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戦国時代の地名と境界線がわかる地図をさがしてみたのですが、なかなか見当たりません。。
ちょうど大河ドラマやってる上杉謙信の時代には
越後とか信濃とか、江戸とか美濃、近江とか
いろいろありますが「州」や「藩」ではないんですよね?
戦国時代でも正確な境界線はあったのでしょうか?
それともだいたいのお城の場所で三河とか
丹波とか呼んでいたのでしょうか??

本を読んでいてもおおまかすぎて
理解がしにくいなぁと思っています。

どこかにわかりやすい地図を紹介している
サイトなどご存じないでしょうか。
よろしくおねがいします。

A 回答 (3件)

こんにちは。


本でも良ければ学研の歴史群像シリーズ『図説・戦国地図帳』や、帝国書院の『地図で訪ねる歴史の舞台~日本~』なども多少は参考にはなるかと思いますが、戦国時代は何しろ「土地の取り合い」が各地で起こっていた訳ですから戦が起きる度に領地は変化している訳ですし、また今日のように明確な境界線などもありませんでした。

>ちょうど大河ドラマやってる上杉謙信の時代には
越後とか信濃とか、江戸とか美濃、近江とか
いろいろありますが「州」や「藩」ではないんですよね?
江戸は都市名でそのほかは国名ですからこれは明確に異なります。
「国」は律令体制が整えられた時代に日本全土を分けた行政単位で、それぞれ「国司」という長官が派遣されて治める制度でした。
「国」は多少変遷があるものの、明治に至るまで「境界」として機能し、きちんと境も決められていましたが、戦国時代にはもう行政単位としては久しく機能しておらず、国司なども名目上はおりましたが(越後守、信濃守などというあれです)実効支配を行っているのは戦国大名ですから、「国」の境界などはあって無いようなものでした。
因みに日本に「州」というものがあったことはありません。
「信州」とか「甲州」などというのは「信濃」「甲斐」の別称であって中国などのやり方に倣って時として用いられただけで、正式には「国」というのがあるだけです。
「藩」というのはこれが中々難しいのですが、実際には戦国時代もほぼ同様の支配体制であったとしても、学問上「藩」と呼び習わされているのは早くても家康の江戸入部以降のものになります。

>戦国時代でも正確な境界線はあったのでしょうか?
それともだいたいのお城の場所で三河とか
丹波とか呼んでいたのでしょうか??
先程も述べましたが戦国時代はそういった世の中でしたので明確な境界線は引きようもありませんし、現代のようにどの土地でもはっきりと所有者が決まっているというようなこともありませんでしたから、領地と領地の間には「誰のものでもない土地」もありましたし、「今日からここいら一帯は○○家が支配する」と軍隊を送って占領してしまえば、力でまたそれが奪われない限り「領地」ということが出来た訳です。
確かに「越後の長尾家」とか「甲斐の武田家」などと呼ばれることがありますが、それは「主に支配している領地を国名を使って呼び習わしているだけ」ということであって、実際にはそう呼ばれる場合でも越後全土を領地としている訳ではない場合もありますし、複数の国にまたがっていることもいくらでもあった訳です。
ですから戦国時代辺りで用いられる越後・信濃・甲斐・三河・丹波などの国名には今でいう「○○地方」くらいの大まかな場所をあらわす意味しかありません。
それでも「国」や「郡」などはきちんと特定の範囲を示すものではありましたから、例え行政単位として機能していなくても使われていたという訳です。
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この回答へのお礼

たしかに「江戸」はちょっとカテゴリが違いましたね‥‥

詳しくありがとうございます。

たとえば山に登って手付かずの景色を眺めながら、
その昔から変わらないだろう姿ゆえに
「この景色を●●も見てたのかなー」なんて思うことがあるのですが
はたしてこの山は●●の領土なのだろうか?ということを考え出してしまい、
答えがわからないままモヤモヤしてしまうということがありました。

詳しく丁寧な回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/31 20:44

>越後とか信濃とか、江戸とか美濃、近江とかいろいろありますが「州」や「藩」ではないんですよね?



「越後、信濃、美濃、近江、三河、丹波」などは、古代の律令制で制定された国名です。
「○州」は、その別称・略称のようなものです。
「越後→越州、信濃→信州、美濃→濃州、近江→江州、三河→三州、丹波→丹州」など。全ての国名に「○州」という呼び名があります。
参考→http://www.morisawa.org/db_todoufuken.html

律令制では、全国が国→郡→里(郷)という階層で区分されていました。
「江戸」は、「武蔵国豊島郡江戸郷」にあたります。
「郷」の中に農民の住む「村」や、町人の住む「町」などの小さな単位がありました。

>戦国時代でも正確な境界線はあったのでしょうか?

国→郡→里(郷)→村・町などの境界は決められていたはずです。税(年貢)の徴収や治世の基本ですから。

国の境界は、市販の日本地図帳にはたいてい表示されています。
その多くは現在の都府県境と一致していますが、複数の国が1つの県になったり、1つの国が複数の県にまたがっている場合もあります。
たとえば武蔵国は、現在の埼玉県全域+東京都全域+神奈川県の川崎市全域+横浜市の一部にあたります。

昔の「郡」の境界は、明治以降の「郡」にも統合や分割はあるものの、区域や名前はいろいろろ引き継がれています。市町村合併で「郡」の境界はほとんど意味をなさなくなっていますが。
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少し見にくいですが下記のページの下の旧国名入り日本地図をクリックすると旧国名がわかると思います。


http://blog.livedoor.jp/mizuirotonbo/archives/50 …

下記のページは国名はありませんが武将の占領の様子がわかります。
http://www2.harimaya.com/sengoku/bk_map/map_top. …
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この回答へのお礼

御礼遅くなりスイマセン。

武将の占領の様子は参考になりますね。
ありがとうございました!!

お礼日時:2007/10/31 20:19

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