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哲学を考えてる人ってようするにネクラ人間ってことでしょうか?

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A 回答 (10件)

 ANo5の時は「ルンルン」考えていました。


 しかし、私があなたの発言がレッテルに過ぎないと主張している事を無視してレッテルの上塗りをするから、「イライラ」しました。それがANo9です。ですから「ネチネチ」ではありません。

 哲学がネクラじゃない理由は、ANo、5に哲学の認識として、書いてるでしょ。ちゃんとそれについて考えられたらいかがですか?
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この回答へのお礼

あ、そっか、No.5に書いてあった。失礼しました。ていうか、もうどうでもよくなったんで締め切ります。

お礼日時:2007/10/29 23:00

>心理的に健康な人は、落ち込んだとしてもすぐ立ち直るんですよ



 だから、それが心理的に健康である理由がなければ、ただのレッテル、決め付けであるというのです。生きる意味を一生考えるのがネクラである理由は何か言わないと、ただのレッテルでしょう。

 何故私が「ネチネチ」考えていると決め付けるのですか?
 私は「ルンルン」考えているのですよ。
 哲学は「ネチネチ」ではなく、「ルンルン」ですよ。

 だから、何もかもレッテルでしょうが。

 
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この回答へのお礼

いや、この回答の仕方は決してルンルンじゃないです。せめて受け手にはネチネチに感じます。

そんなことは置いといて、私の今までの補足は無しにして、回答者さんが哲学は別にネクラじゃないという、回答者さんなりの意見を聞きたいです。私が書いたことはまったく抜きにして。

お礼日時:2007/10/29 22:30

#6です。


「哲学の落とし穴」という質問の私の回答です。
コピペですいません。

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例えば、生きるとは何かという問いに対してたくさんの答えがありますが、重要なのは答えではなく、その問いをなぜ発したのかではないでしょうか。その問いをした人は、何か子供の頃からやりたい夢のようなものがあったとして、現在はそれとは無縁の生活を送っている。
自分の人生を生ききれていないという鬱積した気持ちが”人生とは何か”という問いを発したかもしれません。そうなると、恐らく哲学的な回答はこの人にとって的外れになると思います。元々の問いが的外れ或いはピントが合っていないためです。
また、どうして自分のやりたい道に進まなかったのかといえば、単に安定した生活を求めてしまったかもしれません。そういう自分の心理についての自覚が無ければあらゆる答えは落とし穴になってしまうのではないでしょうか。上記の例を言い換えれば、

落とし穴=安定した生活を求める願望が出す答え
落とし穴に落ちる=本来の願いとはいえない気持ちに振り回されること

となるでしょうか。
哲学を心理と切り離すことはできないだろうと私は思います。心理的な問いに対して、哲学的な答えで満足した気になってしまうとすれば、それが哲学の落とし穴といえるかもしれません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。少し納得できました。

お礼日時:2007/10/29 22:27

たとえば、以下のように主張されたら、貴方はどう答えるのでしょう?



「生きる意味」を考えますよね。極普通に思考力があれば当然のことです。哲学をやらない人間は、単に自分がアホだということを正当化するために「考えないこと」を美化しているだけじゃないんですか?この程度のことを考えられないぐらいに、知能的に退化してると思います。

…自分で言っててちょっと気持ち悪いぐらい間違ってますが、貴方の主張する内容はこれと同じです。貴方は「明るく楽しい人生こそ良い」とか「人付き合いが学問の追及より上」とか「生きる意味を考えるのは追い詰められているから」といった誤った前提を無批判に使ってしまっており、妥当性のカケラもありません。「そうは考えない人もいる」ということがすっぽり抜け落ちています。ある事柄に対する「価値判断」とは究極的には個人に任されるものであるということの認識が足りません。

どのようなことを「良い」と言い、どのようなことを「悪い」というのかは、個人の判断ですし、その判断同士には優劣がつけられません。それぞれ価値判断は論理的に対等なのです。(価値判断同士の優劣を付けようと思ったら、「価値判断の価値判断」が必要なことになり、さらにそれに優劣をつけるなら、さらに「価値判断の価値判断の価値判断…」と永遠に続いてしまう)

まあ、私は補足要求した人でもないのに、補足した内容を使ったわけですが、質問文だけでは漠然として答えにくかったので見逃してください。

この回答への補足

良いとか悪いとかを言ってるわけではないので、ご了承ください。ネクラですか、ということを問いたいのです。さらに言えば、ネクラが悪いとも思ってません。こんな質問する私自体ネクラですねえ。

補足日時:2007/10/29 21:57
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この回答へのお礼

で、けっきょくネクラはネクラですよね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/29 21:52

明るく生きている人は悲しみや苦悩を知らないのでしょうか。


悲しみを乗り越えて今を明るく生きていたとしたら、それはなぜでしょうか。そこにはその人なりの哲学があるのではないでしょうか。

>生きるのに意味が無くては生きられないんですよ。それくらい悲観的だってことです

これは違いますね。
愚痴や自己憐憫と哲学的探求を一緒くたにしてはだめです。
自分の心理から自由でなければ「なぜ生きるのか」は問えないんじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

>愚痴や自己憐憫と哲学的探求を一緒くたにしてはだめです

この部分をもっと具体的にして欲しかったです。

お礼日時:2007/10/29 21:49

天才的な哲学者の事はANo,4の方にお譲りするとして、私は、哲学者がネクラ人間である根拠が、



>生きる意味とか考えますよね。心が病んでいる気がします。生きるのに意味なんか要らないんです。明るく生きている人はそんな事考えないんです。…でもこのカテに投稿する人は考えますよね?何故か。意味がなくては生きられないから…それくらい悲観的…普通なら幸せに生きている、それだけ。…意味がなくては生きられない程、追い詰められている。

 この部分について考えるとしましょう。
 「普通なら幸せに生きている、悲観的で追い詰められているから、生きる理由を欲しがる。だから、哲学する者はネクラである。」
 という事になるでしょうか。
 ネクラだから悲観的で追い詰められているのでしょうか?違うのではないでしょうか。激しい苦しみを抱え続ける時人は生きる理由を欲しがるのではありませんか?
 激しい苦しみを抱え続ける原因は、ネクラだからでしょうか?ネアカだけれども激しい苦しみを抱え続ける可能性も、充分考えられるのではありませんか?
 あなたのおっしゃる「普通」とは、ネアカですか?否、私には「激しい苦しみが無いに過ぎない者」としか思われませんが。まぁ、それもレッテルですが。
 悲観的で追い詰められている原因が、ネクラであるとするのが、ただのレッテルであり、何の根拠にもなっていないように思われるのですが。

 そこで、私の認識を述べさせて頂くと、哲学する者はこの世の闇(分からない事)を明らかにさせようとする、前向きな向上心によって考えると思われます。確かに、苦しみに打ちひしがれたかも知れません。しかし、それゆえ、この世の闇(分からない事)と真剣に向き合おうという、前向きな向上心が湧いてくるとも言えるのです。あなたの言う「普通」の人は、闇から目を背けて妥協する人でありましょう。それは我々から見たら、前向きな向上心といえません。ネアカと言われても、不真面目なだけという見方も出来るのです。

 そして、楽しくも苦しい、その考察が結実すれば、不真面目な「ネアカ」には決して及びもつかない真のネアカになれる、何事をも明るく処理できる心を身につけられる。深く、優しく、何事にも動じない心を。
 それが目指すところであります。
 

この回答への補足

ネアカというか、心理的に健康な人は落ち込んだとしてもすぐ立ち直るんですよ。生きる意味を一生考えるようなネクラなマネはしないんですよ。

そもそもそうやって何でもネチネチ考えて、ネアカがどうとか考え込みまくることが暗いと私には感じられます。それが哲学が暗いという印象を出す原因だと思います。

補足日時:2007/10/29 21:43
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世間の人々と付き合えないほどの根暗な人であれば、哲学者として歴史に名前が残りません。



著作を出版して、支援者を増やしたり、論敵と議論を交わしたり人、また、中世・近代のヨーロッパについて言えば、例えば、サロン文化の中で良好な人間関係を築き上げた人だけが、哲学者として名を残すのです。

哲学を考えるのは、根暗だからではなく、考えることが楽しいからです。どんな道具も準備も要らないという点で、考えることほど優れた趣味はありません。

一部、本当に根暗な哲学者もいますが、世の中一般だって、楽天主義者だけで出来ているのではないのと同じです。

この回答への補足

なるほど。ご回答ありがとうございました。

補足日時:2007/10/29 21:48
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この回答へのお礼

>世間の人々と付き合えないほどの根暗な人であれば、哲学者として歴史に名前が残りません。

表面的な付き合いしかできなかったのかもしれません。

お礼日時:2007/10/29 21:47

 哲学を考える人が「要するに」ネクラ人間である、「要するに」の内容をお知らせ下さい。

哲学する者とネクラ人間のリンクが成される理由です。

 さもなくば、あなたのそのリンクは、何の根拠も無いレッテルであるとしか言いようがありません。

この回答への補足

生きる意味とか考えますよね。心が病んでる気がします。悲観的なんです。生きるのに意味なんかいらないんです。明るく生きてる人はそんなこと考えないんです。

でも、このカテゴリーに投稿する人は考えますよね?なぜか。生きるのに意味が無くては生きられないんですよ。それくらい悲観的だってことです。普通なら幸せに生きてる、それだけです。でも、自分が生きるということに意味がないと生きられないくらいまで追い詰められてる。


もう一つ。デカルト、ニュートン、ロック、パスカル、スピノザ、カント、ライプニッツ、ショーペンハウエル、ニーチェ、キルゲーゴ、ヴィトゲンシュタインらの天才的な哲学者たちはいづれも結婚せずに一人で生きましたよね。単純に人付き合いのできない人間だったんじゃないですか?

孤独に一人でネチネチ考えてることを哲学と言って美化したんじゃないですか?

っていうのが私の無謀な偏見です。これをふまえて再度回答していただけたら。

補足日時:2007/10/29 18:27
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この回答へのお礼

あと、申し訳ないのですが、こんな質問を立てておきながら私は哲学書などを読んだことがありません。質問自体、偏見なのは重々承知しております。

お礼日時:2007/10/29 19:03

真善美の追求をするもので人間活動のほとんどをカバーしているのが哲学なので、悲観的なのとは逆になると思います。


哲学好きな人が一生独身を通し禁欲主義の人も多いですが
それだからこそ経験に拠らない拘束を受けない自由な精神を発揮するものと思います。
多くの可能性を見出し実行するには自由でなことが必然でも条件でもあります。よって哲学者かどうかは器量より実行力ですね。

哲学に孤独は無縁と思います。
先入観や常識の壁さえないから。愛でしょ!
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。良い回答だと思いました。

お礼日時:2007/10/29 18:36

完全な定義は無いですが、ネクラ≒悲観的・内向的が大きな要因だそうで。



哲学ってのは、人間の考え方を法則化する事。
豪放な考えも哲学じゃアリですから、必ずしもネクラとは限らないんでは?

だいたい、自分の考えだけに凝り固まる内向的であれば学問になりません。
統計をとるなどどうしても外向的な能力が必要になります。
また、客観性がある状態でなければ論文書いてもまんま却下されるでしょうし。

単なるネクラならエセ哲学はできても哲学者にはなれないでしょうね。



p.s.
だいたいこういう「他人をネクラと分類する」人間類型の発想も哲学の一種ですよ。
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この回答へのお礼

なるほど、ありがとうございます。

お礼日時:2007/10/29 17:08

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