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欧州では歴史上様々な公国や侯国が存在しました。
これらの国は身分秩序からいえば「王国」よりは一段
下がった国だった……つまり宗主国によって君主の地位が保証された
国だと思いますが、これらの国の君主は「~公」「~侯」と呼ばれてはいても
事実上の王だったと思われます。

では彼らの家臣は爵位という者を持っていたのでしょうか?
爵位は普通国王が与えるものとすると、持っていなかったとも思えるし、
しかし、日本の官位は陪臣であっても「~守」「~介」などと名乗っていました。
比較できるかどうかは分かりませんが、欧州での公国や侯国では家臣は
爵位を名乗っていたのでしょうか?

A 回答 (2件)

まず、「~公」だの「~侯」だのと言われた君主の家臣で、「爵位」(というか称号というか)を持っていた例はあるようです。

下のURLで、「Viscount」(日本語訳では子爵)をキーに検索してみて下さい。
http://perso.wanadoo.fr/earlyblazon/nation/franc …
また、Viscountという言葉自体に「Countの家臣」という意味があるそうです。(Viscountをキーに検索してください。)
http://perso.wanadoo.fr/earlyblazon/general/glos …
但し、Viscountが誰から与えられた称号なのか、はたまた自称なのか、ここではわからないので「爵位を国王が与えるもの」と定義するなら、爵位ではないかもしれません。あるいは、上のURLに「Viscountも政治的な理由から、王に対して直接臣従を誓う事もある」とあるように、ヨーロッパの場合は、領主は「特定の土地に関して、臣従と引き換えに上位領主に対して保護を求める」ので、一人の領主が、二人の上位領主を仰ぐ、といった事がしばしば発生していますから、「陪臣」と呼ぶべきではないかも知れません。

ところで、ヨーロッパの「爵位」は、爵位の本家本元である古代中国のそれに近いもので,日本の「~守」「~介」といった受領名とはかなり性格の違うものじゃないでしょうか?
古代中国においては、諸侯は最初は王から爵位を与えられたとしても、その後は世襲となったと記憶しています。ヨーロッパでも、元々は、特定の地域に対する領主の権力を見とめて、王がXX公や○○伯といった称号を与えたのだと思います。少なくともイングランドにおいて、Ealdorman(アングロ・サクソン時代、後のEarlの前身)の成立ちはそうでした。ドイツやフランスでは、XX公や○○伯といった称号が、現実にXXや○○という地域と結びついた為に、(表面的な手続きは知りませんが)実態としては、XXや○○を支配する領主の権力を追認したのが、爵位ではないでしょうか?(イングランドでは、王権が強く、○○伯と○○という地域の関連性は早くから失われましたが、○○伯領自体は世襲であり、基本的には王がどうこう言える性格のものではなかったようです。その一方で、○○伯という称号を作れたのも王だけですが…。)

一方、日本の「~守」「~介」といった受領名は、元々国家機構の「役職」の名前で、江戸時代になっても基本的には「世襲にはならない」、「上位者から与えられるものであり続けた」とので、ヨーロッパや中国の爵位とは、相当性格の違うものではないでしょうか?、(江戸自体の「守」「介」といった受領名は、形式上は朝廷=実際は幕府=が大名に対して与えたものと、各大名が自分の家臣に名乗りを許したものの二通りがあると聞いた事があります。しかし、「上から与えられるもの」という原則は変わりありません。)

以上は、知っている限りの事から考えた私の意見に過ぎません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
お礼が遅れて申し訳ありません。

> http://perso.wanadoo.fr/earlyblazon/nation/franc …
上記URLを読むと、ブリタニー公国の家臣にドンジェ子爵・ポンシャトー卿・ヴィトレ卿がおり、君主はブリタニー公(ペンチエーブル伯・英国リッチモンド伯を兼任)だったことが分かりますね。

つまり、~公や~侯の家臣であっても爵位を名乗っていたと考えて良いですね。
その爵位はもともと家柄として名乗っていたものもあれば、asterさんの言うように公爵や侯爵が与えたものである場合もありそうですね。

お礼日時:2002/09/21 12:43

 


非常に簡単な一般論ですが。まず、欧州における「貴族」というのは、地域豪族がみずからの実力で、貴族となったものと、王国なり公国なりがあると、その君主の側近としての宮廷貴族して貴族になったものの大きく二つに分かれます。

西暦十世紀頃のフランスなら、ここにはフランク王国が分裂してできた、西フランク王国があったのですが、パリ伯とかブルゴーニュ公、アキテーヌ公、ロレーヌ公、またノルマンディー公などがおり、伯領とか公領というのは、一種の独立国のような存在でした。

彼らの爵位を与えたというか認めたのは、フランク王乃至西フランク王でしょうが、家臣に領土を与えて、また爵位を与えるというような関係ではなく、地域の豪族のなかで有力な者が、自立勢力となって来たので、これを公爵また伯爵に封じて、臣下としたというのが実情に近いです。

西フランク王国の王統が絶えると、西フランク王と婚姻関係で王朝の後継権を持っていると考えられた諸侯のなかで、比較的に人気の高かったパリ伯ユーグ・カペーが、西フランク王となりますが、これがフランス王国のはじまりになります。

しかし、カペー朝のフランス王国は、パリ周辺にしか王権の威勢は到達せず、フランス国内には、大諸侯の公領や伯領などが存在したのです。これらの伯爵や公爵は、カペー家のフランス王が爵位を与えたものではなく、元々フランク王国での有力諸侯であったので、パリ伯であったフランス王とは、諸侯として対等な立場だったとも云えるのです。

カペー朝のフランス王国が次第に勢力を強くして行く過程で、フランス国内の諸侯は、フランス王と主従の契約を結び、フランス王に臣従しますが、諸侯が連立してフランス王と対抗すると、フランス王が敗北しかねないというような状態で、諸侯とフランス王は、主従とはいえ、対等な契約を結んでいたのだと云えます。

アキテーヌ公領やノルマンディー公領、ブルゴーニュ公領は、アキテーヌ公国、ノルマンディー公国、ブルゴーニュ公国とも云い、独立国とほとんど変わらないのです。フランス王と諸侯の主従契約は、君主と君主の契約で、フランス王によって、諸侯は、その爵位や領土を得た訳ではないのです。

アキテーヌ公から爵位を剥奪し、その領土を剥奪するなどと宣言しても意味がない訳で、その場合、フランス王がアキテーヌと戦争し、これを軍事的に打破し、領土をフランス王国領に併合しないと、そういうことは実現しないのです。そして、そこまでできる実力はフランス王にはなかったのです。

男爵がこの時代にあったのかどうか詳しく知りませんが、騎士はいました。騎士・男爵・伯爵などは、地域の豪族で、その勢力の大きさが、騎士か男爵か伯爵かという区分になるのです。

従って、アキテーヌ公なりブルゴーニュ公が、騎士を、自分の家臣として主従関係を結ぶことは、フランス王の意向に関係なく自由であったし、男爵がいれば、男爵もまた家臣にすることも何の不思議もないはずなのです。さすがに、公が、伯爵を家臣にということは、この時代ではないと思います。

イングランドでも欧州でも、「伯爵」というのは、豪族が自立して、一定の勢力範囲で独立領を築いた者で、王と伯は、主従関係にあるとは云え、元々対等な存在なのです。伯の有力なものが、王になって、他の伯と主従関係を結んだというのが妥当です。公は、伯爵よりも、勢力か身分が高い者の意味で、フランク王国が、伯のなかから、公を授けたのだとも云えます。伯と公は、勢力的にも立場的にも同じものだと云えます。

でなければ、パリ伯のフランス王に、フランスの諸侯が従うというのはおかしい訳です。

西欧封建社会では、王が、公や伯と契約して主従関係を結び、公や伯と騎士や男爵が主従関係を結ぶということがあったと云えます。また男爵は騎士を臣下にすることがあったのです。他方、男爵や騎士が、王と直接に主従関係を結ぶということもありえたと云えます。

こういうことが起こるのは、騎士とか男爵とか伯、公というのは、王によって、その地位が作られたのではないからです。王は、既存の勢力として、これらを承認して契約を結んでいるので、王権が段段強まって来ると、宮廷貴族というものを、王が作るようになります。例えば、伯爵を王が自分の臣下に授け、伯爵を作るのです。

領邦国家ドイツで見れば、ドイツ王または神聖ローマ皇帝がいますが、その下にいる大諸侯は、選帝侯と呼ばれるもので、これらは、王、公、更に司教などでした。皇帝と王や公は、対等だったとも云えます。何故なら、選帝侯のなかからドイツ王、皇帝が選挙で選ばれるからです。

これは、徳川幕府による日本の支配と似ています。幕府支配の日本では、藩が独立国家のように存在しました。藩は、徳川家の家臣を大名にしてできた譜代の藩と、元々は、徳川と対等あるいは、それより勢力の大きかった大名の藩、つまり外様の藩に分かれます。

欧州で、公や伯から王が誕生したが、公や伯は王と対等であったというのは、徳川と外様大名の関係に似ているのです。それに対し、欧州の王権が作った公や伯は、譜代の大名に対応します。

欧州では、16世紀頃から絶対王権が成立しはじめたのであり、ここまで王権が強くなると、公も伯も、王に一方的に臣従するしかなくなります。フランスのブルボン家は、王が処刑されますが、ブルボン家を倒したのは、諸侯ではありません。イギリスでも、ピューリタン革命で王が処刑されますが、王を処刑したのは、諸侯ではないのです。

しかし、日本では、徳川家は、大大名の力を削ごうと、色々陰謀をめぐらしますが、仙台の伊達や、加賀の前田、長州や、薩摩の島津などは、その勢力を維持し、結局、幕末に幕府は、長州と薩摩の連合軍に倒されます。
 
質問に答えていなかったと思います。スタンダールの「パルムの僧院」にはパルム公国というものが出てきますが、この公国の宰相は、確かラッシという伯爵でした。ラッシは成り上がり者で、元々貴族などではないのですが、才覚により、伯爵にまでなります。彼を伯爵にしたのは、パルム公国の君主に他ありません。

イタリアは、小国乱立状態で、確かな王権がなかったので、公国の君主などが、貴族などを作り出していたのです。ドイツは形式的にも皇帝がいましたから、一応、皇帝に形だけの承認を求めたかも知れませんが、イタリアでは、誰もイタリア統一君主はいなかったので、公国などは、その上は、ローマ教皇庁ぐらいしかなかったという実情です。
 
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この回答へのお礼

詳細なご回答、ありがとうございました。
また、お礼が遅れたことをお詫びします。

> パルム公国
そういう例もあるのですか。知りませんでした。
つまり、公国の君主は自己の家臣に爵位を与えることが出来たわけですね。

お礼日時:2002/09/21 12:34

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