この時代の天皇名はほとんど、諡号、追号、でそれぞれゆわれのある名前ですが、聖武天皇と娘の孝謙天皇だけは、生前の尊称になっています、つまり死後の諡号ではなく、天皇として活躍していた当時、皆から
尊敬をこめて呼ばれていた、名前を死後宮中の諡号の会議できめた
と解釈していいのでしょうか?(遺詔による諡号という解釈でもよいのでしょうか?)聖武とよばれていたようですが、聖武はなにからの出典ですか?

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A 回答 (2件)

 天皇の名前、いわゆる諱についてはそれほど詳しいわけではありませんが、私の所蔵本に参考になる記述がありますので、丸写しで恐縮ですが以下に書かせていただきます。


 またあなたの知識と重複する箇所もあるかと思いますが、ご理解ください。まず聖武天皇の追号についてですが、

 没後の称号の種類と沿革
 天皇の崩御後の称号は、これを分けて生前の聖徳を称美するものを諡号、讃美の意を含まず。御在所名その他による称号を追号という。ただし両者を併せて広く追号という場合も多い。
 上古における崩御後称号の制はあきらかではないが、一代ごとに遷都する慣習を背景として、宮都の地名をもって称することが早くから行われた。仁徳天皇の難波高津宮天皇、欽明天皇の志貴島宮御宇天皇、用命天皇の池辺大宮治天下天皇、推古天皇の小治田大宮治天下大王天皇、天智天皇の近江大津宮御宇大倭根子天皇など、どの例は少なくなく、こと元明天皇が臨終に際し、崩後は其国其郡朝廷馭宇天皇と称すべしと遺詔しているのによると、この種の称号は準公定の追号という色彩が強い。
 しかし崩後称号をたてまつる制度が確立するのは、大宝・養老令においてである。すまわち公式令に天皇の諡は平出すべしとし、大宝3年(703年)持統天皇の大葬に当り、大倭根子天之広野日女尊の諡号を奉ったのを始め、文武・元明・元正・聖武・光仁・桓武・平城・淳名各天皇に相ついで和語をもってする和風諡号が贈られた。
 一方、この間に二字の漢語による漢風諡号も選進された。淡海三船(785年没)が勅を奉じて選進した神武以下孝謙ないし称徳までの諡号がそれである。そのうち聖武と孝謙・称徳は、これより先に奉られた勝宝感神聖武皇帝と宝字称徳孝謙皇帝の尊号によるものである。

 以上によると、首天璽国押開豊桜彦尊 勝宝感神聖武皇帝の追号である聖武天皇は遺詔によるものではないことが分かります。ついで聖武天皇の諱の聖武の出典ですが、

 御名・称号・雅号  命名と称謂の沿革
 天皇の御名すなわち諱は、仁明天皇以降はみな二字の佳字をもって命名されたが、淳和天皇以前の御名はいろいろな性格の称謂が諱とされた。ことに上古においては、神武天皇の神日本磐余彦を始め、美称とみなすべきものが多く、後世の諱とやや性格を異にする。ただしその称謂のなかに磐余彦のような地名による称謂を含んだものもあり、安康天皇の御な穴穂も地名によるものである。
 また生母の称謂をもって御名とした例には、舒明天皇の田村、弘文天皇の伊賀などがあるが、なかんずく御乳母の姓をもって御名とする慣習がしだいに定着した。崇峻天皇の泊瀬部を始め、天智天皇の葛城、天武天皇の大海人、元正天皇の新家、聖武天皇の首、孝謙天皇の阿部、平城天皇の小殿(のち安殿と改名)、嵯峨天皇の神野がその例で、ことに『文徳実録』には、嵯峨天皇の御名の由来を説明して、「先朝の制、皇子の生まるるごとに、乳母の姓をもってこれが名となす、故に神野をもって天皇の諱となす」と明記している。
 
 となっています。
 あなたの質問にぴったりの回答にはなりませんが、何かの参考になれば幸いです。なお、出典は 著者 児玉幸多 日本史小百科8「天皇」
初版 昭和53年11月25日 近藤出版社 です。
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この回答へのお礼

解説ありがとうございました、大変参考になりました、
整理すると、
1)古代の天皇にはとくに名前はなかった、
2)淡海三船によりまとめて、後世に諡号がつけられたので自分の
  名前が「天智」というような名前になることは、本人はまったく
  知る由も無かった、
3)聖武は例外で生前朝廷よりの「尊号」の中より2字を取って
  死後「追号」として「聖武」がおくられたので本人にもその
  認識は十分あった、
4)したがって、出典は「尊号」である、

お礼日時:2007/11/22 14:48

私も以前、ネット上でそのような内容の記事を読んだことがあります。


しかし、漢風も和風もどちらの諡号も、生前の事績に対して死後贈られたものです。

『続日本紀』神亀元年(724)2月、聖武天皇即位の記述に
天平宝字2年(758)、淳仁天皇が「勝宝感神聖武皇帝」と諡号したとあります。
また、没したとき(756)には、出家していたので「更に諡を奉らず」とあります。
出家して「沙弥勝満」と名乗っていたからだと思います。

『続日本紀』天平宝字2年8月の記述に
先帝(聖武天皇のこと)が大仏を造り奉ったとき、大仏の形はでき上がったが、塗金が足らなかった。なんとしても完成させたいという願いが天に通じ、「天、至心の信に感して、終に勝宝の金を出せり」とあります。
勝宝は、陸奥国で金が産出したことを指しています。
そして、「勝宝感神聖武皇帝」の尊号をたてまつったとあります。

「聖武」については、
岩波書店『新日本古典文学大系 続日本紀 二』で調べたところ、
「広嗣の乱などの平定を指す」と注記されています。

「天皇」ではなく「皇帝」と名乗ったのは、道教の教えと唐を意識したからだと思いますが、
難問ですね。

孝謙天皇については、『続日本紀』天平勝宝2年の記述に
宝字2年、「百官の上る尊き号を取りて称へまうす」とあります。
天皇ではなく「宝字称徳孝謙皇帝」ですが、
これ以上はまだ調べていません。
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この回答へのお礼

ありがとうございました、

お礼日時:2007/11/22 22:56

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Q聖武天皇の死因

756年に崩御された聖武天皇の死因について御教授下さい。

Aベストアンサー

 
あくまで想定です。聖武については、暗殺とか事故死とかの話がありません。彼は、意志薄弱な人物で、藤原氏の傀儡であったという説もありました。

しかし、近年、紫香楽の宮の遺跡の発掘が行われて、仮宮としての粗末な遺跡を考えていたところ、大規模な宮殿(朝堂)跡らしいものが見つかり、また、都市設計の基本の大通りに該当すると思える橋の遺跡なども見つかりました。

ここから、聖武は実は、意志の強い、英邁な君主で、気まぐれにふらふら遷都を繰り返したように見えるのも、曾祖父の偉大な帝王であった天武の壬申の乱における歩みを辿っているようにも見えるところから、「大業」をなすため、天武にならって、その道を再度辿り、天武の成功にあやかろうとした可能性が指摘されています。

「大業」とは、言うまでもなく「大仏建立」で、紫香楽の宮で、聖武は、大仏建立を計画し、放棄して、奈良で計画を実行に移します。

彼の大仏建立は、あるいは藤原氏勢力に対抗するためだったかも知れません。

しかし、死因はやはり病死だと思えます。元々聖武は丈夫でなく、転々と首都を変えた旅も身体にこたえたのでしょうし、もう一つ、根拠が明確にありませんが、聖武は、水銀中毒に軽くかかり、それで死期を早めたのではないかということが考えられます。

大仏は、開眼式は、聖武の死の前に行われますが、実質的に光背まで完成したのは、娘の孝謙(称徳)女帝の次の天皇(光仁)の時です。聖武は、大仏造りのための技術試験の現場や、大仏建立の現場にも、足を運んだ可能性があります。

大仏は最後の仕上げで、金を鍍金するのですが、この方法が、水銀に金を溶かし込んでアマルガムを造り、これを大仏の表面に塗布し、水銀が蒸発すると、後に、金の鍍金が残るというもので、この工事過程で、かなりの作業者・職人が水銀中毒になり、なかには命を落とした者もいたはずです。

称徳も病死ですが、道鏡との関係でか、何かその死について、不自然な伝承があります。称徳は五十代で崩御しており、少し若死にではないかという気もし、称徳もまた、水銀中毒だった可能性があると思えます。
 

 
あくまで想定です。聖武については、暗殺とか事故死とかの話がありません。彼は、意志薄弱な人物で、藤原氏の傀儡であったという説もありました。

しかし、近年、紫香楽の宮の遺跡の発掘が行われて、仮宮としての粗末な遺跡を考えていたところ、大規模な宮殿(朝堂)跡らしいものが見つかり、また、都市設計の基本の大通りに該当すると思える橋の遺跡なども見つかりました。

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Q天皇の諡号・追号

天皇には諡号・追号が付いています。その中で「後」が付いているのは「前」天皇と何らかの関係があるのですか。

Aベストアンサー

天皇の加後号には、全て「前」天皇が実在します。「前」天皇の名にそのまま後をつける場合と「前」天皇の別称に後をつける場合があり、なんでそうしたのかよくわからないようです。

以下は、「前」天皇の別称に後をつけた事例の一覧です。

後小松  小松(光孝)
後柏原  柏原(桓武)
後奈良  奈良(平城)
後水尾  水尾(清和)
後西(院) 西院(淳和)

「前」天皇との関係は個々バラバラで、理由がわからないものもあります。尊敬していた、境遇が似ていた、遺言、先代の続き‥などなど。

先代の続きというのは、先代が後○○なので次も○○天皇の近親者に後を付けたというものです。

後醍醐-後村上 醍醐-村上(親子 延喜・天暦の治)
後柏原-後奈良 桓武-平城(親子)
後陽成-後水尾 清和-陽成(なぜか親子が逆転)

この他にも、叔父・甥関係のトレースなど、微妙なケースもあります。


以下、蛇足です

中世・近世の権力者においては、故人は院号(戒名)つまり○○院で呼ばれてるのが一般的でした。天皇は○○院という追号が仏教の院号(戒名)にリンクしそのまま。徳川吉宗なら有徳院殿。但し例外もあって、家康は神様として別格なので神君とか(東照)大権現様とか。
天子摂関御影は鎌倉時代の天皇・摂関・大臣を鎌倉末~南北朝に描いた肖像画集ですが、天皇は○○院で統一、摂関は院号と他の号が混在、大臣は俗名(○○公)で統一となっています。院号が天皇以外の権力者へと普及し始めた過渡期という訳です。
徳川実紀でも家康・秀忠・家光‥ではなく、東照宮・台徳院殿・大猷院殿‥で、秀忠~家茂は院号で統一されています。慶喜の死は明治以後なので「慶喜公」。

で、明治になって、国家神道の影響か、故人を仏教の院号で呼称するのはなくなりますが、困ったことに中世・近世の天皇の追号は仏教の院号とリンクしているので、「○○院」という天皇の呼称は取り敢えず「○○院天皇」に変更され、やがて「院」を取って現在の「○○天皇」に統一されます。このとき後西院天皇も後西天皇とされますが、このことで「前」天皇=西院(淳和)天皇との関係がわかんなくなったということです。

天皇の加後号には、全て「前」天皇が実在します。「前」天皇の名にそのまま後をつける場合と「前」天皇の別称に後をつける場合があり、なんでそうしたのかよくわからないようです。

以下は、「前」天皇の別称に後をつけた事例の一覧です。

後小松  小松(光孝)
後柏原  柏原(桓武)
後奈良  奈良(平城)
後水尾  水尾(清和)
後西(院) 西院(淳和)

「前」天皇との関係は個々バラバラで、理由がわからないものもあります。尊敬していた、境遇が似ていた、遺言、先代の続き‥などなど。

先代の続き...続きを読む

Q聖武天皇ですか。

「和を以って貴しとなし、逆らわないことを尊ぶべし」この言葉は聖武天皇の言葉でしたか。
誰の言葉でしたか。教えてください。

Aベストアンサー

 世間では聖徳太子と呼んでいる人物(歴史上には聖徳太子なる呼称は史料的に使われず厩戸聡耳皇子が正式名称)が記したとされている「十七条憲法」に記されている言葉です。

Q歴代天皇の国風諡号と漢風諡号

 歴代天皇の漢風諡号は、平安時代に淡海御船によって撰ばれたそうですが、国風諡号は、いつ、どんな人によって撰ばれた(つけられた)のでしょうか。諡号ですから、生前ではないと思います。とすると、葬礼の時?誄の中で?
 また、お坊さんが戒名をつけてくれるのと同じように、諡号をつける特権を持っていた人がいたのでしょうか。

Aベストアンサー

0.部分的にしか答えられませんが。

1.仲哀以前の国風諡号は安閑以降の創作でしょう。
  何故なら、応神~継体の国風諡号は、実は本名と考えられるからです。

2.諡号奉呈の時期は、普通は最後の誄の時、と考えられます。
  というのも、誄には、皇位継承に伴う権力空白期における新帝の承認儀礼という意味が認められ、国風諡号の奉呈も、先帝を皇統譜に組み込む政権の承認儀礼として位置付けることができるからです。
  確実な例としては、『続紀』大宝3年12月17日条・慶雲4年11月12日条が、それぞれ持統天皇・文武天皇について伝えています。また、聖武天皇の場合、彼が出家していた関係から、最初は諡号を送らなかったのですが、後になって追上されています(『続紀』天平宝字2年8月9日条)。

3.諡号の奉呈者は、もし2が正しいのなら、最後に誄を行った人となります。
  先程の持統天皇・文武天皇の例では、いずれも当麻真人智徳という人が奉呈していますが、彼が如何いう人間で、また如何なる根拠でそれを行ったのかは不明です。聖武天皇の例では孝謙天皇自身が詔勅を発しています。

4.諡号の選定者は、何らかの有識者によるのでしょうが、具体的には分かりません。
  ただ、先述したように聖武天皇は始め諡号を贈られなかったのですが、その『続紀』天平感宝8歳5月19日条に「更に諡を奉らず。所司知るべし」とあり、諡号を司る役所があったようにも思えます。なお、岩波新大系のそこの注は「職員令16の治部省の卿の職掌の中に『諱』のことも含まれているので、『諡』に関する所司も治部省か。」とします。
  

0.部分的にしか答えられませんが。

1.仲哀以前の国風諡号は安閑以降の創作でしょう。
  何故なら、応神~継体の国風諡号は、実は本名と考えられるからです。

2.諡号奉呈の時期は、普通は最後の誄の時、と考えられます。
  というのも、誄には、皇位継承に伴う権力空白期における新帝の承認儀礼という意味が認められ、国風諡号の奉呈も、先帝を皇統譜に組み込む政権の承認儀礼として位置付けることができるからです。
  確実な例としては、『続紀』大宝3年12月17日条・慶雲4年11月1...続きを読む

Q奈良の鹿~聖武天皇など

聖武天皇や藤原仲麻呂達奈良のお歴々は奈良公園の鹿に鹿せんべいをあげていたのでしょうか?

Aベストアンサー

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%8E%E9%A4%85

 せんべい からのウィキですけど、可能性はあっただろけど、鹿用ではなく、人が食べるせんべいを分け与えていたかもしれませんね。

 鹿せんべいを購入直後に襲ってくる。複数人の場合、一人が囮となり引きつけて、その間に残りの人がせんべいを買い。そして、あげていかないと。オスとかは怖いよ。

 ちなみに鹿せんべい型のメモ用紙というかカードみたいなものが売っていました。正倉院展で博物館の地下の売場で発見。

 人間用のせんべいも売っていますよ。小さい形ですが。味はあるよ。

Q近代天皇に漢風諡号と国風諡号

今は漢風諡号と国風諡号が付けられることはなくなりましたが、
仮に近代の天皇(明治、大正、昭和天皇)に漢風諡号と国風諡号をおくるとしたら
あなたならどんな諡号を考えますか?

Aベストアンサー

大東天皇 東光天皇 後大東天皇

Q聖武天皇 「仏教の力で…」→成果?

聖武天皇を歴史で勉強するときに、
「病気が流行っていたり、社会不安があって‥」
「これを仏教の力でなんとかしようとしました」
・・・という風に習ったのですが、

結局、その効果はどうだったのでしょうか?

治まった…のですか?

Aベストアンサー

>結局、その効果はどうだったのでしょうか?

詳しい話は、分かりませんが、、、、

国分寺建立や東大寺盧舎那仏像の建立等をされましたが、ご自身が崩御されるまで内乱は続いたようです。

Q原始時代から平安時代までと 奈良時代から室町時代までの 間にそれぞれ何がありますか?

原始時代から平安時代までと
奈良時代から室町時代までの
間にそれぞれ何がありますか?

Aベストアンサー

原始時代から平安時代までには「(古墳時代と飛鳥時代と)奈良時代」
奈良時代から室町時代までには「平安時代(と鎌倉時代)」がありますけど、試験範囲でしょう?
多分「そう言う話じゃない」はずで、事象は多岐に及ぶので、教科書や年表・資料をもう一度読み返しましょう。
としか言い様がないです。

Q聖武天皇の称号について

この時代の天皇名はほとんど、諡号、追号、でそれぞれゆわれのある名前ですが、聖武天皇と娘の孝謙天皇だけは、生前の尊称になっています、つまり死後の諡号ではなく、天皇として活躍していた当時、皆から
尊敬をこめて呼ばれていた、名前を死後宮中の諡号の会議できめた
と解釈していいのでしょうか?(遺詔による諡号という解釈でもよいのでしょうか?)聖武とよばれていたようですが、聖武はなにからの出典ですか?

Aベストアンサー

 天皇の名前、いわゆる諱についてはそれほど詳しいわけではありませんが、私の所蔵本に参考になる記述がありますので、丸写しで恐縮ですが以下に書かせていただきます。
 またあなたの知識と重複する箇所もあるかと思いますが、ご理解ください。まず聖武天皇の追号についてですが、

 没後の称号の種類と沿革
 天皇の崩御後の称号は、これを分けて生前の聖徳を称美するものを諡号、讃美の意を含まず。御在所名その他による称号を追号という。ただし両者を併せて広く追号という場合も多い。
 上古における崩御後称号の制はあきらかではないが、一代ごとに遷都する慣習を背景として、宮都の地名をもって称することが早くから行われた。仁徳天皇の難波高津宮天皇、欽明天皇の志貴島宮御宇天皇、用命天皇の池辺大宮治天下天皇、推古天皇の小治田大宮治天下大王天皇、天智天皇の近江大津宮御宇大倭根子天皇など、どの例は少なくなく、こと元明天皇が臨終に際し、崩後は其国其郡朝廷馭宇天皇と称すべしと遺詔しているのによると、この種の称号は準公定の追号という色彩が強い。
 しかし崩後称号をたてまつる制度が確立するのは、大宝・養老令においてである。すまわち公式令に天皇の諡は平出すべしとし、大宝3年(703年)持統天皇の大葬に当り、大倭根子天之広野日女尊の諡号を奉ったのを始め、文武・元明・元正・聖武・光仁・桓武・平城・淳名各天皇に相ついで和語をもってする和風諡号が贈られた。
 一方、この間に二字の漢語による漢風諡号も選進された。淡海三船(785年没)が勅を奉じて選進した神武以下孝謙ないし称徳までの諡号がそれである。そのうち聖武と孝謙・称徳は、これより先に奉られた勝宝感神聖武皇帝と宝字称徳孝謙皇帝の尊号によるものである。

 以上によると、首天璽国押開豊桜彦尊 勝宝感神聖武皇帝の追号である聖武天皇は遺詔によるものではないことが分かります。ついで聖武天皇の諱の聖武の出典ですが、

 御名・称号・雅号  命名と称謂の沿革
 天皇の御名すなわち諱は、仁明天皇以降はみな二字の佳字をもって命名されたが、淳和天皇以前の御名はいろいろな性格の称謂が諱とされた。ことに上古においては、神武天皇の神日本磐余彦を始め、美称とみなすべきものが多く、後世の諱とやや性格を異にする。ただしその称謂のなかに磐余彦のような地名による称謂を含んだものもあり、安康天皇の御な穴穂も地名によるものである。
 また生母の称謂をもって御名とした例には、舒明天皇の田村、弘文天皇の伊賀などがあるが、なかんずく御乳母の姓をもって御名とする慣習がしだいに定着した。崇峻天皇の泊瀬部を始め、天智天皇の葛城、天武天皇の大海人、元正天皇の新家、聖武天皇の首、孝謙天皇の阿部、平城天皇の小殿(のち安殿と改名)、嵯峨天皇の神野がその例で、ことに『文徳実録』には、嵯峨天皇の御名の由来を説明して、「先朝の制、皇子の生まるるごとに、乳母の姓をもってこれが名となす、故に神野をもって天皇の諱となす」と明記している。
 
 となっています。
 あなたの質問にぴったりの回答にはなりませんが、何かの参考になれば幸いです。なお、出典は 著者 児玉幸多 日本史小百科8「天皇」
初版 昭和53年11月25日 近藤出版社 です。

 天皇の名前、いわゆる諱についてはそれほど詳しいわけではありませんが、私の所蔵本に参考になる記述がありますので、丸写しで恐縮ですが以下に書かせていただきます。
 またあなたの知識と重複する箇所もあるかと思いますが、ご理解ください。まず聖武天皇の追号についてですが、

 没後の称号の種類と沿革
 天皇の崩御後の称号は、これを分けて生前の聖徳を称美するものを諡号、讃美の意を含まず。御在所名その他による称号を追号という。ただし両者を併せて広く追号という場合も多い。
 上古におけ...続きを読む

Q仁明天皇の和風諡号の出典は?

Wikipediaによると、仁明天皇の和風諡号は「日本根子天璽豊聡慧尊」となっていますが、『続日本後紀』にはないようで、その出典がわかりません。どの文献・史料に出ているのでしょうか?

Aベストアンサー

ネット上の限られた範囲内での確認に過ぎませんが、
例えば下記欄外注記によりますと、
『一代要記』『皇年代略記』『紹運錄』等に
「日本根子天璽豐聰慧尊」とあるようです。

〇『六国史. 巻七/佐伯有義編/朝日新聞社/1940.7』
「續日本後紀卷第一 起天長十年二月盡五月」
<19/218>(1頁上部欄外)
○仁明、周書諡法照(=)臨四方(-)曰(L)明、譖訴不(L)行曰(L)明、
文選顏延之陽瓚誄に苟有(L)槪(=)於貞孝(-)者實事感(=)於仁明(-)とあり
一代要記皇年代略記紹運錄等に國風の御諡號を
日本根子天璽豐聰慧尊と申奉る
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920584/19

一方、下記では『一代要記』に
「日本根子天璽豐聰惠」などとも。

〇『古事類苑.帝王部1/神宮司庁古事類苑出版事務所編/神宮司庁/明29-大3』
「帝王部一 帝王通載」
<13/104>(17頁最終行)
仁明天皇/〔續日本後紀 一 仁明〕
天皇諱正良○一代要記ニ、日本根子天璽豐聰惠、諱正良、號(=)深草天皇(-)トアリ、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897630/13

そこで試しに『一代要記』『皇年代略記』『紹運錄』などに当たってみますと、
…以下は刊本・写本?などの一例に過ぎませんが…

・京都大学附属図書館所蔵 平松文庫
〇『一代要記』乙集=2巻(※流布本) [v.02,74/119]
第五十四
仁明天皇 唐文宗大和八年甲寅在位崩例
日本根子天璽豊聰惠諱正良號深艸天皇
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/h002/image/02/h002s0185.html

・国文学研究資料館>電子資料館>
所蔵和古書・マイクロ/デジタル目録データベース
書名一覧(他機関蔵)>一代要記>大和文華(写)
〇【一代要記】186コマ/全1133コマ
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0257-017305&IMG_SIZE=&IMG_NO=186

上記の『一代要記』では、「日本根子天璽豊聰惠」。

・『群書類従:新校.第二巻/内外書籍株式会社編/内外書籍/1931-1937』
〇「新校羣書類從 卷第三十二 皇年代畧記 仁明」
<119/390>(282頁上段)
續日本後紀一ノ廿
仁明天皇諱正良。號(=)日本根子天璽豐聰慧(-)。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879729/119

・国文学研究資料館>電子資料館>
所蔵和古書・マイクロ/デジタル目録データベース
書名一覧(他機関蔵)>本朝皇胤紹運録>鹿児島大学附属図書館(玉里文庫)
〇【本朝皇胤紹運録】40コマ/全87コマ
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0091-016203&IMG_SIZE=&IMG_NO=40

上記の『皇年代畧記』では「日本根子天璽豐聰慧」、
上記『本朝皇胤紹運録』も「日本根子天璽豊聡慧」。

以上のとおり「慧」「惠」両方の表記があるようですが、
漢和辞典などの「慧」項目の<参考>欄には、「「惠」に書き換えることがある。」
との記述もみられます。

以上 断片情報に過ぎませんが
少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

ネット上の限られた範囲内での確認に過ぎませんが、
例えば下記欄外注記によりますと、
『一代要記』『皇年代略記』『紹運錄』等に
「日本根子天璽豐聰慧尊」とあるようです。

〇『六国史. 巻七/佐伯有義編/朝日新聞社/1940.7』
「續日本後紀卷第一 起天長十年二月盡五月」
<19/218>(1頁上部欄外)
○仁明、周書諡法照(=)臨四方(-)曰(L)明、譖訴不(L)行曰(L)明、
文選顏延之陽瓚誄に苟有(L)槪(=)於貞孝(-)者實事感(=)於仁明(-)とあり
一代要記皇年代略記紹運錄等に國風の御諡號を
日本根子天璽豐聰...続きを読む


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