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http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=34%2F40%2F52.545&l …

古代(飛鳥・奈良時代)には難波宮。
中世(桃山時代)には大坂城。
現代(昭和~平成)には大阪府庁。

この3つの政治中心地は徒歩圏内の至近の場所に存在します。
それぞれが時代が遥かに離れているのにも関わらず、
こんなに近くに存在するのは偶然でしょうか?
あまりにも近すぎるため何か意味も感じます。

【仮定1】:桃山時代に豊臣秀吉が「拠点となる城を築くなら、
かつて飛鳥時代と奈良時代に都があった難波宮の地」と選んだ。
(難波宮の正確な位置は長年の間不明で昭和中期に発見されたが、
 秀吉の時代にはそれが一般的に知られていたという想定)

【仮定2】:昭和初期に大阪府庁の移転計画が持ち上がった時に、
「府庁の新庁舎の移転先は、政治中心地なのでかつて大坂城のあった
土地がふさわしいのでは。幕末に消失した大坂城の再建計画も
ある事だし」と考えた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E6%B3%A2% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA% …

↑Wikipediaで検索してみたものの、この土地が選ばれた理由というのが分かりませんでした。

この3つが奇妙な程に近すぎる事に理由はあるのでしょうか?
推測でも構いませんので、ご意見を願います。

A 回答 (4件)

「あの場所」が高地である事実を無視してはいけません。

湿地の中の高地への重要施設建築は、特に治水が不十分な明治時代以前には、水害を防ぐ万能の策でした。
16世紀末、家康の江戸入りと同時に家康が本丸にした場所は、洪水の心配の少ない高地(湿地の中の小高い台地末端)でした。「あの場所」と概ね同じ立地です。

「あの場所」について順番に説明しますと、

難波宮の場所の理由:現在の大阪市付近で唯一の、水害の恐れのない高地。大化の改新の前も、瀬戸内を経由して大陸とを結ぶ海運の終発着地点で、外交関係の施設が設置されていたようです。それを宮殿に転用・拡大したと言われます。その施設に隣接して(現)淀川河口の河川港があったようです。
※ 古代、港の多くは河川港です。21世紀の現在でも、ロンドン港やハンブルク港は大河の河口の河川港です。

大坂城の場所の理由:瀬戸内に面した水城として、瀬戸内水軍(毛利氏配下)の海上補給により難攻不落であった石山本願寺城(大坂城とほぼ同じ場所。中枢施設は高地に立地)は、信長との講和によってようやく開城しました。
※ 信長の鉄甲船による木津川の海戦の後も、毛利水軍による海上補給は可能で、兵糧弾薬補充兵の心配はありませんでした。信長の鉄甲船の威力は誇張されているようです。
その後に、秀吉は石山本願寺の規模を拡大した水城として大坂城を築き、城下町を建設しました。

県庁の場所の理由:現存する組織である大阪府庁にメール等で問い合わせるのが確実でしょうが、大阪府庁が戦前に建設されたのなら、「水害の心配のない場所」は重要な理由であったでしょう。
戦前はブルドーザーのような機械力による土木工事は不可能で、治水工事にも限界がありました。

戦後になって機械力による治水工事が行われるようになっても、大阪の中ノ島は数回水害の被害を受けています。河川の中州である以上、中ノ島は現在も安全とは言えません。大阪府庁建設以前に多くの公共建築物が中ノ島に立地していましたので、あえて大阪府庁を中ノ島の外の高地(もとの大坂城の一部)に作ったのは先見の明があったと言えるでしょう。
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他の回答者さんの蛇足になりますが



浪速宮
現在の上町台地が、半島状になっており、港湾とドッキングした都を築くのに好都合。

石山本願寺
同地区に、それなりの建造物が建ったといえば、石山本願寺になります。本願寺門徒が商業民を多く抱えていた関係で、交易の便のいいところに寺内町として築かれています。

大坂城
石山本願寺もそうなのですが、防衛拠点と考えた場合、上町台地の先端部は、西・北・東が低地のため、自動的に外堀を構成します。南部のみが防御の上での弱点として残りますが、他の三面は強固。
※大坂の役で南部に真田丸が築かれ、防御を強化したのはこの意味です。

大阪府庁
基本的には国有地(=旧徳川家の土地)を県庁などの庁舎は置かれましたので、その一貫だと思われます。
最初の大阪府庁が旧大阪西町奉行所跡、大阪市庁が蔵屋敷跡地であるように。
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太古の昔、大阪は海でした。



現在の上町台地(北は大阪城あたりから南は住吉大社くらいまで)が半島のように南側からのびていて、現在の東大阪のあたりは大きな湖というか入り江のようになっていたんです。

神武天皇が、一度目の上陸を果たしたのは、現在の大阪天満宮のあたりだったとされています。
その後、仁徳天皇が堤防を築いて、湖は沼となり、やがて肥沃な大地となりました。
聖徳太子の頃には、四天王寺のすぐ西には、浪速津という港があり、そこから遣唐使船が中国に向けて出航しました。

つまり、このあたりは、神代の昔から交通の要所であり、人々が集う場所であったと思われます。

大阪城の場所には、秀吉が城を建てるより先に、石山本願寺が建っていましたが、有名な石山合戦の時に、その兵糧の補給路を断つのに、信長が苦労したくらい、交通の便が良い場所だったのです。

>この3つの政治中心地は徒歩圏内の至近の場所に存在します・・・
と、書かれておられますが、徒歩圏内どころか、同じ場所と言っても過言ではないと思いますよ。

大阪の地図を見ていただければわかると思いますが、JR環状線の玉造駅と鶴橋駅の真ん中くらいに「真田山公園」という場所がありますが、ここは、例の大坂夏の陣の時に、真田幸村が構築した真田丸の跡だといわれています。
つまり、そのあたり・・・いえ、もう少し南側まで大阪城だったという事です。
その時、徳川家康は天王寺に陣を敷き、真田幸村がその陣まで攻め込んでいますからね。

ちなみに、難波の宮の近くからは縄文人の骨や住居跡も出土していて、このあたり一帯は「森の宮遺跡」という、様々な時代の遺跡が詰った複合遺跡です。
いつか、大阪府庁も複合遺跡の仲間になるのかも・・・

大阪城公園のお隣にある「大阪歴史博物館」に行かれると、質問者さまの疑問もすっきり解決するかも知れませんよ。
そこには、縄文時代の高床式の倉庫も再現されています。

参考URL:http://www.mus-his.city.osaka.jp/index.html
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まず地理的には、繁栄しないわけがない、という場所だと思います。

琵琶湖から流れ出る大きな淀川が海に流れ出るあたりにあります。平野が広がって、穏やかな内海があるので、海運の港として絶好の場所で、京都には淀川を利用して行くこともできます。奈良も近いです。

そんな平野の広がる良港として大阪は発展してきたのではないでしょうか?たぶん、今、大阪城や難波宮跡があるあたりは、昔は海のすぐそばにあったのではないでしょうか?梅田とは、「埋め田」つまり埋め立てた田んぼだったと聞いたことがあります。だとすると、その南側の淀屋橋、本町あたりが海だった可能性もあると思います。すると、問題の箇所は、昔はそのまま海に面した良い位置にあったのではないでしょうか。そんなふうに昔から栄えて、関西の中心的な都市になったので、大阪府庁もそのあたりにあったほうが便利ということで建てたのではないでしょうか。
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