マンガでよめる痔のこと・薬のこと

ナポレオンによるロシア遠征が失敗した大きな理由は何か

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (4件)

そのテーマは、聞くのは簡単ですが、答えるのは以外と難しい問題です。


というのも、いろいろな観点があるからです。
もちろん単純に兵站面に失敗の原因を見るのは簡単なのですが、
それは逆に言えば、最初から分かっていたことであって、
ナポレオンはそうなることを予期していたし、カール12世の失敗をよく研究していました。
しかしそれでも彼が試みて失敗したのは、全く別の観点から彼が
戦役を考えていたということであって、また彼が考慮せざる得なかった
複雑な経緯と情勢があったということを理解しないと、
どうして失敗したのかという本当の理由を知ることはできないのです。

ナポレオンが兵站や補給を重視しなかったというのは間違いで、
逆にナポレオンはこの時代のどの将軍、どの政治家よりも兵站の重要性を認識し
その準備に可能な限りの万全を期そうとしました。
しかし戦術的観点から、輜重隊のスピードに捕らわれて戦うことはできなかったし、
物資を広範囲に分配することは、この時代のインフラと輸送手段では不可能だったわけで、
無補給下で軍を機動させるというリスクは、勝利のためには必要だったのです。
だからもうこの時代の装備では(というか第二次世界大戦当時でも無理だったわけで)
ロシアを短期間で制圧することは不可能であったというのが
兵站面からの結論といえるのですが、ナポレオンは実は全く別の計画を持っていました。

そもそもナポレオンは、短期間でロシアを征服することが不可能であると
開戦前から理解していて、複数年に及ぶ戦役を計画していたのです。
だからこそこの戦役当初、「第二次ポーランド戦役が始まった」と称したわけです。
彼はロシアの野戦軍の撃滅を試みつつも、初年度は旧ポーランド・リトアニア領を占領するにとどめ、
ロシアの西と南の主要穀物生産拠点を占領して、ポーランド人の解放というなで
分離させようと考えていたようです。これは彼と側近が交わした幾つかの会話記録でわかります。
ただ、問題は国際情勢がそれを許さなかったことで、特にスペインでの半島戦争での劣勢が
ヨーロッパの東西の端で戦争を維持するという危険から、
戦争の早期終結の必要性をナポレオンに迫ったのです。
サマランカ会戦でのマルモン元帥の大敗で、半島が同盟軍の手に落ちることが
確実になり、スペインはフランスの隣国であり、ここの陥落は本国に敵が迫ることを意味していて、
ナポレオンは散々躊躇しまいたが、
スモレンスクからさらに前進して、モスクワ前面で待つであろうクトゥーゾフ軍と
決戦を交えようと考えるにいたるわけです。
最初の計画では、一年目はスモレンスクよりも東に行く予定はなく、
リガなど沿岸部の都市の攻略を待ちながら、冬営するつもりだったのが、
結局のところは急遽変更ということになったのです。

さて、いかにして戦争を終結させるか、ということなんですが、
クラウゼヴィッツが言っているように、戦争の終結は政治的に続行不可能になった場合に起こるということであって、
ナポレオンもロシアのツアーリが戦争継続を諦めるような状況を作り出すという
観点から行動することになります。
クラウゼヴィッツも同意するところですが、ナポレオンの戦略目標は、
野戦軍の撃滅、もしくは、首都モスクワに占領しつつさらにロシアに脅威なりうる兵力を保持するというものでした。
これについて詳しく説明しませんが、これが合理的にアレクサンドルが講和に応じざる得ない状況というものです。
で、結果論でいうと、ボロディノ会戦において、ナポレオンは野戦軍の撃滅に失敗し、
かつ塹壕での砲撃戦となった当会戦で大きな損失を出したことから、
兵力を減じ、アレクサンドルに講和を強要するに至らず、
冬の到来とモスクワの大火、破壊工作によって冬営も不可能となったことから
大敗走となるわけです。

ナポレオンがロシア遠征に失敗した本当の理由は両面作戦、
スペインで戦争をしていたということが大きいです。
そもそもロシア遠征と半島戦争の原因が、大陸封鎖令の徹底ということで、
因縁めいているけれども、これだけの大計画にもかかわらず、
細部がつめられていなかったのは、ナポレオンにしては珍しい感じですが、
突然の計画変更や、情勢の変化はナポレオンの足を引っ張りました。
逆に言えばこれだけの総力戦に近いような大規模動員・大量物量の作戦を
一人の人間の脳みそで処理するには大きすぎたといえるかもしれません。
しかし紙とペンと伝言ゲームだけで、全てを準備して、60万余の大軍を動員して
モスクワを占領するに至るのはとてつもないことでした。
ナチの機械化軍団がやれなかったことを、ナポレオンの軍隊は徒歩で達成したわけですからね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました!すごく良くわかりました!

お礼日時:2008/01/05 00:35

それぞれのご回答のあるように種々の原因が指摘されているとうりですが、私はナポレオンが召集した大軍が彼の征服した各地の連合軍で構成されていた点を指摘したいです。


一口にナポレオン軍と呼ばれますが、実体は連合軍であり、純粋のフランス軍は半数を僅かに越える程度だったと思われます。

フランス軍は歴戦の兵士で戦意も高く信頼がおけましたが、その他の国からの徴募兵はなんの為に寒いロシアへ遠征するのか理解できなかったでしょう。

彼らの中で最も勇敢に戦ったのはポーランド兵だったのは永年ロシアに占領されていたのをナポレオンに解放されたからでした。

このような戦意も装備もバラバラな軍隊を統括しなければならなかったのが一因とおもいます。

さらにそれまでの戦役では敵の首都を占領すれば講和会議となるという先例があったのですがロシアにはこの先例が通用しませんでした。
ロシアの後進性と国土の広大な事が災いしました。
ナポレオンがこの先例に引きずられてモスクワの占領に執着し、ロシアの使者を待ち続けたのも一因でしょう。  このため撤退の時期を誤りその兵力の大半を各個撃破され反撃出来なかったのも一因です。
    • good
    • 0

ナポレオンが、補給よりも敵の殲滅を主目的としていたのは、彼の戦いを見る限り明らかです。


ロシアとの戦いも、当初モスクワまでの進撃は考えていなかったように思われます。
ナポレオンは、策源をダンツィヒにおいており、通常よりも多い24日分の食料を持って進軍を行います。
ロシア軍主力は、ヴィルナにあり、この主力を撃破することで、ロシアが降伏すると考えたわけです。
ナポレオン軍がヴィルナに到着した時、ロシア軍は、ドリッサ方面に退却してしまっていました。
後退するロシア軍は、ヴィルナを略奪しつくしていたため、ナポレオン軍は、現地徴発が全くできない状況でした。
ダンツィヒを出てヴィルナまで22日かかっており、この時点でナポレオン軍の食料が尽きかけていたと思われます。
ヴィルナで補給を受けるために、20日ほど滞在しますが、その間に兵士の脱走などにより、兵力が半分になってしまいます。

ヴィルナは、現在のリトアニアのヴィリニスです。
つまりナポレオンは、リトアニア占領程度の食料しか用意せずに戦いに望んだ事になります。
また、ロシア軍の捕捉・殲滅を疑う事無く信じていたのでしょう。
そしてロシア軍の殲滅により、ロシアの降伏も既定事実としていたのでしょう。

しかし実際は、ロシア軍の士気の低さから撤退により、モスクワまで誘い込まれるような形となり、ナポレオン軍は壊滅してしまうのです。
敵兵力の殲滅ばかりに目を奪われ、補給を無視した戦い方がナポレオンの自滅を招いたのです。
これは、アウステリッツの戦いや、フリードランドの戦いで、補給切れの状態でも勝利を収めた経験からと思われます。
つまりナポレオンは、戦略よりも戦術を重要視し、戦術的勝利の積み重ねで戦略的問題を防ごうとしたのです。
しかし軍事学の定義で、「戦略的失敗を戦術で補う事はできない」を証明してみせたのです。

またナポレオン軍の特徴としまして、「ナポレオンがいるところでは全戦全勝ですが、ナポレオンの居ないところでは極端に弱い」という特徴があります。
これは、ナポレオンが部下に絶対的な服従を求め、独自の判断での行動を許さなかった事が原因とされています。
しかし、いかにナポレオンといえども、60万(実際にロシアに侵攻したのは45万ですが)もの兵力を全て把握する事はできず、ロシアでの苦戦となった事も原因でしょう。

そういったナポレオン軍の欠点をついたのが、クラウゼヴッツなどのプロイセンで、後日ドレスデンの戦い(諸国民の戦い)で、ナポレオン軍を壊滅させています。
    • good
    • 0

ナポレオンの戦い方は、機動力を利用し相手の弱い点を集中攻撃し、確固撃破する事を得意としました。


そのため、軍への補給を待っていると敵を撃破するチャンスを逃すため、軍への補給は、戦術的には全く考慮せずに、食料は占領地からの徴発でまかない、弾薬や大砲、銃などは、敵からの鹵獲によりまかないました。
ナポレオンが主に戦ったドイツやイタリアではそれが有効に働き、無敵ともいえる強さを発揮しましたが、ロシアとの戦いでは、ロシア軍が士気の低さから戦わずに撤退し続ける一方、焦土戦術をも併用したため、ナポレオン軍は、補給で完全にゆきづまってしまいます。
ロシアは、それまでの戦地に比べ貧しい土地であっただけではなく、ドイツやイタリアでの動員兵力が数万~10万程度であったのに対し、ロシア遠征には60万近い兵力を動員したことも、ナポレオンの補給体制を完全に崩壊させてしまいました。
そのため、ナポレオン軍は、全く戦いが無いにもかかわらず、脱走が相次ぎ、大軍は消え去ってしまい、モスクワ前面での戦い(ボロジノの戦い)での時には、兵力は12万程度になってしまっていました。
しかも兵力不足から、ロシア軍を壊滅できずにモスクワに侵攻する事となります。
モスクワに入ったナポレオン軍は、10万強に減っていました。
モスクワでも満足に補給ができず、モスクワを占拠し続ける事は、部隊の自滅を意味するだけだと悟り、モスクワからの撤退を決意します。
撤退するナポレオン軍に、ロシア軍の追撃があり、ドイツ国内まで撤退できたのは、千名程度でした。

60万の大軍が千名程度しか残らなかった原因は、ナポレオンの補給軽視・戦術重視がその最大の原因です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました!!!!もうちょっと調べてみます!とても役に立ちました!

お礼日時:2008/01/04 01:16

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qナポレオンは、なぜモスクワ遠征に遠征したのでしょうか。

ナポレオンが、ロシアと戦った時に、モスクワに遠征し、敗北しましたが、なぜ、当時のロシアの首都であるペテルブルクではなく、モスクワに遠征したのでしょうか?

普通に考えますと、首都を目指して攻め込むものだと思います。

また、ペテルブルクの場合、海に面していますから、補給もモスクワより楽だったと思います。

さらに、モスクワへ進撃する場合、南北両方の側面を敵にさらすことになりますが、ペテルブルクへの進撃の場合、南方だけに配慮すれば、足りますので、絶対にモスクワより楽だったと思います。

そりを、あえて進撃先としてモスクワを選んだのは、なぜなのでしょうか。

Aベストアンサー

余りに話が長すぎて、内容が分かりにくかったでしょうかね?
全体を読んでくださいね。

いいですか、実際にはリガは攻略されてません。

ナポレオンの主攻撃の矛先はこちらには向きませんでした。
しかしもしあなたが言うように、最初からペテルブルグを攻撃するつもりで、
リガを攻略してペテルブルグに進んだとしても、
時間的に無理があって、モスクワに進んだ場合と同様に結果にしかならないということを
”仮定”を使って説明したわけです。
わかっていただけるでしょうか? 前の投稿も読み返してみてください。


実際にはロシア軍の増援の到着で攻略を諦め、封鎖を続けて挙句に、撤退です。

マクドナルの軍団の兵力は約3万1千名。
エッセンのリガ守備隊は初め1万2千名、10月にフィンランド軍団の来援があって2万7千まで増加します。
加えて海上にイギリスの戦列艦18隻、河には砲艦21隻以上があって完全包囲を困難にしていました。

4万というのはどこの数字でしょうか? 間違いでょう。
ロシア軍は規格よりも大きい第25師団(軍団規模)、フィンランド軍団の二個師団しかないので、4万になることは絶対ないです。
ロシア軍の編成だと概略で、師団が6千、軍団が1万2千ぐらいです。


ポメラニアはスウェーデン領とプロシア領の二つがあります。
スウェーデン領なのはリューゲン島のある方です。
1807年にもフランス軍に一回占領されましたが、翌年に関係改善されて返還されています。
そして1812年に再度占領されるのです。

ナポレオンは最初、第二次ポーランド戦役と号してこのロシア戦役を始めたので、
リガ攻略の意思はありましたし、リトアニアの解放という政治的意図は明らかでした。

ただし結果的にはナポレオンはスモレンスク街道を急進することを選び、ロシア軍も第一西軍と第二西軍を合流させたので、野戦軍撃滅という目の前の最優先課題にとりくむことになったわけです。
だからマクドナルの消極性もあって、結果的にリガは封鎖になったというだけです。

現実的に考えて、ペテルブルグ方向にはそれほどのチャンスはなかったでしょう。
敵の主力を無視して自由にさせるわけにはいかないですし、ペテルブルク方向にはヴィトゲンシュタインの1個軍団があるだけです。
逆にクツーゾフ統合西軍は歩兵と騎兵をあわせて11個軍団もあるわけで、どっちを狙うべきかは明らかでしょう。
サン=シールやウディノの軍団があったので、それでヴィトゲンシュタインを追いかけてもよかったわけですが、補給線の維持につかっただけになりました。

イギリス軍は地上部隊が数個大隊ありましたが、分断の必要があるほどではないですし、オランダ戦線と違って海から直接支援を受けていたわけではないので、海側に追い詰めてもあまり意味はないでしょう。
むしろ南方ウクライナ方面が穀倉地なわけですから、あっちを分断したほうが論理的です。

余りに話が長すぎて、内容が分かりにくかったでしょうかね?
全体を読んでくださいね。

いいですか、実際にはリガは攻略されてません。

ナポレオンの主攻撃の矛先はこちらには向きませんでした。
しかしもしあなたが言うように、最初からペテルブルグを攻撃するつもりで、
リガを攻略してペテルブルグに進んだとしても、
時間的に無理があって、モスクワに進んだ場合と同様に結果にしかならないということを
”仮定”を使って説明したわけです。
わかっていただけるでしょうか? 前の投稿も読み返して...続きを読む

Q日本租界が中国に与えた影響

こんにちは、今中国に設置されていた租界について興味があるので調べています。
租界について調べている内に疑問に思った事があるんですが、
欧米列強の租界が中国に与えた影響は分かり易いですが(建築や欧米の文化そのもの)
日本租界が中国に与えた影響はいまいちよく分かりません。
日本租界は中国に対してどのような影響を与えたのですか?
一応自分でも確認したいので書籍とかホームページなども教えていただけると助かります。
では回答宜しくお願いします。

Aベストアンサー

この本がわかりやすいでしょうか?
中国における日本租界―重慶・漢口・杭州・上海 (神奈川大学人文学研究叢書) (単行本)
http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A7%9F%E7%95%8C%E2%80%95%E9%87%8D%E6%85%B6%E3%83%BB%E6%BC%A2%E5%8F%A3%E3%83%BB%E6%9D%AD%E5%B7%9E%E3%83%BB%E4%B8%8A%E6%B5%B7-%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E4%BA%BA%E6%96%87%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E5%A4%A7%E9%87%8C-%E6%B5%A9%E7%A7%8B/dp/4275004329

こちらもご覧ください。
http://www.fsinet.or.jp/~kyouko-h/chinacave/shanghai-sokai/shanghai-sokai.htm
http://4travel.jp/traveler/iskandal/album/10133687/

参考URL:http://item.rakuten.co.jp/book/4013134/

この本がわかりやすいでしょうか?
中国における日本租界―重慶・漢口・杭州・上海 (神奈川大学人文学研究叢書) (単行本)
http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A7%9F%E7%95%8C%E2%80%95%E9%87%8D%E6%85%B6%E3%83%BB%E6%BC%A2%E5%8F%A3%E3%83%BB%E6%9D%AD%E5%B7%9E%E3%83%BB%E4%B8%8A%E6%B5%B7-%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E4%BA%BA%E6%96%87%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E5%A4%A7%E9%87%8C-%E6%B5%A9%E7...続きを読む

Qナポレオンの戦争の目的

ナポレオンは欧州全体を巻き込んで多くの戦争をしましたが、その目的は何だったのでしょうか? 戦争双方の当事者の目的をそれぞれ教えてください。

Aベストアンサー

ナポレオン戦争と一口で言いっても
実際的にはそれぞれ別の戦争で
別の目的をもっています。

基本的な対立構図は、フランス対イギリス、
フランス対オーストリア(or ドイツ)、
フランス革命対旧社会、ナポレオン対その他
というもので、
その時々の時代背景に合わせて
これが複雑に込み合って戦争になっているわけです。
基本的には、英仏間の第二次百年戦争といわれるほど
英仏間の敵対関係は絶対的で、
ナポレオンが登場しなくてもこの両国は
戦争があるたびに敵味方に分かれて戦っていたという
事実があります。
また新興するドイツとフランスは潜在的な敵対関係にあり
オーストリアとフランスは縁戚を交えた宿怨関係にあります。
またフランス革命は当然のことながら
ヨーロッパ全体の君主国に対して警笛を鳴らし、
ヨーロッパはこれを鎮圧あるは封じ込めようと動きます。
そしてナポレオンの登場とその征服によって
支配と被支配の関係になったところで
支配を脱しようとする国とナポレオンとの戦いが加わります。

そういうわけで経過を知ってから
個別の戦争をみていくべきでしょう。

だいたいは第7次まである対仏大同盟の結成と瓦解を
戦争の切れ目と考えるのが普通です。

第一次対仏大同盟(1793-97)は
革命フランス側(ジロンド派主導の立法議会)からの
宣戦布告で始まっており、
相手はイギリス、プロシア、
オーストリア(+神聖ローマ帝国の加盟国の一部)、
スペイン、オランダ、ピエモンテ、およびイタリア小邦。(ロシアも加わったが戦闘には不参加)
その目的は
始めは国内の反革命勢力を外国勢力が支援しているという防衛的なものでしたが、
次いで自然国境の確保や革命の輸出という風に侵略的な性格に変わり、
オランダ、イタリア、ベルギー、ライン諸国を侵略して
最終的にはカンポ=フォルミオの和約で終結。
ただしイギリスとは和平は結びません。
もちろんこのときにイタリアを征服したのがボナパルト将軍で
リヴォリ会戦等の勝利の結果、イタリアを制して
ウィーンを脅かしたためにオーストリアが和平に応じたという展開。

第二次対仏大同盟(1799-1802)は
ボナパルトが東方遠征に出た隙にヨーロッパ諸国が
巻き返しを図ったことから始まった戦争で、
彼らの目的は端的に言えば失地回復。
参加国は、イギリス、オーストリア、ロシア、トルコ、ポルトガルなど。
中東ではトルコとも戦ったのですが、結局は
ボナパルトはエジプト・シリアをあきらめて帰国し
クーデタで政権をとった後で
マレンゴ会戦、モローのホーエンリンデン会戦の勝利で
大陸の戦争は決着したことから、リュネヴィル条約で終戦し
翌年にはイギリスともアミアンの和約を結んで
ヨーロッパには久しぶりに平和が訪れます。
ちなみにヨーロッパはナポレオン以前も
定期的かつ断続的に小さな戦争を繰り返していて
ナポレオンが登場して戦争が急に生まれたわけではありません。

さて、ここら辺、つまり1800年以後からが一般に
ナポレオン戦争と呼ばれるのですが
第三次対仏大同盟(1805)は、
フランスの覇権を嫌うイギリスの策動によって始まった戦争で
これにナポレオンの戴冠に反対する君主国
オーストリア、ロシア、スウェーデンなどが加わります。
トラファルガー海戦の敗戦でイギリス上陸をあきらめた
ナポレオンは、一転してドナウ渓谷を東進して
ウルム、アウステルリッツ等の戦勝によって完勝。
プレスブルク条約を締結して戦争は終結します。

第四次対仏大同盟(1806-1807)は、
前回の戦争にくわわりそこなったプロシアが中心となって
ハノーバーなどの領有をめぐってフランスとプロシアが外交的に対立。
特にライン同盟の結成とフランス軍の
ドイツ駐留が問題となり、最終的には感情的な対立となって
プロシア側から宣戦布告。
ナポレオンは迅速に各軍団を進撃させ、イエナ・アウウェルシュタットで勝利。
わずかな時間でプロシア領内を蹂躙して
ポーランドへと戦場は移り、冬季で苦しむものの
フリートラント等でロシア軍も破って
ティルジット条約で戦争は終結します。
この条約はプロシアにとって屈辱的な内容で
これが以後のプロシアの対フランス戦争参加の動機となります。

1808年はポルトガル遠征があるのですが、
これは1806年の大陸封鎖令をまもらない国に対する最初の懲罰でしたが
後のウェリントン卿であるウェズリー将軍に
ジュノーの軍団が敗れて阻まれます。
これに付随してフランスの同盟国だったスペインへの進駐が始まり
バイヨンヌ事件で王権を奪うと、スペインを併呑して
兄のジョセフを王位につけたので民衆が蜂起して
半島戦争(-1813)が始まります。

第五次対仏同盟(1809)は、ナポレオンがスペインに行った隙に
オーストリアがドイツで失った地位の回復を目指して
フランスの同盟国バイエルンへ侵攻。
ナポレオンが引き返してワグラム会戦等で勝利して終結。
オーストリアも屈辱的な内容を押し付けられ
ロシアのロマノフ家との結婚を諦めた
ナポレオンはハプスブルク家のマリールイーズを妻とすることにして
以後、敵対国同士が縁戚となることになります。

半島戦争は内乱という位置づけになるのですが
1812年にナポレオンのロシア遠征があります。
これは両方とも大陸封鎖令を貫徹させるための戦争で、
要するにイギリスとの経済戦争を目的としています。
しかしヨーロッパ大陸の端と端で戦争をするのは
無謀な試みで、マルモンがサマランカで大敗した数ヵ月後に
ナポレオンもモスクワを退き
両方とも失敗します。

その敗北を受けてヨーロッパの反ナポレオン陣営が再決起したのが
第六次対仏大同盟(1813-14)で、
プロシア、ロシア、イギリス、スウェーデン、
途中からはオーストリアも敵側につき、
最終的には中立だったデンマーク(とスイス)以外の
ほぼ全ての国が敵側に回ります。
ナポレオンは数度の勝利の後でライプチヒで包囲されて
ドイツからの撤退を決断して、戦争はフランス本土に移行。
この段階で同盟軍はナポレオン支配からの脱出という目的から
ナポレオン政権の打倒へと目的が変わり、
フランス側も祖国防衛という目的に変化します。
それで戦争は、結果的にはナポレオンが退位することで
フランスの領土は保全するという了解のもとで終了します。

最後の戦争は百日戦役と呼ばれるもので
第7次対仏大同盟(1815)は
エルバ島を脱出したナポレオンを打倒するための戦争でした。
これだけが唯一、ナポレオン個人を標的にした戦争です。
フランス側からすると、王政復古がありましたから、
革命と憲法を守るための戦争という意義があって、
革命対旧社会という構図がここで再びよみがえります。
結果は、ワーテルローでの敗北でナポレオンの二度目の退位となるのですが、
フランス国内の革命と旧社会との戦いはつづき
それが7月革命などにつながるわけです。


長く書きましたが、
要するに、その時々で目的は違い、
その都度の結果に影響されて次があるということです。

ナポレオン戦争と一口で言いっても
実際的にはそれぞれ別の戦争で
別の目的をもっています。

基本的な対立構図は、フランス対イギリス、
フランス対オーストリア(or ドイツ)、
フランス革命対旧社会、ナポレオン対その他
というもので、
その時々の時代背景に合わせて
これが複雑に込み合って戦争になっているわけです。
基本的には、英仏間の第二次百年戦争といわれるほど
英仏間の敵対関係は絶対的で、
ナポレオンが登場しなくてもこの両国は
戦争があるたびに敵味方に分かれて戦っていたという...続きを読む

Q大陸封鎖令とその影響

ナポレオンが大陸封鎖令を出しましたが、この後にイギリスが逆封鎖(?)したり、さらにフランスが勅令を出したりと、フランスとイギリスの攻防がよく分かりません。
何故封鎖しあったのでしょうか?

また、何でイギリスとアメリカが1812年に戦争を起こすようになったのでしょうか?
大陸封鎖令と関係があるらしいのですが、どう影響したのかが分かりません。
長くてすみませんがお願いします。

Aベストアンサー

フランスの行った大陸封鎖令には、2つの目論見がありました。
1.大陸からイギリス商品を締め出し、またイギリスへの輸出を停止させる事で、イギリスに経済的打撃を与える事。
2.大陸市場における貿易の拡大。特にフランス工業製品の市場拡大と販路の確保。
つまるところフランスは、大陸からイギリスを締め出し、自国の産業と貿易を保護育成しようとしたのです。

イギリスの行ったのはフランスを海上封鎖し、その海外貿易を阻止して、経済的に打撃を与えようというものでした。これにより、フランスは植民地や外国との輸出入を妨害されます。

1812年の米英戦争は、イギリスとアメリカの利害の対立から起こりました。
当時、イギリスとフランスの戦争に参加していない国で、フランスの最大の海上貿易の相手国はアメリカでした。
イギリスの海上封鎖により、アメリカはフランスとの貿易を阻害され、経済的に打撃を被ります。
これに怒ったアメリカが、イギリスからカナダを奪いとろうしたのが、米英戦争の始まりです。
アメリカは、イギリスはフランスと戦争をしている最中で、カナダを守る余裕はないだろうと判断し戦争を仕掛けたのです。

フランスの行った大陸封鎖令には、2つの目論見がありました。
1.大陸からイギリス商品を締め出し、またイギリスへの輸出を停止させる事で、イギリスに経済的打撃を与える事。
2.大陸市場における貿易の拡大。特にフランス工業製品の市場拡大と販路の確保。
つまるところフランスは、大陸からイギリスを締め出し、自国の産業と貿易を保護育成しようとしたのです。

イギリスの行ったのはフランスを海上封鎖し、その海外貿易を阻止して、経済的に打撃を与えようというものでした。これにより、フランスは植民地...続きを読む

Q英国「名誉ある孤立」の始まりはいつ?

イギリスの「名誉ある孤立」の終わりは日英同盟(1902年)ですけど
始まりはいつなんでしょう?
最後の同盟関係とかあったんでしょうか?

Aベストアンサー

イギリスとフランスを軸とした四国同盟(残りはスペインとポルトガル)が最後です。
1832年から1848年まで。七月王政のフランスとイギリスが同盟関係にあったのが最後、
と形式上はなりますが、イギリスはポルトガルなど伝統的な友好関係にある
国が幾つかあったのんで、名誉ある孤立は、完全に孤立していたわけではなくて、
欧州の主要国(列強)間に限定した話と考えた方がいいでしょう。
それで名誉ある孤立の終わりは、日英同盟というよりも、
英仏協商(1904年)というのが世界的には一般的です。日本では
日本の世界での立場が着目されるのですが。

ちなみにですが、当時、イギリスの外交の基本は、
同盟相手に自国よりも恩恵を与えないというものであり、
同盟が自国に有利、相手国にフリにならないならば、解消するというもので、
最も手ごわい外交国家でした。
日本では同盟というと仲間と誤解しがちですが、マキャベリ的な欧州外交では
同盟相手は交戦しない敵でしかないのです。


人気Q&Aランキング