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学説や細かい歴史について詳しくないため、中学社会の延長での本当に基本的なご回答で構いません。宜しくお願い致します。

諸説あるかと思いますが、もともとは強い豪族や支配者によって古代に天皇が作られたかと思います。
その後、武家社会や戦国時代など1000年以上も力の強い者が弱い者を支配する世の中が続き、支配者も二転三転したにも関わらず、直接的に軍事力が高かったわけではない天皇(朝廷)が残り続け、影響力を保ち続けた(王政復古まで)のはどうしてなのでしょうか?

常に勝ち馬に乗り続けたのか、それとも権力争いをする者達にも天皇=神と信じていたため天皇を支配するという考えはなかったのでしょうか?

宜しくお願い致します。

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A 回答 (11件中1~10件)

天皇家は元々地方豪族(この頃に豪族という呼び名はありませんが)の一つでした。

やがて彼らは天照大神と言う神の直系として地域を束ね、やがて日本の統治に乗り出しました。
武士(平家や源氏)も元は貴族であり、天皇を守護する立場です。貴族や武士はやがて天皇の統治のために日本のほとんどを制圧しました。尚且つ勢力争いの中で天皇家の血筋に近づく為に、より近い縁戚関係を結ぼうと画策しました。
天皇家自体も血脈を絶やさない為に多くの子孫が生まれ、貴族や武士の天皇家との繋がり(家系)はこのようにして築かれてきたのです。
日本の統治は天皇家を頂点とした天皇家由来の支配者とその他の豪族(家臣)によって構成されています。そして平氏滅亡後は支配者は基本的に源氏の家系が治めるようになりました。
地方豪族もより天皇家に近い血筋を持ちたいと、当初は血縁によって、後には家系の売買さえ行なわれるようになりました。
秀吉が関白の地位を得るために家系を創った事は有名な逸話ですし、信長の祖先が平氏を名乗り、信長自身も藤氏であるため、源氏系である家康を厚遇したという説もあります。
更に武士の頂点である幕府を開く資格も、基本的には源氏の流れを持つものに限られました。幕府を開く許可を与えるのは天皇であり、幕府は本来天皇を守護する武士団の長ですから、第一に天皇家安泰を考えるのは当然です。
武士の世界といえど、武士は天皇擁護のための組織である事は日本国中の武士が自覚しており、天皇を排斥しようとする者は排斥されるし、戦っても他の武士の助力を得られない事になるのです。
歴史のなかでは度々天皇家に対抗したり、懐柔しようとする者が現れましたが、徳川家でさえ完全な全武士団の賛同と助力を取り付けることは出来ず、中途半端に終わっています。
最後に天皇を担ぎ出したのは薩長軍で、当初は天皇家の許しを得られなかったものの、勝手に天皇家の御旗を掲げて幕府軍を朝的として討伐しました。戦況の有利を得て、天皇も正式に薩長軍を認めたのです。とは言ってもこれは、朝廷の貴族が押したために天皇も認めざるを得なかったのでしょう。
これも、武士が天皇の臣下である事を武士社会全体が自覚していたから成し得たのです。
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源頼朝が幕府を開いて、政権が公家から、武家に移っていらい、朝廷が日本全体の政治を行うことはありません。

まあ、明治政府の始め、官僚内閣制が出来るまで、一応トップは天皇ということになっています。それを、「天皇が政治を行っていた」というのであれば、話は違いますが。

戦国時代においては、自国が他国に攻め入るためには、口実というものが必要です。「相手が悪い。だから、アイツを倒す」と言うことを、自分以外の機関に言ってもらって、正当性を身につけたいのです。そこで、朝廷というものは、万人が認める公的な機関ですから、朝廷に媚を売って利用しようとしています。というより、朝廷をないがしろにすると、他国の人間が、それを口実に包囲網を作るきっかけになり得ますから、朝廷にだけは皆、いい顔をしていたのです。

その他の武家社会でもそうでしょう。朝廷と対立すると、自分の支配体制が脆くなってしまう。実際に、幕末も、結果的に、朝廷が倒幕をしろっていう詔を出します。(その、数年前には幕府の反逆者を倒せ、という詔をだしていたようですが・・・)

常に勝ち馬に乗り続けた・・・
言い方を変えれば、勝ち馬になった人間が朝廷・天皇の存在を利用したのでしょう
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摂関政治以前は天皇が直接政治をしています。

おそらく中央にそれほど大きな氏族がいなかったためです。また白村江の戦いでは皇族が戦闘の指揮をとっています。摂関政治のあたりから武士がでてきます。このあたりから戦闘力はもっていません。反乱の討伐は地方武士にさせています。承久の乱では天皇に味方する武士の反乱ととって天皇は譲位や京よりの追放という形をとったのかなと思います。
足利尊氏は新たに天皇をたてなければ地方の武士の統制がままならなかったのではないかと思います。最終的に天皇という地位以外はあきらめたのではないかと思います。
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「貴種」として天皇 (とその血筋) を使ったために, 「天皇家をつぶすわけにはいかなかった」という事情もあるとか.


例えば, 源氏が東国武士の棟梁として支配していったのも, 理由の 1つとして「源氏は天皇につながる尊い血筋である」ということがあります. で, 鎌倉幕府でも源氏の将軍が 3代で潰えると藤原氏から出したり皇族から出ていたりしますが, これも「名目だけでも皇族や藤原氏といった『えらい身分の人』から将軍を出そう」という意識があったようです.
「承久の乱」のときは本当に「天皇家の危機」になりましたが, このときもアクロバティックな方法でつなげています. 「どこの馬の骨とも知れない」北条氏が, 天皇の威光を使うために残したって感じですね.
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 天皇が山城地方の一豪族であった時代はともかく、その後の歴史の流れの中で「君臨すれども統治せず」、政治に直接かかわらなかったのが長く続いた最大の理由でしょう。


 近世・近代に至っては「宗教的な存在」となり、一層政治からはなれた。明治維新の「王政復古」という言葉は少しおかしいと思います。
 新憲法でわざわざ「象徴」といわなくても、もともとそういう存在でだったのです。 戦後、戦争責任が問われず、生き残ることが出来たのも政治にはかかわってこなかった、と判断されたからです。
 また、日本の天皇は必然的に中国の皇帝やヨーロッパの王と違って私有財産の拡大を目指さず(許さず)「私」を滅殺してきたところも敵を作らなかった理由と思われます。
 私に知る昭和天皇や、今上天皇、皇太子 など、皇室の方々の「滅私ぶり」には哀れささえ感じるほどです。
 一部にとかく言う人はあっても、国民の大半は日本の歴史・文化・伝統への誇りの象徴として、理屈ぬきで特別な尊敬を払っていることは明白な事実です。 武力で守るのではなく、国民全般のこんな思いが、これからも皇室の存在を守っていくのでしょう。
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 元皇族家 竹田恒泰氏の「語られなかった皇族たちの真実・・・皇室が2000年続いた理由」という本のなかに、次のような記述があります。


 高松宮の話:「皇族というのは国民に護ってもらっているんだから、過剰な警備は必要ない。堀をめぐらして城壁を構えて、大々的に警護しなければならないような皇室なら、何百年も前に滅んでいるよ。」
 竹田氏の説明:天皇は政治に関与せず、主な役割は民の幸せを願うことにあった。天皇に「私」はなく、民全体の幸せのためにあり続けた。そのことは、世界中の王宮が贅沢の極みであることと、京都御所が質素の極みであることを比較すればよくわかる。

>もともとは強い豪族や支配者によって古代に天皇が作られた・・・その通りと思います。古代は天皇自身が有力な豪族を配下にして、強い軍事力を保持していました。

>常に勝ち馬に乗り続けたのか、それとも権力争いをする者達にも天皇=神と信じていたため天皇を支配するという考えはなかったのでしょうか?・・・どちらかといえば、「常に勝ち馬」の方だと思います。
 中国やヨーロッパでもそうですが、」日本人にはとくに血筋を重んじる傾向があります。
 普通の家でも、三代続けて傑物が出てその家が隆盛を誇るようになれば、四代目も下々から尊敬されます。四代目は経営などの俗事は家来にまかせ、自分は祭祀や慈善事業をやるようになり、豪腕で脂ぎった顔付きの初代などに比べ、四代目の顔付きも上品になってきて、悪口を言う人はいなくなります。
 天皇家もそんなものだと思います。権威(エラサ、尊さ)だけで、権力を持たなかったのが2000年も続いた最大の原因でしょう。
 将軍や執権などの権力者は、天皇の権威を利用して政を行いました。天皇の命令があったということにして、自分のしたいことをしたわけです。もし、将軍や執権などの権力者が、天皇を滅ぼして自分が天皇になったら、すぐにライバルに攻撃され、いずれ倒されてしまいます。
 明治時代に、ある皇族の妃が「こんなに政治に深入りしていいのかしら、こんなことをしていたら、皇室も長続きしないのではないのでは。」と、心配していたそうです。西洋の王室の例をよく知っておられたのでしょうね。 
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日本は、中央集権国家ではなくて、それの対局にある封建国家だったからでしょう。

ときの軍事最強者が実権を握ったとしても、残りの豪族が纏まってしまったら敵いませんでした。#1さんもおっしゃって居りますように、軍事的に日本を中央集権国家にすることが出来るのは唯一信長だったのですが、光秀に暗殺されてしまいました。

このように、皆が団栗の背比べの場合には、自分が天皇に代わって王になるりも、実権を持たない天皇をお飾りして、そこから王の王としての権威をお借りするという形で、バランスの上に立った封建国家という巧妙な制度にしておいた方が、残りの豪族も納得し易くなります。

天皇家を戴いた日本独特の封建制度は、人間の平等、私有財産の認識など、近代国家に無くてはならない基本的な概念を、外国に教わること無く日本人に認識させてくれた点で、非西欧国で日本だけが何故近代化に成功したかを説明してくれています。

西欧では、もともとその正当化の根拠がはっきりしない「平等」の概念を正当化をするために「神の下の平等」という、まるで無意味な理屈を導入しましたが、日本では天皇を神格化することによって、西欧人とちょうど同じような理屈で「天皇の下の平等」という感覚が脳みその奥まで染み付いております。ですから、将軍と言えども天皇から見れば一介の私人であると考えられておりました。天皇からのお墨付きがなくなると、他の豪族達と対等になってしまい、その結果、無駄な血を流すこと無く大政奉還が出来るようになっております。

また、封建制度のお陰で、原則的には各豪族に土地の所有権、すなわち、私有財産権が認められておりました。将軍家と言えども、他の豪族集団の顔色を伺わないと、そう簡単にはお家断絶は出来なかったはずです。

因に、人類史で憲法の中で最初に「私有財産権」を認めることを成文化したのは日本の鎌倉時代の貞永式目だそうです。その当時は勿論私有財産権とはいわず、「本領安堵」と言っておりました。西欧諸国がこれを成文化するのは日本より数百年も後のことです。もし日本が、その当時の他の非西欧国のように中央集権国家だったら、そうはいかなかったはずであり、私有財産権の重要さに気付くのに時間がかかったり、外国から教わらなくてはならなかったはずです。その結果,日本の近代化も随分遅れたはずです。

こうして見ると、日本人にとっては、天皇様々であり、また、天皇家にとっては、光秀様々ですね。日本人は、乃木神社ばかりでなく、光秀神社もお祭りして、光秀神を風下の置くようなことはしないほうが良いと持って居ります。さもないと光秀の祟りでて天皇家御断絶になり、日本人の平等意識も無くなりかねないと思います。その反対に、光秀様をお祭りすれば、天神様と同じように過去には恐ろしい祟りをした神様でも、ご機嫌を直して家内安全や大学受験などに役に立つ神様になって頂けと思いますが、どうでしょうか。

寡聞にて知らないのですが、もしかしたら土地の人達は「明智神社」として既にお祭りしているかも知れませんね。もしそうでしたら、土地の人ありがとう。国民に代ってお礼を申し上げます。

伊勢神宮に行き損なった東行法師が、天皇家および光秀の有り難味が分からなくなった愚民どもを哀しみて詠める、

なにものの おわしますかは 知らねども
            なさけのなさに 涙こぼるる
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それは天皇家が「実より名を取った」からだと思います。

天皇家は、時の実力者に「権力のお墨付き」を与えることによって自らの存在意義を見出したのです。これならば、自らが権力を手に入れられない反面、実力がないゆえに時の実力者にとって危険な存在とはなりえません。
一方、実力者にとってもそれは都合がいいことです。天皇家からお墨付きを与えられることによって「公式権力者」として認められることとなります。ヘタに天皇家を潰すとその代替権威を作り上げるのが大変です。それより「使えるものを使いまわしたほうがおトク」です。

これは現代日本でもしばしば見られます。多くの歴史ある企業では創業者の一族が名誉的な役職についています。会社内で本当に権力を持っている人たちは創業者一族を追い出すより名誉職に置いて利用したほうがことが荒立ちません。また創業者一族にとってもヘタに権力を取り戻すより「飼い殺し」に甘んじていれば路頭に迷う心配はありません。
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日本の天皇を特殊なものとしてでなく、世界史的な視野で「王」として考えると、理解しやすい。


王には二つの側面があります。
統治的な王
司祭的な王
統治的な王は、今で言えば、アメリカ合衆国大統領のように、その時ベストな人物がなるというようになりやすい。日本でも、藤原氏が摂関として支配者になったり、幕府とか実際の統治をする家系に変更されやすい。
ところが、司祭的な王というのは、言い換えると「僕らは、同じ国(祖先を同じくする集合体)だよね!」と信じるための存在です。なので、「違う国、違う集合体だ!」という考えにならないと、変更いにくい存在になります。
西洋史で言えば、フランク王国は、メロヴィング朝からカロヴィング朝に変わるわけですが、カロヴィング朝が継承するまでに、100年かかっています。その間ずっと、南部からはイスラム勢力の圧力という軍事的緊張が続きました。アッバーズ朝も、実権が無くなっても非イスラムであるモンゴル帝国がやってくるまでは存続し続けました。

つまり、諸外国の王は、外部からの強い軍事的緊張などで「もう、今までの 国 として考えない方がいいじゃないの?でないと、滅んじゃうよ」と合意が成立しない限り、なかなか打ち倒すことは難しい。
内陸部で外部との交渉が少なかったエチオピアの王朝が長続きしたり、同様にイギリスの王朝が、ノルマンコンクエスト以降、形式上は簒奪されていないことからも推測されます。

日本は、本格的な外部勢力の進入もなければ、長期の外部勢力との軍事的緊張関係もなかったので、結果的に天皇は生き残ったということではないでしょうか。
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実質、律令国家は上手く機能していたのです。


氏と言う恩を与えたのです。

氏を貰えば家柄を貰うも同じ。努力次第では天皇の次に
偉い職務まで就けます。
つまり、社員は社長にはなれないが、副社長までは努力次第なのです。

いくら徳川家康とて、天皇を殺し、全ての大名を敵に回して勝てる戦力を持ってはいません。

逆に言えば、全員が逆らえば負けるのです。
この状態は、戦国時代から続いているのではないでしょうか?
これらに、臣下の礼をさせるには征夷大将軍と言う
官位がどうしても必要です。

源頼朝の追討の院宣を義経に与えましたが、頼朝は大軍を率いて京に上ります。義経は戦わず西国に逃亡します。
天皇は、頼朝の追討の院宣を取り下げ、義経討伐の院宣を頼朝に与えます。

脅す事はあっても、実質殺すつもりは無かったのでしょう。
源氏姓の恩もあります。
実質は、天皇方の勢力でもあります。
それ以降、執権と言う、架空の、官位頼りの政治が始まります。

ここから、慣わしが定着したと考えます。
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Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q武士政権が天皇家を潰さなかったのはなぜ?

源頼朝から明治維新まで武家の長である将軍家が政権をにぎっていましたが
しかしその間、天皇はその将軍家の君主として滅びずにあり続けました。
これは何故なのでしょうか?
かつての王家が名目だけ残る、というのは、実質上のトップである将軍家にとってやりづらくはなかったのでしょうか?
天皇家を存続させるメリットや、潰すと起こるデメリットなどがあったのでしょうが
考えをめぐらせてもピンと来る答えに行き着きません。
もし「これだ!」というものがあれば教えて下さい。

Aベストアンサー

まず歴史をひも解いてみますと, 平安時代に「摂関政治」が始まって以来, 天皇が権力を持っていた時代はほんのわずかしかありません. 白河上皇の院政期と後醍醐天皇の「建武の新制」, 明治天皇の一時期 (憲法ができるまで) くらい?
ということで, 鎌倉幕府成立時点で既に天皇は「権力を認める背景としての権威を保持する機関」となっています. そして, 武家政権を確立した平氏・源氏ともに「武家の棟梁」として認められたのは「貴種 = 天皇につながる血を持つ者」であるところが大です.
つまり, そもそも権力を持たない天皇をつぶすメリットはありません (天皇家をつぶしたとしてもそれに代わる権威が得られるわけではない). むしろつぶしてしまうと, 自らの権力を認める権威が失われてしまうこと, そして自らの棟梁としての正当性を失うことにより, 2重の意味で自らの権力基盤を失うことになってしまいます. であれば, わざわざ手をかけてつぶすよりも手の上でコントロールしていた方が簡単です.

Q徳川家はなぜ天皇家をつぶさなかったのか

徳川家はなぜ天皇家をつぶし、最高の権威を手に入れなかった

のでしょうか?

自分は徳川家が早い段階で天皇家を滅びさせていれば

明治維新は起きなかったのではないかと思っています。

徳川家は惜しいことをしたと思うのですが、やはり天皇家は

日本人にとって切っても切れない存在だったのでしょうか?

Aベストアンサー

ヨーロッパの王権神授説は有名ですが、中国でも漢民族の王朝の交代
に際しては、武力による旧王朝の打倒であれ家臣や姻族による簒奪で
あれ、タテマエだけでも禅譲という形式を取ったります。徳を失った
皇帝が徳のあるものに権力を譲るという「形式」ですね。イスラムは
宗教と王権が合体?していますね。前の方々も述べられているように、
要は、武力や経済力による実効支配だけではダメなんですね。

日本の場合、天皇からの権力の委任という形を取っているのが特徴で
すね。ですから、天皇家をつぶす為には、天皇に代わる権威(支配の
正統性)が必要なのです。徳川に限らず、結局のところ、力では圧倒
しても、天皇に代わる権威を見出せず、実行できなかったのだと思い
ます。

平家は都落ちに際し安徳天皇を拉致?しますが、京都には天皇家の家
長である後白河院が健在であったため、焼け石に水。
承久の乱では、北条義時が天皇家の家長である後鳥羽院の島流しを敢
行しますが、北条得宗専制ですらまだ始まってはおらず、あまりにも
時期尚早。天皇を頂点とする公家勢力・寺社勢力の息の根を止める以
前に、まだそれ以下の鎌倉「将軍」の権威で武士の統合が必要な時代。
元弘の乱の後醍醐天皇の配流と、建武新政崩壊後の南朝への攻略は、
持明院・北朝の存在を前提としたもので、天皇家抹殺の意図なし。
足利義満による皇位簒奪計画という学説もありますが、事実だとして
も未遂。
織田信長が将軍や関白などの官職を受ける意志がなかったとすれば、
どのように権威(支配の正統性)を樹立するつもりだったか、興味深い
ところ。信長自身の神格化?がそれという説も。
豊臣秀吉は天皇を中国に移し、自分はインド方面まで手を伸ばすつも
りだったとか。天皇を一国王としての地位に留め、その地位を保証す
る世界皇帝になることで、天皇を超えようとしたという説も。
で、本題の徳川家ですが‥
徳川家康の場合は、京都や大坂を掌中に置くのに時間がかかり過ぎ、
短期決戦できなかったのがネックでしょう。家光の代までに幕府も安
定し、禁中並公家諸法度などで従来の権門(公家・寺社)を幕府の法制
下に置き、武家官位と公家官位を分離するなど、色々と手は打ってい
るようですが‥
でも綱吉になると、生母桂昌院に従一位を貰って喜んでみたり‥
そうこうしているうちに将軍の継承問題、そして改革と挫折の連鎖の
時代となり、天皇家に構っている余力はない‥ 要は支配の正統性の
問題は、権力を握ったらすぐに手を打たないと、手遅れになるという
ことですね。

あと、蛇足ではありますが、源・平・藤原・豊臣などの「氏」が、
日本の場合天皇から与えられるという性格を持つという点も、天皇制
存続に関して何らかの意味を持つのかもしれません。平清盛・源頼朝
・平(北条)義時・源(足利)義満が姓を自分で決めて自称せず、織田信
長・徳川家康が源・平姓を名乗り、羽柴秀吉が豊臣姓を貰って喜んで
いるうちは、天皇の風下に甘んじるという一面を持ちます。もっとも、
姓を自分で決めて自称するとか、姓を捨てて天皇家と同じ無姓となる
という発想自体が、思考力の枠を超えるものでしょうけど。でも、信
長あたりは長生きしていたらやっていたかもしれないし‥

ヨーロッパの王権神授説は有名ですが、中国でも漢民族の王朝の交代
に際しては、武力による旧王朝の打倒であれ家臣や姻族による簒奪で
あれ、タテマエだけでも禅譲という形式を取ったります。徳を失った
皇帝が徳のあるものに権力を譲るという「形式」ですね。イスラムは
宗教と王権が合体?していますね。前の方々も述べられているように、
要は、武力や経済力による実効支配だけではダメなんですね。

日本の場合、天皇からの権力の委任という形を取っているのが特徴で
すね。ですから、天皇家をつぶす...続きを読む

Q最初の天皇はなぜ誕生したのか?

初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?
神武天皇は、国王(日本で一番偉い人)みたいなものだったのですか?

Aベストアンサー

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

いずれにせよ『魏志』倭人伝などの記述から、卑弥呼が活躍する前後(3世紀)にあっては「倭国大乱」と評価できる内戦状態が、その規模は別として事実あったのでしょうね。もちろんその戦闘状態は天皇の出現と無関係であるとも思えないんです。その様な中、詳しい経緯はわかりませんが、倭国大乱と呼ばれる混沌とした戦乱の世にあって、統一的国家としてのヤマト政権を樹立するだけの武力ないし交渉力が、4世紀段階における天皇(大王)の祖先にあったことは疑う余地はないのかな?と思いますし、考古史料などが語る結果から帰納法的に糸を手繰りつつ明らかにしようと試みている、3世紀から4世紀にどのような経緯で歴史がつながるのか?といった問題は、識者はもとより僕に限らず古代史に興味を持つ者が一番知りたい部分なのです。

ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたの...続きを読む

Q鎌倉・室町、戦国、江戸時代の天皇 権威はあったの?

鎌倉・室町、江戸時代の天皇は権力がなく、室町時代や戦国時代は食べるものに困るほど貧窮した暮らしをしていたと思うですが、その時代には天皇の権威はあったのでしょうか?
あったとすれば、それは祭司王としての権威でしょうか?過去に作られた神話をもとにした権威でしょうか?古代の神(同時に鬼としても)信仰があったのでしょうか?ピースメーカーとして機能していたの?
権威があったのならあの時代、貧窮しなかっただろうし、江戸時代も皇位継承を幕府に握られるようなことはなかったと思うのですが。。。
そこらへんを詳しく解説していただけると助かります。

Aベストアンサー

<参考>
 日本史において、『中世~近世の天皇が、いかなる存在であったか』は、相当重要なテーマでありながら、過去の歴史家に見過ごされてきました。

 最近になって、この点を独自に掘り下げて、続けて論文・著書を発行し、この問題についての歴史的第一人者とみなされているのが、今谷明氏です。
 以下の著書を参考にお読みになればどうでしょうか。

『天皇家はなぜ続いたか 対談集』(新人物往来社 1991.12)
『日本国王と土民』集英社版日本の歴史、1992年)
『戦国大名と天皇 室町幕府の解体と王権の逆襲』(福武書店、1992年/講談社学術文庫、2001年)
『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』講談社現代新書、1992年/学術文庫、2002年)
『武家と天皇―王権をめぐる相剋』岩波新書、1993年)
『天皇と天下人』(新人物往来社、1993年)
『象徴天皇の発見』文春新書、1999年)
『象徴天皇の源流 権威と権力を分離した日本的王制』(新人物往来社、2011年)

 今谷氏は、女性宮家創設の是非について、日本政府から公式に意見を聞かれたりもしています。

<参考>
 日本史において、『中世~近世の天皇が、いかなる存在であったか』は、相当重要なテーマでありながら、過去の歴史家に見過ごされてきました。

 最近になって、この点を独自に掘り下げて、続けて論文・著書を発行し、この問題についての歴史的第一人者とみなされているのが、今谷明氏です。
 以下の著書を参考にお読みになればどうでしょうか。

『天皇家はなぜ続いたか 対談集』(新人物往来社 1991.12)
『日本国王と土民』集英社版日本の歴史、1992年)
『戦国大名と天皇 室町幕府の解体と王権...続きを読む

Q朝廷は明治以降どうなっているのでしょうか?

朝廷は明治以降どうなっているのでしょうか?

明治になって王政復古という事で、朝廷に仕えている公家を職員?などの立場にして宮内省に変わったという扱いですか? それとも朝廷は存在していないのでしょうか?

また、現在も宮内庁で働いている侍従や職員の中には、代々朝廷に仕えている一族というのもいるのでしょうか?

Aベストアンサー

んーと、朝廷=明治以降の宮内省 ということでは
ないと思います。

日本には江戸時代
江戸の幕府 と京都の朝廷
という二つの政府があり、今で言う地方官庁は
ほぼ江戸幕府に属していました 
(朝廷の地方官制度は江戸時代には形式だけ)
ということになるかと。

明治時代になって
江戸幕府と付属の従来の地方官庁
は、解体され、京都の朝廷の組織を
改組することから新政府は始まった ということになると思います。

明治以降の「宮内省」(主に天皇とその一族のお世話をする)の役割を持ってたのは
それ以前は
「中務省」「宮内省」「蔵人所」「後宮」の一部(内侍司など)など
が相当するかと思います。

現在も宮内庁には古くから天皇家にお仕えしている、という方々が
いらっしゃると思います。
具体的にお名前が出てこないですが、かつての上流貴族のなかにも
いらっしゃると思いますし

*宮内庁式部職楽部
現在は民間からの楽士の採用がありますが
かつては
東儀家・園家・上家の出身のみが楽士として
宮中等におつかえしていたようです。
有名な「東儀秀樹」さんもこのお家ですね・・

*掌典職
天皇家の三種の神器を守り、天皇家の神々に仕える
神職。
掌典(一般にいう神主)や内掌典(一般に言うところの巫女)と
いった方々は宮中の古式を守っていらっしゃる方々のようですし
社家(いわゆる神社のお家)のご出身が多いようですので
先祖代々朝廷に・・という方も多くいらっしゃると思います。

調べたらほかにもいらっしゃるかもしれません

んーと、朝廷=明治以降の宮内省 ということでは
ないと思います。

日本には江戸時代
江戸の幕府 と京都の朝廷
という二つの政府があり、今で言う地方官庁は
ほぼ江戸幕府に属していました 
(朝廷の地方官制度は江戸時代には形式だけ)
ということになるかと。

明治時代になって
江戸幕府と付属の従来の地方官庁
は、解体され、京都の朝廷の組織を
改組することから新政府は始まった ということになると思います。

明治以降の「宮内省」(主に天皇とその一族のお世話をする)の役割を持っ...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q天皇家はなぜ滅亡しなかったか?

中国や、ヨーロッパなどの歴史を見るとひとつの
国が滅んでまた新たな国が起こるというのは、常識ですよね。でもなんで日本だけが、二つの権力が両立していたんですか?武家は、天皇制を何で完全に排除しようとしなかったんでしょうか?専制君主せいだったらなおさら天皇が疎ましくなると思うんですが。不思議です。

Aベストアンサー

うーん、中国の歴史をいくら読んでも日本の歴史はわかりませんよ(^^;。

ただ、誤解があるようなのでもういちど。

> 源頼朝も足利尊氏も織田信長も太閤秀吉も徳川家康も、
> すべてを掌握したあと(すべての権力を手中に収めたあと)
> 天皇を排斥して自分が史上最高、名実ともに支配者への野望はなかったのでしょうか?
> (織田信長なんか生きていたら天皇を排斥してそうですけど(^^;)

日本の事実上の最高権力者である条件は、天皇を意のままに操ることです。
日本人が神聖なものとしてあがめていた天皇家を操ることができて、
はじめて最高権力者として君臨できたのです。

となれば、誰も天皇家に取って代わろうとは思いませんよね。
せっかくの権力の象徴を、自分でつぶしてしまっては、元も子もありません。

織田信長なんぞ、戦国の混乱ですっかり衰微していた天皇家を、
自らの権力の象徴として見出して、再び栄えるように手を打ったくらいです。
もともとは足利将軍家を権威として担ぐつもりだったのですが、
やはりそこは武家の棟梁、信長ごときに操られるのを潔しとしなかったため、
より無害で、かつ足利将軍家に官位を与えることができるほど
高い存在である天皇家を利用することを思いついたのですね。

徳川家康にいたっては、天皇家の地位と名誉のみは残しましたが、
公家も含めて事実上京都に幽閉状態とし、財力も極端にそぎ落とし、
一切世俗権力には近づけませんでした。
ここまで無害にしたものをつぶそうがつぶすまいが、
徳川家の天下になんら差しさわりがあるものではありませんね。

織田家や徳川家など、信長や家康の何代か前はほとんど素性も明らかで
ないほどの家(豊臣秀吉にいたっては自分の氏素性すら不明確)ですから、
自分が天皇に取って代わっても、権威の裏づけに乏しいことはみんな
自覚していました。それに、日本全土を自ら制圧したわけではなく、
既存勢力を傘下に入れての国内統一ですから、それらを心服させられる
手段が多いに越したことはありません。

ただ、信長は最終的には封建制を廃し、中央集権制にすることを考えて
いた節がありますが、本人は無神論者でもキリスト教を認めていた男です、
天皇家が政治に口出しをしない限りは、やはり象徴としてのこしたのでは
ないでしょうかね。

うーん、中国の歴史をいくら読んでも日本の歴史はわかりませんよ(^^;。

ただ、誤解があるようなのでもういちど。

> 源頼朝も足利尊氏も織田信長も太閤秀吉も徳川家康も、
> すべてを掌握したあと(すべての権力を手中に収めたあと)
> 天皇を排斥して自分が史上最高、名実ともに支配者への野望はなかったのでしょうか?
> (織田信長なんか生きていたら天皇を排斥してそうですけど(^^;)

日本の事実上の最高権力者である条件は、天皇を意のままに操ることです。
日本人が神聖なものとしてあが...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? ...続きを読む

Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む


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