お酒好きのおしりトラブル対策とは

http://kikitai.teacup.com/qa3586268.htmlにおいて、
himara-hus様とHusky2007様から、教えていただきました。有難う御座いました。
 長く締め切らないままに地方に出かけるわけにいかないので、お礼と共に締め切りました。

《戴いたお教えの要約1.》:物が無ければ、空間があることもわかりませんし、物も何も無ければ、空間が仮にあっても意味が有りません。時間が無ければ、物があることもわかりませんし、何も無ければ時間が有っても意味が有りません。
《このお教えへの再質問》:客体物や事象があることがわかるかどうか、意味があるかどうかではなく、そういうものがなくても、
 (1)時間とか空間とかはありうるのか。
 (2)時間と空間は客体物や事象の存在形式なのか、それとも知覚や経験側の形式なのか

《戴いたお教えの要約2.》:空間と時間は物質の容器というようなものではない。そのようなものは存在しない。物質の存在形式の反映である。であるしかない。相対性理論的認識が絶対的な真実かどうかを問うのは余り意味がない。物理的・科学的認識の確かさを更に、理論的・実験的に探求すれば良い。

《このお教えへの再質問》:
 (1)日本語の語義的質問ですが、『反映』というのは、光が『reflect』している『状態』という意味なのか、『存在性格の見え方・側面』ということなのでしょうか。
 (2)相対性理論的認識も絶対的認識も、このことでは私には関心のないことなのです。ですからこのこと問題にしてお教えを乞うてはいません。
 私には、物理であろうと科学であろうと、宗教であろうと、信仰であろうと、真理であれがいいだけのことです。
 そういう脈絡の中で、
 (2)-1客体物質や事象の起源や基盤というのは、今後の限りない探究でしょうか? 探究のゴールというものはあるべきものと、予測しておいででしょうか?
 (2)-2客体物質や事象の存在の開始する以前というのは、探究の対象問題にはなりえないのか、しないのか。
(意味のない事というのだと、それは何にとっての意味がないのかの問題となると存じます。意味や価値・目的性、ないし何かの有用性は別の事だと存じまして?)

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A 回答 (7件)

子供が、「なぜ、南と北という概念があるのか?」と質問。


そこで、私は、「地球の存在様式の反映だよ」と答えました。
子供は、更に、「北にずっとずっと行ったらその向こうには何があるのか?」と質問。
そこで、私は、「北の北には、南だけの地点があってその向こうはない」と回答。
子供は、「それじゃ、ずっとずっと行くことにはならない」と反論。
そこで、私は、「ないものはないんじゃ」とキレてチョン。

まあ、宇宙の始まりが北極点だとすれば、そこから南極点までの間で時間と空間が問題になるだけ。
そういうことじゃないですか?
と、この話を前提に・・・。

(1)客体物質や事象の起源や基盤というのは、今後の限りない探究でしょうか?
  探究のゴールというものはあるべきものと、予測しておいででしょうか?

 問われていることが理解できないんですが、一応・・・。
 少なくとも現実世界の事象は、客観的な存在である物質の性質で説明可能。
 しかし、その解明作業にはゴールというものはありません。
 あくまでも、<現段階では、こう考えるのが一番合理的で科学的だ>というに過ぎないでしょう。
 100%解明できていりゃ、まあ、科学者は失業ですよ。
 それに、人類が、どこまで相対的な真理のレベルをアップできる資質と能力を持っているかも定かじゃないでしょう。
 だって、どっかの星で高度に発達した文明があるとすれば、その黎明期に相当する水準かも知れないですしね。

(2)客体物質や事象の存在の開始する以前というのは、探究の対象問題にはなりえないのか、しないのか?

 さて、どうやって、ありもしない北緯マイナス10度の世界を探求しようというのですかね?
 「宇宙誕生以前の10億年前」という発想は無い訳ですよ。
 物質は時間的・空間的にしか存在できないし、時間と空間との概念が成立するのは物質があればこそ。
 もちろん、ここで言う物質は、道端の石ころだけじゃないですよ。
 光も物資、熱も物質、宇宙線も物質。
 この宇宙に客観的に存在するものは、全て、物質です。
 かかる客観的存在が一切存在しない無の世界は、いわば、北緯点より北の世界です。

 「『北緯点より北の世界』は、誰も見たことがないがある筈だ!」
 「俺は、その世界の秘密を解き明かす!」

 まあ、このように考えるのは、それぞれの自由です。
 が、所詮は、そういう思索は無駄というものです。
 探究の対象などにはならんです。

この回答への補足

 科学の探求ということについては、仰せの通りと存じます。
 それ以外は、外界に関する知的知識の世界ではない、ということも理解できます。そしてないものはないもの。それ以上ではない、ということも理解できます。

 ≪ない≫ということが、少し違うご理解で、お教えくださっているかのようです。
 貴兄様の示唆による時間と空間という反映をもって我々に存在している、我々を含む客体物としての全世界は、それ自身で起源となり、基盤となっているか。
 というような、まぁ馬鹿みたいな話でして、どこからどう生まれてきているか。
 という話、これについての限りなくものの探求ではなく、そこを出ての方法と認識はありえないか、ということなのです。
 ≪ない≫という、向こうに、実は起源や根源となる何かがないだろうか?というようなことでした。
 御幣が伴いますが、偽物を取り払ったら、或はスクリーンの映像を為している後ろを振り返ることができたら、フィルムとその向こうの光と、光の源がみえるように。

 いうなれば、価値・理念、当為の世界ですが、法体系の、便宜的知的定義体系の中の当為や価値とは全くちがいますが。
 存在とは当為である、という原子の先の力、渦、それは唯一存在だある、一なる意識、観念や当為に由来してはいないか。というようなものなのです。
 その知的所感が欲しかったのです。ザインはゾルレンでしかない。
 一なる意識の観念という力、当為に由来・起源している。そういう力、知性として存在するのが世界だ、という私の認識の知的所感を求めておりました。
 あるべしという、向かうべしというザインなる力が物たるの本当の姿だ、というセンテンスです。
 ここ数年読書している書物ですが、私にとっては、これはもう小学校の低学年から、そうとしか考えられなかった、思いでして。だから幼稚なものかもしれません。何事も本源というものは須く幼稚ですね。

 今後のお教えを期待申しあげます。
 有難う御座いました。

補足日時:2007/12/14 10:19
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この回答へのお礼

 たびたび、有難う御座います。私の乏しい語彙理解では≪反映≫とはなにかを反射して、映す。ということばでした。たとえば、猿猴捉月の月影みたいな。
 そういうものではなく、いうなれば、私達側で、こう(斯く)と見ると、あえて地球の北極と南極みたいなものだ、なのですね。物にあるといえばある、でもそれはものの持つ属性や側面、現れ方というわけでもない。ということですね。
 時間空間と物とはそういうもので、認識形式ではないが、ものの性格や側面でもない。というような理解で宜しいでしょうか?

お礼日時:2007/12/14 09:47

 時間と空間とが「有る」かということが問題になっているのでしょうか。

時間と空間とは私たち人間が経験の対象(知覚の対象)を表象するための形式としての表象です。表象力の受容的な能力です。可能的知覚の対象は全て時間と空間の中で表象されます。が、時間も空間も知覚の対象とはなりえません。それは一つ一つの物体は知覚できますが、「一」を知覚できないのと同じです。あなたの仰るとおり、経験の客体が何一つ存在しない状態をイメージできますが、従ってイマジネーションのなかで、そうしたものを思い浮かべ、そしてまた消し去ることは可能ですが、つまり経験の対象としてのものが何一つない状態をイマジンすることは可能ですが、時間と空間とがない状態をイメージしようとしても、それは不可能です。なぜかと言えば、時間と空間とは私たちが印象を受けとる能力(受容性)として私たちの「心」にそなわっているものだからです。従って時空は経験の対象が有るという意味では存在しません。カント『純粋理性批判』、「超越論的感性論」を読んでみてください。あなたのお考えと重なる部分が大いにあると思います。
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この回答へのお礼

 有難う御座います。
 ≪時間も空間も知覚の対象とはなりえない≫のですね。

 それでは時間と空間のない、つまりものの存在、つまり知覚・経験対象のない状態は無意識や熟睡しかないでしょうか?

 自分というものだけを、知覚経験したり、意識する状態はありえないでしょうか?

お礼日時:2007/12/15 08:48

補足があったので答えさせていただきます。

 
まず
>≪≪もう少しことばを付加していただけないでしょうか:
  『補助役になります』というご説明について≫≫

について、
我々は感覚でしか物事を捉えられないので客体物質事象というのが
絶対客体物質事象ではなくて知覚経験則事象の枠の中なので『知覚経験則事象の補助役』という意味です。
ではつぎ
> ≪≪確認なのですが:
  『Z(K)=時空間』のZ(K)とは、つまり絶対仮説という
   ことでしょうか≫≫

とのことでしたが
これも上記のことを考えていただければ察しはつくと思いますが
知覚経験則事象で物事を捉えているのでならば知覚経験則事象は疑いようがありません
ですからこれを絶対としました
そのなかでその知覚経験則事象に映し出された存在(客体物質事象)は
仮説になります。
又客体物質事象は知覚経験則事象で捉えられる側なのでZ関数の内部に臨在することになるので『Z関数の部分要素という意味でZ(K)』という意味です
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この回答へのお礼

 はい、たいへん尤もな分析理解であると、了解いたしまできました。
 たびたび本当に手数、有難う御座いました。

お礼日時:2007/12/15 08:40

No.1です。

問いかけをお受けしましたので 出来る限りお応えいたしたいと存じます。

これの前身のご質問(《Q:時間と空間》)では きめの細かな内容が要求されているようで よく回答を出せるか不安でした。今回は すでに質問の趣旨において まとめておられるので このように(つまりわたしのNo.1の文章のように)さらに整理すればよいのかなと思い 投稿いたしました。

さらにご質問が 貴重なご批判とともに ありました。これについて ひとこと ご返事をと思いました。ほんのひとことですが。(分量としては長いですが)。


ブッダが出た当時のインドでは いろんな思想が――表現の自由のもとに――主張されていたと言い その一人のプーラナ・カッサパは 《不生不滅を説いて、人間はどんな行為をしても善にも悪にもならないとして、因縁や業を否定し無道徳を説いた》と言います。《不生不滅》あるいは いわゆる唯物論にもとづき 《道徳否定論》を展開したというわけです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・自ら行為をなし、他をして行為をなさしめ、手足を切断し、また切断せしめ、罰し罰せしめ、苦しめ苦しましめ、戦慄させ戦慄せしめ、殺し盗み、追剥をなしても結果は出ないとし、またそれらの反対の善業を行っても結果は出ないという邪見を持っていた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%BC% …
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
よくこんな思想が表わされたもんだとも あるいは そこまで表現が自由だというのは何なのかなどとも思われますが 話は 飛んで 同じ唯物論に基づいた場合でも 次のような議論も すでに わたしたちは 世界史の中に 共有しています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・したがって きたるべき資本主義的生産の一掃後の性的関係の秩序について 今日われわれが推測できることは 主として消極的な種類のものであって 大部分は脱落するものにかぎられる。
 だが 何が付け加わるだろうか。それは 新しい世代が成長してきたときに決定されるであろう。この世代は その生涯をつうじて 貨幣(かね)やその他の社会的権勢の手段で女性の肉体提供を買いとる状況に一度も遭遇したことのない男性たちと 真の愛情以外のなんらかの配慮から男性に身をまかせたり 経済的な結果を恐れて恋人に身をまかせるのをこばんだりする状況に一度も遭遇したことのない女性たちとの 世代である。
 このような人びとが出てきたばあい 彼らは 今日の人間が彼らのなすべきことだと考えていることなど 意に介さないであろう。彼らは 彼ら自身の実践と それに応じた個々人の実践にかんする世論とを みづからつくるであろう――それでおしまいだ。
(F.エンゲルス:『家族・私有財産・国家の起源』1884 第二章 家族 戸原四郎訳)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
コミュニスムは すでに その社会運営の手法で失敗し 理論上も破綻しているであろうということなのですが 時空間の有無や超越あるいは質料(モノないしコト)の根拠であるとする物質の扱いにかんして取り上げてみるとき 上のような議論を読むと 一般に《道徳的にも 理論としても 妥当だ》と思えるような現実の考えをしている一面もあるようです。そのような人間の心境をも持ち合わせているようなのです。

このように捉えるなら 《霊》の世界については 人の自由(つまり良心・信教あるいは表現その他もろもろの自由)に任せつつ むしろ 通俗的に言って 勝負は 現実の社会についての議論にあるとさえ言うべき余地も出てくるのではないでしょうか。

このような世間の現象論に傾きなさいというわけではありませんが 時空間の問題なり《探究の対象問題》なりについては 幅広く柔軟な見方が重要になってくるのではないでしょうか。
 すでに質問の趣意において まとめが済んでいると思いましたので ひとこと ちょっと 脇からの視点のご紹介に回ったというのが No.1の文章でした。そのように受け取っていただけると幸いです。

・これを書いている途中で No.2の補足欄を読んだのですが もしそのようにお考えでしたら むしろヘーゲルの《精神》に近いように思うのですが。 
 と言いましても わたしの考えでは このイデアの根源とも言うべき《世界精神》は モノの根源であると言う《物質》と けっきょく 同じ概念ではないかとさえ 思われます。どちらも 目に見えず 経験科学の眼では捉えられない《霊》のことを 言い変えているに過ぎないと考えられないでしょうか。

この回答への補足

 ≪時空間の問題なり《探究の対象問題》なりについては 幅広く柔軟な見方が重要になってくるのではないでしょうか。≫
 そういう意味としてのおことばなら、洵に首肯できることなので、しっかり、誡めにしていきます。

補足日時:2007/12/15 07:39
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この回答へのお礼

 お早う御座います。brageloneさん。
 唯物史観はその取り扱う範囲に於いては、きちんと論拠と推論をするなら、その限りにおいては、そういう考えも有るなというくらいですね。
 何かそれを踏み外して、価値や当為になってきたら、国政の価値理念になったら、それはもう眉に唾でなければならないと整理してます。

 別にbragelone様に同じに思ってくださるようにとは申しあげられないのですが、≪~~経験科学の眼では捉えられない《霊》のことを 言い変えているに過ぎないと考えられないでしょうか。≫については、
 結論をいえば、主観的には全く異質であると存じました。
 ヘーゲルの世界精神はあまり信仰的認識が出来ませんでしたが、つまり自己の血肉の由縁って来たったものとはできませんでしたが、この《霊》はやはり、正に自分もそして万物もそこからきているものと、体感できるものです。

お礼日時:2007/12/15 07:39

少し、言葉足らずでしたので補足。



地球の存在様式の反映だよ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
地球そのものがなけりゃ、南も北も存在しません。
「南北も地球の存在する限り」
「時空も宇宙の存在する限り」
反映とは、このような意味で使っています。

物質は時間的・空間的にしか存在できないし、時間と空間との概念が成立するのは物質があればこそ。

という理由です。

空間と時間の哲学的理解:

空間も時間も、厳然として目の前に存在している。
長さや幅も高さもある3次元が空間である。
過去から未来へと進んでいるのが時間である。

この単純な理解こそが哲学的な理解と考えて良いのじゃないですか?
何も難しく考える必要も意義もないのでは?

空間と時間の科学的な理解:

アインシュタインによれば、そういう哲学的な時間と空間と物質の在り方は密接不可分。
空間と時間も、物質の質量や運動の影響を受けている。

この認識こそが科学的な理解。

哲学的な理解の検証は、科学的な理解との整合性の有無で行うべきでしょうね。
その逆も然りかと思います。

>相対性理論的認識も絶対的認識も、このことでは私には関心のないことなのです。

これは、哲学的な理解と科学的な理解との整合性の意義を切って捨てる暴論。
ならば、哲学的な理解は、単なる解釈のための解釈になってしまうのじゃないですか?

やっぱし、アインシュタインの相対性理論も読むべきですよ。
やっぱし、スティーブン博士の論文にも目を通すべきですよ。

この回答への補足

 ≪アインシュタインによれば、そういう哲学的な時間と空間と物質の在り方は密接不可分。空間と時間も、物質の質量や運動の影響を受けている。≫ そういうものだと受け止め、受け入れて自身の内になお、内省を継続いたします。そういう知識を携えて。有難う御座います。

>相対性理論的認識も絶対的認識も、このことでは私には関心のないことなのです。
 ○私のこのセンテンスは、無用に思弁や演繹計算での知的アプローチや、頭からの崇拝的言い方が受け入れがたいということをいいたかったのです。自分の思いめぐらす作業の中で、つまり自分の中で通用させている、個人的な慣用句を、社会的ことばに直さないで、書いてしまいました。

 アインシュタインもスティーブンも読みたい気持ちはあるのです。
 原典より、読んだ方の講義か、紹介や注釈がいいなと捜しております。

補足日時:2007/12/15 07:14
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この回答へのお礼

 有難う御座います。私の質問にずいぶんと相手をしてくださり、
 心より感謝申しあげます。

 ≪何も難しく考える必要も意義もないのでは?≫
 物事もそして、判断やことばの内容も洵に関係の中の、そして相対的なものだと、ここでも痛感しました。
 誰が何を≪も難しく考える≫のかということなのですが、鶴の食器は亀の食器には不便ですよね。そんな意味でして。
 このご説明の前半部分は一応私なりに理解できたかと存じます。
 有難う御座いました。今後ともどうぞお教えのほどを。

お礼日時:2007/12/15 07:12

よそものですみません。


時間と空間について理解している者です。
まず
>客体物や事象があることがわかるかどうか、意味があるかどうかではなく、そういうものがなくても、
 (1)時間とか空間とかはありうるのか。

について答えさせていただきます。
まず時間=変化ですねこれは絶対です。これを我々は時間と定義したのだからこれに対しては真意をとわれてもそうだとしか答えようがありません。
そして空間について:空間は物質を占有する領域を持つものですから
物質の背後にあるものだと考えてください。そう考えれば物質がなくなっても在る事になります。
時間も幾ら物質が止まっていようが物質が消えてなくなっていようが時間が進んでいないという時間が存在していることになるので時間が止まったとは言えても時間が無くなったとは言えません。ですから在ることになります。
まあ(1)はこんなところです。
では(2)
>(2)時間と空間は客体物や事象の存在形式なのか、それとも知覚や経験側の形式なのか

これは意見が分かれるところですね。しかし答えは簡単近くや経験則形式です。ただ客体事象存在形式は証明されていませんから補助役になります。
※(「証明さてれいません」とは超能力にしろなんにしろ知覚認識でしか捉えられないので客体事象は仮説になりますSF映画マトリックスを思い描いていただければ分かりやすいかと思います)
方程式化するなら
絶対(知覚経験則形式)=Z(tk),仮説(客体事象存在形式)=K(kj)
とするなら
Z(K)=時空間といったところでしょう。

この回答への補足

 有難う御座います。
 4. 知覚や経験則という形式たらざるを得ない。いや当然ですね。カントや現象学を持ち出すまでもなく。
 5. しかし客体事象存在形式は≪証明≫されていない。そういう意味で、補助役である。

 ≪≪もう少しことばを付加していただけないでしょうか:
  『補助役になります』というご説明について≫≫

 ≪≪確認なのですが:
  『Z(K)=時空間』のZ(K)とは、つまり絶対仮説という
   ことでしょうか≫≫

補足日時:2007/12/14 09:19
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この回答へのお礼

 有難う御座います
 決して、訪問の異邦人などと仰らないで下さい。たいへん大事な示唆であります。

 時間はイコールの変化ですか。そして我々側の定義ですか。その定義が存立する体系もあるわけですね。それが前提の定義ですね。
 1. 知的定義でしょうかね。それともア・プリオリなる形式でしょうかね。

 2. 空間はあるという客体物背後にある、客体的物が占有している領域ですか。でも客体としてある物、これがなくなった状況などはないでしょうから、その意味では、矛盾したいいかたですが、整理としては客体物がなくても背後にあったもの、領域としてあったものという仮の理解はできそうですね。そして次のご説明ですね。

 3. 変化がなければ、時間は停止。しかし変化がないということはない。しかし、時間は停止しても(=変化がなくても)、停止している時間はある。でも物があるということは変化であるわけですから、停止した時間になる、ということは、変化を存在の必然的な要件としている物質の世界ではないですね。

 このあたりまでは、捉え方、いいかたとでもいえそうな気がしてきました。

お礼日時:2007/12/14 09:19

いまわたしたちが存在している世界は すべてが程度問題の領域です。

(相体世界です)。

時間も 長いか短いか 空間も 広いか狭いか モノも大きいか小さいか コトも強いか弱いかなどなど 程度が大きいか小さいかの世界です。人の頭が賢いと言っても愚かだと言っても 程度問題です。

モノは かたちを変えて どこまで行っても モノであるか それとも コトに変わってしまうかです。モノ・コト・時間そして空間の 始めや限界をもし想定するとすれば その初めの以前や果ての外には 何があるか 何かあるかが問題になります。

程度問題ではない世界は 果たしてあるかです。

分かりません。分かるか分からないかが 分かりません。《霊》の世界です。

時間の始まる前の霊の世界に 時間があったか 分かりません。空間の果てを超えた霊の世界に 空間があるか 分かるかも知れませんが 分からないかも知れません。

この霊の世界について 経験科学は 一般に禁欲するようです。神学 神秘思想が 観想・瞑想してきたかも分かりませんが ですから 人間の知恵と知識にとっては 《霊》の世界として名づけて その想定を 必要なかたちで 仮りに用いて わたしたちの意思疎通を行なうのが 普通となっています。
 この霊の世界を 無だと想定したい人びとは あまりこの仮りの概念をも使いたくないと思っているはづです。

乱暴に端折った言い方をすれば この霊の世界についても 人びとが 理性的かつ直観的に 全体として合理的な妥当性を持ち こころにも響く真実が語られていると思う表現をこしらえたなら そのほうが勝ちだという見方もありえます。 

この回答への補足

 bragelone様 お早う御座います。
≪~~~表現をこしらえたなら~~~≫
 4. 敢て『表現』というお言葉でした。そして『こしらえる』という。 何かがあって、或は想定した世界の表現なのですね。
 やはり、大貴兄の、『表現』と『こしらえる』ことば使用については、伝わりやすそうですが、不用意な表現にして、中身が精錬されてはいないのではないかという、私の言い方で、批判申しあげます。

 どうか、ご教示を。

補足日時:2007/12/14 07:40
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この回答へのお礼

 bragelone様有難う御座います。

≪モノは かたちを変えて どこまで行っても モノであるか~~≫
 1. 大貴兄が敢て、カタカナでお書きになったお心、意味が受け取りにくいのですが、創造界の客体物体と事象・現象としておきかえていいですか?

≪始めや限界をもし想定するとすれば~~≫
 2. 大貴兄にして敢て想定という次元で仰られるのですか。
   始めも終わりもないのが、客体と事象・現象で構成されている、この創造界になりますか?そうするとここは起源・根源ですか?終局ですか?最高究極ですか?実体世界ですか?

≪~~分かりません。《霊》の世界です。~~~≫
 3. 判ると存在するのですか?判らないと存在しないのですか?
   存在するとはいえないのですか?存在しないとはいえないのですか? 判るとは誰が、何として、何によって判るのでしょうか?

お礼日時:2007/12/14 07:40

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