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朝鮮の歴史についての長年のギモンです
かつての李氏朝鮮(この呼び方はヨロシクないそうですが)は、長年の内紛や日本を中心とする列強の圧力により、最終的に当時の日本の併合され以降「日帝36年」の時代が続きます。朝鮮の皇族方は東京に送られ(招かれ?)以後日本の"準皇族"として赤坂(紀尾井町でしたっけ?)にお住まいになることになったそうです。
日本が連合国に降伏し東アジアが 西欧列強+日本 の支配から開放された後、当のエリアが次々と国家として独立を果たす中で、朝鮮半島も南北に分かれながらも一応の独立政府を持つに至ります。

このとき..朝鮮半島の人々の中には李王家についてどのような感情をもっていたのでしょうか?
シロート考えでは、儒教の盛んな国とのこと
「独立回復の暁には、何よりもまず苦労された皇族方をお迎えしてダナ...」
なんて動きがあったのかとおもいきや、どうもそういう話は聞きません。
それどころか、当の皇族方は日本に居続けたような話も聞きます。
独立後の当時の半島の人々の李王家に関する扱いや、想いがどのようなものだったのか?
なぜ、李王家は再興できなかったのか?
後存知の方があれば教えてください。

A 回答 (4件)

李王家最後の妃、方子さんは数年前に亡くなりましたね。

日本人です。
李家に嫁がされたわけですね。

紀尾井町の住まいは、今の赤坂プリンスホテルになっています。

方子さんは、戦後ずっと韓国に住んでいました。福祉関係の仕事に携わっていたとか。けして裕福な暮らしではなかったと思います。

つまり、日本に加担したわけですから、その一家をふたたび…という感情はわかなかったのでしょう。

今のソウル市民に尋ねても、王家の人々がどうなったか、知っている人は少ないのではないかと…
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
李方子さんについては、テレビで見たような気がします。
(関口宏の番組だったかな?)
で、今回おかげ様で「李方子」をキーに調べてみることでこの問題について大体の像が見えてきたように思えます。
>今のソウル市民に尋ねても
これがナカナカ聞き辛いんですよねー。また「日本人は歴史を知らなさ過ぎる!!」なんて言われそうで..

お礼日時:2002/09/19 02:17

そもそも、朝鮮半島が日本に併合されることになった大きな要因の一つが、李王家及び両班階級が国内の権力闘争に明け暮れ、それぞれの派閥が日清露三国に接近したことが、三国の干渉を招いたから。



また、当時のフランス人宣教師の記録によれば、併合以前の朝鮮半島は『無法地帯』だったようで、併合後、日本がまず最初にしたことは『治安の回復』だったそうですから。

誰も、そんな為政者を再興したいとは思わなかったのでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
>李王家及び両班階級が国内の権力闘争に明け暮れ、..
ふむ!
歴史の解釈は幾通りもあるとはいえ、向こうの「正しい歴史認識」ではこの辺りは学校でどのように教えているのでしょう?
余計なお世話ですが、その後の李王家再興問題と絡めてちゃんとツジツマがあったストーリーになっているのか心配です。

お礼日時:2002/09/19 02:18

>儒教が盛んなこと


と王族への忠誠とは少し違うと思います。
儒教では王への忠誠よりも親・先祖の孝行を重要に考えているからです。つまり、王家の家系より、自分の家系が滅びないようにすることの方が重要なのです。

おまけにNo.2さんの言う通り、当時の王宮では勢力争いや汚職にまみれていました。当時ロシア側に肩入れしていた王妃のミン妃が日本に殺されたのもそんな勢力争いの中心にいたからでしょう・・。

しかし、終戦と共に日帝時代が終わり、李家では東京の資産を売って整理し、韓国へ帰国の準備をしていました。
>赤坂(紀尾井町)
今の赤坂プリンス旧館しかりです。
日本での売却交渉がうまくいかないと共に、韓国での王族の待遇や生活の保証が決まらないうちに、朝鮮戦争が始まってしまいました。
そのころの李承晩の独裁的政治に疲れた民衆は、李王家復活を望んだ一方で、大統領の反日教育に乗せられて、王の妻が日本人(方子)であることで帰国に反感・不安を感じていたのも事実です。

1936年の帰国実現には政権交代した朴大統領の配慮によるものがありました。しかし、李王はすでに病床の身。一人息子はアメリカ在住でドイツ系の女性と国際結婚。李王家の終焉は歴史の必然とも言えたかもしれません。

No.1さんの言う、王家の人々がどうなったかを知らないというのは、歴史のずっと後のこと、つまり、ごく最近になってのことです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
李王家復興のもう一人のキーマンとして李承晩が出てくるとは思いもよりませんでした。
「李承晩」もキーに調べることで、この問題について一層良くわかるようになりました。
なるほど、大統領からすれば二つの戦争の後(二つ目の方はいまだに継続中?)ボロボロになった国家を纏め上げていくためには、なるべく余計なものに神経を使いたくはなかったのかもしれませんね?

お礼日時:2002/09/19 02:18

戦中、李王家は日本の皇族と同じ待遇を受けていました。

(日本政府からです)
朝鮮本国からはかなり批判の的でした。(なんせ自分の国にいず、いわば敵国(のような存在の日本)でのうのうと暮していたのですから…実際はかなり情報が入らない状況に王家側がされていたのですが
で、戦後のGHQの指導により、皇族解体がなされます。他の臣民降下(ですか?)した元宮家には、天皇側からの下賜金(が何円か出て、高額な税金対策に対応したそうです)が出たのですが、準皇族であったこと・夫の李垠が陸軍に所属していたこと(戦犯者に属します)・他国の王朝の人間だったことによりもらえませんでした。(ただし所有地に高い税金はかかったので家屋敷は手放さねばなりませんでした)

日本では皇族ではなくなったため、朝鮮本国への帰国を希望しましたが、当時(1948年から)韓国では李承晩政権がはじまりました。彼は李王家の分家筋にあたる人でした。李垠・方子夫妻が帰国すれば直系の方に人気が行くことを恐れて、反日教育をし、李王家は日本に朝鮮を売ったのだと言い、彼らの帰国を許しませんでした。ようするに新政権には邪魔な存在だったのです。VISAの発給もしてくれなかったそうで、長い間無国籍状態で日本で生活していました。

また、李王家の直系は韓国併合時代に死んでいますし、李垠の妹の徳恵姫は元対馬藩主と結婚したものの精神病を患い、日本で入院していました。李垠・方子夫妻は日本、夫妻の息子はアメリカに留学してましたので、戦後の李王朝は直系がいなかったため再興されなかったのだと思われます。実際、李垠・方子夫妻・徳恵姫が帰国できたのは李承晩政権が倒れた後で、日韓の国交正常化が結ばれた後で、1960年代に入ってからでした。(既に国が成り立っていることと、帰国当時の李垠は脳血栓により意識が既になかった状態から再興の考えは上がらなかったようです。息子もずっとアメリカに永住していますし、奥さんはアメリカ人だったかな?)

韓国国民のほうはそんなに李王家に対し嫌悪的な感情は持っていなかったそうで、あまりにも冷遇を続ける李承晩元大統領のほうの人気が下がったらしいです。
しかし、李垠・方子夫妻の帰国前・後でも方子妃が日本人だというのはかなり冷たい目でみられたそうです。

北朝鮮の方はソ連指導下に置かれたため、全く音信不通でした。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
確かに1960年代では、再興も遅きに失した感がありますね。
また、半分になってしまった国土や人民というのも王室としては受け入れにくいものなのかもしれません。
(その「半分」にしても「王室が何らかのカタチで関与して守り切った」という訳でもなさそうだし..)

もし、今でも李王家が残っていて、且つ日本の皇室と対等に仲良くしてくれていれば...
日韓の歴史ももう少しいいものになっていたかもしれませんね。残念です。

お礼日時:2002/09/19 02:19

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