出産前後の痔にはご注意!

伊達政宗について調べたのですが、18歳の時に家督をついで23歳のときの版図は150万石あるそうです。(家督を継いだときはどのぐらいかはわかりませんが、150万石のうちの90万石は総無事令以降の3年間で拡大した領土・・だと思います。)
一方、織田信長は伊達政宗と同じく18歳の時に家督をついで31年かけて800万石もの版図を築いた人です。あと数年あれば天下統一もできたのではないでしょうか。ただ、伊達政宗と同じ23歳のときには150万石ところか唯の”うつけもの”で27歳の時の桶挟間の戦いまでは何もしていなく、天と地の差で負けていると思います。

優秀な大名NO1,NO2は間違いなくこの2人だと思うのですが、いったいどちらがすごいのでしょうか?

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A 回答 (14件中1~10件)

まず、織田信長と伊達政宗を戦国時代の優秀な大名の一、二と考えるのは贔屓でしょうね(^^ゞ



織田信長は尾張という商工業の発展した地域に生まれ、斯波氏の守護代の一族でその内の一つの家の家老を代々続けてきた家柄です。父親の信秀時代に尾張国内の津島も押え、実質上守護代と同等の力をつけていました。だから、織田信秀は美濃や三河に出兵し隣国の戦国大名と争うことができたのです。そういう土台の上に織田信長の実力が形成されます。相続の時に弟と争っていますが、事が大きくなる前に弟を降伏させていますので、信秀のときの実力をほぼ引き継いだものと思われます。
そのうえ、斉藤道三の娘との婚姻により、初期には美濃との争いはなく、道三没後は道三の勢力の一部も取り込むことができました。
また、松平元康との同盟で三河方面での戦闘も無くなり、斉藤義竜、竜興との戦闘のために力をつけることができました。

伊達政宗は曽祖父植宗、祖父晴宗の内部対立で衰退した伊達家を父輝宗が治め、これからといううちに政宗に譲りましたが、当時は伊達家の周りは親戚だらけでありながら、それぞれに名門意識があり伊達家を中心にまとまるような状態ではないです。そういう中を親戚を取り崩し討ち滅ぼしながら領地を拡大していきます。ただ最大の勢力時でも150万石にはなっていないですね。150万石は秀吉時代の蒲生氏郷と伊達政宗の勢力の足し算でしょうが、政宗は会津、米沢を手放すときに変わって、他の土地を得ていますので、単純に足し算してはいけません。
なお、政宗が伊達家を継いだのは織田信長がほぼ最大勢力を作り上げたあとであり、全国的にも戦国時代の終焉がはっきりしてきた時代でありますので、無理してでも領地を拡大しておかないと天下統一又は仙道統一はできないことになります。

なお、織田信長、伊達政宗くらいの大名ならば、徳川(松平)、毛利、島津など何人か数えることができると思います。それぞれの時代背景や父祖の実力により最大勢力は変わってきますし、子孫の実力で実際の評価も変わってきます。

この回答への補足

そういう見方もできるでしょうね。一般的に東大生は東北大生より頭がいいと言われているけど,受験の際の家庭とか学校とかの周りを取り巻く環境,その時の精神状態も影響しての受験だから、実はそうとは言い切れないのではないか、という考え方も出来ますからね。

ところで、「ただ最大の勢力時でも150万石にはなっていないですね。150万石は秀吉時代の蒲生氏郷と伊達政宗の勢力の足し算でしょうが、政宗は会津、米沢を手放すときに変わって、他の土地を得ていますので、単純に足し算してはいけません。」そういわれる根拠はあるのでしょうか?150万石と書いてあるサイトもけっこうあるので、すぐにhazu01_01さんの言われることを信じるわけにはいかないのですが。

補足日時:2007/11/03 06:10
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補足と訂正です。


田村は田村郡ですので田村(安達)は書き方がおかしかったです。

「伊達家史叢談」の苅田郡他の石高はよく言う百万石のお墨付きに書かれているものです。
安政7年の石高は伊達家の表高になっているものの細分化したものです。

また、苅田郡は一度秀吉に取られましたが、関が原の戦い後、一部は伊達家の領地になっているようです。
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伊達政宗の最大の領地の範囲ですが、寛政重修諸家譜によると陸奥国会津、岩瀬、安積、安達、信夫、伊達、苅田、柴田、伊具、亘理、名取、宮城、黒川の各郡、志田郡の一部、桃生郡の一部、宇多郡の一部、出羽国置賜郡になると思います。

このうち、安達郡の三春は田村氏の領地ですので伊達氏の領地から除かれます。
伊達家史叢談によると、慶長5年当時の石高は次のようになっています。
苅田      38646石
信夫      53194石
塩松(安達)  35252石
二本松(安達) 33465石
伊達      69646石
長井(置賜) 177933石
田村(安達)  87682石
また、安政7年のものですが、当時の伊達家の郡ごとの石高は次のようになっています。
桃生(全)   19748石
志田(全)   19256石
柴田      19885石
伊具      26534石
亘理      15867石
名取      44514石
宮城      47578石
黒川      31311石
宇多       5120石
ここまで小計 72万5631石になり、この石高に会津、岩瀬、安積の三郡を加えたものが政宗の最大領域となります。
この数字は後の上杉氏の信夫、伊達、置賜時代の石高30万石とほぼ合っています。また、信夫、伊達、苅田、長井の各郡の石高は「会津鑑」の蒲生氏郷の領地でも確認できます。
その蒲生氏郷の石高で確認すると次のように会津郡なども確認できます。
安積      36400石
岩瀬      51400石
会津4郡   265931石
ということで107万9362石となり、このうちには田村氏の領地も含んでいるわけです。
どう考えても150万石にはいたりません。
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この回答へのお礼

詳しい説明ありがとうございます。返事が遅くなってすみません。しかし107万石とはこれまで聞いた中では一番少ないですね。115万石ぐらいと書いてあるところもけっこうあるのでよくわかりませんが、150万石はなかった・・みたいですね。すごく詳しかったので自分の中で8割5分~9割ほど納得してしまいました。
伊達政宗が家督を継いだ時点での石高も聞きたいところですが、何度も悪いのでやめておきますわw

お礼日時:2007/11/10 21:41

私は仙台生まれなので正宗を贔屓したいのですが何せ生まれ育った場所と生まれてくるのが遅かった。

石高を増やし兵力を整え京に上るにしても奥州からでは遠過ぎる。ほぼ国内を平定した秀吉に小田原で会ったときは正宗若干24歳。信長とは親子ほどの年も離れている。正宗が畿内で30年早く生まれていれば信長と正宗の対決があったかもしれませんが歴史にたら、ればは禁句です。正宗の残した辞世にあるように天下取りの夢は捨てていなかったようです。その正宗も信長に心酔していたようです。
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この回答へのお礼

歴史に「もし」が禁句というのは私も強く思うことで,政宗が30年早く生まれてたら・・という話については、何を馬鹿なことを・・と思ってました。しかし、政宗の経歴について少し調べてみると、1地方の覇者で終わりにはあまりに惜しいと思ったんですね。奥州の覇者とか独眼流というのは知ってたけど、ここまだ若くして短期間で成し遂げたとは知らなかったので。

お礼日時:2007/11/03 06:09

両者を比較する場合ですけど、日本を統一するという理念を持ち、実際に行動に移したのは織田信長が先で、その成功例を見て他の大名も天下統一が夢物語ではないと知ったという現実があります。


今川義元も天下統一を目論んで上洛を志したという話もありますけど、実際は三河を領国化して、あわよくば尾張に勢力を広げてという程度で、実際に天下を意識していたかどうか疑問で、それは武田信玄も上杉謙信もビジョンは持っていなかったはずです。
織田信長も足利義教とか朝倉孝景など、参考にした人物はいたにしても、常識人であれば尾張を統一して美濃を併呑、三河にも勢力を伸ばして、東海地方の大大名になれれば満足というのが当たり前で、天下を望むと口で言っても、具体的な行動を起こさないのが常識ある人間のすることで、それをやろうとすれば「たわけ、誇大妄想狂」ということです。
勿論伊達政宗が織田信長という先達無しに天下を統一するという理念を持ったかも知れませんが、彼の場合ある意味常識人ですから、東北の覇者がせいぜいで、そこまでだったかも知れません。
時代の転換期には必ずキーポイントになる人物が現れ、完成を目前に去って行きます。
源義経、楠正成、織田信長、坂本竜馬、大村益次郎etc、時代に求められて出現したのが織田信長であり、伊達政宗はそうではなかったということで、私は織田信長に一票。

若くして広大な領土を収めた者が優秀といわれれば、私は北畠顕家を推します。
10代で陸奥鎮守府将軍として東北地方を支配し、18歳で京都に遠征し足利尊氏を九州に背走させており、今で言う高校生がここまでやれるのは絶後の快挙と思います。
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この回答へのお礼

伊達政宗も誇大妄想は激しいと思いますよ。あの状況で天下を狙ってたわけですからね。普通に考えれば豊臣秀吉が天下統一するに決まってるのだけど・・それに性格が強気で、父と作戦を考えるといきに、政宗はいつも強気な作戦を考えてそのとおりに動くと成功したという記述を読んだことがあります。

>源義経、楠正成、織田信長、坂本竜馬、大村益次郎etc、時代に求められて出現したのが織田信長であり、伊達政宗はそうではなかったということで、私は織田信長に一票。

これはどっちが優秀かとは違った視点での一票ですよね。確かにキーパーソンという意味ではまちがいなく織田信長のほうですね。

お礼日時:2007/11/03 06:27

最上義光は忘れていませんが、


最上も伊達も両方とも、天下を目指すに値しない
地方大名に過ぎないというのが私の意見です。

伊達政宗も最上義光も両方とも
私は織田信長と並べられるような実績がないと
断言できると思います。

この質問の場合、
比較対象が信長なのでこういうことなんです。

それからよく実高は○○だったというような表現をしますが
それを言うなら、信長や秀吉の場合も、金銭による収入はもっと莫大で
それを米換算したら、圧倒的な桁違いのものになります。
比較する場合は、実高で考えるなら、すべての対象大名を
実高で評価しないとダメです。基準がおかしくなりますから。
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この回答へのお礼

最上義光はともかく、伊達政宗の場合は基盤が織田信長のときよりも
しっかりしていたとはいえ、実績が破格ですよね。
15歳で初陣して、父と共に合戦に参加したり作戦を立てるなどしてるうちに父に武将としての将来性を見込まれ、18歳(1584年)で家督をついで,何度かの合戦を経て東北の伝統があるだけの1大名から23歳(1589年)のころにはには150万石(?)の大名ですから。で、翌年豊臣秀吉に降伏して総無事令以降の3年間に獲得した90万国は減封されて58万石。
これだけの一国が手中に入った状態からこれだけのスピードで領土を拡大した武将は織田信長も含めて1人もいませんよね。
私は伊達政宗なら十分に天下を狙えたと思います。織田信長以上の短期間でとれた可能性もあるのではないかとさえ思っています。

実高で評価しないとだめというのは同感です。
ただ、それがわからないのなら石高で評価するしかないですね。
というか、信長の800万国というのはそういう金銭収入の換算はしていなかったのでしょうか?

お礼日時:2007/11/01 17:46

ダーウインの進化論によると、異種との戦いよりも同種同士の戦いが、生き残りのために最も壮絶な戦いをするそうです。

イギリスという小さな島国で壮絶な戦いに生き残った雑草が偶然オーストラリアに運ばれて、そこで既に壮大な領土で繁茂していた土着の雑草を、イギリスの雑草が一気の駆逐した事の原因を論じています。そして、その分析によりダーウインは、進化論の方が神による創造説よりもより真実に近いものと確信を持ったと「種の起原」に書いてあります。

今手もとには有りませんので正確な年と著者の名前は覚えておりませんが、太平洋戦争直前頃、陸軍大学校の教授で中将だった方が、ナポレオンと信長と秀吉の戦い方を分析していた書物を、早稲田大学のそばの古本屋で10年以上前に見付けました。

それによると、信長は家督を相続してから桶狭間のデビューまで、狭い土地の中、身内で壮絶な主導権争いをしていたそうです。その狭い土地を平定する間、信長は日本史に出て来る余裕すらなかった。しかし、その間に信長はあらゆる戦法を習得したと言うのがその中将の意見でした。それはちょうどイギリスの雑草が生き残りのために狭い領域であらゆる戦法を学んだのと同じです。だから、広大といえどもオーストラリアの雑草など敵ではなく、瞬く間にその雑草を駆逐できたのです。

その中将によると、同じように信長が桶狭間で日本にデビューした時に、広大な今川雑草大名などを一気に駆逐できたとの主張でした。ですから、伊達政宗のように親から広大な財産を貰ったということは、本物の実力には一切関わりがないということを、日本の歴史は教えてくれているようです。

学問の領域も同じで、昨日まで権勢の誇っていた学派が、信長のような片田舎の実力者に一気にその座を奪われて来たのが、その歴史のようです。例えば、量子力学のコペンハーゲン派を見て下さい。それまでの、ドイツ,フランス,イギリスの学派はデンマークンの田舎者に、こてんぱにやられてしまいました。

小泉、安倍、福田、麻生、鳩山、石原など、親がかりの力など、昔の田中角栄のような自らの実力で成り上がって来た者が出てくればオーストラリアの雑草のようにひとたまりもなく駆逐されてしまうと思います。

伊達家は、うまく立ち回って辛うじて生き残ったオーストラリアの雑草だと思います。生き残っていさえすれば、何とか覇権を手に入れる可能性もあったのですが、結局、薩長にそれをも盗られてしまいました。
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「伊達政宗は優秀な大名の一番手と考えるのは、東北にはほかにめぼしい戦国大名がいないからに他なりません」



政宗の伯父に当たる最上義光を忘れないで下さい。義光は妹の嫁ぎ先である伊達家とも戦いと和睦を繰返し、中央権力とも上手く連携して、関ヶ原の合戦の後には伊達政宗と概ね同等の領地を確保しています。

※ 関ヶ原の合戦の後の状態で、領地据え置きの伊達政宗と大幅加増の最上義光は表高は共に約60万石、実高は共に100万石程度だったと言われています。稲の品種改良が進んでいない当時は特に、日本海側の方が夏が高温になり安定した稲作が期待できます。庄内地方を上杉家から獲得した最上は日本海の海運拠点も手に入れていますから、最上の方が恵まれた領地を得ていたといえるでしょう。当時、東北の太平洋側の海運などはなきに等しい状態です。

義光の死後、10年もせずに最上家が改易されてしまい、最上藩の史料は多くが散逸してしまいました。そのため、最上義光の事績もcaesar-x2さんのような識者にすら忘れられてしまっているのは残念なことです。
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この回答へのお礼

>伊達政宗は優秀な大名の一番手と考えるのは、東北にはほかにめぼしい戦国大名がいないからに

それをいってしまったら、織田信長だって近畿圏に弱い大名しかいなかったからともいえますよね。各地方に強い大名が1名しかいないというのは当然の成り行きというか・・
それと、関ヶ原の戦い後に徳川家康が勝ったこと自体予測不可能で、ある意味運だと思うのですが・・
最上義光についてはほぼ知りませんが、信長の野望でわりと有能だったのは覚えています。

お礼日時:2007/11/01 17:53

その時代の常識にとらわれない行動ができたかどうかで判断するならば、信長が桁違いでしょう



信玄にしても謙信にしても 戦は、収穫が終わってから、種をまくまでの間しかできませんでした
土地からの収穫を当てにし土地の呪縛から逃れませんでした
ですから 川中島の合戦が 何回やっても決着が付かなかったのです
このことの重要性を どう評価するかです

信長以外は 領地にこだわり続けました ですから隣国を占領しても 部下をそこへ配置することは困難でした
また 主君のいる場所に常時家臣がいることもありませんでした(それぞれの領地から離れられませんでした) ですから 「いざ鎌倉」なのです
何か起これば(主君のいる)鎌倉にはせ参じることが常識であったのです

他にも多々ありますが、信長以前にはこれを改革しようとの発想はありませんでした

謙信は信長より早く上洛していますが 表敬訪問だけで 常駐することなど考えていませんし、できませんでした

信長以降は 領地換えは常識になりましたが、その後 信長以上の改革を発想した武将はいません(できるような状況では無かったとの意見もあるでしょうが)

質問者も 領地にこだわっていて、信長以前の呪縛から抜け出せていません

この回答への補足

すみません。
全体的に理解できなかったのですが、領地を拡大することが戦国大名の仕事というか使命だったのではないでしょうか?織田信長も自身の領地拡大と対抗勢力の領地拡大を阻もうとする姿勢がはっきりとわかるし、領地の呪縛にとらわれているのではないでしょうか?

それと、織田信長が常識にとらわれない思考ができたことはわかりますが、伊達政宗にそれができなかったという根拠はありませんよね。
それに、戦国時代が終わったとはいえ伊達政宗もローマに支倉常長なる使者を送るなど面白い試みをしていますよね。

補足日時:2007/11/01 17:59
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無形の存在である人物の才能を評価するのは、


極めて困難というよりも不可能ですから
実績という点で評価するのが妥当でしょう。
要するに、潜在的にいかに優れた才能があっても、
発揮されなければ意味がないという考えで、
逆に才能が限られている、あるいは他よりも劣っていたとしても、
もてる力を存分に発揮して結果的には他よりも多くの実績を残したとしたら
効率的に才能を発揮したという点で、優れているといえるからです。

で、実績という点において、
織田信長の右に出る者はいません。彼の部下であった秀吉を除けば、
戦国時代のすべての大名よりも優れていたといえます。
完全に畿内を制圧し、天下布武を実現可能なものとできたのは
唯一、信長だけです。他の誰もなしえてません。
しかも信長の驚異的なところは、尾張という弱小勢力に属しならが
同族を統合し、国を平定して、領土を瞬く間に拡大しただけでなく、
隣接する強豪(今川、斉藤、武田、浅井、朝倉、一向衆など)を尽く倒しています。
信長が当主を継いだ時点では、非常に困難な情勢だったにもかかわらず、
天下人まで上り詰めたのは、信長が比類なき才能の人物である
明白な証拠といえます。このようなことができたのはほかにいないわけですから。

対して、伊達政宗ですが、この人の場合、祖父晴宗、父親の輝宗が
伊達家の基盤のほとんどを作っており、奥州で有利な状況にあるときに
これを相続しただけでした。
にもかかわらず、彼は奥州の制圧にすら、成功してません。
秀吉が介入しなくても、おそらく10年後でも奥州の制覇は成し遂げられなかったでしょう。
東北には天下を狙うような大名が存在しないにもかかわらず、
それですから、政宗は大きな実績を残しているとは言いがたいです。
彼は才気のある人物でしたが、東北にはそもそも天下を統一できるような
基盤がなく、インフラも発達しておらず、冬は雪に閉ざされるわけで、
大きな実績を残せるはずもありません。

また伊達政宗の31歳の時の石高は58万石にすぎません。
幕藩体制になった最終的にも62万石です。
150万石などを領したことはないです。
これは織田信長が尾張を統一した頃の石高程度です。
伊達政宗は優秀な大名の一番手と考えるのは、
東北にはほかにめぼしい戦国大名がいないからに他なりません。
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Q戦国大名の最大版図

タイトル通りなのですが、戦国大名の最大版図の石高がどれくらいになったのかが大変興味があります。

関ヶ原後の石高はかなり有名なのですが、その前に最大版図を迎えた武将も多いと思います。

人数が多いですが下に書いてある武将の石高を教えて頂けると幸いです。


・伊達政宗
・北条氏直
・上杉謙信
・上杉景勝
・武田信玄
・徳川家康
・豊臣秀吉
・織田信長
・柴田勝家
・明智光秀
・長宗我部元親
・毛利元就
・毛利輝元
・島津義久


人数が多くて申し訳ありません。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせると30万石を越える程度はあったようです。

上杉謙信
越後の半分程度が直接的に支配できているところなんだとは思います。
揚北衆と呼ばれる(本庄、色部、新発田)勢力は北越後の広大な範囲を領地にしていましたが、家臣という感じではなく「協力者」というイメージが近いです。勝手に外交したり人事権も及ばない状態でしたから。
そういう独立勢力を束ねて越後、北関東、越中、能登まで支配している感じです。最大版図は私もどこまで含めて良いのかさっぱりわかりません。
味方と言い切れない独立勢力が大勢いるということです。

信長、秀吉、家康のそれぞれの時代によって最大版図のとらえ方も様々に違っているようには思いますね。

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせ...続きを読む

Q伊達政宗が最大の勢力を誇った時

伊達政宗が最大の勢力を誇ったのは小田原参陣前だと思うのですが、その時に伊達領と国境を接していた大名は誰がいたのでしょうか?知っている方お教えください。おねがいします。

Aベストアンサー

一応領土の分る地図を添付しました。
越後・上杉景勝
山形・最上義明
常陸・佐竹義重
福島浜通・相馬
宮城北部・葛西・大崎
専門家じゃないんで(^0^)多分そうだと・・・。

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q戦国時代の六角氏の勢力範囲と敗退原因について

 六角氏は信長に、あっという間にやられてしまった大名というイメージです。
 ですが、実態はかなりの勢力があったと思います。
 
 六角は南近江の大名というイメージですが、勢力範囲は伊勢・大和・伊賀にも
 相当あったのではないでしょうか?

 伊勢の関氏の六角氏の重臣、蒲生氏と通婚しています。当然重臣の家臣は
 主君の許可がいるでしょうから、蒲生と関氏は同格の上、関氏は六角氏の息がかかっていると
 思います。逆に、南の北畠氏と単独では対抗できませんから、六角氏を頼ったのでしょう。
 伊賀三郡も六角氏の間接支配です。

 近江は太閤検地では77.5万石と高い石高です。伊賀も支配、伊勢も石高が高く
 近江は北近江に浅井がいるとはいえ、相当な領域支配、動員が可能だったと思います。

 ついては、六角氏の勢力範囲と敗退原因についてどう考えるか、お書きください。

 (1)六角氏は南近江(近江の石高の7割程度)+伊賀3郡+北伊勢+大和一部で
   おそらく100万国を超える領域をもっていたのではないか?
 

 (2)信長に攻められあっけなく敗退したのは、それは戦略(いつもの六角氏の)であったが
   ただ、観音寺騒動等で、家臣団の信頼が揺らぎ、統一的な動員・対抗ができなかった
   のでは?

 どのように考えますか?
 

 
 

 六角氏は信長に、あっという間にやられてしまった大名というイメージです。
 ですが、実態はかなりの勢力があったと思います。
 
 六角は南近江の大名というイメージですが、勢力範囲は伊勢・大和・伊賀にも
 相当あったのではないでしょうか?

 伊勢の関氏の六角氏の重臣、蒲生氏と通婚しています。当然重臣の家臣は
 主君の許可がいるでしょうから、蒲生と関氏は同格の上、関氏は六角氏の息がかかっていると
 思います。逆に、南の北畠氏と単独では対抗できませんから、六角氏を頼ったのでしょう。
 ...続きを読む

Aベストアンサー

>(1)六角氏は南近江(近江の石高の7割程度)+伊賀3郡+北伊勢+大和一部で
   おそらく100万国を超える領域をもっていたのではないか?

●回答・・・その可能性はあります。
六角氏の最盛期を築いた六角定頼の晩年と、その子、六角義賢が当主になった初期には、もしかしたら100万石程度はあったかもしれません。
六角定頼の弟は北伊勢の梅戸氏(南近江に接する北伊勢を領地にする国人)に養子に入っていますし、関氏なども六角氏につきましたから北伊勢にもかなりの勢力があったでしょう。

一つの目安として1560年に六角義賢は浅井氏と「野良田の戦い」を行いましたが、ここで2万5千人の兵力を動員しています。
豊臣政権での軍役制度では一つの目安として、1万石あたり250人の動員をしました。
ただし、戦場に近い場所の武将は兵を多く動員し、遠い場所の武将は兵を少なく動員するのが普通であり、100石あたり4人とか、5人を動員する場合もありました。
六角氏も他方面への備えから全力を浅井氏に当てる事はできないでしょうから、この2万5千という兵力から考えれば、この頃は100万石程度はあったかもしれません。
ただし、この「野良田の戦い」で六角義賢は敗北しますから、その勢力を減退させた可能性があります。

また、織田信長は南近江侵攻前に北伊勢に侵攻しています。
それにより北伊勢八郡を信長の支配圏にしていましたから、北伊勢での六角氏の影響力は無くなったと見てよいと思います。

ですから、六角氏最盛期には100万石程度はあったかもしれませんが、信長侵攻時にはかなり勢力を減らしていたと思います。この時は既に100万石は無かったのではないかと思います。



>(2)信長に攻められあっけなく敗退したのは、それは戦略(いつもの六角氏の)であったが
   ただ、観音寺騒動等で、家臣団の信頼が揺らぎ、統一的な動員・対抗ができなかった
   のでは?

●回答・・・いつもの戦略とは思いませんが、観音寺騒動等で家臣団の信頼が揺らぎ、統一的な動員・対抗ができなかったという考えには賛成です。
実際、観音寺城の戦いで主力は和田山城に6千。義賢自身は千しか率いていません。唯一戦いになった箕作城の兵が3千。
他に支城に兵を配備していたにしても、1560年に浅井と戦った時に動員した2万5千や、1562年に京で三好勢と戦った時に動員した2万人に比べると、例え北伊勢を既に失っていたにしても、主力の数があまりに少なすぎるように思います。
やはり、1563年の観音寺騒動の影響と、織田信長の調略が大きく響き、対抗できなかったのではないかと思います。
観音寺城より南に大きく六角氏の領地はあったわけで、その南近江の南方で信長に抗戦する事なく、伊賀まで六角親子が退いたというのは、やはり国人衆に裏切られていたからではないかと思います。
実際、永原氏などは信長の侵攻五ヶ月前から信長と誼を通じていたと言われますが、永原だけが信長と通じていたというよりも、他の国人衆にも信長が調略をかけていたと考える方が自然な気がします。南近江の国人衆は殆どが信長と戦う事なくその傘下に入っていますし。

○六角親子と同じような負け方をした大名に今川氏真がいます。
「薩埵峠の戦い」で今川の国人衆の多くが戦う事なく兵を退いて武田信玄に付き、それを見た今川氏真は駿府で戦う事なく逃亡を余儀なくされました。武田の調略が良かったのか、氏真が酷すぎたのか、両方かもしれませんが。
六角義賢と義治も今川氏真と同じく、結局、器量の問題で国人衆に背かれたのではないかと思います。

まぁ尾張、美濃、北伊勢を手中にし、三河の徳川と、北近江の浅井と同盟している織田信長と戦っても勝ち目は無いと思った南近江の国人衆が多くいても不思議ではないかと思います。
何せ、六角氏親子は浅井長政とだけ戦う時でも、浅井を滅ぼす事ができませんでしたから。

>(1)六角氏は南近江(近江の石高の7割程度)+伊賀3郡+北伊勢+大和一部で
   おそらく100万国を超える領域をもっていたのではないか?

●回答・・・その可能性はあります。
六角氏の最盛期を築いた六角定頼の晩年と、その子、六角義賢が当主になった初期には、もしかしたら100万石程度はあったかもしれません。
六角定頼の弟は北伊勢の梅戸氏(南近江に接する北伊勢を領地にする国人)に養子に入っていますし、関氏なども六角氏につきましたから北伊勢にもかなりの勢力があったでしょう。

一つの目安として15...続きを読む

Q伊達政宗ってどのくらい強かった?

伊達政宗ってどのくらい戦が強かったんでしょうか?

Aベストアンサー

強いっていうと
1:本人の戦場での情況判断力(部下の信頼)
2:将校団の現場の力
3:個々の兵士の戦場経験値
4:装備
なんてのが必要条件かと思います。

#2の方が書かれているように、3,4、特に装備面が同程度の東北地方においては、抜群の強さを誇ったようです。ただ、近畿地方の軍とでは、3,4において、格段の差があり、実戦をしたら勝てなかったでしょうね。四国の長宗我部や、九州の島津など、その地方最強を誇った大名が歯が立ちませんでしたから。

20年早く・・・という政宗への評価は確かにありますが、20年遅かったから、政宗は強いという評価が残ったという一面もあります。

条件で出した 1,2に関連するのですが、大阪の陣において大合戦を指揮官として経験した大名は、数少なくなっていました。世代交代で。

実際、関ヶ原体験者で、大阪の陣に参戦したのは
徳川家康
藤堂高虎
上杉景勝
立花宗茂
など数名、しかも高虎は、独立した大名というより、豊臣家の家臣としての大名だったり、宗茂も秀吉にヘッドハンティングされて大名になった・・・独立独歩で負けないで(景勝は負けているし)大名として生き残ったのは、実に家康と政宗だけですね。

実戦経験のない、半分徳川の部下から大名になった連中から見たら、歴戦の政宗は「権現様には敵わないが、つえ~~よなぁ」と 思ったし、実際 大阪の陣でも 激烈でしたね。

強いっていうと
1:本人の戦場での情況判断力(部下の信頼)
2:将校団の現場の力
3:個々の兵士の戦場経験値
4:装備
なんてのが必要条件かと思います。

#2の方が書かれているように、3,4、特に装備面が同程度の東北地方においては、抜群の強さを誇ったようです。ただ、近畿地方の軍とでは、3,4において、格段の差があり、実戦をしたら勝てなかったでしょうね。四国の長宗我部や、九州の島津など、その地方最強を誇った大名が歯が立ちませんでしたから。

20年早く・・・という政宗への...続きを読む

Q織田信長が本能寺の変で死ななかったらどうなっていたでしょうか??

織田信長が本能寺の変で死ななかったらどうなっていたでしょうか??
個人的には信長が天下統一をして、他の国を侵略していたんじゃないかと思います。
(すぐに病死したなどはやめて下さい)実際塩分を取りすぎて健康ではなかったようですが・・・

Aベストアンサー

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長の過去の方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、既に出来上がりつつあった東南アジアの日本人町をネットワーク化していったのではないかと思います。(経済感覚が並外れた政治家である信長ですから。)


 信長の行動から見る限り、天下布武とは、武士だけに当てはまるのではなく、常にその分野で革新的・積極的(=戦闘的)であり続けることを意味しているように思います。

 宗教であれば、より哲学的で民衆救済に努力し続けるものを良しとする。
 商人であれば、より安く安定した物資供給を目指す者を良しとする。
 農民であれば、開墾・治水に努力し、より多くの収穫を目ざす者を良しとする。

 つまり、今の自由主義のような、貿易・経済活動を目指していたと思われます。

 また戦争がなくなっても、織田軍団は得意の土木工事(豊臣政権に引き継がれます。)をする公共・インフラ整備部隊として(ローマ帝国の軍団がそうでした。戦いのないときは、都市建設・道路・水道・港湾整備などの公共工事をやっていました。)全国展開・海外進出したと思われます。

 更に一つの夢物語ですが、アメリカ西海岸への植民が行なわれたかもしれません。1620年、イギリスからアメリカへメイーフラワー号に乗っていった移民が、今日のアメリカ合衆国の基礎となる移民の始まりとされています。

 信長が本能寺で死ななければ、1585~90年ごろには、日本全土の統一は十分可能ですから、1595年頃からアメリカに移民が始まり、1650年ごろには、アメリカ西海岸に広大な日本の植民地が出来上がっていたかもしれません。(日本からアメリカは、ヨーロッパから行くより大分遠いのが難点ですが・・・)
 新大陸に、アジア系仏教国が出来ていれば、世界史における白人・アジア人種の立場が逆転した世界になっていくはずです。

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長の過去の方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、既に...続きを読む

Q長生きしてたら武田信玄は信長に勝てたと思いますか?

全国1億2千万信玄ファンの皆さん、こんにちは。

自宅で資料整理をしていたら、往年の名作「信長の野望 戦国群雄伝」のガイドブックが出て来てしまいました。仕事で忙殺されてるというのに、思わずよみふけりですよ!(嗚咽

生来の里見家フリークな私は、別に武田信玄に対して悪意を抱いているわけではないのですが。
果たして信玄が長篠の戦いまで存命であったなら、信長に勝てたのでしょうか?

どう考えても、無理ゲーと申しますか、馬で柵は突破できないだろ的な考えを抱いてしまいました。

甲斐の虎、戦国最強の呼び声も高い武田信玄のファンの皆さまからの熱いご意見をお待ちしております。
(煽っているわけではありませんので念のため。徹夜明けでテンションが高いだけです)

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 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としていた武田家に対して、木曽・揖斐・長良の河川運送と伊勢湾の海上輸送に基礎を置いた津島や熱田の商業都市から始まって、琵琶湖の水運に基礎を置く近江商人の活動域、瀬戸内海運と淀川の水運に基礎を置く商業都市である堺を支配することにより、織田領では平時にも大規模な物品流通が確立しており、徳川領も織田経済圏の東の部分を形成していました。


・武田軍の戦い方について
1、三方ケ原では、武田軍は圧倒的に有利な位置に陣を構えながらも、徳川軍との戦端をなかなか開こうとは  しなかった。
  結局開戦は、午後4時ごろから始まったようだ。
2、武田軍は、有力な領主の連合体によって形成されている。
3、織田軍のような高度の兵站能力は持っていない。

 1・2・3から見て、信玄の場合、「上洛」とは、甲斐・信濃から西に向かって、有力な戦国大名を傘下に収めて領土を拡張して京に至るというやり方であるようだ。

 三方ケ原の戦いでは、信濃を領地化した時と同じように、遠江・三河を領地に編入することが第一目的であって、その結果上洛できる条件が整うなら、実行に移すという考えではなかったかと思う。

 つまり、信玄の上洛は、徳川軍が武田軍の軍門に下り、その戦力が武田軍に加わるということが条件であったのではないかと推測している。
・三方ケ原の戦いでは、両軍の対峙が長く、開戦時間が夕刻と言っても良い頃になった。
・敗戦の程度の割に、徳川軍の武将の死者が少ない。
・三方ケ原の戦いの後、浜松城に対して包囲攻城戦が行われていない。
この様な疑問に対する答えとして、信玄が家康を武田軍に組み込むことを考えていたと見ている。



 

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としてい...続きを読む

Q戦国大名 伊達政宗のすごさを教えてください???????

戦国大名 伊達政宗のすごさを教えてください???????

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ピンチを何度もしのいだ。たしかにそうですね。関が原の時もそうですね。本戦では無く東北戦ですが上杉勢に攻められて彼は一騎がけで逃げた。危なかった。大坂の陣では敵将の真田幸村から自分の娘を託された。家康公に匹敵する正宗と幸村から評された。おべっかを差し引いても凄い武将(政治家、経済家としても)だったのでしょう。ifの歴史シュミレーション小説にも伊達幕府なんてあるし。

Q北条氏はどうして秀吉に最後まで逆らいましたか?

秀吉の天下統一は北条攻めにより完成しました。
北条氏はどうして最後まで秀吉政権に屈しようとしなかったのでしょうか?
周囲が次々と秀吉側に組してゆくわけですから、とても危険な状況ではなかったのでしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

北条氏の問題は、成長している最中であったこと。しかも、数年で急激に成長したのではなく、時間をかけて成長したこと。ここが、他の大代妙と違う点です。
戦国大名はおしなべて、実は家臣団の連合体という側面が実は強い。大名のトップが、「負けました」と宣言したら、家臣団に殺されます。

豊臣家に頭を下げたのは
徳川家:1582年以降に駿河・甲斐・信濃など急激に膨張
長宗我部:1585年に四国平定、そして四国征伐が同年
島津家:1584年の沖田畷の戦いで、九州のNo1へそして九州平定へ
伊達家:1589年、摺上原の戦いで、芦名氏を滅亡させ、奥州No1に
上杉家:1582年、信長に潰されるカウントダウン状態
毛利家:1582年、信長に潰されるカウントダウン状態

など、信長に潰される直前で、家臣団として「潰されるより、頭を下げましょう」という合意がなされやすい状況であったケースと、直前に領土を拡大させ、まだまだ、本領としてしっかり統治できていなかった(捨てても、まぁ いいやと諦められる)領土の大きかった大名家です。家臣団も、しょうがないやと思える。

ところが、北条家は、五代にわたってじわりじわりと領土を拡大し、五代目氏直の段階で、史上最大の領土を確保したところでした。
※ 氏政・氏直の無能論というのがありますが、領土を拡大させたという意味では有能であったといえます。
ただ、100年かけて獲得した領土なので、家臣団はギブアップ宣言ができない、しかも、毛利家における宇喜多家のように、新参の半分同盟国のような扱いの家臣団でなく、重代の家臣団であり、結束が強いがために、氏政・氏直としても、簡単にギブアップできなかった。
ということではないかと

北条氏の問題は、成長している最中であったこと。しかも、数年で急激に成長したのではなく、時間をかけて成長したこと。ここが、他の大代妙と違う点です。
戦国大名はおしなべて、実は家臣団の連合体という側面が実は強い。大名のトップが、「負けました」と宣言したら、家臣団に殺されます。

豊臣家に頭を下げたのは
徳川家:1582年以降に駿河・甲斐・信濃など急激に膨張
長宗我部:1585年に四国平定、そして四国征伐が同年
島津家:1584年の沖田畷の戦いで、九州のNo1へそして九州平定へ
伊達家:1589年...続きを読む

Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? ...続きを読む

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 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む


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