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・人気の無い、売れない遊女はどうなっていたんでしょうか?売れないまま年を取り商品価値も無くなり借金も返せなくなった遊女を店はどう扱っていたのでしょうか。
掃除やご飯を作る雑用係として裏で働いていたのでしょうか?
吉原炎上で出てきた落ちこぼれの遊女が住んでいた所に行くのでしょうか?
それもと吉原の外に捨てられる?

・借金を返し終えた遊女はその後どうしていたのでしょうか?
吉原を出てからどのように生活していたのでしょうか?
結婚するにも職歴の事もありそんなにモテたとは思えません。女が出来る仕事も少なかったはずです。ましてや健康上の不安もあったはず。どうして暮らしていたのでしょうか?

A 回答 (7件)

江戸時代の遊郭のことについては詳しくありません。


年齢が近いせいか、No.5さんのサラリとしたご回答に共鳴するところがあります。
飲み屋の女給、食堂の女給や下女、宿屋の女中・・・昭和の御世のことですが、娼婦上がりの人がこんな職業についていたことを知っています。
「村に戻った女は、家の中に籠って目立たぬように暮らしていた」・・・こういうケースはゼロとはいいませんが、少なかったでしょう。あったとしても、一時的な滞在でしょう。

今は世の中が豊かですから、中年になっても人付き合いができず、引きこもってしまってインターネットにはまり込み、親のスネを齧っている人がいますが、チョッと昔はそんなことはできませんでした。
ましてや、娘をそんなところに出した家です。貧乏だと考えるのが普通でしょう。親がその娘をずっと養えるわけではありません。兄または弟が嫁を取り、子供ができ・・・その家にその娘の居場所はありません。
まあなんとか、生きて行く隙間を見つけて、食べていったと思います(水商売関係が多い)。

娼婦は一般人にくらべ、短命だったと思います。しかし、極端に短命だったかというと、そんなことはないと思いますね。娼婦に性病や堕胎等短命要因はありました。でも、それでみんな死んでいったわけではありません。
そんなものでみんながポコポコ死んで行くのであれば、娼婦のなり手がありません。そんなもので死ぬ以外に、一般人と同じような病気で死ぬ人が多かったわけです。
一般人も短命でした。戦後ペニシリン(抗生物質)が出回るまで、感染症であっけなく死んでいく人は多かったですね。一般人も若死にする人は多かったです。

まあ、歴史の教科書や本は、その時代や事件の特徴を際立たせて書いています。ですから、その特徴をさらに拡大して受け取ると、正常な判断ができなくなります。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%8E%9F% …

『年を重ね、遊女としての仕事が難しくなった者は「やり手」「飯炊き」「縫い子」等に再雇用された。そのシステムが、吉原を単なる売春窟に堕さず、世界で例を見ない、独特の文化を生んだ。「病気などで死んだ遊女は、吉原遊廓の場合、投込み寺と呼ばれた浄閑寺に、「~~売女」という戒名で、文字通り投込まれた」という説もある。しかし、それを裏付ける資料は古文書には一切なく、「~~売女」の戒名は、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発」「足抜け」「廓内での密通」「阿片喫引」など吉原の掟を破った者に限られていることが、最近の研究で明らかになっている。この場合、素裸にされ、荒菰(あらごも)に包まれ、浄閑寺に投げ込まれた。人間として葬ると後に祟るので、犬や猫なみに扱って畜生道に落とすという迷信によったとものとされている。』


庄司甚右衛門という男が吉原の創設者ですが、一体彼は何者か。
その内容はうっすらとしか覚えていないので、ここに書こうと本を探したのですが、見つからない。
一体どこにその本はいったのやら・・・・
問題に関連する内容の本の中に登場したのですが、、、
記憶が薄くて一体何者だったのか今回書けません。
彼は遊郭の管理者でもあり、差別されたものたちを守っていたわけですが、彼が没後にこの遊郭の社会は様変わりをしたようなんですね。


で、日本史って本を書いた人にフロイスって人がいます。
イエズス会の宣教師で、来日して日本のことを調べて本にして、イエズス会に日本の社会は一体どういうものかレポートを提出していた。
秀吉と謁見した人物でもあります。

彼の書いた書物の中にこうある。
「日本の女性は処女の純潔を少しも重んじていない。それを欠いても、名誉も失わなければ、結婚もできる。ヨーロッパでは、罪悪については別としても、妻を離別することは最大の不名誉である。日本では意のままにいつでも離別する。妻はそのことによって、名誉を牛鳴かないし、また結婚もできる。」

ヨーロッパの貴族は妻以外、複数の愛人を持っているのが当たり前だった。
裸婦のモデルはそういった愛人たちだそうです。
一夫一婦制だし離縁することは許されなかったので、愛人を多数持っていたってわけです。

また、フロイスの記事の中にこういう文章がある。
「日本では娘達は両親に断りも無しに一日でも幾日でも、一人で好きなところにいける。日本の女性は夫に知らせず、好きなところに行く自由を持っている。 日本では比丘尼の僧院はほとんど淫売婦の街となっている」

誇張が多少入っているとしても、好きなところに自由に旅ができた女性たちが存在していたことが、ここからわかります。

遊女の原型。

彼女らは財産を持ち、宿を経営していた。
旅人に宿と何かを提供していた。
土地に縛られず、自由に交易しており、帝にも物資を供給していた。

それが、移転を命令され、果ては吉原に閉じ込められてしまうまでになっていった。
その彼女らを守っていたのが、庄司甚右衛門だと思えるんですね。

彼は城の建設に関しても、ある人々を導引し、時などを知らせる太鼓を支配者に提供していた。
川岸工事などをやって、川の水の氾濫を防止する工事も手がけていた。
ある人々を使って。

そういうわけで、彼が生きていたころは、売れない遊女であっても、年季が開けた女性であっても、生きる場所が提供されていたと思えるんですね。
健康を管理され、遊女が酷使され死ぬなんてことは無かったと思えます。
衛生面でも管理されていたと思います。
遊郭を利用する人々は、もしかしたら、工事のため街に集まってきた、彼の仲間だったのではないかと思えます。
工事で汚れた体を風呂で洗い、仕事として得た金銭で、娯楽を楽しんでいた。
そうすることによって、工事ができており、彼の仲間は有益とされ、徴用されていたのではないかと。


その権力者だった彼が死亡すると、利益追求になり、遊女たちは病気になるまで酷使され、数年で死亡するということになったのではないかと。
つまり、8割は年季を明けていたとするのは、彼が生きていた頃まで。
24歳でまだ遊郭で働いているってことは無かったようです。

借金を返し終わった女性たちがどういった生活をしていたのか。
フロイスが指摘したように、尼になった人たちもいたと思えますし、交易に従事した女性もいたと思えます。


女ができる仕事は少なかった というのは正しい認識じゃないです。
そして、庶民の9割は農業従事者だった というのも正しくないです。
女性は財産を持つことができなかった というのも正しくないです。


もののけ姫にタタラ場って要塞が出てきますよね。
女性たちが鉄を溶解する仕事をしていた という表現は正しくないそうですが、少なくともそういう場所に女性たちが集まっていたことは事実だそうです。
彼女らは社会から排除された女性たちだったそうですが、もしかして元遊女だったのかもしれません。
タタラ場で作られた農耕の道具 はては 鉄砲が外の世界に売られており、中と外の仲介者が柿色の装束の人。
その系列の人が庄司甚右衛門だったのではないかと思えます。

遊郭は一種の特異な文化を作り出したわけですが、一角を設けて閉じ込めたようになる背景には、天皇の権力が弱体化したためと思えるんですね。

で、独自の文化だったものが、歪んでいき、寒村の人々が娘を借金の返済に売るようになり、長崎などではそういう売られる女性の供給源の窓口みたいなところがあったそうです。
遠い九州から文盲の少女たちが江戸に売られてくるようになり、庄司甚右衛門はもういませんので、管理する絶対的な権力者なき後は、酷使され年季が明ける前に死亡し、従って吉原でいい旦那をゲットして身請けしてもらえなかった女性は、その後、年季が明ける前に死亡したか、一生をその中で暮らしたのではないかと思えます。
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50年ほど前、私が子供の頃に村の駄菓子屋のおかみさんが祭りの余興に三味線を弾いたり盆踊りの音頭を取ったりで人気がありました


若い頃、近くの港町の遊郭に居たのは皆知ってましたが村人は隔てなく付き合っていました
遊女だった人で明治の文豪夫人(坪内逍遥)や内閣総理大臣夫人(山本権兵衛)、有名な婦人評論家(山田わか)もおられます
多くの遊女だった人たちは自分に与えられた運命を市井の一庶民として真面目に生きたのでしょう
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1. 江戸時代の女郎は「前金を借りての年季奉公」の契約を交わしていたようです。

ただし、年季が「12歳から12年年季」などという過酷なもので、奉公中の扱いもきつく、年季明けを生きて迎えられた女郎、特に過酷な労働(昼は宿屋の下女、夜は宿屋の娼婦)を強いられる非公認の売春宿(飯盛旅籠)の飯盛女は少なく、「借金を返し終えた遊女のその後」の心配をするまでもなかったようです。
また、最近の質問「遊女は仕事中のセックスで妊娠したらどうしていたのでしょうか?」http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3636433.html
のNo4で回答しましたが、コンドームなど存在しない時代ですので、度重なる妊娠と堕胎、性病(梅毒は放置すると脳梅毒を起こして発狂、死に至ります)の脅威のため、女郎はどんどん死んでいったようです。

参考資料:
江戸の宿 三都・街道宿泊事情 平凡社新書 052
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=30724486

この本には飯盛女の旅籠経営者との契約書、飯盛女の年季が他の奉公人より明らかに長かったこと、酷使を役人に訴える全文ひらがなの飯盛女自身の手紙(恐らく現存唯一)などが収録されています。飯盛女が20歳くらいで死亡または発狂している記録も多いと記されています。

2. 明治時代以降の女郎の契約条件については、インターネットで国立公文書館の所蔵史料を閲覧できます。
国立公文書館 アジア歴史史料センター
http://www.jacar.go.jp/
ここで、キーワードを 「公娼 私娼」として検索すると、
【 レファレンスコード 】 A05020127200 「公娼と私娼」
という、内務省警保局 (現在の警察庁に概ね相当)が昭和6年に作成した資料が閲覧できます。遊郭を構成する店は「貸座敷」、女郎は「貸座敷」経営者に前借金を負い、貸座敷経営者と「娼妓稼業契約」を結ぶ仕組みであったことが見て取れます。各地の遊郭で使われていた契約書雛形が収録されており、場所によって契約条件がかなり違ったことがわかります。基本的には「年季が終わっても前借金が残っていれば自由の身になれない」仕組みです。

他の史料によると、明治以降の遊郭や私娼窟(東京・玉の井など)では、「どんなに売春しても借金は増えるばかりで減る事はない」しくみであったようです。

「阿部定事件」を起こした阿部定という女性は、芸者と女郎と酌婦の間を行き来しており、事件を起こした時は酌婦(私娼)でした。「売れない女郎」であったため、山奥の温泉に転売されたこともあったようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8% …
「20歳になると阿部定は自ら進んで遊女に身を落とし、飛田新地で遊女として働き出すが、度々トラブルを起こしては店を変え、大阪・兵庫の娼館を転々とし、事件の3年前に丹波篠山の遊郭『大正楼』から逃げ出し、神戸でカフェの女給をしてから名古屋に渡り、高級娼婦や妾や仲居をしていた」

ただ、昭和期の東北の大飢饉で女郎に身売りし、医療技術の進歩などにより借金を返し終えた後の女性について、下記の本に簡単に触れられています。
「村に戻った女は、家の中に籠って目立たぬように暮らしていた」
そうです。質問者様の質問に対する直接の答はこれになります。

(参考文献)
昭和東北大凶作 娘身売りと欠食児童
山下文男/著 無明舎出版
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=30788765
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 ご質問の通り、年を重ね運良く年季10年(幕府の法です)を迎えた遊女で、残りたいと希望した者は 遣手(番頭の様な物)飯炊き 縫い子として遊郭に再雇用されたそうです、「廓(くるわ)」から出て田舎に帰る者、間夫(最愛の男)の妾や夫婦になる者、間夫のお金で商売を始める者、が居ない訳ではありません、また廓で身に着けた技術と知識は当時の流行の最先端であり、極端な男女比の中で器量良しが集められた廓出身者が路頭に迷う事は少なかったのでは思います、ですが当時の平均寿命より更に低い状態(遊女の場合21.7歳 病気が多い)では実際に廓から生きて出られた人はご想像より更に少ないとお考え下さい。


 
 また 足抜け など廓の掟を破ったものは厳しく断罪され近くのお寺に裸で放り込まれる厳しい物でしたので、ドラマ、映画、歌舞伎のようなドラスティックな話は史実であるのか疑わしい所ではあります。
 他に「おちこぼれの遊女」の件ですが、病気が原因であれば「鳥屋(とや)」と呼ばれる隔離施設に送られますが、需要は無限ですから人気が無いからと「局女郎(つぼねじょろう)」以下になる事は無かったのでは思います。
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『年季奉公』ですので、遊女として売れたかどうかは、極論関係ありません。

契約(というか、前借り金額に相当する期間)が終了すれば、置屋にとって利益が出ていようが、出ていまいが終了です。
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 借金を返せなく、って、お金を受け取る代償として遊郭に勤めるわけですから、年が明ければチャラですよ。

遊郭に入るときのお金以外に借金をしていたら、当たり前ながらまた別ですが。

 なお、遊女であることが江戸時代、特にデメリットにはなりません。
 そらまあ、個人レベルで陰口をたたくような人はいたでしょうが、むしろ身請けしたり年が明けて夫婦になったりなんて話が落語にすらごろごろあるくらいで、はっきり言ってモテました。
 そもそも、江戸という都市は基本的に男が多い都市だったので、若い女性(年が明けた時点でも、まだ30歳前)はモテます。特に、男性の心をくすぐる技術に長けた彼女らは、モテました。

 無論、夜鷹のような最下層の売春婦に身を落とす人もいたでしょうが、そうでなかった人も普通にいたということです。思うに、遊女であったというキャリアによるよりも、個人の資質による違いでしょうね。
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