アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

はじめまして。
こちらのカテの方々に質問が御座います。
有名な言葉ですが、ニーチェは全ての囚われから解放できる唯一の方法が「意思」である、と説きます。
しかし、面白いのは更に話を進め、その意思さえもどうにも出来ないのが「過去(時間)」である、と説きます。

と、ここまでは論理的なのですが、ここらかが破綻し始めます(しているような気がします)。

何とニーチェは、このどうにもならない「現実(矛盾)」を克服する為に、何とその過去を「肯定」してしまうのです。
読んでいてびっくりしました;
個人的には、「それ以外に方法がないし(今のところ)、現実(運命)を受け入れるしかない」、とニーチェは言いたいのだと思いますが、どうも何かひっかかるものを私は感じました。

このあと、これを基にしていわゆる皆さん御存知の「超人思想」「永劫回帰」が出てくるんですが、私はこの時点でニーチェの言っている事は矛盾していて、破綻しているように思えるのです。
ひょっとして、ニーチェが発狂したのは、彼の思想が不完全(矛盾・破綻)しているからではないかと。
あるいは、この世界そのものが既に破綻していて、矛盾しているのかもしれませんが…。
しかし、現在を肯定的に捉える事はもちろん必要ですが、実は「否定する事」も必要なのでは?
あくまでニーチェの書物は、他人の解釈によって完成するので、これは私の勝手な解釈かもしれませんが…。

皆さんのお考をお聞かせ下さい。
(あと、おすすめの解釈本がありましたら、ご紹介の程よろしくお願いします。※サイトでも構いません)

A 回答 (8件)

ツァラトゥストラは――その《序説》の第二節で―― 森の中で出会った老隠者に 



    人間たちのところへ行くな。森にとどまるがいい。・・・なぜ
   君はわたしのようになろうとしないのか――熊たちのなかの一匹
   の熊 鳥たちのなかの一羽の鳥に?

と問いかけられたとき はっきりと拒みます。この《鳥たちの中の一羽の鳥であろうとする超俗の人(老隠者)》にかんする議論のみををめぐって 述べてみます。

けれども 論ずるなかれ 社会性を重んじるならば その拒絶は 当然です。そうしてこの老隠者と別れ 独りになったとき ツァラトゥストラは次のように 自分の心にむかって言ったということです。

    ――いったい これはありうべきことだろうか。この老いた超
     俗の人が森にいて まだあのことをなにも聞いていないと 
     は。神は死んだ ということを。
           (『ツァラトゥストラ』序・2 手塚富雄訳)

つまり 《神は死んだ》 この命題のみを取り上げます。

ことは かんたんです。もし 人間の経験合理性にもとづく思考や想像を 神が 超えているのだとすれば その《神が 死んだ》も《生きている》も無意味です。われわれの頭で分かるわけがないのですから。

人間が 《神は 愛だ。 / 正義だ / 悪魔こそが 神だ等々》と規定した途端に その内容は 神のものではなくなります。そのような主観を描いていますと表明しただけのことです。

もし その神が われわれ人間の想像力の産物であるとすれば なるほど 確かに その神は《生きたり 死んだりする》ことがあっても おかしくはない。という議論です。心は 大切ですが いかんせん 無常の風にさらされています。

そこのところを ニーチェは――書物の中でのことですが―― わざわざ《神は死んだ》という命題の表明として 言わなければならなかった。だとすれば よほど 少なくとも当時の・かれの暮らす社会では キリスト教の神が 観念の共同のもとに 人びとの振る舞いを規制し 猛威を振るっていたのかと思われます。それに抵抗し超克しようとしたのではないかと。

人びとの想像の産物として 頭の中の観念の神が くせとなり 慣習となり それの慣性化がひどかったのでしょう。あたかも檻のように感じられたのかも知れません。けれども 抵抗の仕方が ふつうではなかった。かれは その点で 感受性が強すぎたのかも知れません。

言いかえると ニーチェは 《考える》を超えた《信じる》という人間の持ちうる生活態度を 知らなかったと言えるかも知れません。思念のかたちにおいて 《意思》の城塞をこしらえてのようには 抵抗する必要がないということを。(日本人は こんな場合 慣習に従う振りをすることで 切り抜けるようです)。

ちなみに 日本でも ニーチェ派の中に いや 考えるのではない純粋思念だなどと言いたそうにする人も 多くいますが だったら《信じる》とはっきり言えばいいでしょうし 《思いこみ》ではないことを確認しておくとよいでしょうのにと思います。

つまり ニーチェがツァラトゥストラをして拒絶せしめた《超俗の人=老隠者》の系統に 自分は 片足を突っ込みながら しかも  ニーチェ擁護にまわる人びとが見られるようです。

別のお話しになりましたが こんなふうに考えます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>もし その神が われわれ人間の想像力の産物であるとすれば なるほど 確かに その神は《生きたり 死んだりする》ことがあっても おかしくはない
なるほど…。
結局は「人間の頭で理解できないものを、自分達の都合のいいように解釈している(=キリストを含めた諸々の宗教?)」と、ニーチェなりの皮肉(?)を込めた批判だったわけですな。

>ニーチェは 《考える》を超えた《信じる》という人間の持ちうる生活態度を知らなかった
ああ、なるほど…。
謎が解けたような気がします。
ある意味、悲劇、されど必要な運命…。

つまるところ、ニーチェはルール(この世の摂理?物理?)にのっとり徹底的に抵抗した…。
しかし、それは同時にゲーム(人生または法則)において、ルール(この世の摂理)に反しないと言う事…。
彼はどこまでも純粋で、そして何処までも反抗していたのかもしれませんね…。

結果として、運命(現実?法則?)に従う事になり、しかし、心では運命に抗う事を欲していた…。
何たる悲劇!何たる苦悩!

信ずる事、抗う事、現実を見る事…宗教、哲学、科学…etc
難しいですね…。

Danke sehr!(ありがとう御座いました)
Auf Wiedersehen!(さようなら!)

お礼日時:2007/11/07 15:31

No3です。



映画πは観たことがありますが、円周率の全貌を解明しようとしていた数学者?がそれに隠されたものに気づき、命を狙われるというストーリーだったと思いますが、その原因は統合失調症を発病してため、幻覚と現実の区別がつかなくなったって物語だったと思います。

円周率ってどこまでいっても終わりないですが、この世だってどこまでホジっていってもここで全容が解明できたってことないですよね。

でもその数学者は何者かが隠しているから全容が見えなくさせられていると思い、それを克服すれば全容が解明できると思い、、、、

でもその何者かは現実に存在するものじゃなく、彼の妄想だった。


この物語と似たような話で、映画にビューディフルマインドってあったと思います。

ノーベル賞を受賞した数学者。
彼は統合失調症を発病しながらも、夫婦愛により研究を続けノーベル賞を受賞した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7% …


ニーチェは考えすぎて脳が壊れてしまったのか。
それと芥川龍之介は統合失調症を発病しましたよね。
太宰治は、、、えっと、、、、ボーダーライン(境界型人格障害)

こうやってみると、考えすぎて病気になったのではなく、病気(ボーダーラインは病気じゃなく個性ですが)があったゆえに、普通の人が普段考えない領域にまで注目して、思想を築いていったと思えるんです。


ニーチェは発狂したのか。 
脳腫瘍という話もありますが、原因はよくわかりません。
私からすれば、意思疎通が成り立たなくなったと言っていたことから、加齢により脳に損傷を起こした可能性もありますが(脳の血管がつまったり、ちょっとずず敗れたりなど)、彼の発言は梵我一如に到達したようにも思えるんです。

言葉で表せる世界じゃないので、他の人が聞いたら「意味わかんない 発狂した」となるのかも。



>、「この世界は永遠に繰り返される地獄だ!しかし、俺は全てを受け入れる!耐え切ってみせる!さあ、こい!」という事でしょうか?(

二つの心がせめぎ合っており、この世は意味や価値など無いという冷たい眼をもちながら、その意味や価値の無い世界を情熱を持ち実存的に生きるってことじゃないかと。

ニーチェはアンチキリスト者ですが、わからなくもない。
といいますのも、私は敬虔?なカトリック信者と長期にわたりネットでバトルしたことがあるんですね。
愛と慈悲と癒しをモットーとするその方と激しくやりあいました。笑
そして暴き出しました。
その人も自分や俗世的な普通の人となんら変わらない人間である ということを、ネットという公の場でその人自身によって暴露していただきました。

一方では耳あたりのよい言葉を言えるが、そのような人ではなかった。
口先だけのペテン師なわけです。
口で言うことと実際やることが逆。
幻の中に自分の人生をおいているわけです。
実存的に生きていない。 はるかかなたの自分が描く耳あたりのよい言葉を自分自身だと錯覚し、一方では口当たりのいい言葉を言いながら、その同じ口から罵声を吐き出す。

私から見れば完全に分裂しており、天使と悪魔のようでで、自分は天使だと言いはり、やっていることはそこらの人より理性を欠いた修羅。
そうなると 普通の人じゃすななく 悪魔的に思える。

公開された場で、相手の羽むしってしまった私も悪魔的ですが、私は自分を偽物の羽で飾って美化することをしないので、まだマシだと思いました。笑

人が理想を持つことは大事です。
が、人を騙そうというする心が入っていると、その理想の希求を見ても興ざめしますよね。

ニーチェはそのような欺瞞に対して、力強く抗議し、あの世だとか天国だとかいう耳あたりのよい麻薬に酔わず、ありのままの自分を受け止め、しっかりと地を歩むしか価値の無い世界に生きる私達が、自分に価値を与えることはできない、みたいなことを言ったように思えます。

で、ニーチェの格言で、悔いの無い生き方 とか 他者への態度 とか人間における暗い情念 とか 癪にさわる とか 小さな復讐心は人間的であるとか 述べてますよね。

実に人間くさくて、おもしろいし、好感が持てる。

<たとえいかなる苦労が多くとも、人生とはそういうものでったのかと知ることが、人生の意味であったと考えるのならば、どんな苦労もまた喜びに転じうる。
「人生とは認識の一手段である」という「この原則を胸に抱けば、人はたんに勇敢になれるばかりではなく、むしろ喜ばしく生き、また喜ばしく笑うこともできるようになるのだ」>

って説明が前リンクした本に多分書いてあると思います。

というのは、そのリンクした本を私は持っていないんです。
私が持っているのは教材として配布された方。
タイトルと筆者が同じなので、恐らく内容も同じじゃないかと、、、。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

なるほど!
う~む…;
まさに狂人と天才は紙一重ですな~;
狂人(病人)だったから天才(領域)に踏み込めたのか…
はたまた、天才だったからこそ狂人(領域)になってしまったのか…

そもそも、世界と言うものの存在が、あまりに巨大で、それでいて無意味に思え過ぎるのかもしれません…。
ソクラテスの言う、「満足なブタか?それとも、不満足な人間か?」
まさに、これですよね。
遥かに豚の方が楽なわけです…。
しかし、豚ではいつ食肉場に送られるか分かりません。
ある日突然、頭を殴られるわけです。
大抵の人(豚)はここで「痛い」と思うわけですが、ここで「なぜ、俺は殴られんだろう?」と「疑問」を持つわけですよね。
ここが進化の始まりであり、「豚から人間へ」の始まりであるわけですが、いざ人間になってみると、「飢餓」「貧困」「嫉妬」「戦争」など、より酷い現実が待っています。
ただ、ソクラテスさんのいいところは、「それでもマシである」。
と、人間である事を肯定するんですよね。

しかし、そのソクラテスは処刑されましたが…ああ;orz

>愛と慈悲と癒しをモットーとするその方と激しくやりあいました


>相手の羽むしってしまった私も悪魔的ですが、私は自分を偽物の羽で飾って美化することをしないので、まだマシだと思いました。笑
何となく分かります(苦笑)。

>人を騙そうというする心が入っていると、その理想の希求を見ても興ざめしますよね
厄介な点は、自分さえも騙してしまい、それに気づかない点だと思います;

>って説明が前リンクした本に多分書いてあると思います
おおそうでしたか!
ちょっと気になっていたんで、迷っていました。
探して読んでみたいと思います。

何度もありがとう御座います。
少なくとも、あなたに出会えたことは感謝したいです。

お礼日時:2007/11/07 15:00

《アンチ・クリスト》を読んだら これは 文章ではないと判断しました。

読むに値しないと。

その前に アフォリズムなどを読んで 面白かったのですが。

で 《ツァラストゥストラ》ですが 山から降りて来た初めのあたりは 方向として いいのではないでしょうか。ただ ふつうに ふつうの人間だと言えばいいものを 輪をかけて《超人 / 大河 / 大地》などと唱えています。思想としての着物が ひとえ 余分なように思います。

検証してみたものではなく推測ですが どうもキリスト教の影響が いちばん大きかったのではないでしょうか。

まづ かれ自身は そこから かなり極北の理念や思想を感じ取っていた。しかも 一方で 燃え尽きぬ情熱はあるわ 他方で いわゆるキリスト教道徳のもとにある世間の皮相さ もしくは偽善にぶつかり どうしようもないわで 思索し試行したように思われます。
一点突破としてのように 《意思》を持ち出してくるし 想像上 《超人》の次元にまで持ち上げたのだと。

《このどうにもならない「現実(矛盾)」を克服する為に、何とその過去を「肯定」してしまうのです。/ 読んでいてびっくりしました; / 個人的には、「それ以外に方法がないし(今のところ)、現実(運命)を受け入れるしかない」》
――この筋については ぴんと来ないので 忘却がはなはだしいのかなと憂えています。もう少し説明を加えていただけたならとも思います。

なお発狂と思想的な破綻とは 無理に と言いますか 一般的な必然性として 結びつける必要もないように思いますが。因果関係として 別様の捉え方を残しておいたほうがいいように思います。

この回答への補足

(※こちらは2番目になります)

と、まぁ根底から崩す「ぎゃふん」な状態で、結局これじゃぁ「元に戻ってしまう」わけですが…;
(だから、永劫回帰?)
ニーチェ自身、「三種の変化」で最後に「赤子に戻る」、と言っているので、ある意味この時点で永劫回帰が既に示唆されているのかもしれませんが…。

書いていて私自身混乱してきました…;
また、図書館で借りてくる事にしましょう。

補足日時:2007/11/07 12:06
    • good
    • 0
この回答へのお礼

文字オーバーで2つに別けました。

>山から降りて来た初めのあたりは 方向として いいのではないでしょうか。
>ただ ふつうに ふつうの人間だと言えばいいものを 輪をかけて《超人 / 大河 / 大地》などと唱えています。
>思想としての着物が ひとえ 余分なように思います。
ああ、これは私も思いました。
多分、一般人から→超人になったと言いたいんでしょうけど、やや大げさな気がしました。

ニーチェの「ツァラストゥストラ」は自費出版で、しかも初めは数十部しか刷ってなかったと聞きます。
だから、個人的に彼の頭のメモ帳のようなものではないか、と捉えています。
ただ、私自身、読んでいて混乱する事もあるので、まだまだよく理解してないなとは感じております;
どうか、そこのところはご容赦下さい;

あくまで、直感的ではありますが、どこか矛盾というか完成されていない、という印象を私は受けました。
>一点突破としてのように《意思》を持ち出してくるし 想像上 《超人》の次元にまで持ち上げたのだと
仰るとおり、彼自身まだ思考錯誤の段階だったのかもしれません。

>もう少し説明を加えていただけたならとも思います
たしか、(うろ覚えで申し訳ありません;)「そうあることを意思した!」という事で、彼は現在を肯定し、過去を受け入れ、時間と和解したのだと私は解釈しました。
これは、ニーチェなりのキリスト(現世の否定)批判であり、また救済(「そうあった」にたいする意思の解決)だったと考えております。

しかしながら、「過去」を肯定する(「意思」では時間を遡れない、とその前に彼は唱えているわけですが)という事は、ある意味どうにもならないという事を暗に示唆しているわけですが、私自身はその後「過去まで肯定までせずとも…」と思うのです。

私は否定したい過去であるならば、「否定してもいい」と思うのです。
しかし、そうなると意思(後悔)が私達に復讐します。
だから、「過去を肯定する(運命を受け入れる)」しかない、というのも分かりますが、ある意味この苦悩こそ人間なのではないかと…。
早い話が、「超人になる必要はないのではないか」と…。

お礼日時:2007/11/07 12:06

私も、ANo.4さんと同様に、哲学書を読むのが苦手です。

友人が購入したカントの本をちらっと見せてもらっても、「うーーん、日本語のようだけど、これは読めない・・・」ってギブアップでした。で、「哲学がわかる!」っていうような解説本くらいしか、手を出せていません。

それで、ニーチェですが、「神は死んだ」って宣言後に発狂したってことで、まあ読みたいって気も起きなかったのですが、どんな思想だったのかは気になっていました。(ちなみに、ニーチェは今だにヒトラーと同様に地獄で苦しんでいるらしい)

それで、質問者さんのニーチェ思想の要約を見て思ったことを書くと、

このどうにもならない「現実(矛盾)」ってのは、正しいし、「それ以外に方法がないし(今のところ)、現実(運命)を受け入れるしかない」というのもそうでしょうね。

そこから先、そんな人生をどう解釈するか?っていう、ほんとに美味しい問題のところで、ニーチェちゃんは、つまずいてしまったんだと思います。もちろん、それってキリストもマホメットもまともに答えてないし、インド産の仏教にしても、日本にきたら、婦女子殺しまくりの大悪党でも、「毎日念仏あげてんだから、俺らも極楽浄土行きは保証付よ!」とか、「この世はいいことないから、来世に期待しましょう」ってなったりしますからね。

ニーチェは難問にチャレンジしすぎたんでしょう。自分の実力で解けない問題は、無理に答えを出さず、「ライフワーク」として「課題」のままにしておけばよかったんでしょうね。

>>しかし、現在を肯定的に捉える事はもちろん必要ですが、実は「否定する事」も必要なのでは?

そうですよね。現実はヒドイし、変えることも難しい。やはり否定されるべきだけど、「即解決」は不可能ってことですね。
アラブ・イスラムの無差別テロも、本来は、ユダヤ・イスラエルの手法を真似たものですが、シオニストのように相手を見て、上手にやらないから、彼らのように、成果が上がらないし、国も作れず、国の指導者にもなれない(まあ、パレスチナの相手は世界一のアメリカだからね・・・)

世の為、人の為と思って生きても、最後は暗殺されて終わり、ってこと多いもんです。そんなもんです。でも、いつも全てを見ている存在を信じて生きる、ってことでしょうね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ええ、もうただでさえ読みづらいのに混乱しますよね;

>ほんとに美味しい問題のところで、ニーチェちゃんは、つまずいてしまったんだと思います
私もそう思うんですよね;
でも、結局この答えは仰るとおり誰も出してないんです…。
だから、ひょっとすると「始めからないのでは?」とか思います。

>ニーチェは難問にチャレンジしすぎたんでしょう。自分の実力で解けない問題は、無理に答えを出さず、「ライフワーク」として「課題」のままにしておけばよかったんでしょうね。
ええ、私もそう思いました…;
ある意味、これが人間なのではないかと…。
彼自身はむしろ、「超人になろうとして発狂したのではないか?」と…。

>そうですよね。現実はヒドイし…etc
全くです…。
だから、この世には「宗教」が存在するわけですが…;

>いつも全てを見ている存在を信じて生きる
まぁ、そんなものが始めから存在するなら、今頃人類は救済されてるわけですが…。
全く、こっちが発狂してしまいますわい…;(笑?苦笑?)

ありがとう御座います。
楽しゅう会話で御座いました^^

お礼日時:2007/11/07 12:16

ANo.2です。


読書の趣味は持ち合わせていますが、私実は…哲学書が読めないほど馬鹿です(小声)
それで詳しく解す自信はありませんが主に人伝で大変親切な天災、いや天才の(お気の毒な?)師匠は複数に渡ります。すごい他力本願で哲学してきました。お陰様です。感謝です。
でもそれだから本にはない生きた情報ですし、ペイフォワードな恩返しになれたらと一縷の願いを込めて。

>「意思」を否定しているように思えて、実は「肯定」しているのだと…つまりはそういうことでしょうか?
>現在を肯定的に捉える事はもちろん必要ですが、実は「否定する事」も必要なのでは?

誰でも問題は都合よく解決したく、辛いながら悩みたくて悩んでない。悩むことを肯定しようとする意思は外界を拒んで自己否定を続けることから何の突破口にも成り得ないから。

が、実は悩みたくて悩んで居続ける。同じ色を塗り続ける=執着こそが人生の内実で少ない甲斐の会得となる。 別の色を重ねても絵はどんどん暗く描いてしまいがち。
執着のインクを乾かしてからなら、真白なカンバスで一から描いたりという手段も別の色も新鮮なものであれる。

表現の手段は選択可能ですが、目的のものは選択の余地がない、到達点(極論でより善く生きることはより善く死ぬこと)ことから、安心して寝ていた家(宇宙、自然)から働きに出た(誕生した)のだから死ぬ時も安心して家に帰りたいもの「永劫回帰」抽象的にいうと「おはよう」「行ってきます」~「ただいま」「おやすみ」が人生の繰り返し。

悩んで死から逃れられないどころか生きるに値しない死に執着する人生に走る?とまで言い切れませんが、真面目に生きて悩まなくてもどうせいつか死に呼ばれ価値観を抜かれ寝るから、悩んで死から逃げる意味がない。不完全や矛盾さえ悩まず嘆かないことが真面目に生き死ねるという態度である?

余計な解説により思索のカオス状態となったかもしれません;それさえ笑ってお許しを。これも家に帰るまでの暇つぶしでした。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

なるほど、ありがとう御座います。
仰るとおりです。

つまり、ニーチェは「あの世」を否定します。
「あるかどうかすら定かでない、幻なぞ拝んでも意味がない」
しかし、かといって現実に目を向けても地獄です。

さあ、どうしたらいい?

そこで、ニーチェは思うわけですよね。
「現実はこの世界(地獄)しかない、だったらこの現実をより良く生きようではないか!」
もはや、破れかぶれに近いような感じもしますが;、しかし、確かに仰るとおり、「今が良かろうが悪かろうが、最後には“死”という終焉」を迎えます。
「だったら、今を楽しく生きるしかないじゃないか?」
という、ある意味「開き直り」とも取れる、ニーチェなりの皮肉を込めた、精一杯の結論(反抗?希望?)だったんでしょうなぁ…。

ようするに、【現在を「肯定」しておきながら、実は「反抗」している】わけですよね?

miko-desi様の言いたかった「アイロニー(逆説的な肯定による否定)」とはこういう事でしょうか。
でも、結局は現実は地獄なわけで、しかも来世(幻想)も否定。
かといって、今に希望(意味)があるかどうかも定かではない。
まさに、永劫回帰…。
ぐるぐる回るだけで、最後にニーチェが発狂したのも分かる気がします…;

「おれは現在を肯定する。しかし、反抗する!(屈したわけではない!これこそが反抗なのだ!)」
何でしょうなぁ…。
哲学なのに一種の哀愁さえ感じますなぁ…涙)

お礼日時:2007/11/07 09:33

実存的に生きるを提唱したわけですよね。



多分↓の本にも載っていると思うんですが、
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4480089322.h …

本の内容のその箇所を全部書くと制限字数をオーバーするので、かいつまんで書くと、、、、


我々はどこに生まれてるか決められませんよね。
すごく限定された状態から出発するわけです。

その人生が呪わしく、到底たえがたく、悲哀に満ちたものであっても、その悲哀に満ちた心境こそが、私達の人生を豊かにする。

人間は自分自身を、そして自分の運命を、愛するようになってゆかなければならない

それをすることなしに、人生を生きることができないことを、やがて誰もが悟る。

ニーチェはこんな風に考えたようです。
どんな不調和な状態から出発した人も、最後には 難破しながらも、よく航海した と言って、運命の摂理をを讃えるようになる。


人生には挫折や不運、不幸や苦悩などがいろいろな形で立ちはだかっている。
人生は苦しみに満ちている。
けれども、ときに無意味さや無駄、不条理や苦悶の姿で私達を襲ってくる人生の辛い諸経験の中にあって、「これが人生だったのか。よしそれならばもう一度」と勇気を奮い起こして、たえず人生をやりなおし、後悔に満ちた未完成の人生行路を、私達は取り返して生きていかなければならない。
運命愛とは こうしたたえざる自己超克の精神にほかならない。

だそうです。


で、、、、
ニーチェはアンチキリスト者でしたよね。
ニーチェによれば、この世界の出来事のうちに、意味や目的、統一性や全体を求めても、結局、人間は幻滅させられる。
なぜなら、現実は、あまりにも混沌とした予測不可能な、多様で複雑な生成展開だから。

それへの対抗手段として、人は、この生成の世界の背後や彼岸に、不滅の心理の世界を想定してきた。
キリスト教とは、そうした不滅の世界を信じる、大衆向けのプラトン主義に他ならないとニーチェは断言した。
ところが、そうした真の世界は、この現実の無情苛酷な生成の世界に耐えられない弱者が作り上げた虚構にすぎず、そうしたものはほんとうには存在しないことが、いまや人々には見えてきた。
その結果が、ニヒリズム。
ニヒリズムとは、最高の諸価値が無価値になること、目標が欠け、なにゆえかという問いへの答えが欠けている状態。

しかし彼岸の真理が無くなったからといって、この生成展開する流転の世界そのものは無くなるわけじゃなく、ましてその世界の価値が減ぜられるわけでもない。
反対に、今や弱きニヒリズムを捨て、強さのニヒリズムに生き返り、この生々流転の世界をそのままに肯定して生きていかなければならないとニーチェは説いた。

ということで「囚われ」とは、人々は「何に囚われていたのか」がわかってきますよね。
何からの開放のことをニーチェが言っており、それは「意思」という方法で可能だとしたわけですよね。

過去を肯定するというより、他人によって与えられる麻薬によって、映画マトリックスの世界のように眠りこけて現実を否定し夢を見続ける世界から、意思を持って目覚め、本来の自分の世界を肯定して生きていくってことじゃないかと。

肯定するのは、麻薬づけになった状態で見せられた幻覚じゃなく、目覚めた状態で認識する真実の世界のことじゃないかと。


で、一方では意味も目的もない生成流転の世界を見ようとする冷たい眼と、それにもかかわらず他方で、そこに生き甲斐や価値や意義を樹立しようとする暑い心とが、矛盾した形で彼の中でせめぎあっていた。


自分が死んだのちにも、自分は同じ人間として、永遠に回帰してくると言い、いかに苦悩が人間を後期にするとはいっても、悦びは深い深い永遠を欲する」とニーチェ・ツァラトウストラは歌う。
時に流れを超えた永遠的なものへの欣求が、ニヒリズムの運命を予感したニーチェのうちにも、強く生きていた。
さもなければ、永遠回帰の運命のなかで、たえざる自超克に生きることを求める思想そのものが、無意味になってしまうから。


だそうです。

つまり グルグル回っているってことじゃないかと。
そのグルグルの一箇所だけを見ると矛盾と他者に映るんじゃないかと。
全体を見れば矛盾には当てはまらなくなるような。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

しかし、そのニーチェが最後に発狂して死んでしまうとはなんという皮肉か…。
昔、見た映画「Π(パイ)」を思い出しますなぁ。
(世界の構造を解明してしまったノーベル物理学賞受賞数学教授←主人公の師匠、が直後に突然自殺してしまうんですが、あれには「世界が無意味」という事を理解してしまった、という皮肉が込められてるんだとな何とか…)
超難解な映画ですので、ニーチェ好きには是非オススメです(ボソッ

話が逸れました…;
つまり、ようするにですね、「この世界は永遠に繰り返される地獄だ!しかし、俺は全てを受け入れる!耐え切ってみせる!さあ、こい!」という事でしょうか?(と、私はあれを解釈しました…;)

しかし、当のニーチェは発狂…(汗)
何というか…;、まさにこの世は諸行無常ですなぁ…(;;)

ただ、個人的に私は、「ブドウが取れないから、“初めから欲しがってなかった事”にしてしまった狐」を思い出すんです。
まぁ、「絶対に取れない」ならそうするしかありませんが…。
でも、何かこう、現実を受け入れる事で「運命に屈した(囚われた)」気がするのは気のせいでしょうか…;
しかし、まやかしは所詮まやかし…。

う~む…;
ありがとう御座います。

お礼日時:2007/11/06 22:21

北方謙三さんはニヒルでダンディーな作家ですが、プライベートでも使ったことがあるらしいフレーズで



「お嬢ちゃん、俺は子供に用はない、諦めな。
だが、大人になりたければ俺の胸でなりな…」

という臭~いセリフがあって(笑)これは一旦拒否しながらも全肯定、全受容(願望?)ですよね。この表現が「アイロニー」です。

アイロニーは逆像、反転現象を与えることでより強く肯定してしまえる、或いは否定を強める肯定に成りうる。否定から肯定へのダイナミックな表現の移り変わりを観賞できるものですね。

好例として映画の「男はつらいよ」の寅さんもアイロニーを観賞させていますね。

勉強不足で、実際はもっともっと深い意味があって、ニーチェとアイロニーは関連していないかもしれません。
一応「アイロニー」の記述があったサイトを紹介しておきます。

アイロニーとは
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%ED …

アイロニーのコミュニケーション論
http://www.d-tsuji.com/paper/p04/index.htm
    • good
    • 0
この回答へのお礼

むむ?;
え~と、つまりは…;

「意思」を否定しているように思えて、実は「肯定」しているのだと…つまりはそういうことでしょうか?
しかし、「運命に従う」とは、ブドウを諦め「最初からブドウなんて欲しくなかったんだ」と言った童話の狐と同じで、結局は「意思」も屈した事になるのではないでしょうか?

う~む…;
私も勉強不足だ…泣)

ありがとう御座います。

お礼日時:2007/11/06 21:53

 全く的外れな考察になるかも知れませんが、虚無、ニヒリズムについて一言言わせて頂く事、お許し下さい。



 現世は虚無ではありません。

 現世は苦しみに満ちています。しかし、苦しみを経験すれば、それだけ成長するのです。その成長そのものが、喜びであるのです。

 それは、「苦しみを経験すれば、何らかのいいことがある」的な迷信ではありません。成長する事は自明の摂理です。その必然的なことが、価値であるのです。だからそれは単なる信仰ではありません。事実です。

 何故成長する事が価値と言えるのか。それは、意識の根本的欲求だからです。意識は無意識の奥底から湧き上がってくる、向上心に突き動かされて、退屈の静寂を破って現世に生まれ、現世においても退屈の静寂を破り、何らかの向上を目指すのです。

 それは、単なる信仰ではありません。苦しみを得て、それを乗り越えれば、必ず何かの成長があります。そしてそれこそ、無意識の底から湧き上がって来る向上心であり、望みです。それは自分の心に問うてみれば、確実な事です。

 それを、苦しみにだけ着目するのは、現世のある側面しか見えていない、単なる盲目です。

 また、苦しみがとてつもなく大きい場合、それしか見る余裕がありません。これも、盲目です。

 ニヒリズム、虚無は、盲目であるに過ぎません。それを、いかに盲目である事を気付かせてあげるか、そこが重要なのです。

 ニヒリズム、虚無の、盲目を、いかにして気付かせてあげるか、それを考えるべきなのです。

 表現欲求に突き動かされ、言いたい事を言いました。お許し下さい。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

あららら…;
何もユーザーID削除まで行わずとも…(汗)

>苦しみを経験すれば、それだけ成長するのです
>その成長そのものが、喜びであるのです
仰りたい事はよく分かります。
ただ、人によってはこの限度が越えてしまう場合があると思うのです。

よく、「その人には越えられる壁しか来ない」という人がいますが、これに私は半々に考えています。
というのは、落盤事故のように「本人の力量を遥かにオーバーした厄災が降り注ぐ」ような事がある気がするからです。
これを「天に召された」「必要だったのだ」と答える人もいますが、果たしてそうなのでしょうか。
私には「理由(意味)」がない(偶然)ように思えてなりません。
もし「人間には理解できない摂理」であるとするならば、我々が現在を生きる意味とはなんでしょう?

と、まぁ何だかこのままでは狂言回しになってしまいますが;

たぶん、貴殿はとても真面目な方なのでしょう。
向上心、よく分かります…。私も仰るとおりだと思います。
ただ、なにかの原因で壊れて、これが抱けなくなってしまう人もいると思うのです。
そういった方には、もはや喜びも向上心も関心なく、恐らく彼らにあるのは「虚無」だと思うのです

貴方には恐らく、自らの信ずる道があるのでしょう。
恐らく、推測の域を出ませんが、何かご自分の力のなさ、または不甲斐なさのようなものを感じさせる出来事に出遭らてしまわれたのでしょう。
お気持ちをひしひしと感じました。
蛇足ながら、貴方に幸ある事を祈っております。

ありがとう御座いました。

お礼日時:2007/11/06 21:46

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!