頂戴しました問(1)(2)についてもこちらが私からの返答になります。


> 思いきって ここでさらにお伝えしますが こういう表現をすでに得ているのですが いかがお考えになるでしょう? すなわち 《 Everyone is a buddha. 》です。

○以前に高野山で毎年 春・秋と行われている「結縁灌頂」をさせて頂いた折、金堂の周りで「南無大師遍照金剛」と繰り返しお唱えしながら順番を待っていた時に、外国人の集団が私の後ろに居られました。そのとき、若いお坊様がお付になられ 英語で何やら説明をされているようでした。そして、その中でシッカリと私の耳に残っている言葉(盗み聞きですね…苦笑)が実は【 We are buddha. 】だったのです。これは bragelone様のお言葉と意味を同じくしますし、結局はこの言葉に集約されると思います。


> (お礼欄の…)(3)そのときの一つの段階として 《信心》が起こるという。この信心とは どういう内容か。

○【 智慧 】を掴めている者(この場合は「弟子」)は曼荼羅を観る(私は「見る」では無いと思いますが)ことで【 智慧 】を再認識する事が出来ると思いますので、この再認識を(この場合)「信心」としても良いのではないか?…と考えます。


> (お礼欄の…)(4)総じて言って 智慧は 絶対者であるか。ないとすれば どういう相対世界の実体(実態)か。

○ご質問の意味が少々難しく返答に困りますが、【 智慧 】は絶対なのか?と問われれば、先の投稿に於ける【 「絶対」は「絶対」であって「絶対」以外の何者でもない 】と考える…を以って応えます。【 智慧 】に付きましては上記にて投稿して居りますので、重複を避けさせて頂きます。


以上、ご参考になれば幸甚です。どうぞ宜しくお願い申し上げます。(謝)

この回答への補足

bonnnou03さま こんばんは。貴重なご回答をいただき恐縮に存じます。(こういう表現は わたしには似合わないのですが ありがとう存じます)。

強靭 この言葉をまづ思い浮かべました。平俗に言えば 筋金入りという印象です。(いえ この言葉では効かないですね。通俗は 通俗ですね。削除しないでそのままに致しますが)。

このところ さらに別の質問もしております。《我》の問題です。
そうして ご回答をいただき さらに自分の仏教観をかたちづくっていくのですが このような結果を綜合しますと 次のような見取り図になってきております。

三本の柱です。
(1)《自然法爾》
これは おそわるところによりますと 《禅》では
 
   一切の心の起こらぬところが 禅の出発点となる。 
   心を起こさぬのではない。心がおこらないのである。
    (柳田聖山:禅――上山春平・梶山雄一編著『佛教の思想』1974)

とのことだそうですね。発菩提心ではないのだと。つまりその心を起こすというよりは おこらないのだと。起こす必要がないように生まれて来ているのだと。信仰を必要としない信が すでに心に あるのだ。・・・

(2)心を起こさざるを得ない場合がある。つまり 上の(1)を言ったあと 世間が そうである。起こさざるを得ない状態にある。
誰もが 目覚めた人・ブッダであるのだから ブッダであることに目覚める。
この方法に いくらか 議論が生じている。修行の問題をも含む。

(3)論理的な説明の問題。特にいわゆる近代人の合理精神にも分かるように説明するという課題。

(3-1)信仰の構造のごとき問題。信念や思想に留まらないとすれば 絶対者とわたしとの関係は如何?と。

【 「絶対」は「絶対」であって「絶対」以外の何者でもない 】につきましては 
(a)絶対者と相対世界との両方を一緒にした内容のように見受けられる。
(b)一緒であっても 区別があれば分かるように思うが 通底しあっているという印象だ。
というのが現段階での飲みこみです。

(3-2)《【 智慧 】は総ての存在に内在し、この大宇宙に遍満している》とき やはり この仏性は 絶対者であるのではないか。つまり相対の世界・特には人間という存在を超えた領域であろうと捉えられます。それでこそ 一切衆生悉有仏性という現実があるという論理であろうと考えられます。そうでない智慧であれば たとえば有頂天になったその時間的に有限な状態の知恵だけを言うように思えます。

(3-3)だとすれば 【 智慧 】は 見えない。わづかに触れるように――もしくは 智慧によって触れられるというように――感ずるのだし その予感のようなものが――たとえ まぼろしの如くであっても―― 知恵となり力となるというのが 人間の現実ではないかと。
この議論は 通りすがりにすべきものではないですから ここで留めます。

おおよそこのように受け留めましたし 考えました。ありがとうございます。正直を申せば 一度は捨てた仏教だったのです。よみがえったというのでしょうか。そして 以前におっしゃっていた宗教の綜合の問題がありましたね。

前途を見つめつつ きょうは これにて失礼致します。

さらにご投稿をお願いするようなかたちになってしまったかも知れませんが むしろお願いとしまして できましたならば ほかの見解をも視野に入れていただいて お考えを述べていただくのもよろしいかと存じます。そういう段階に来たのではないでしょうか。(修行のことにつきましてだけは いま現在 なんとも致しかねていますが)。
(上の行論の中での(2)について端折っております。あしからずどうぞよろしくお願いします)。

補足日時:2007/10/25 02:52
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この回答へのお礼

(20071025記)
信心という心の構造として 参照しうる文章に出会いました。ただ まだ 明確にはならないように思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  佛教とは《神を立てない宗教》である といわれる。《神を立てない》とは 必ずしも神の存在を否定することではない。《苦》からの解放という実践的目標を掲げたブッダにとって 神の存在は いうなればその座標系の外にあった。ブッダの説いた救済道は 神とのかかわりをもたない宗教である。救済者は 他者である神のなかにではなく かえって救済を希求する自己自身のなかに求められた。《自己のみが 自己の依拠である。自己をおいて ほかに依拠があろうか》という『ダンマパダ』の一節は こうしたブッダの根本的立場をよくあらわしている。

  しかし 自己を救済できる者が自己自身であったとしても 人間は あるがままの自己をもってしてはその救済を達成することができない。・・・調御によってよく自己を制御し得た者のみが 満足し 疑惑を超え 安らぎに到達することができるという。
(石井米雄:戒律――上山春平・梶山雄一編著『佛教の思想』1974 p.116f.)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここまで はっきりと無神論と言っていても 自己に内在しつつこの自己を超えた存在として智慧が想定されているように思われます。

というより どこから問いを差し出してよいのかが分からない状態でいます。いちばん簡単な印象批評としましては 《神を扱わないけれど 想定している。想定するなどとも触れないけれど 心の構造としては 排除していない》という感触があります。
(ユングの精神分析などでは むしろ神の領域にしばしば触れるけれども その神の信仰ではないとはっきりしていると思うのですが。・・・)

お礼日時:2007/10/25 22:52

(1)推進力というものがあるんでしょうか。

むしろ後戻りができないようなそんな感じじゃないでしょうか。

(2)到達すべき目的地のようなものがあるのでしょうか。

(3)悟るということは魔法の呪文を手に入れることじゃないと思います。なので知恵が何かをすることはないのではないでしょうか。

仏教の知識はないのですがこんな印象でした。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

おっしゃっていることを 全体としてまとめると 自然法爾という言葉を思い浮かべました。むしろ すべては すべてが しかるべきようになっているのだと。

もしこうだとして そこに あえてつけ加えなければならないとすれば まづ その《すべからく然るべきこと》に われわれは われわれ自身をゆだねるということになると思われるのです。だとすると その一点 すなわち 身をゆだねるという行為が 人間の側の意志行為として 存在するであろうということになります。

そのとき 意志行為は 意志みづからが みづからの力でおこなうことなのか それとも 人間の能力を超えた力が つまりブッダの知恵がはたらくものなのか・・・というように やはり思えるのですが。

いや こちらも 大乗段にふりかざしたものですから ちょっと身動きが取れなくなってしまったかも知れません。 

お礼日時:2007/10/24 23:18

こんばんは(^^)/ 再びNo.2です(^^*)



私も、自己精神深層心理を整理してゆく過程で、自然に
「やっぱ信仰は要るかなぁ」、、と思い、大きく分布している
全ての宗教を比較・検討してみた時期??がありましたが、

最終は、『森羅万象』・『般若心経』の元の考えで
今ん所落ち着きを??見せています。

それと、やっぱり『日常』が何より大事なコト!!
"ヒント"だらけなんじゃ無いかなぁ~、とか思うんですが。。

あと、『自分で考えつづけて・自分で行動する』←..これに
尽きるような気もしますけどね~。。 とても興味深い
質問で素晴らしいと思います☆☆☆

う~~ん、、、..要は、チャネリングさえ出来れば、問題無い
んでない??  ...とも思ったり..色々ですね!!

そうやって考えるコト自体が楽しくてイイんだと思います~。
ガンバッテくださいネ☆★☆***(^^*)v. 

この回答への補足

さらにお言葉をいただいてありがとうございます。

《『自分で考えつづけて・自分で行動する』》――これを持続して行くわけですが それでも時には 《自分がしたいと思うことは行なわず かえって自分の憎むことをしている》(ローマ書7:15)。・・・

でも たしかに 《やっぱり『日常』が何より大事なコト!! / "ヒント"だらけなんじゃ無いかなぁ~、》とは そのとおりです。わたくしも ほんとうにそう思います。試練をのり越えることができたときには――というよりも のり越えられなかったときにも―― 少しづつ 前へ進んではいます。ヒントが与えられるのです。

残念ながら 《チャネリング》については 読んだことがありません。(その意味では 要らないと思っているかも分かりません)。

あと 『般若心経』を挙げておられるので (3)の質問にも答えていただけるといいかとも思います。むしろ 《思考・思索からの読み取りと日常世界からのやはり読み取り》 これが 《智慧》の在りかでしょうか。

試練の道・そのありさまをうたった詩を あえて 掲げておきます。降参の上塗りになりますが そんなところにも ヒントはあるように思いました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   星を散りばめたこんな時間に ひとりして
   そこで
   もし 風の音でないとすれば 泣いて
   いるのは だれかしら

   いまにも泣こうとしているわたしのこんなにそばで
   いったい だれが泣いているの

   何か心の深い意図に対して憑かれたかのように 
   わたしは わたしのこの手は
   そっと 目鼻をかすめて
   わたしの中から それは多分 わたしの弱さの中から
   ひとつぶのしずくがこぼれるのに 触れたように
   思っている

   〔わたしは〕わたしの運命をおもむろに超えて 
   《もっとも純粋なるもの》が 静寂のかなたから
   この傷ついた心を照らし出してくれることを
   待っている

   〔大波は〕大波のうねりは わたしの耳に〔は〕
   咎めのうねりをささやいている
   岩礁の喉のほうへと 欺かれた藻くずを
   ものを苦々しくも呑むことになったような
   心を締め付ける嘆きをざわめかせ
   送りやっている


   髪を逆立て 凍ったような手をかざして 
   おまえは 何をしているの
   あらわな胸の谷間を抜ける
   こんなに執拗な 風に吹かれた落ち葉が
   ざわめきつづけるのは なぜなの
   この未知の天空につながれて
   わたしは きらめいている
   災厄を求めるわたしの渇きに 限りない天体は
   輝やいている


   全能の異邦人のような 
   星ぼし
   ・・・
   あなたがたとただ独りわたしは 
   ここにおります
   寝つかれず床を離れ来て おののいています
   暗礁も 驚きに咬まれたように
   目をさましました

   でもそれは どんな苦悩のゆえなのでしょうか
   わたしのおかしたつみが
   わたしにおかされたどんなつみとともに
   咎められるのでしょう
   それともわたしはただ 夢を見ているのでしょうか

   わたしは――部屋の明かりの金色が 
   ビロード色の風に色褪せ――
   こめかみを腕に抱き
   この魂の火花散る瞬間を待っていたのです

   それらのすべてですって? でも
   わたしも これらすべてを身に引き受けて
   ――わたしは この身のあるじなのですから――
   おののきで 身をまるごとこわばらせ
   血のめぐりも止めたかのように しかも
   身のひろがりとつながりは
   わたしが見ていることを知っていますし
   そのわたしをわたしは知っています

   そのわたしは くねらせた身をながめながら
   こころの森のあることを知っています


   わたしは ここまで
   わたしを咬むあの蛇を追って来てしまったのかしら
      (ポール・ヴァレリ:『若いパルク La Jeune Parque 』冒頭)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2007/10/22 10:55
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この回答へのお礼

たまたま見つけた解説を掲げておきます。みなさんは どう受け取られますか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  大乗仏教では 《無住処涅槃 むじゅうしょねはん》ということが言われる。・・・生死の世界にとどまることなく かといって涅槃の世界にも入らない状態 すなわち生死煩悩の迷いの世界にもさとりの世界にもとどまらない涅槃のことをいう。
  〔・・・この〕思想の背景には あらゆる人びとを救うためには 自らがさとりの境地に入っていては救うことができない といって煩悩に捉われていても救うことができない 自らはさとりの境地を体験しつつもその世界にととまらず 悩み多い人びとの住む生死界にあって活動することこそ菩薩の行である という大乗仏教思想の展開が見られる。
(《岩波 仏教辞典》1989年版)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2007/10/22 12:53

 こんにちは(^^)/



(2)..についてですが、、全ての煩悩に真正面から
 ドンと向き合って行く事により、最終的に『智慧』の
 扉が(自分の中で)開くことによって、煩悩に振り回されない
 太い幹の精神に自己が、「転化」されるコトではないのかな???
 
 「煩悩」の中で「性欲」が最大難関だと思われますので、
 特に男性のばあい、「性欲」をさらに通りぬけて「智慧」
 の扉をお開きになった場合、殿方の性欲がどのように
 なるのかが、私の今の疑問です。。

 参考になればですが・・もしもズレていたらゴメンナサイ。
 
 
 

この回答への補足

こんにちは。ご回答をありがとうございます。

(2)について 目覚めた涅槃のあとには 性欲の問題が 最大の難関として なおつづいている。その行方が 智慧にとって正念場である。この課題に取り組まず 解答を示さないなら 何が仏教ぞ!? とおっしゃっていると受け取りました。

わたし自身は 仏教については 素人です。〔教会での洗礼を受けていない自称の〕キリスト者です。ですので その立ち場として ここでは 回答を提出します。ただし 力不足であることを前提にしたものです。(ほかの質問のところで書いたものですが)。


  《 キリスト・イエスのものとなった人たちは、
  肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。》
          ( パウロ:『ガラテヤ人への手紙』5:24)

いまだに このことが わたくしに実現していませんと のっけから 降伏宣言です。
で わたくしの力の及ばないことですので ほかの人の文章を引くだけになります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  さて生殖器に内在する肉の欲望を婚姻の純潔は善く用いるのであるが しかもその欲望は〔アダムの〕堕罪後の今は 欲望は精神の法に反しつつ 生むべき原因がないときにも 性交すべき刺激を与えるようなものであると私たちは考える。
  もしそれに人が屈服するようなら罪を犯しつつ満たされる。もし屈服しないなら 同意しないで 制御される。
    (アウグスティヌス:『三位一体論』13・18中沢宣夫訳)

  だから 魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく公共的なものとしてこのようなものを愛するすべての人によっていかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有される 内的なもの 高みにあるものを捉えようと自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら 時間的なものの無知によって――魂はこのことを時間的に為すから――或る点で誤り そして為すべきようになさなくても それは人間の試練に他ならない。
  私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがって容易に許されるのである。
  しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そしてそれらの中に自分の善をおこうとして それらを経験し それらに卓越し それらに接触しようとする欲望のために或ることをなすなら 何を為そうとも恥ずべきことをなしているのである。・・・
          (同上 vol.12 ch.9)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ブッディストの方がた〔でなくとも〕から 回答を募りたいと存じます。

補足日時:2007/10/21 20:49
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私はお坊様ではありませんので 実は今回の投稿は かなり気後れして居ります。

正直申しまして、私自身がお坊様に尋ねたい「教えて!goo」になっています(笑)。赤っ恥をかく覚悟で…、はたまた bragelone様と共に【 目覚めた涅槃のあとには何が? 】…の真理を追究する一助になれば幸甚です。それでは此度もどうぞ宜しくお願い申し上げます。


> (1) 目覚める(仮りに 即身成仏と表現します)ためには ブッダの知恵(般若)が推進力であり しかも それ自身が 到達すべき彼岸(つまり涅槃)であると理解してよいでしょうか。

○まず、即身成仏とは智慧を認知する(目覚める・悟る)で宜しいのではないか?…と思います。因みに 誠に僭越ながら「真言密教」の教理である、お大師様の『 即身成仏儀 』では下記の通り記しています。( 尚、詳細説明につきましては とても私如きが述べられる内容ではございませんし、本意から外れ「法」を薄めることに成りかねませんので、あえて省かせて頂きます。 ) 即身成仏について参考にして頂けたらと存じます。

■即身成仏の『 二頌八句 』

【 即身 】
六大無礙にして常に瑜伽なり … < 形而上学 >
四種曼荼各々離れず … < 認識論 >
三密加持すれば速疾に顕る … < 実践哲学 >
重々帝網なるを即身と名づく … < 即身成仏の世界観 >

【 成仏 】
法然に薩般若を具足して
心数心王刹塵に過ぎたり
各々五智無際智を具す
円鏡力の故に実覚智なり … (左記の四行) < 即身成仏思想よりみた仏陀感 > 

『 金岡秀友 訳・解説 「 空海 即身成仏儀 」 』より ――― (1)

■即身成仏の要諦

…以上 六大無礙の二頌八句(上記の)によって即身成仏の実践を一応見て来たのである。要するに即身成仏とは、神秘の大実在を瑜伽の行法によって肉身の上に体験する事である。なぜそれが出来るかといえば、それは二頌八句によって説き来りたる如く、神秘大実在においては仏と我れと一体の身であり、一切衆生とも一体身として引きあつて、重々無尽の交渉においてあるからである。随って遮情的に有空や非有非空の否定論を以って煩悩を断尽する事をしなくとも、端的に本有の大実在を体験しさえすれば、煩悩は却って福智となつて仏の果徳を成し方便の活力ともなる。このような本質は肉身の上に開顕する事が出来るのであつて、表徳門の立場であり、とりもなおさず即身成仏なのである。…

『 三井英光 真言密教の基本 教理と行証 』より ――― (2)


> (2) 目覚めた涅槃のあとには 何があるでしょうか。(つまりは 上の(1)で すでに 人は彼岸に到達しうると前提しました)。(素人考えでは 衆生済度かと思いますが)。

○【 何があるか? 】と言うことにつきましては 私も bragelone様と同じく 過去幾度か投稿させて頂いた( 【 自由意志について http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3286135.html?ans_cou … 】や【 ブッダは絶対ですか http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3428914.html?ans_cou … 】での記載 )通り、結局は自らをも含めた(唯識的かもしれません。)「衆生済度」ではないかと思います。『 布施 』にも様々な種類がありますが『 大日経住心品・三句の法門 』にある【 菩提心を因と為し、大悲を根本と為し、方便を究竟と為す 】をむねとし、「利他の方便」による「衆生済度」( 所謂、大乗的衆生救済・菩薩行 )の実践に尽きるのではないかと考えます。


> (3) 衆生済度というとき 成道が 知恵(般若)によって成り立ったのと同じように 人が この知恵によって行なうのでしょうか。それとも この知恵は 誰にも備わっていて そのことを指し示せばよいということでしょうか。

○『 大乗涅槃経 』には【 一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう) 】と言う教理があります。所謂、人間だけでなく動物や植物にも仏性は「ある」と言う解釈です。この仏性とは…【 大乗の大般涅槃経では全ての衆生の生命に「仏に成る種」、すなわち仏性があると説き、この仏性を開発し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができると説いている。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏といい、仏法修行の究極の目的とされている。( 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ) 】…にあるように、各々が誰にでも潜在する仏性を開花させる事が【 命を拓く( いかせ いのち ) 】に繋がると思いますし、この事実を得た者(完全では無いとしても)は、悩み迷える者たちに光明を指し示す事(仏性の扉を開く為の鍵を掴ませる)が とどのつまり 「衆生済度」であると解釈しております。


いつも思うことですが、 bragelone様のご質問(お題?)から自らの理解の深浅に気付かされる事が沢山あります。本当にありがとうございます。何はともあれ真理(敢えて「真実」とは申しません。)に触れたい気持ちは同じとお見受けしました。どうぞ宜しく(お手柔らかに!)お願い致します(笑)。

この回答への補足

ご回答をありがとうございます。まづ

   ・・・煩悩を断尽する事をしなくとも、
   端的に本有の大実在を体験しさえすれば、
   煩悩は却って福智となつて仏の果徳を成し方便の活力ともなる。
   このような本質は肉身の上に開顕する事が出来るのであつて・・・

なんと力強い!!と感じました。重ねて

   煩悩は却って福智となつて仏の果徳を成し
   肉身の上に開顕する

というところが 動態であると思われます。《本有無作》という言葉を思い出しましたが 合っていますか。(『二頌八句』については もう少し煮つめていかないと まだ ぼんやりしていますが)。

これを承けて 重箱の隅を突付きます。
(1)《即身成仏とは智慧を認知する(目覚める・悟る)で宜しいのではないか?…》とおっしゃるとき 《瑜伽の行法によって肉身の上に体験する》修行は 不可欠ですか。

(2)(a)この《智慧》は 【 一切衆生悉有仏性 】の《仏性》と同じだと思うのですが 根本識としてのアーラヤ識にあるのでしょうか。存在に内在するけれども その人間存在を超えていると言うべきはたらきなのでしょうか。

(b)この智慧=仏性が 人を無明から目覚めへと転換させる力であると捉えてよい場合 次のどれが その内容でしょう?

   (い)智慧が人を目覚めさせるのか(=いわゆる他力または絶対他力)
   (ろ)智慧が人をして目覚めしめるのか(=多少とも 人の意思がはたらく場合)
   (は)人がこの智慧をいわば用いてみづから目覚めるのか(意思に発し具体的な意志行為として)

《仏性を開発し自由自在に発揮する / 潜在する仏性を開花させる》との表現からすれば (は)の場合だと思われますが その前の段階として(ろ)や(い)は ないということでよろしいでしょうか。

同じことで 《神秘大実在においては仏と我れと一体の身であり、一切衆生とも一体身として引きあつて、重々無尽の交渉においてある》ことを促し推し進める力つまり智慧=仏性は (は)の場合を為さしめるという表現になるでしょうか。(は)を実現させるというかたちになるのでしょうか。

もしそれなら けっきょく (い)の場合が 実質の内容だと思われて来ます。それに 《神秘大実在》も《仏》も 智慧=仏性と同じであるでしょうし。

それならば 即身成仏の自らのさらなる向上とそして衆生済度は ブッダの智慧ということばを ひとこと 口に出し また伝えればよいというように思われます。

このように考えました。勝手な疑問であるかも分かりませんが どうかよろしくお願い致したいと存じます。

思いきって ここでさらにお伝えしますが こういう表現をすでに得ているのですが いかがお考えになるでしょう? すなわち 《 Everyone is a buddha. 》です。

補足日時:2007/10/21 01:33
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この回答へのお礼

(20071023記)
『即身成仏義』(頼富本宏訳注)(宮坂宥勝監修『空海コレクション2』2004所収)からの引用を掲げて 疑問をまとめます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(原文読み下し) 
纔(わづ)かに曼荼羅を見れば 能く須臾(しゅゆ)の頃(あいだ)に浄信す。歓喜の心を以て瞻都(せんと)するがゆえに 即ち阿頼耶識の中に於いて金剛界の種子を種(う)う と。

(頼富訳)
少しだけでも曼荼羅を見れば 弟子は たちまちのうちに 清らかな信心をおこす。そして 歓びの心でもって 曼荼羅を仰ぎ見るゆえに 実に根本識(阿頼耶識)の中において 金剛界(曼荼羅)のさとりの種子が植えつけられるのである。
    (〔(6)-四 『五秘密儀軌』の成仏法〕p.091ff.)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
もしここに拠って 考えるとすれば 知りたいところは 次です。

(1)智慧は はじめから アーラヤ識に備わっているものではない。だから その智慧とアーラヤ識との関係状態。

(2)さとりの種子を植えるのは 誰か・何ものか。ブッダの智慧ということになる。この智慧と人との関係は いかなるものか。

(3)そのときの一つの段階として 《信心》が起こるという。この信心とは どういう内容か。

(4)総じて言って 智慧は 絶対者であるか。ないとすれば どういう相対世界の実体(実態)か。

お礼日時:2007/10/23 13:19

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