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◆「自己意識にとってもう一つ別の自己意識が存在する。それは自分の外に出ているが、このことは、二重の意味を持っている。
一つには、自己意識は自己自身を失っている、ということである。
なぜなら、それは、自分をもう一つの他の実在として見出すからである。
第二に、自己意識はそうすることでもう一方の相手を破棄している。
というのは、それは、相手を実在としてみるのではなく、むしろ自己自身を相手のうちに見出すからである。」(141.109-19)

ヘーゲルは、「自己意識が二重になりながら統一を成しているという概念」(141.109-9)に、「自己意識で実現されている無限性」をみる。
自己意識が二重になりながら統一を形成するというのは他者と人間関係を結ぶ中でこそ、自分に対する期待、自分の果たすべき役割、自分のなしうることなどについて、意識されるからである。
(加藤尚武編『「精神現象学」入門より』)

という事は、自己意識にとってのもう一つの自己意識とは他者なのでしょうか?
また他者は如何に、どうやって自己意識に把握されたのでしょうか?

A 回答 (4件)

 たびたび失礼します。


 『精神現象学』はとても抽象的に書かれています。自信があるわけではないのですが、参考の一助になりましたら幸いです。

>という事は、自己意識にとってのもう一つの自己意識とは他者なのでしょうか?

 はい、そうです。
 ご質問の『精神現象学』の文章の直前(139~140)で、自己意識は他者を欲望の対象とします。しかし他者を廃棄してしまったら、それは無くなってしまうので満足できない。そこでもう一つ別の自己意識から満足を得ようとする。*

 引用された最初の文章を読むと、ヘーゲルがかなりアクロバティックな考えを展開させていることが分ります。
 まず自分を承認してくれる、別の自己意識―それは自分に意識されている―に自分を見出すことで、元の自己意識を失う。
 別の自己意識に自分を見出すということは、(言ってしまえば他人を追い出してしまうので)「もう一方の相手を破棄して」しまう。**


>また他者は如何に、どうやって自己意識に把握されたのでしょうか?

 これはパスします。
 ヘーゲルは引用された文章をとても抽象的に展開しているので、私には分りません。あまりに抽象的なので上掲の私の説明も、誤解の可能性があります。


*とても通俗的な例で例えます。
 美食家が食べることで満足を得ていた。しかし対象物を食べていてはその対象は無くなってしまう。むしろ他の人に美食家として認知されることで満足を得ようとする。

**これもとても通俗的に例えてみます。(私もこの箇所は2通りに解釈できるので、2パターン揚げてみます。)
 恋人Lにお熱のあまり、我を忘れてしまう。しかも実はL自身を好きというよりも、自分の意識に反映したLのことが好きだった。(または好きだと思っていたLは自分の反映にすぎなかった。)
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この回答へのお礼

hegelianさん、ご回答ありがとうございます。

>>しかし他者を廃棄してしまったら、それは無くなってしまうので満足できない。そこでもう一つ別の自己意識から満足を得ようとする。*

という事は、他者はもう一つ別の自己意識とは微妙に違うんですね。

>>まず自分を承認してくれる、別の自己意識―それは自分に意識されている―に自分を見出すことで、元の自己意識を失う。

元の自己意識と別の自己意識を同時に見ることはできないのでしょうか。

>> 別の自己意識に自分を見出すということは、(言ってしまえば他人を追い出してしまうので)「もう一方の相手を破棄して」しまう。**

 べつの自己意識に自分を見出す、これは承認を求めるとは少し意味が違うんでしょうかね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/03 14:50

相互承認の部分ですね。



> 自己意識にとってもう一つ別の自己意識が存在する。それは自分の外に出ているが、このことは、二重の意味を持っている。
一つには、自己意識は自己自身を失っている、ということである。
なぜなら、それは、自分をもう一つの他の実在として見出すからである。

まず最初、自己意識は〈自分だけの存在〉としてあります。自分の中から、他者のすべてを排除する活動によって「これが自分だ」という意識が生まれる。
この自己意識の根拠となるのが自我(「一切のものから孤立し自我にあらざるものすべてに対立する自我」)です。

「自己意識にとってもう一つ別の自己意識が存在する」というのは、一人の個人がもうひとりの個人に相対している、ということです。
けれども「もう一つ別の自己意識が存在する」というのは、このふたりを俯瞰する位置にあるわたしたちに言えることであって、この人はまだそう思ってはいません。ただ、「自分ではないやつがいる」と思うだけです。
同時に、この人の内部でも、主観的には自己自身を確信しているけれども、他者に対してそれが通用するかどうかわかっていない。そのために、この自己確信は単なる主観的確信に留まっている。

したがって、自分の持つ自己意識の観念を、自分以外の人間にも認めさせなければならない。その人が人間として価値を持ち、実在性をもつ、ということを、他者に認めさせなければならない。つまり、その人の生命の意味は、この他者が握っているのです。
だから「自分の外に出ている」。

他者に相対したときの「自己意識」は〈自分だけの存在〉ではありません。
それが「自己意識は自己自身を失っている、ということである」ということ。

「自分をもう一つの他の実在として見出す」、これは、相対する他者を、〈わたし〉となんらかのかたちで〈おなじ〉存在の次元に属するとみなしつつ、〈わたし〉ではない、〈ことなって〉いると見なす、つまり、現前しているのは、他者であり、しかももうひとつの「自己意識」として見出すこと。

そのことによって、自己意識は初めて真に存在することになるのです。
ここからは熊野純彦の『ヘーゲル 〈他なるものをめぐる思考〉』(筑摩書房)がわかりやすいので、そこから引用しましょう。

---p.177-p.178-----

つまり、自己意識にたいして他の自己意識が存在するとは、自己意識がみずからとひとしいものを、自分の外部に見いだすことである。つまり「みずからとはことなった存在において。じぶん自身とひとつである」ことである。自己意識は自己を他者として、他者を自己として見いだしている。他者が私でもあり、私は他者でもある。

 他者は他者であるとともに他者における自己でもあるのだから、他者を否定して自己を肯定することは同時に自己を否定することであり、逆もまた同様である。かくして、他者と私との「両者はたがいに承認していることを相互に承認しあっている」。自己意識は、かくて「承認されたもの」としてのみ存在する。
-----

(※なお、コジェーヴは主奴論とからめながらこの部分を非常に精緻に展開していっています。もし興味があれば、コジェーヴの『ヘーゲル読解入門―精神現象学を読む』をお読みください)。
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この回答へのお礼

ghostbusterさん、ご回答ありがとうございます。

>>この自己意識の根拠となるのが自我(「一切のものから孤立し自我にあらざるものすべてに対立する自我」)です。

よく分かりました。ありがとうございます。

>>このふたりを俯瞰する位置にあるわたしたちに言えることであって、この人はまだそう思ってはいません。ただ、「自分ではないやつがいる」と思うだけです。

まだ、非自我の一要素を、自分と同じ理性を持つ人格だとは認識していないという事ですね。

>>この自己確信は単なる主観的確信に留まっている
>>したがって、自分の持つ自己意識の観念を、自分以外の人間にも認めさせなければならない。

この主観的確信から、自我が承認を願う形にシフトするきっかけはなんなのでしょうか?
それと、自分と同じ様な他者が居るときづくきっかけもよく分かりません。

>>コジェーヴの『ヘーゲル読解入門―精神現象学を読む』

ありがとうございます。是非、読んでみます。

お礼日時:2007/11/03 23:59

「という事は、自己意識にとってのもう一つの自己意識とは他者なのでしょうか?」


ここでの他者は自身のことでしょう。
自身を2元論で説明しているのですね。本体意識としての自己と本体意識の一部としての、ヘーゲルとしての、自己意識ですね。
意識全体を水車にたとえると水に使っている部分が外の意識、つまりみんなが認識するヘーゲル(意識)ですね。
「また他者は如何に、どうやって自己意識に把握されたのでしょうか?」
ヘーゲルという人物(意識)が他人との関係で把握したもの、あるいは他人がヘーゲルを見ることで、本体意識がヘーゲルという意識を認識できるということですね。本体意識とその一部のヘーゲル意識、どちらも自己意識であるがヘーゲルが存在する以上、ヘーゲルを基礎に統一的な自己をを形成するしかないということでしょう。キリスト教的偏狭な制約世界でヘーゲルも自身を十分に表現できないというジレンマに陥っていたのかもしれませんね。
尚、ヘーゲルの自己表現は西田哲学の「絶対矛盾的自己同一論」に通じるものですね。
参考になるかどうか?
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この回答へのお礼

mmkyさん、ありがとうございます。

>>ここでの他者は自身のことでしょう。
>>自身を2元論で説明しているのですね。本体意識としての自己と本体意識の一部としての、ヘーゲルとしての、自己意識ですね。

なるほど、自我から、分けられた他者という事でしょうか。

>>ヘーゲルという人物(意識)が他人との関係で把握したもの、あるいは他人がヘーゲルを見ることで、本体意識がヘーゲルという意識を認識できるということですね。

関係の把握ですか、その辺りを具体的に書ければ面白そうですね。

>>本体意識とその一部のヘーゲル意識、どちらも自己意識であるがヘーゲルが存在する以上、ヘーゲルを基礎に統一的な自己をを形成するしかないということでしょう。キリスト教的偏狭な制約世界でヘーゲルも自身を十分に表現できないというジレンマに陥っていたのかもしれませんね。

二つの自己意識があるが故にどちらが自己か分からなくなる。
そこで、アウフヘーベンは役に立たないのでしょうか。

>>尚、ヘーゲルの自己表現は西田哲学の「絶対矛盾的自己同一論」に通じるものですね。

西田哲学は、講談社現代文庫で読んだ事がありますが、確かに通ずる部分が有りますね。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/04 00:03

返事が遅くなってごめんなさい。


まだ見てらっしゃったらいいんですが。

> この主観的確信から、自我が承認を願う形にシフトするきっかけはなんなのでしょうか?

『精神現象学』のちょっと前を戻ってみてください。B.自己意識の章のIV「自己確信の真理」のところです。作品社版だとp.126になります。

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そこで、自己意識は、自立した生命としてあらわれる他の存在をなきものにすることによって、はじめて自分の存在を確信する。それが「欲望」の働きである。他の存在をなきものにできるという確信の上に立って、自己意識はなきものにされるのが他の存在の本当のありかただと考え、自立した対象をなきものにすることによって、自分の確信が客観的にも確証された真の確信だとみなすのである。

 このような欲望の充足のなかで、しかし、自己意識は自分の対象が自立したものであることを思い知らされる。欲望と、欲望の充足のうちに得られる自己確信は、対象をなきものにすることなしにはなりたたないから、自分以外の対象を前提とし、それに条件づけられてはじめて存在するものだといわねばならない。
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こうして「他の存在をなきものにする」ための闘争に入っていきます。

このときの闘争は二重の意味がある。
・他者に対してはその死を願うものとして。
・自己に対しては、自己を証明するものとして。

ポイントは、この二番目の「証明」ということです。
それまでこの人は自己を人間であるという「主観的な確信」は持っています。ところがこの確信は錯覚であるかもしれないし、妄想かもしれない、この観念が真理であることが証明されなければならないのです。
どうやったら証明されると思います?
その人が持っている自己自身の観念を、他者に承認させなければならない。ここで、この闘争は承認を求めるものともなっていく。


> それと、自分と同じ様な他者が居るときづくきっかけもよく分かりません。

まず、コジェーヴはここでこういっています。
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〔二人の「最初」の人間が初めて相互に出会うとき、一方は他方の中に自立した価値を代表する一個の自己意識的存在者ではなく、一個の動物、しかも滅ぼすべき危険かつ敵対的な動物しか見ない。〕(p.20)
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そうして、このあとこう続いていきます。
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この他者がもし人間的存在者であるならば(より正確には、もしこの他者が一人の人間であろうとし、自己を一人の人間として信ずるならば)、この他者もまた同じように自己を他者に認めさせねばならぬ以上、人間の生成をもたらす「最初の」行動は必然的に闘争の形態、すなわち人間であることを主張する二個の存在者の生死を賭しての闘争の形態をとらざるをえない。これは敵からの「承認」を目指して遂行されるまったくの尊厳を求める闘争である。(p.22)
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現前している他なるものを否定することを介して、自己が自己になる。このとき、他なるものが人間であるならば、それは闘争という形態をとる。闘争という形態となったとき、他なるものが「わたし」に等しいものである、と認められるわけです。
さらに、この「わたし」と等しいけれども、「わたし」ではないものを否定することによって、「わたし」が「わたし」であることがあらためて確認される。
筋道としてはこうなります。

これで回答になったでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

自己意識は、対象を、欲望に従って自分のものにしようとするが、対象も自立的な存在だと思い知る事によって闘争に入っていくというわけですね。
「他者に対してはその死を願うものとして。」これは、対象の自立性の否定ですね。
「自己に対しては、自己を証明するものとして。」これは自己の自立性の肯定、確信のためですね。
「このとき、他なるものが人間であるならば、それは闘争という形態をとる。闘争という形態となったとき、他なるものが「わたし」に等しいものである、と認められるわけです。」
相手も自立的だと感じ、闘争に入り、闘争の中でその確信を強めていくという事でしょうか。
ただ、それは闘争に過ぎないので、対象の自立性の否定より、自己の自立性の肯定が常に優先されるということですね。

なんとなくですが、分かってきました。ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/11 19:01

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