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幕藩体制(経済)の破綻の原因が(1)武士窮乏や農村分解にあったと習いました。
そしてそれは(2)本百姓体制の動揺と貨幣経済の発達からきたと教わりました。
ですが、どのような流れでそこにたどり着くのか、どうして(2)が起きると(1)が起こり破綻するのか分かりません。

ご説明お願いします。

gooドクター

A 回答 (6件)

No.2のusktです。

補足ありがとうございます。

棄捐令への流れのご理解は、おそらく正しいと思われます。
この時代、物産が一次生産者から出て行く時点で、多くは物納による税がかけられていたため、一つの品物の流通に二重課税となることを避けるため、商人の活動には体系的な税がかけられていませんでした。
そのため、いわゆる豪商と言われる人たちが現れ、金を貸すことでさらに利益を得る一方、借りたほうはどんどん転落していくという事態が発生し、その歯止めを何らかの形で行うことが求められていたわけです。棄捐令はその点で、苦肉の策でしたが一石二鳥を狙ったもので、これ以降豪商への利払停止や繰り延べなどが頻繁に行われるようになる画期とも言えるでしょう。

また、幕藩体制の経済的な行き詰まりそのものが、倒幕へとつながったとは言えないと思いますが、米の豊作不作で、経済全体が大きく上下する経済体制は、どこかの時点で大きく改められる必要があったことは事実でしょう。その点では、何らかの形で(たとえば雄藩による幕府参与制など)幕府が存続した場合にも、海外事情に倣った経済改革が行われていたに違いありません。

さらに、耕地面積の拡大については、江戸中期以降、幕府・各藩ともに、財政状況の低迷の打開のために、新田開発を活発に行います。これは、一時的には米の増収による財政の健全化をもたらしますが、長期的には米の価格をさらに下げることにつながり、また財政の米依存を継続するということで、結果的には武士の困窮と経済の不安定化を助長することになったという側面があるかと思います。

説明が下手で申し訳ありませんが、ご参考になさっていただければと思います。
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相当な政治的天才でない限り、経済は理解できない。


これが基本的な原因だと思います。

経済がうまくいくには、「通貨量」と「経済規模」が見合っていないとなりません。

鎌倉期より室町期においては中国から輸入された「銭」が通貨として流通したために、「貫高制」が基本になります。日本の経済規模にあわせて中国から銭が輸入できるために、通貨量と経済規模は見合ったものとなりました。
ところが、明末になると、中国の銅山が枯渇し銭の輸出がされなくなります。つまり日本の経済規模にあった通貨量が保証できなくなりました。その銭の代わりに通貨として採用したのがコメです。農業主体の国家においては、経済規模=コメの生産=通貨量となり、経済は順調に作動します。このコメは通貨だという理解は政治的天才秀吉であるからできたことであり、その後の人間にはわからなくなった。
経済規模と通貨量を経験的に理解したのが元禄期の勘定奉行荻原重秀です。経済規模>コメの生産となっていたために、通貨不足になるところを改鋳によってしのぎました。現代で言えば管理通貨制度です。
ところが、その後の為政者はこの意味がわからず、品質のいい通貨がいい通貨という理解してしまった。通貨不足が生じます。つまり デフレです。デフレ不況が江戸時代を襲います。
この後は経済学で言うところの「合成の誤謬」が続きます。
個別のミクロ経済(各藩の経済活動)では正解の行動であるが、合成された日本国としてのマクロ経済(つまり、全国政府としての幕府)としては、不況から抜け出せない。
結果として、ミクロ経済の勝者(薩摩藩や長州藩)がマクロ経済の敗者である幕府を倒すことになります。

本百姓制度が動揺しようと、貨幣経済が発展しようと、経済をうまくやれば、中央政府は元気いっぱいです。
たとえばイギリスにおいては16世紀と18世紀に於いて囲い込み運動が起こります。これによって、土地を無くす農民が大量に発生しました、日本で言えば本百姓体制の崩壊です。ところが16世紀 18世紀というのはイギリスにとっては発展の時代です。とてもじゃないが経済が破綻するどころの話ではありません。
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(1) 幕藩体制とは


幕藩体制(ばくはんたいせい)とは、近世日本の社会体制のあり方を、幕府(将軍)と藩(大名)という封建的主従関係を基点にとらえた歴史学上の概念である。 

八代将軍吉宗によっててこ入れされた幕藩体制だったが、彼以降の将軍は押しなべて愚鈍だった。  寛政、天保と二度の改革によって、将軍家の権威を回復しようと努めたが、結局は巧く行かなかった。  

(2) 幕府の衰退と諸藩の台頭
幕府は米主体の石高主義の重農主義に固執したのに対し、諸藩の中には米以外の産業を育成し、経済の基盤を整備した藩もある。 

薩摩藩は琉球を通して三角貿易を行い、富を蓄積した。 幕府側も密偵を送り込み、証拠を掴もうと躍起になっているが、薩摩弁という難解な言葉を駆使して密偵を退治している。  長州藩も石高は29万石と中規模の大名だが、村役人に特権を与えて、流通経済を促進している。 海洋技術の盛んなところで、朝鮮半島や明との密貿易で財を築いている。 

このようにして、19世紀の中ごろには、この両藩が外様大名の中で抜きん出た力を持つに至っている。  そして、この両藩によって倒幕が果たされている。

(3) 倒幕の契機となった黒船来航
そして、1853年(嘉永6年)のペリー提督による黒船来航を迎える。  黒船をどう迎えるかで国中が大騒ぎになった時、幕府は巧く対処出来なかった。 これによって、幕府の権威は一気に失墜する。  

江戸時代中期以降、各藩とも新田開発とともに、家内工業による養蚕工業などの振興を図り、藩財政の健全化に努めた。 これとともに、人材の育成に重きを置き、藩校を建て上げ、優秀な子弟は長崎に送り、欧米の進んだ技術の習得に努めている。 

(4)倒幕の決め手となった薩長同盟の成立
外様大名の雄であった薩摩と長州は、進んだ航海技術を持ち、貿易によって財を築いている。 これに坂本竜馬の海援隊が絡み、三角貿易によって米が長州から薩摩へ。 見返りに琉球を経由して手に入れた武器が薩摩から長州へ。 この両藩にもたらされた膨大な利益が糸口となって両藩の同盟関係が樹立される。 

一方の幕府側は海洋技術において薩摩や長州に大きく劣っている。 重農主義に拘泥し過ぎたため、近代重商主義の波に乗り遅れてしまう。  咸臨丸によって欧米の先進技術を目の当たりにした小栗上野介や勝海舟だったが、これを取り入れて幕府の建て直しは出来なかった。 

重農主義を執る幕府は、重商主義の薩摩と長州には勝てなかった。
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(1)について回答します。


江戸時代は戦国時代の続きの時代で戦国時代の家臣をすべて養い続けなければなりませんでした。
太平の江戸時代にこれほどの家臣数は必要ではなかったのですが(天領なら数人から数十人程度)、徳川家康が、大名を困窮させるためかどうかは知れませんが、(徳川家も旗本八万旗を維持していましたが)この家臣団を維持しなければなりませんでした。(戦国時代の恩に報いるためかもしれません)
この多すぎる武士とゆう支配階層を維持するため、まず、農民(特に各大名)が困窮し、武士も困窮していったわけです。
でも、太平の世なので、物流の流れは非常にスムーズになり、(盗賊、山賊の類は激減し、船による大量物流も可能になりましたから(江戸幕府は船に形をかなり規制していましたが))商品の交換のための貨幣経済へ移行していきました。
武士階級を悪く書いたようですが、明治維新はこの武士階級がいなければ、多分成立せず、外国の支配を受けていたかもしれません。
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江戸時代の経済は、大名の規模なども石高で表示するように、経済の中心を米に置いていました。


ところが、世間から戦争がなくなると、農地は荒らされず、耕作人数も増えるので、当然米は増産されます。戦国時代で食料が貴重だった時代の米と比べると、どんどん価値が下がっていくわけです。

一方で、生活に余裕ができることで、食生活だけでなく、服飾や嗜好品なども、ぜいたくになっていき、その流通のために貨幣が使われることが一般化してきます。

そうすると、以前は米を中心に物の価値を計っていた経済が、貨幣を中心とした経済に変わっていくわけです。
しかしながら、武士は相変わらず、石高を基準に給与を決められており、大名は一般市民からの年貢を主に米で受け取ります。米の相対価格が下がると、受け取る額はどんどん下がっていくわけですが、市場は貨幣を中心にしているので、武士は窮乏するということになります。
また、農民も生活に必要なものを買う対価として、米しかない場合には、米の値下がりとともに、生活をまかないきれなくなり、土地を質に入れたり売り渡したりして、小作農へと転落していきます。

以上のような経過で、米を中心とした経済が、貨幣を中心としたものに変わっていくことで、武士は窮乏し、農村も従来の村から大土地所有中心社会へと変わっていったわけです。

この回答への補足

有難うございます。
>土地を質に入れたり売り渡したりして、小作農へと転落していきます
これを解決するために寛政の改革で定信は棄損令を行い→失敗したであっていますか?
これらのデキゴトにより、幕藩体制への不満から攘夷→尊王攘夷→倒幕となるのですか?
また、no.1の方への質問にも書いたのですが、「耕地面積の拡大」とはどう影響したのでしょうか?そちらの補足も目を通してくださると助かります。

補足日時:2007/12/05 17:26
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こんにちは


質問にお答えします。
まずどのような流れで流れ着くかですが、貨幣経済が発達したわけは、貨幣で商売したほうが便利なんですよ。
あなただって、コンビニで買い物するのに米を持ってて物々交換じゃやっていけないでしょ。それが、もっと大きな買い物だったら・・・
面倒ですよね。
貨幣だと、決まった価値ですから、そのお金を持っていれば物も買えるし軽いし簡単ですよね。
こういう流れで、貨幣経済が発達していきました。
それで、この貨幣経済が発達したものだから武士たちはこのお金をほしがります。
ちなみに、そのころ武士の給料はお金ではありません。
その役職の石高に応じて米をもらっています。
ここがポイントです!
この米は誰が作ったのでしょうか?本百姓ら農民ですよね。
世の中に物がいっぱい出回れば出回るほどその物の価値は下がっていきます。
ですから、米が安定して市場に出回るようになったので武士たちも貨幣を使います。それで、ますます貨幣経済は発達します。
しかし、米が出回ればその分価値が落ちます。価値が落ちると武士はお金がたくさん手に入りません。
武士たち、つまり幕府はどうしたでしょうか?年貢を引き上げるんですね。これによって生活が苦しい農民たちはますます生活が苦しくなります。すると、農村では年貢を引き下げるために一揆が起こります。

一揆が起こると、さすがに年貢を引き下げなければいけません。(一時的ですが・・・・)すると、このようなことが立て続けに起こると年貢を上げるというのは難しいでしょう。
仮に年貢が入っても結局、貨幣にするために市場に出すのですから結局米の量は増えて値が下がります。すると、また年貢を上げる・・・
こんな事を永久には出来ませんよね。こうしていくうちに、武士の生活は困窮していきます。
理由は上記のとおりです。
農村では、年貢を引き上げるのをやめさせるために一揆がおこり農村は分解。町では打ちこわしと続いていき、ますます武士は困窮しました。

この回答への補足

つまり大原則であった石高制が崩れていったのですね。
その後、大飢饉が起こり田畑永代売買の禁令や文治制限令がでる・・・であっていますか?
そのあとのデキゴトとして「耕地面積の拡大」とあるのですが、どうしてそうなるのでしょうか?その後でる寄生地主は本百姓にどういう影響を与えるのですか?

補足日時:2007/12/05 17:17
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