出産前後の痔にはご注意!

明治神宮ができたのは明治天皇が死んでからだと思うのですが、
いま明治神宮のある場所は明治神宮ができる前は何があったのでしょうか?
どうなっていたのでしょうか?
もともと緑地だったんですかね?
今の代々木公園を含めた辺りが元々緑地でその一部を明治神宮に
したのか、
それとも、
もともとは普通の街並みだったのでしょうか?
もともと家や道があった場所を緑地にしてその一部を
明治神宮にしたのでしょうか?

どなたか詳しい方よろしくお願します。

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A 回答 (5件)

こんにちは。


江戸時代に彦根藩井伊家(無論直弼などが出たあの井伊家です)の下屋敷であったことは既に他の方が仰っている通りです。
その敷地面積は十八万二千三百四十二坪という広大なものでした。
付近には摂津岸和田藩下屋敷と伊予西条藩下屋敷がありましたが、前者は岸記念体育館の辺り、後者はNHK放送センターの辺りですから、明治神宮と代々木公園の相当な部分が彦根藩下屋敷であったと考えて良いのではないでしょうか。

>wikipedia に乗っている井伊家屋敷跡の石碑は、
東京都千代田区にあると書いてありますが、
厳密にどこにあるのでしょうね。???代々木公園広いし!
こちらは彦根藩の上屋敷跡ですね。
ちょうど憲政記念館(千代田区永田町)のある辺りで代々木公園内ではありません。

かの地が彦根藩下屋敷で無くなったすぐ後のことはわかりませんが、明治神宮を創建するに当たっては明治天皇に所縁の深い「南豊島世伝御料地」を主体とするかの地が選ばれたそうですので、恐らく明治の間はずっと御料地であったのでしょう。
また代々木公園のほうは「代々木御苑」と呼ばれて明治天皇夫妻も良く訪れたそうですから、御料地に含まれる一角であったと考えて良いのではないでしょうか。
つまり彦根藩下屋敷でなくなった後もあそこが「普通の街並み」になったことはないということですね。
いくら明治天皇を祀るお宮を建てると言ってもその為に既にある街並みをどうにかするのは大変です。
ですからそのような手間のかからない「御料地」から選ばれたということではないかと思います。
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 明治神宮の中に、有料入場の一角がありますね。


 その中に、清正の井戸というのがありますね。
 清正は朝鮮遠征の折、水に苦労した経験から、絶対に枯れることのない井戸を掘ったのだそうです。
 清正の屋敷あとだとかいてなかったですか?

 明治神宮は下村湖人が私淑していた先輩、内務省の田澤義鋪が、全国から基金を集め、青年たちも協力で、日本青年館とともになした。ということを聞いた事があります。日本青年館などにも資料は残っているはずです。特に田澤さん関係として。
 私の知り合いも青山通りからの玉砂利を、競争で駆け上り、手伝いにいったと、思い出を語っていました。
 協調会などの資料にも多分有ると存じます。
 蔵書している私大図書館は知っていますが、検索すれば出てくるはずです。
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下屋敷や上屋敷はたぶんいろいろな藩がまとまって立てると思うので


それを政府が接収しています明治維新の貧困政府が・・・
版籍奉還のときに土地と人民を政府にかえしています
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この回答へのお礼

回答ありがとうございますー!
そうですねー できれば明治天皇が死んだ時に
どうなっていたかが知りたいですねー

しかし井伊家ほどの屋敷をそう簡単に壊さないんじゃ
ないかという気もしますし。
ここは調査の必要がありますねー

井伊家の下屋敷がいつ壊されたのかという
問題もありますが、
ともかく屋敷自体も壊さずにどこかに移転させて残してほしかったですねー

wikipedia に乗っている井伊家屋敷跡の石碑は、
東京都千代田区にあると書いてありますが、
厳密にどこにあるのでしょうね。???代々木公園広いし!
行って見てきたいと思います~~!

お礼日時:2007/11/29 10:41

このパックをインストールすると江戸時代(1680)の東京の地図が


googleearthで見ることが出来ます。
この200後はどうなっていたんでしょうね?
私はWin2000なのでインストール出来ません(泣)
yahooでも3月までは明治時代の地図が見れました。

参考URL:http://googleearth.raifu.info/l_tokyo.html
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この回答へのお礼

これはすごいですね!
さっそくやって見ました~~!
なんと明治神宮の場所はちょうど古地図の切れ目になっています!
残念~~~ー!
江戸の感覚からすると明治神宮がある場所はもう結構だいぶ郊外
の感覚だったのかもしれませんね。

でもこれ超面白いですね!
いいもの教えていただきましたー
ありがとー

お礼日時:2007/11/28 18:55

ウィキペディアで調べたら書いてあります



井伊藩の下屋敷だそうです

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB% …
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この回答へのお礼

ありがとうございますー
近江彦根藩井伊家の下屋敷のあったところ
て書いてありますね。
井伊家って井伊直弼とかの井伊家なんですかね。
たぶんそうですよね。珍しい名前だし。
すごいですね。

しかし代々木公園とかも含めた全部だとちょっとでかすぎの
ような気もしますが、そのあたり興味深いですね。
全部だと皇居に匹敵する面積ですよね。
このあたりもっと調査したいと思います!

ありがとうございましたー
歴史は面白いですね。

お礼日時:2007/11/28 18:59

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Q江戸時代、渋谷ってどういうところだったんですか?

江戸時代には現在の千代田区、中央区、江東区、台東区にあたる場所がよく出て来ます。
渋谷は今では非常に賑わっている街ですが、時代劇では聞いたことがありません。どういう街だったんでしょうか? また赤坂や六本木はいかがでしょう?

Aベストアンサー

江戸時代の渋谷は、諸侯や寺領のほかは幕府の直轄地として統治されていました。
渋谷の丘はほとんどが武家屋敷で、低地の水田地帯には農家が点在し、宮益坂と元広尾には商家がありました。
渋谷の地域は、江戸市街の繁昌にともない、江戸の郊外地として代官や村役人の支配をうけ、人々は名主の絶大な権力と五人組の連帯責任の中で生活していました。

渋谷の語源についてはいくつかの説がありますが、定説はありません。
•昔、この付近は入江であり、「塩谷の里」と呼ばれていました。
その「塩谷(しおや)」が「渋谷(しぶや)」に変わったとする説。
•平安時代の終わりごろ、このあたりの領主は河崎重家でした。
河崎重家は京都の御所に侵入した賊を捕えました。
この賊の名を渋谷権介盛国といいま した。
そこで、堀川の院は、河崎重家に「渋谷」の姓を与えました。
このことから、重家の領地であった谷盛庄が「渋谷」に変わったとする説。
•この地を流れる川の水が、鉄分を多く含み、赤さび色の「シブ色」だったため「シブヤ川」と呼ばれていたとする説。
•渋谷川の流域の低地が、しぼんだ谷あいだったからとする説。

以上、全て渋谷区のHPから。


赤坂には大昔海が奥深く入り込み、坂の下は海でした。長い間に海が徐々に引いて陸地となり、低地は耕作地となり高台とつなぐ坂道ができて、現在の街の原形ができました。「赤坂」の地名の由来は、その昔、現在の赤坂離宮(旧・紀伊徳川屋敷跡)のある高台で、茜が多く取れたことから茜山と呼ばれ、その坂を茜坂(赤根坂)と言っていました。その「あかねさか」の音が詰まって「あかさか」になり、付近一帯を赤坂と呼ぶようになったと言われています。
赤坂の本格的な始まりは徳川家康の入府に始まります。江戸城の造営に際し、江戸城の西に位置する赤坂台地に紀伊徳川家(現在の赤坂離宮・迎賓館周辺)をはじめ大身の旗本や大名を配置して江戸城西の守りを固めました。低地を流れる川は江戸城外堀として整備し、溜池は一時、江戸の水瓶として利用されていました。その名残が現在も「溜池」の地名として残っています。江戸城入り口に赤坂見附門が置かれ、門を出たすぐの坂下には幕下藩士、城内で働く職人方や庶民が住み、坂の上の高台は大名や旗本の屋敷町となって、その形が現在にも受け継がれています。

以上、赤阪五通り商店街のHPから。




「 六本木 」 という地名の由来には諸説あるようです。


[ 説 : その一 ]
その昔、六方庵という大屋敷があり、その庭に六本の松の木があったためにこう呼ばれたという説。

しかしながら、現在は、この大屋敷も六本の松の木も存在していません。

地名の由来は六本の木があったからだと伝えられるが、位置は不明と、文政11年 ( 1828年 ) に地元の名主が幕府へ差し出した文書に書かれていたそうです。


[ 説 : その二 ]
「 六本木 」 という土地は、江戸城にそう遠くない場所で、武家屋敷が多くあったそうです。

その中に、 「 上杉 」 、 「 朽木 」 、 「 青木 」 、 「 片桐 」 、 「 高木 」 、 「 一柳 」 という大名家があり、どの家も 『 木 』 に関係している苗字を持っていたので、そこから転じて、 「 六つの木の付く名前の家がある 」 から、 「 六本木 」 となったという説です。




ヒント
上杉家は、出羽米沢藩上杉家中屋敷 ( 飯倉片町 )
朽木家は、丹波福知山藩朽木家上屋敷 ( 赤坂今井谷 )
片桐家は、大和小泉藩片桐家下屋敷 ( 麻布鳥居坂 )
高木家は、河内丹南藩高木家中屋敷 ( 麻布笄橋 )
一柳家は、2家あるが、播州小野藩 ・ 伊予小松藩ともに佐久間小路 ( 西新橋 ) に上屋敷があってこれが最も近い。

つまり6大名家の江戸屋敷が揃って六本木地区にあったことはないらしい。


[ 説 : その三 ]
市三坂を登った高台には、昔、五本の榎が高くそびえ、品川沖からもよく見えたので漁師の道しるべとなっていたそうです。

この辺りは、武蔵野の雑木林で大木が生い茂げる土地でした。

その土地に、源氏に追われた平家の6人の落武者が逃れて来て力尽き、五本の榎の幼木を墓標がわりに植えて切腹し相果てたが、1人は肯んぜず、さらに落ち延び、一本松に至ってついに力尽き腹を屠して果てた。

そこで村人が供養してやり、五本榎と一本の松を入れ合わせ六本木といったという説。


[ 説 : その四 ]
江戸六方の男伊達がこのあたりに住んでいたので、六方気という言葉が訛り、いつのまにか六本木になった。

六本木という名の起源 ・ 由来については不確かな言い伝えが複数あります。


◯本木という地名
地名は、自然の形態、地形や土地柄、土壌、植物や産業、農鉱業から転じた名前が命名される場合があります。
六本木のように◯本木という地名は、全国各地に点在しているようです。
一本木 ( 北海道、埼玉県、富山県、長野県 )
二本木 ( 新潟県 )
三本木 ( 青森県 )
五本木 ( 東京都 )
七本木 ( 三重県 )
特に二本木、三本木が日本各地に多いようです。

遠方から見て、台地上の六本の松が目立ち、ごく自然に 「 六本木 」 という地名になった可能性があります。


麻布区史には
「 今の六本木辺に昔六本の松があったことに因ると云ひ、又一説に六本の榎があった為めと傳へる 」 と記されているようです。


“ どこに六本の木があるやら ”
江戸の初期の随筆集に、六本木というが、 “ どこに六本の木があるやら ” と書かれている文献もあったそうです。
“ 木は元々と生えていないのです ”
四つ木にも四本の木は生えていません。
それどころか、古くは日本橋の伝馬町あたりが六本木と呼ばれていたそうです。
馬をつなぐ木が横にならべてあったので、四つ木とか六本木とか呼んだらしいのです。


江戸時代に入ってから 「 六本木 」 が形成
六本木が一つの町として形成され たのは、江戸時代に入ってからのこと。

徳川 秀忠 二代将軍夫人の葬儀に功績のあった僧侶たちが、夫人の火葬場であった六本木の地を寺地として受領して起立したもの。

人気のない寂しいこの地に4つの寺を建て、門前町を開いたことに始まります。


真相は一体どの様なものなのでしょう。



以上、Yahoo知恵袋「 六本木 」 地名 由来の真相は?に対するnsawc_nfwsさんの回答。

江戸時代の渋谷は、諸侯や寺領のほかは幕府の直轄地として統治されていました。
渋谷の丘はほとんどが武家屋敷で、低地の水田地帯には農家が点在し、宮益坂と元広尾には商家がありました。
渋谷の地域は、江戸市街の繁昌にともない、江戸の郊外地として代官や村役人の支配をうけ、人々は名主の絶大な権力と五人組の連帯責任の中で生活していました。

渋谷の語源についてはいくつかの説がありますが、定説はありません。
•昔、この付近は入江であり、「塩谷の里」と呼ばれていました。
その「塩谷(しおや)」が「...続きを読む

Q上屋敷、中屋敷、下屋敷

それぞれどんな位置づけなのでしょうか。

よろしくお願い申し上げます。

Aベストアンサー

江戸時代参勤交代で江戸にやってきた各藩が逗留する為、それぞれ江戸屋敷の敷地を幕府から与えられ、造営したのが江戸屋敷上屋敷です。
敷地は譜代、外様の区別、石高に応じて場所、広さなどが区別されました。
上屋敷はいわば本宅にあたるもので、公式な行事や登城の場合の主発点として使用されます。

徳川御三家、譜代外様の大藩などは重要度や家臣も多いので上屋敷だけで収容するのが難しいなど理由が認められた場合、別宅の造営を認められました。
それが中屋敷、下屋敷のはじまりです。

下屋敷は別荘の役目にあたり、藩主の休息所や側室の住居、など内々の用途にあてられる事が多くいわば隠れた屋敷に相当します。 このため藩主の好みで庭園など上屋敷以上に凝った工事もあったようです。
詰める家臣も下級のものが当てられますが、上級の家臣は都度上屋敷から出勤する形が多かったようです。

中屋敷はそれを持てるのは限られていて江戸に常駐するなど幕府要職につくものに許されていました。
それぞれ用務が多いなど必要があったからです。
事務所のようなものと考えれられます。
側室の住居などが置かれる事もあったようです。

江戸時代参勤交代で江戸にやってきた各藩が逗留する為、それぞれ江戸屋敷の敷地を幕府から与えられ、造営したのが江戸屋敷上屋敷です。
敷地は譜代、外様の区別、石高に応じて場所、広さなどが区別されました。
上屋敷はいわば本宅にあたるもので、公式な行事や登城の場合の主発点として使用されます。

徳川御三家、譜代外様の大藩などは重要度や家臣も多いので上屋敷だけで収容するのが難しいなど理由が認められた場合、別宅の造営を認められました。
それが中屋敷、下屋敷のはじまりです。

下屋敷は別...続きを読む

Q最初の天皇はなぜ誕生したのか?

初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?
神武天皇は、国王(日本で一番偉い人)みたいなものだったのですか?

Aベストアンサー

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

いずれにせよ『魏志』倭人伝などの記述から、卑弥呼が活躍する前後(3世紀)にあっては「倭国大乱」と評価できる内戦状態が、その規模は別として事実あったのでしょうね。もちろんその戦闘状態は天皇の出現と無関係であるとも思えないんです。その様な中、詳しい経緯はわかりませんが、倭国大乱と呼ばれる混沌とした戦乱の世にあって、統一的国家としてのヤマト政権を樹立するだけの武力ないし交渉力が、4世紀段階における天皇(大王)の祖先にあったことは疑う余地はないのかな?と思いますし、考古史料などが語る結果から帰納法的に糸を手繰りつつ明らかにしようと試みている、3世紀から4世紀にどのような経緯で歴史がつながるのか?といった問題は、識者はもとより僕に限らず古代史に興味を持つ者が一番知りたい部分なのです。

ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたの...続きを読む

Qお腹にたまっているガスを出す方法を教えてください。

私はよくお腹にガスがたまってお腹が痛くなります。
なかなかガスが出口へ行ってくれません。すごく集中してガスが下に行く様子を頭の中に描いてもう少しでおならが出るぞ~という状態になったのに集中力がふっととぎれただけで、ガスがお腹に逆戻りします。しかも、ひどい時は夜中胃の辺りまで痛んで寝られない時もあります。ガスさえ出れば…。と思います。
おならを出すいい方法は無いですか?教えてください。

Aベストアンサー

ヨガのねじりのポーズが効果的です。
座って左右に捻ります、座り方により捻れる位置が少しずつ変わります。
息を吐きながらやってみてください。
おなかのマッサージはヨガや練功でやります、皆さんの意見に似たりよったりですね。
私の経験では風呂も効果があります、少しあったまった頃正座してみると
ぶくぶくと出てきます。
薬は整腸薬、他にビフィフス菌入りのヨーグルトやタブレットがいいです。

Q尾張藩の屋敷跡はどこ?

江戸の尾張藩の屋敷はどこにあったのですか?
水戸は後楽園のちかく。紀伊は赤プリのところ。
では尾張は?教えて下さい!

Aベストアンサー

 追加です。

 先の市ヶ谷は上屋敷、上智大学は中屋敷、現戸山公園(新宿区)は下屋敷です。
 ちなみに江戸の初期には今の花園神社(新宿)の辺りが下屋敷だったようです。

Q近郊ってどこまでの範囲?

近郊といえば
都市の近くと思うのですが、
それはどれくらいの範囲を指しているのでしょうか?

例えば東京近郊在住、といった場合、千葉や埼玉は含まれるのでしょうか?近くというには微妙な距離なので釈然としません。市川くらいならいいとは思うのですが。
また時間的にはどれくらいの距離で近郊になるのでしょうか?
1時間から1時間半くらいで東京に行ける場合、近郊と使っても宜しいのでしょうか?

Aベストアンサー

No.3です。再び失礼します。もう少しよく考えてみました。
国語辞典によると、
「近郊」・・・都市や町に近い場所。町はずれ。郊外。
「郊外」・・・都市の周辺にあって、森林・田畑などが比較的多い住宅地区。
ということなので、「東京近郊」とは、「東京の周辺にあって、森林・田畑などが比較的多い住宅地区」と定義できると思います。

第1の問題は「東京」の定義ですが、離島を除く東京都全部(都内+都下)なのか、23区だけ(都内)なのか、で迷いますよね。ですので、東京都下(市部)については保留にしましょう。

第2の問題は「周辺」です。これについては、No.3ではJRなど「鉄道」を中心に定義しましたが、もう一つ「道路」で定義することもできます。

一番分かりやすいのが、「3環状」です。
http://www.ktr.mlit.go.jp/3kanjo/index.htm

そこで、居住地が

中央環状線内・・・都心に住む
外環道内・・・都会に住む
圏央道内・・・東京近郊に住む
(いずれも計画区間も含む)

と定義してみてはいかがでしょうか。

もっとも、圏央道を基準とした場合、厚木や成田も含みますので、その居住者が東京方面(少なくとも外環道内)に通勤・通学しているというのが前提となると思います。
生活圏が東京でない人にとっては「東京近郊」という言葉は無意味になります。

No.3です。再び失礼します。もう少しよく考えてみました。
国語辞典によると、
「近郊」・・・都市や町に近い場所。町はずれ。郊外。
「郊外」・・・都市の周辺にあって、森林・田畑などが比較的多い住宅地区。
ということなので、「東京近郊」とは、「東京の周辺にあって、森林・田畑などが比較的多い住宅地区」と定義できると思います。

第1の問題は「東京」の定義ですが、離島を除く東京都全部(都内+都下)なのか、23区だけ(都内)なのか、で迷いますよね。ですので、東京都下(市部)については保留...続きを読む

Q客観的?主観的?

良く客観的だとか、主観的だ。なんて使われますが客観的と主観的の意味をだれかわかりやすくおしえていただけないでしょうか??
電子辞書などでひいてもいまいち理解できません。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

はじめまして。

主観的=自分だけでそう思う態度(主観≠事実)
客観的=だれが見ても、もっともだと思われるような立場で、ものごとを考えるさま(客観≠事実)

「わたしはAが正しいと思う」(主観的意見)
「でもみんなはBが正しいと言っている」(客観的意見)
どちらも真実ではありません。ただ、お互いの立場でAまたはBが「正しい」という2つの意見に別れるのです。要は「立場」なのです。

「そこに幽霊が見える」(主観的事実)
「そこに幽霊なんて誰にも見えない」(客観的事実)
どちらも真実ではありません。ただ、どちらにとっても「事実」と思っているのです。立場によって「事実」は異なります。

「自分はエビちゃんに似ていると思う」(主観的事実)
「でも人からはよくシノラーに似ていると言われる」(客観的事実)
どちらも真実ではありません。BFはエビちゃんに似ていると思っているかも。

つまり、客観は「だれの目にみても」と多数派の意見・事実なので、客観的意見・事実は論理を唱える上では有利で優勢なのです。一方主観は自由に使うこのできる便利なしろものです。主観的意見・事実とは、要は自分勝手な思い込みですが、それは真実でないとは決して言い切れないのです。

以上ご参考までに。

はじめまして。

主観的=自分だけでそう思う態度(主観≠事実)
客観的=だれが見ても、もっともだと思われるような立場で、ものごとを考えるさま(客観≠事実)

「わたしはAが正しいと思う」(主観的意見)
「でもみんなはBが正しいと言っている」(客観的意見)
どちらも真実ではありません。ただ、お互いの立場でAまたはBが「正しい」という2つの意見に別れるのです。要は「立場」なのです。

「そこに幽霊が見える」(主観的事実)
「そこに幽霊なんて誰にも見えない」(客観的事実)
どちらも真...続きを読む

Q江戸時代の税金について

江戸時代では庶民からどのような方法、名目で税を徴収していたのでしょうか?

農民から収穫した米を年貢として納めさせるシーンは時代劇などで馴染みがありますが、江戸に住む普通の町民や商人からはどのように徴収していたのか、あまりイメージが湧きません。

江戸時代でも所得税や住民税などが存在していたのでしょうか?

ご回答よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

江戸時代の町(チョウ)の税金について最初に上げられるのが地子です。これは、町屋敷地にかかる税で、農村の年貢に相当しますが、城下町を形成するときに商工業者を集めるためや、為政者の加恩として地子を免除することが多く(城下町の多くや・京・大坂など)、江戸も地子免除(地子免許)でした。
さて、それ以外には小物成りに類する税。御用金。人夫役に類する税。現在の住民税に近い町入用などがあります。
小物成りは高外地に課税される税の総称で、農業以外の産業にかかる税でした。農村・都市を問わずに、土地収益に関する山手・川手、産物に関する漆年貢・茶畑運上、商工業者に関する問屋運上など、名称・種類が多くあり、町にも関係する小物成りもありました。その中には分一と呼ばれ売上や収穫の何分の一かの形で税率が決まっていたものが多くあります。市場の売り上げの1/20もしくは1/30を納めた市売分一のように多くの売上や収穫に薄く、広くかけました。売家の場合にも分一がかかりました。
小物成りに含まれるものとして、冥加・運上がありました。後代になると両者は一定の税率(対象により税率が違う)になるなど同じようになります。
冥加は、村の年貢にあたる地子を免除された御恩(冥加)に対して、そのお礼の意味でも冥加の言葉は使われ、最初は自主的な献金の形式をとりますが、その後定率納税の形になります。町では商工業者の営業免許税の性格が強く、個人上納だけでなく、株仲間上納がありました。金納なので冥加金と呼ぶこともあります。
運上は農業以外の商工業や林業・漁業などの従事者に、一定の税率をかけた一種の営業税で、金納なので運上金とも呼ばれました。
御用金は、幕府・諸藩などが財政不足を補うために窮民救済などの名目を立てて臨時に御用商人などに臨時の賦課です。本来は借用の形式ですが、返済されなかったり、利子分は献金に切り替えさせるなど、臨時の課税の性格が強かったものです。
次に労役(夫役)がありました。近代以前の納税には米などの物納と、労働力提供の形式があり、労役も納税の一種でした(小物成の一種としても考えられていた)。江戸では町人足役と呼ばれ、町人に課された夫役で、上下水道の整備、城郭や堀の清掃、防火などの都市機能を維持発展させるためや、幕府のために働く人足を出すものがありました。代銀納されることも多くありました。夫役の中心的なものは公役(クエキ)で、上記の目的で町人に付加されたものです。代銀納の場合賦課の基準が定められていました。土地20坪を一小間とし、日本橋などの中心部では5小間、芝などでは7小間で銀30匁とされ、借家人の分も含め地主が支払いをしました(店賃の中に含まれると考えられた)。
また、夫役の中には国役と呼ばれ、職人が江戸城の建築などに年の数日無償で従事する夫役がありました。これは戦国時代に大名が必要物資を確保するために職人を集めて大名に奉仕させたことに直接には由来します。江戸幕府も職人を集め、一定の町(職人町と呼ばれる)に住まわせ、地子を免除するかわりに普請や武具の納入などをさせる夫役です。後に代銀化し、棟梁などの頭役がまとめて納入するようになります。
最後に、現代の地方税、住民税にあたるとされる町入用があります。町は商工業者でもある地主・家持の本町人で構成された自治的な組織で、町役人である町名主などの役職や、寄合所・事務所である町会所、町の独自の掟である町法を持つのが普通でした。この町の町名主などの町役人、木戸番・火消等の人件費。町内の道路普請費用。その他町を運営するための運営費、事務費などの使われる費用でした。これは町名主に納めました。
以上ですが、江戸(他の都市も同じ)では、地借・借家・店借は、地主の町人に地代や店賃を支払うだけで他の負担はなかったが、長の運営には参加できませんでした。

地子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90
地子免許
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90%E5%85%8D%E8%A8%B1
小物成
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A9%E6%88%90
分一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E4%B8%80
冥加
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A5%E5%8A%A0
運上
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E4%B8%8A
御用金
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%94%A8%E9%87%91
夫役
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E5%BD%B9


以上、長くなりました。参考まで。

江戸時代の町(チョウ)の税金について最初に上げられるのが地子です。これは、町屋敷地にかかる税で、農村の年貢に相当しますが、城下町を形成するときに商工業者を集めるためや、為政者の加恩として地子を免除することが多く(城下町の多くや・京・大坂など)、江戸も地子免除(地子免許)でした。
さて、それ以外には小物成りに類する税。御用金。人夫役に類する税。現在の住民税に近い町入用などがあります。
小物成りは高外地に課税される税の総称で、農業以外の産業にかかる税でした。農村・都市を問わずに...続きを読む

Qイラストレーターの色が勝手に変わる時の対処法を教えてください。

閲覧ありがとうございます。
仕事でイラストレーターCSを使用しているのですが
たびたび色が変わる現象が起こり困っています。
鮮やかな色がくすむという感じです。

現象が起こる流れとしては
①イラストレーターでWeb用にRGBで画像を作る
 (印刷をしたりすることはありません)
②Web用にjpegで保存し、イラストレーターのデータも保存する
③次にまたイラストレーターのデータを開くと色がくすんでいる
 (たぶんCMYKにかわってしまっている)

文字の色が変わる程度であれば再度変えれば良いだけなのですが
画像に使用した素材画像や写真なども色がくすんでしまうので
急ぎで画像を作ったりしなければならない場合に
わざわざ使った元の写真を探したりとタイムロスがあって
非常に困っております。

イラストレーターのバージョンが低いせいで
たびたびこのようなことがおこるのしょうか…
(会社専用にカスタムされたイラストレーターなので
なかなかバージョンを上げることができないらしくて)

なぜこのような現象が起こるのか、そしてどうしたら直るのか
またはどうしたら色合いをすぐ元に戻せるのか、
知恵を貸していただけませんでしょうか。
原因がわからずとももとに戻せる方法さえわかればと
藁にも縋る思いです。
宜しくお願い致します。

閲覧ありがとうございます。
仕事でイラストレーターCSを使用しているのですが
たびたび色が変わる現象が起こり困っています。
鮮やかな色がくすむという感じです。

現象が起こる流れとしては
①イラストレーターでWeb用にRGBで画像を作る
 (印刷をしたりすることはありません)
②Web用にjpegで保存し、イラストレーターのデータも保存する
③次にまたイラストレーターのデータを開くと色がくすんでいる
 (たぶんCMYKにかわってしまっている)

文字の色が変わる程度であれば再度変えれば良いだけ...続きを読む

Aベストアンサー

それはやのぉ〜、iccプロファイルが悪さしとるんですわ〜!
まっ!早い話「開く時に自動でCMYKプロファイルを当てる」設定になってるんですわ〜!
開く時に確認するか、当たらん様にすればえぇだけ。
http://home.a02.itscom.net/color/CM_illustrator/CM_illustrator.html
こんなパレットがあるさかい、設定を変えればえぇ!


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