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江戸時代の幕府成立期に183だった大名が、
元禄には243、幕末には266に増えています。
家光、綱吉のときには取り潰しなどが多かったはずですが、
どうして増えたのでしょうか?

よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

>家光、綱吉のときには取り潰しなどが多かったはずですが、どうして増えたのでしょうか?



幕府創業期は、まだ戦国の考え方が残っていて、各藩は次男坊・三男坊を部屋住みとして「長男の予備」として考えていました。
当時は、次男坊・三男坊は「冷や飯食い」と揶揄されていました。

幕府が安定期に入ると、各藩は次男坊・三男坊を他家へ養子にする事に苦心します。3歳までの死亡率が(一般人に比べ)高かったので、そこそこ養子縁組先は多かったようです。

ところが、元禄期になると・・・。
養子縁組先も無くなります。
そこで、自分の米高から最低1万石を割いて「分藩」を行います。
幕府としても、藩の規模を小さくする事になり奨励した節があります。
分藩すれば、本家に嫡男(世継)が居ない場合、分家から養子を迎える事が可能です。もともと一族ですから、安心ですよね。

それと、将軍家に仕えていた小姓が元服。かれらは、将軍家世継が「将軍」になった時点で「立藩」しています。
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江戸時代の初期には、大大名の次男坊三男坊が、分家を作って大名として独立するケースがよくあります。

有名どころ伊予宇和島藩の伊達家なんかも、奥州の伊達家の分家です。もちろん将軍家でも、将軍の次男三男などが大名になったりします。
あとはすでに出ていますが、優秀な側近等を、重要な役目につけるために、大名にしたケースです。柳沢 吉保なんかも大名になっています。しかも嫡男以外も大名になっています。
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江戸初期に増加しているのは、譜代大名の増加です。


江戸幕府の機構が複雑化、組織化するにつれて、人員補給が必要なので、譜代大名家が増えたのではないでしょうか

例えば家光時代の老中は、家光の小姓から、順次加増されて大名になっています。
阿部正次:家督相続時 5千石
稲葉正勝:1624年に大名の列す
森川重俊:1609年 最初は 3千石
青山幸成:最初は500石
松平信綱:最初は500石
阿部忠秋:家督相続時 6千石
堀田正盛:家督相続時 1千石

生まれながらにしての大名だった、家光時代の老中は、4人/11人で家光に取り立てられて大名になったものが多い。
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一つの大名家が多くの土地を持ち、力を持ちすぎるのを防ぐ為に、大名の数を増やして、その力を分散させたのではないでしょうか。


(取り潰しの後等に)

あくまで個人的な意見なので、参考と言う事で。
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ほとんどレアケースでしょうが, 旗本から大名に出世した人もいますね.

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こんにちわ。



 >取り潰しなどが多かったはずですが、

 その通りです。だから諸大名は分家、別家をせっせと作りました。これが増えた原因と思われます。元々の領地に○○毛利家とか××松平家など、その土地名を頭に冠して区別したようですね。
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