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稚拙な文章失礼します。
22歳大学2年生・男です。

ここ最近、引越しを考えていて足立区の「綾瀬付近」を視野にいれているのですが、綾瀬というところは大昔(江戸時代あたり?)、どういうところだったのでしょうか?(綾瀬の近くに東京拘置所(葛飾区)があるので気になりました。)

分かる範囲でいいのでよろしかったら教えてください。お願いします。

A 回答 (5件)

江戸時代以前、綾瀬付近(綾瀬川を中心とした東西地域)は、大きな湿地帯でした。

江戸に徳川幕府が成立し、徳川の天下になると、相模あたりの出身とされる四家族が幕府の許可を得て、この地の治水・開墾を始めました。それが現在の地名で残る「四家(よつや)」=綾瀬川の東です。
このあたりの開墾の歴史については足立区の歴史でネットを検索してください。
私の父は物故しましたが、大正初めの生まれで、四家の流れをくむ人でした。子供の頃、綾瀬川の治水工事などを手伝ったという話を聞いていますし、四家の一つが父の母の実家でもあります。大正時代まで、今でこそ小さな流れですが、綾瀬川は暴れ川であったようです。荒川・江戸川などが整備されて落ち着きました。
綾瀬付近は、川の東側に筑波エキスプレス、西側には常磐線・千代田線などが走っており、比較的便利な場所です。綾瀬駅付近も大小の店舗があって、小さな町ですが、のんびりとしたところです。私も仕事でたまに行きますが、気取らない町で、意外と近い(都心より)場所です。おそらく家賃もそんなに高くないと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
お父様のお話とてもためになりました。綾瀬はのんびりしたいいとこですよね。

お礼日時:2007/11/24 15:36

 荒川放水路は大正あたりに、莫大な経費で、隅田川の水を流すために作られました。

これは治水の英断政策でしょう。
 それまでは隅田川の外側として日光街道最初の宿場、北千住や大商人の寮や文人達の向島とは区切られてはおりませんでした。勿論堀切などとも皆一つの地域で、江戸湾を起点にした、大湿地地帯を構成していました。
 練馬と並んで、お江戸の野菜の供給地。そしてあらゆる鳥が飛来し、大小の動物が生息する、将軍の狩場です。狩をしたり、狩場を持つことは朝廷・皇室、将軍だけに許されたものです。
 拘置所は将軍の狩する時の、宿所でした。数千以上の御家人、旗本を使っての、大軍事演習は毎年長期に行われ、農民百姓の制約、負担は並大抵ではなかったが、一つの誇りでもあった。いろんな事を協力していた。鷹の餌の犬の献上とか、白鳥が飛来し、取れるように。
 いろんな役所があった。
 白鳥は、中もんを除去し、塩をつめて、すぐに禁中に献上に走った。
 これは大事な責務であった。
 それが町の名、白鳥。お花茶屋は将軍が具合が悪くて、お花ちゃんのお茶を飲み、よくなった。それで町の名になった。
 お寺は将軍が休むところ。たくさんあった。今もある。
 という大雑把ですが、項目だけ挙げました。
 URLは荒川放水路もみなありますから、どうぞ。
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
とても勉強になります。

お礼日時:2007/11/24 15:33

江戸時代は武蔵国足立郡の一部です。


江戸初期に綾瀬川が整備されるまで通行も困難な土地でありましたが、その後盛んに開墾され、○○新田と名づけられた土地でした。
江戸時代に江戸というと現在の南千住までを指しているようですので、南千住には小塚原刑場などの施設ができたのでしょう。
綾瀬はその外にありますので、江戸時代は江戸に近いただの農村です。
人の嫌がるものはその時代の都市部の外郭に置くことになるようです。ただ、時代とともにどんどん都市部は広がり人の嫌がるものが都市部に取り込まれて、また、その外郭に移動するわけです。
今で言えばごみ焼却場なんかそれですね(^^ゞ
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
綾瀬は「江戸に近いただの農村」で安心しました。

お礼日時:2007/11/24 15:30

荒川放水路


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%B7%9D% …

を見てください。

また、国土地理院のホームページで全国の2万5千分の1地形図が閲覧できますので、これで綾瀬周辺を見てください。標高を明示する三角点の記載がほとんどなく、「2.5」とか「2」とかの数字が辛うじて読み取れるのが分かるでしょう。この辺りには、周囲を見下ろせる三角点に適する場所が明治時代からまったくなかったため、三角点が設置できなかったのです。

この地域は、要するに「東京湾に注ぐ諸河川の氾濫原」でした。明治時代になって西洋の土木技術が導入され、最初に紹介した「荒川放水路」を作るような大規模な治水工事を行った結果、水害が抑制されて人が定住できるようになったわけです。

もう綾瀬付近は行かれましたか?電車の窓から見える荒川という大きな川は、現在では人家や工場などが密集する中を流れる大きな川です。この川が「100年前に人工的に掘られたもの」だと想像できますか?こんな大きな川を「新規に作れる」ほど、明治時代当時は何もないところだったのです。タイムマシンがあったら、荒川放水路が出来る前の様子を観察してみたい地域ですね。

脅かすようですが、もし東京に大雨が降って荒川の堤防が決壊したとします。その場合、標高が1メートルとか2メートルの綾瀬周辺は「泥の海」になるはずです。これは、最近タワーマンションが林立している臨海部も全く同じです。もちろん、国土交通省などは膨大な費用をかけて治水に努力していますが。

国土交通省 荒川の防水
http://www.ara.go.jp/category/09_pd/index.html
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
回答を読んで驚きました。ほんとに何もなかったところだったんですね。

お礼日時:2007/11/24 15:27

こんにちは



綾瀬というか川向こうには確かに昔ありました。漫画”明日のジョー”の泪橋はご存知ありませんか?戦後朝鮮人の人達や日雇い労働者が南千住、三ノ輪、山谷などに住み今でも旧ドヤ街として存在します。

歴史的に見ればそういった地域に面してきたというだけで特に綾瀬自体はただの住宅地だと思います。

ちなみに城東はやはり歴史の長い町が多いので、もし歴史的背景が気になるようでしたら城西、都下、他県で不動産をお探しになったほうが区画整理も比較的行き届いていると思います。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%A1%9A% …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
綾瀬自体はただの住宅地なんですね。

お礼日時:2007/11/24 15:22

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