高校の文化祭の劇で忠臣蔵のパロディをすることになりました。
そこで江戸時代の武士や女町人の服装を知りたいのです。
できれば簡単でもかまわないので衣装の作り方なんかも教えて頂きたいです。
よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

忠臣蔵のパロディなら、元禄時代の着物の着方をしたほうが雰囲気が出ると思います。


本格的に作ると高くつくので、ポイントだけ抑えて“元禄風”にしたらどうでしょう。
(以下は、女性の着物の着方です)

着物は現代の着付けよりゆったり前を合わせます。
(厳密に言うと、当時の着物は現代の物より短く“おはしょり”がありません)
帯は細めのものを、現代の着付けより下のお腹の位置で結びます。
結び目は後ろでも前でもどちらでもOKです。結び方はシンプルにします。チョウ結びやなんかで十分です。

写真を見つけたので、貼っておきます。
http://www.iz2.or.jp/fukusyoku/kosode/4.htm

一口に江戸時代、と言っても、元禄時代と江戸後期とでは、髪型や着付けが違います。TVの時代劇でよく見かけるのは、大抵江戸後期の風俗です。

参考URL:http://www.iz2.or.jp/fukusyoku/kosode/index.htm
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この回答へのお礼

詳しい回答ありがとうございました。
文化祭の劇は無事成功しました。

お礼日時:2002/09/29 19:41

とりあえず、服装について、下記HPで簡単にかいてます。


少しでも参考になれば幸いです・・・

参考URL:http://longlife.city.hikone.shiga.jp/yashiki/foo …
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この回答へのお礼

早くの回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/09/29 19:40

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Aベストアンサー

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Aベストアンサー

下級武士と言っても各家によって事情が全然違いますし、江戸時代は米本位制なので、農業雇用の「賃金」という考え方は馴染まないかも知れません。

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「○○藩」の「○○年から○○年頃」と限れば、いろいろな地方誌にあるデータを拾えるのではないかと思いますが。

経済史はまったく専門外なのですが、参考URLの書籍はおもしろかったです。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061492594/249-7624927-8133901

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Aベストアンサー

>江戸時代の人は元号を言えたか?
その人がどの階層(身分)に属して居たかで大きく変わりますが…99.99%の江戸時代の日本人は元号はおろか、何月と言う概念すらありませんでした。従って基本的には「江戸時代の人は元号を言え無かった」と言う答えでOKなはず。従ってその「前世に戻った人」はどこか遠い星の "EieDoo(我々に理解出来る言葉で発音すると「エド」と聞こえる)" と言う時代から来た異星人かと思われます。

P.S.
日本では明治5年の改暦詔書までは、一部の学者や政府高官以外には元号はおろか、何月何日と言う概念すらありませんでした。そもそも日本では中国由来の暦が数百年に渡って使われており。年号では無く「今年は甲子(きのえね)の年」と言った風に考えていました。いわゆる「干支暦」と呼ばれる暦です。

>Wikipediaによる解説:干支 - http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B2%E6%94%AF

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>江戸時代の人は元号を言えたか?
その人がどの階層(身分)に属して居たかで大きく変わりますが…99.99%の江戸時代の日本人は元号はおろか、何月と言う概念すらありませんでした。従って基本的には「江戸時代の人は元号を言え無かった」と言う答えでOKなはず。従ってその「前世に戻った人」はどこか遠い星の "EieDoo(我々に理解出来る言葉で発音すると「エド」と聞こえる)" と言う時代から来た異星人かと思われます。

P.S.
日本では明治5年の改暦詔書までは、一部の学者や政府高官以外には元号はおろか、何月...続きを読む

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Aベストアンサー

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Aベストアンサー

江戸城内では基本的に大刀(長い刀)は帯刀禁止でした(入城するときに預ける)。
城内で所持できるのは脇差し(短い刀)だけです。

当時は喧嘩両成敗が暗黙の了解としてありましたが、
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即座に朝野家に切腹・お家断絶の命が下ったわけですが
何の取り調べなく吉良家もおとがめ無しだったから浅野家の家臣が怒ったのです。

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ご存知、日本人なら忠臣蔵ですが・・・
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それとも、「蔵」という文字そのものに物語という意味があるのでしょうか?

Aベストアンサー

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詳しくは下記ご参考に。

参考URL:http://mutiya77.hp.infoseek.co.jp/edo4.htm

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都名所図会(みやこめいしょずえ)

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武士と平民の身分差というのは、現代人が想像するほど大きなものではなかったようです。

武士というのは多くが兵農分離以前は「豪農」であり、江戸時代になって専業武士となって各大名の家臣になった者、農業に専念して庄屋・名主となった者は「元は同じ」です。

経済力で言えば、大名から知行・扶持を得て生活する武士より、庄屋・名主の方が高いことは珍しくなかったでしょう。これは現在の「公務員と中小企業オーナー」の関係のようなものです。公務員は一定の収入を保証されていますが、事業に成功した企業オーナーが公務員より裕福な生活をしているのはごく普通ですね。

武士と平民という身分の壁がありますので、富裕な商人や名主・庄屋であっても、歴々の武家(供を連れて歩いている武士)に行き会えば礼をして道を譲ったでしょうが、その程度のことです。

なお「斬捨御免」という制度は、「武士が気が向いたら平民を斬っても罪に問われなかった」などというものではありません。
「『正当な理由があれば』武士が平民を斬っても罪に問われない」
というものです。

「正当な理由」というのは、「ヤクザが武士に侮辱を加えた」といったケースです。この場合、武士はヤクザを斬り捨てねば、

1) ヤクザに侮辱を加えられて、ヤクザに勝つ自信がないのでそのまま立ち去ったことが発覚した場合
←武士の面目を傷つけたということで、処罰を受ける。

2) ヤクザに侮辱を加えられて、刀を抜いたがヤクザに負けてしまった
←武士の風上にも置けないということで、切腹処分。(1)のケースより重い処罰を受けます。
なお、江戸時代の平民は丸腰を強いられていたわけではなく、「脇差」と称して一本の刀を差して歩くのは原則自由でした。ヤクザはアウトローですので、「長脇差」と称して武士の刀と同じ寸法のものを差すことが黙認されていた(取り締まりきれない)状態であったようです。

となりました。ですので、剣術に自信のない侍は、ヤクザに出くわさないように気をつけて歩いたそうです。

武士が、ヤクザ者でない平民を斬った場合には厳しく事情が調べられ、
『武士に正当な理由がない』と判定された場合には厳しく罰せられました。平民を守るのが武士の役目なのですから、当たり前のことですね。

こういう質問では「平民が御家人の株を買って武士身分を得ることが出来た」という回答が必ず出て来ますが、これは「御家人の養子になることで、平民出身者が武士階級の末端に加わることが可能であった」とういうことです。
平民側が多額の持参金を出したり、借金を肩代わりすることが武家の養子になる条件となりましたので、俗に「御家人株を買う」と言ったのですが、決して「カネを幕府に払えば御家人の身分を買えた」訳ではありません。

武士と平民の身分差というのは、現代人が想像するほど大きなものではなかったようです。

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