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三十年戦争について二つ質問があります。
・旧教のフランスが新教側で参戦したのはハプスブルク家がいたから
と学んだのですが、フランスがハプスブルク家を倒したかったのはなぜですか?

・ウェストファリア条約後、ハプスブルク家の勢力が落ち、北ドイツ、プロイセンの力が増大したのにはどんな背景があるのですか?

面倒だとは思いますが、返信よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

フランスとハプスブルク家の確執は、それ以前のフランスとブルゴーニュ公との確執を引きずったものです。



ブルゴーニュ公家は、フランス王族の1つで、フランス王ジャン2世の危機を救った功績によりブルゴーニュを与えられました。
その後フランドル伯の娘と結婚し、フランドルを領有します。
フランドルの最大の産業は、毛織物工業で、イギリスから羊毛を輸入し加工、販売を行う事で、ヨーロッパ有数の裕福な地区になっていました。
しかし時は、イギリスとフランスの百年戦争の真っ最中でした。
ブルゴーニュ公は、フランスの中の商工業者の代表でしたが、フランスでは農業中心主義のアルマニャック派が多数を占め、ブルゴーニュ公はフランスからはじき出されてしまい、イギリスと手をくみます。
その後、ジャンヌダルクなどの話もあり、イギリスの敗退で百年戦争は終結するのですが、フランスとブルゴーニュ公の確執だけは解消されませんでした。

ハプスブルク家のマクシミリアン1世が、ブルゴーニュ家のマリアと結婚し、ハプスブルク家領となると、フランスとブルゴーニュ家の対立を引き継ぐ事になります。

さらに、当時のスペインでは、フランスと南イタリアの領有で戦争状態でした。
対フランス同盟として、マクシミリアンの息子フィリップとスペインのファナ王女が結婚し、二人の息子カール5世(スペイン王カルロス1世)が王位を継ぐと、フランスとの対立が激化します。

それ以降、ヨーロッパでは、フランスを中心としたグループとハプスブルク家を中心としたグループで対立し続けます。

三十年戦争においても、そもそも神聖ローマ帝国の皇帝であるハプスブルク家と帝国内諸侯との対立によりおきたもので、敗勢の諸侯側が、外国勢力(デンマークやスエーデン)に支援を求めましたが、敗勢をくつがえせずにいたため、ハプスブルク家の勢力拡大を恐れたフランスが直接介入する事になります。

フランスとハプスブルク家の対立が解消するのは、マリーアントワネットがフランスのルイ16世に嫁ぐまで続きます。

プロイセンの勢力拡大の原因は、ひとつにはハプスブルク家の力が落ちた事があります。
ハプスブルク家のスペイン系では、三十年戦争による財政圧迫、産業の空洞化、新大陸からの銀の流入減少、ポルトガルの分離、オランダの独立などで、国力が大幅に低下し、ヨーロッパに覇権をとなえるどころではなくなっていました。
オーストリア系においては、トルコの侵略が続き、とてもドイツ方面に力をそそぐ余裕がありませんでした。
さらにウエストファリア条約により、北ドイツは、プロテスタント系が主流となり、カトリックの勢力が及ばない地域になりました。
そのプロテスタント勢力の中心がプロシアを併合したブランデンブルクでした。
さらにブランデンブルクは、スペイン継承戦争においてハプスブルク家の味方をし、王の称号を手にいれ、プロシア王国となり、完全にオーストリアの影響を受けない国になってゆきます。
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この回答へのお礼

詳しくありがとうございました!

お礼日時:2007/12/25 18:58

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