大西洋憲章でうたわれた「領土不拡大の原則」と「民族自決の原則」が、サンフランシスコ講和条約において、どのように実現しなかったのか、またその原因はなぜかということと、実現しなかった地域の住民(先住民族を含む)が、それによってどのように影響を受けたかについて、全体で600~1200字にまとめて下さい。自分にしかかけないような、独創性のあるレポートを高く評価します。
 以上がレポートのないようなのですが、歴史や政治が苦手であり、調べたのですがわかりませんでした・・・。簡単にキーワードとかでいいのでわかる人がいましたら教えてください。どうも、お忙しい中ありがとうございました。

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A 回答 (1件)

大西洋憲章でうたわれた「領土不拡大の原則」と「民族自決の原則」が、サンフランシスコ講和条約においてなぜ 実現しなかったのかは キーワードは 米ソ冷戦 パレスチナ問題でしょう。


実現しなかった地域の住民(先住民族を含む)が、それによってどのように影響を受けたかは キーワードは東欧の民族紛争に焦点を当てればいいのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

ありがとうございました。これからレポートやる方針がたちました。
十分参考にさせていただきます。お忙しい中どうもありがとうございました。
今後ともよろしくお願いします。

お礼日時:2001/02/03 16:58

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Qウィルソンの民族自決

パリ講和会議においてアメリカ大統領ウィルソンは平和のための14か条を提唱しますが、第一次世界大戦中において、ウィルソンはすでに民族自決を軸にした14箇条を1918年1月に発表しています。これってソ連に対抗するためなんでしょうか?なぜ、いきなり民族自決を提唱するのか、ウィルソン(アメリカ)の外交の意図とはいったい何なのでしょうか?

Aベストアンサー

これは枢軸国側であるオーストリア・ハンガリー帝国とオスマン・トルコ帝国の支配下にある民族に向けて出されたもので、これらの国の内部崩壊を進めようという意図がありました。

早い話が「ヨーロッパの中では民族自決を認めよう」というもので、アジア・アフリカ諸国のことは全く考慮に入れられていませんでした。その証拠に、パリ講和会議で「人種差別撤廃」を盛り込んだ日本案は、圧倒的多数に支持されましたが、「全会一致ではない」という勝手極まりない論理で、当のウィルソン自身によって却下されています(昔からアメリカという国は横暴な論理をゴリ押しする国ですな)。

まあ、ソ連邦についても意識されたとは思いますが、当時はさほど「共産主義の脅威」は意識されていなかったのではないでしょうか?

Q単独講和と全面講和の差がよく分からないので教えてください

私は、「日本はサンフランシスコ講和条約により連合国との戦争状態を終了させた、しかし、この講和条約はマルクス主義陣営を除く単独講和であった。そのため、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印していなかったため、ソ連との戦争状態は1956年の日ソ共同宣言によりようやく終了し、ソ連で戦犯として有罪判決を受けていた人たちの帰国が実現した。」と理解していました。しかし、サンフランシスコ講和条約に調印していない中国が靖国参拝反対の理由としてサンフランシスコ講和条約で東京裁判の判決を受諾したことを挙げています。私は「サンフランシスコ講和条約に調印していない国に対しては、日本はこの条約に定められた権利義務は一切有しない。」と考えていたため、中国は日本が負う必要のない義務を中国に対して負うように主張しているように思い、いぶかしげに思ったことがありますが、新聞やニュースを見た範囲内では、日本の政治家が中国がサンフランシスコ条約に調印していないことを指摘したことを見たことがないので、今では中国の主張には理があるのだと理解しています。そうなるとサンフランシスコ講和条約に調印していない国に対しても日本がサンフランシスコ講和条約で定められた権利義務があるとすれば、1951年の時点でソ連との戦争状態が終結していたと考えればよろしいのでしょうか。また、調印していてもいなくても条約の権利義務が発生するとすれば、単独講和と全面講和にはどういった差が生じるのでしょうか。つたない文章で申し訳ありませんが、どなたか教えてください。

私は、「日本はサンフランシスコ講和条約により連合国との戦争状態を終了させた、しかし、この講和条約はマルクス主義陣営を除く単独講和であった。そのため、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印していなかったため、ソ連との戦争状態は1956年の日ソ共同宣言によりようやく終了し、ソ連で戦犯として有罪判決を受けていた人たちの帰国が実現した。」と理解していました。しかし、サンフランシスコ講和条約に調印していない中国が靖国参拝反対の理由としてサンフランシスコ講和条約で東京裁判の判決を受諾し...続きを読む

Aベストアンサー

追伸
戦争状態と言っても、「手続きが終わっていない状態」つまり「外交上」の戦争状態の終了がサンフランシスコ講和条約の効力発生に伴い戦争状態が終了とされているのです。
現実の交戦状態は、相手側と調整して、その日時で戦闘行為の中止⇒停戦交渉⇒停戦⇒戦後処理⇒講和条約という流れになります。
日本は、8月15日1200を持って戦闘行為を中止すると発表し、戦闘行為を停止しました。その上で戦艦ミズーリ上での降伏文書調印で停戦状態となったのです。

Q北米と中南米の先住民族に関して

印象だけで記します。資料には基づいていません。
1 先住民族の本日現在の人口は、北米は少なく、中南米は多い。
2 先住民族と入植者の混血は、北米では進まず、中南米では進んだ。
3 先住民族の子孫は一般に、北米では保護区内で暮らし、中南米では街中で通常の市民生活を営んでいる。

1~3に著しい誤りがあれば訂正して下さいませ。大筋として正しければ北米と中南米で相違が生じた理由を解説するなり、この疑問に触れた啓蒙書を紹介するなりして下さいませ。
なお、北米を豪州で置き換えても同じことが言えそうに思っていますが、この件には応えても応えなくても自由とします。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

1番は、そのとうりで、なぜ北米で人口が増加しなかったのかは、推測になりますが、主食となる穀物がなかったからではないかと思われます。
メキシコ高原からグアテマラにかけてのトウモロコシ、アンデス高地のジャガイモに相当する主食となるものが少なかったため、人口増加が起きなかったと推測されます。

2番は、殖民形態のちがいからです。
北米での殖民は、家族単位での入植がさかんに行われました。
特にイギリスの植民地では、同一宗教グループごとに殖民が行われたため、植民者の男女比がほぼ等しく、原住民との婚姻の必要性がありませんでした。
一方スペインの植民地では、入植者の90%が男性であり、入植者の配偶者や身の回りの世話をするために女手が必要でしたが、入植者に女性が少なかったため、現地人の女性との婚姻が積極的に行われました。
またスペイン人植民者の不足を補うため、スペイン政府が、現地人との結婚を積極的に勧めたことも理由です。
そのため、スペインでは、短期間に植民地を拡大することができたのです。
ただしブラジルにおいては状況が異なります。
ブラジル本国のポルトガルでは、ポルトガルの人口が少なすぎて、積極的な殖民がおこなわれませんでした。
そのため、アフリカからの黒人を大量に導入する事になります。

3番ですが、2番を参考にしてもらいますと理解できると思います。
現地人の数が少なく、現地人そのものを必要としない北米植民地と、現地人とスペイン人の混血が圧倒的多数を構成する国の違いです。
中南米諸国において、現在原住民が国民の半数以上を占めるのは、グアテマラとボリビアだけになってしまっています。
その2国にくわえ、比較的原住民の多いペルー以外は、純粋な原住民は、一部の地域に押し込められているのが実情です。

1番は、そのとうりで、なぜ北米で人口が増加しなかったのかは、推測になりますが、主食となる穀物がなかったからではないかと思われます。
メキシコ高原からグアテマラにかけてのトウモロコシ、アンデス高地のジャガイモに相当する主食となるものが少なかったため、人口増加が起きなかったと推測されます。

2番は、殖民形態のちがいからです。
北米での殖民は、家族単位での入植がさかんに行われました。
特にイギリスの植民地では、同一宗教グループごとに殖民が行われたため、植民者の男女比がほぼ等しく...続きを読む

Q漢民族の女性の民族衣装

朝鮮の女性の民族衣装はチョゴリ
これは問題ないでしょうけど
中国(漢民族)の女性の民族衣装はチャイナドレスではありませんよね
あれは満州族の民族衣装で清の時代は
漢民族は着用を禁止されていたと聞きます
では漢民族の民族衣装とはどのようなものだったのでしょう
それはまだ残っているのでしょうか?
できれば画像なんかあると嬉しいのですが

Aベストアンサー

漢服ですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Han_clothing_Hanfu_movement.jpg

http://henmi42.cocolog-nifty.com/yijianyeye/2006/07/post_a66b.html

http://www.recordchina.co.jp/group/g2411.html

満州族は北方系なので、防寒対策の服だが、漢服はゆったりしている。
満州族はワンピース、漢はツーピースも多いという特徴もあった記憶です。
犬山のリトルワールドで見てきました。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E6%9C%8D

Q農耕民族と狩猟民族という分類について

このサイトでもたまにある言い方ですが、それに限らず一般的に「日本人は農耕民族だが、○○人(ヨーロッパ人など)は狩猟民族」といった言い方がされることがあります。
この「農耕民族」と「狩猟民族」という分類は、どこから出てきたものなのでしょうか? というのが質問の内容です。
この本が始まり、とか、それはここが起源、というものがありましたら、教えてください。
それはこういう意味で使われている、という御回答もお待ちしています。

なお、質問の背景としては、ヨーロッパでも中世には農耕が行われていたはずだが、ヨーロッパの民族を「狩猟民族」と呼ぶのはどのような基準に基づくものなのだろうか、また、日本でも狩猟や漁ぼうが行われていたはずだが「農耕民族」という言い方は妥当なのか、という疑問があります。

Aベストアンサー

ご質問の趣旨に適ってるかどうかわからないのですが、
「日本人は農耕民族」という言われ方についてのみ、回答させていただきます。

これは、江戸時代の国学隆盛期に、国学者が定義付けた(?)ものだったと思います。

最近では、漁業・海産物の位置付けに注目して、日本人を農耕民族と呼ぶのは適切でない、という立場を採られる史学者もいらっしゃるようですね。
以前から、同様の疑問をお持ちの方はおられたでしょうが、あまりそこにこだわる方はおられなかった。


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