出産前後の痔にはご注意!

・人気の無い、売れない遊女はどうなっていたんでしょうか?売れないまま年を取り商品価値も無くなり借金も返せなくなった遊女を店はどう扱っていたのでしょうか。
掃除やご飯を作る雑用係として裏で働いていたのでしょうか?
吉原炎上で出てきた落ちこぼれの遊女が住んでいた所に行くのでしょうか?
それもと吉原の外に捨てられる?

・借金を返し終えた遊女はその後どうしていたのでしょうか?
吉原を出てからどのように生活していたのでしょうか?
結婚するにも職歴の事もありそんなにモテたとは思えません。女が出来る仕事も少なかったはずです。ましてや健康上の不安もあったはず。どうして暮らしていたのでしょうか?

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A 回答 (7件)

江戸時代の遊郭のことについては詳しくありません。


年齢が近いせいか、No.5さんのサラリとしたご回答に共鳴するところがあります。
飲み屋の女給、食堂の女給や下女、宿屋の女中・・・昭和の御世のことですが、娼婦上がりの人がこんな職業についていたことを知っています。
「村に戻った女は、家の中に籠って目立たぬように暮らしていた」・・・こういうケースはゼロとはいいませんが、少なかったでしょう。あったとしても、一時的な滞在でしょう。

今は世の中が豊かですから、中年になっても人付き合いができず、引きこもってしまってインターネットにはまり込み、親のスネを齧っている人がいますが、チョッと昔はそんなことはできませんでした。
ましてや、娘をそんなところに出した家です。貧乏だと考えるのが普通でしょう。親がその娘をずっと養えるわけではありません。兄または弟が嫁を取り、子供ができ・・・その家にその娘の居場所はありません。
まあなんとか、生きて行く隙間を見つけて、食べていったと思います(水商売関係が多い)。

娼婦は一般人にくらべ、短命だったと思います。しかし、極端に短命だったかというと、そんなことはないと思いますね。娼婦に性病や堕胎等短命要因はありました。でも、それでみんな死んでいったわけではありません。
そんなものでみんながポコポコ死んで行くのであれば、娼婦のなり手がありません。そんなもので死ぬ以外に、一般人と同じような病気で死ぬ人が多かったわけです。
一般人も短命でした。戦後ペニシリン(抗生物質)が出回るまで、感染症であっけなく死んでいく人は多かったですね。一般人も若死にする人は多かったです。

まあ、歴史の教科書や本は、その時代や事件の特徴を際立たせて書いています。ですから、その特徴をさらに拡大して受け取ると、正常な判断ができなくなります。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%8E%9F% …

『年を重ね、遊女としての仕事が難しくなった者は「やり手」「飯炊き」「縫い子」等に再雇用された。そのシステムが、吉原を単なる売春窟に堕さず、世界で例を見ない、独特の文化を生んだ。「病気などで死んだ遊女は、吉原遊廓の場合、投込み寺と呼ばれた浄閑寺に、「~~売女」という戒名で、文字通り投込まれた」という説もある。しかし、それを裏付ける資料は古文書には一切なく、「~~売女」の戒名は、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発」「足抜け」「廓内での密通」「阿片喫引」など吉原の掟を破った者に限られていることが、最近の研究で明らかになっている。この場合、素裸にされ、荒菰(あらごも)に包まれ、浄閑寺に投げ込まれた。人間として葬ると後に祟るので、犬や猫なみに扱って畜生道に落とすという迷信によったとものとされている。』


庄司甚右衛門という男が吉原の創設者ですが、一体彼は何者か。
その内容はうっすらとしか覚えていないので、ここに書こうと本を探したのですが、見つからない。
一体どこにその本はいったのやら・・・・
部落問題に関連する内容の本の中に登場したのですが、、、
記憶が薄くて一体何者だったのか今回書けません。
彼は遊郭の管理者でもあり、差別されたものたちを守っていたわけですが、彼が没後にこの遊郭の社会は様変わりをしたようなんですね。


で、日本史って本を書いた人にフロイスって人がいます。
イエズス会の宣教師で、来日して日本のことを調べて本にして、イエズス会に日本の社会は一体どういうものかレポートを提出していた。
秀吉と謁見した人物でもあります。

彼の書いた書物の中にこうある。
「日本の女性は処女の純潔を少しも重んじていない。それを欠いても、名誉も失わなければ、結婚もできる。ヨーロッパでは、罪悪については別としても、妻を離別することは最大の不名誉である。日本では意のままにいつでも離別する。妻はそのことによって、名誉を牛鳴かないし、また結婚もできる。」

ヨーロッパの貴族は妻以外、複数の愛人を持っているのが当たり前だった。
裸婦のモデルはそういった愛人たちだそうです。
一夫一婦制だし離縁することは許されなかったので、愛人を多数持っていたってわけです。

また、フロイスの記事の中にこういう文章がある。
「日本では娘達は両親に断りも無しに一日でも幾日でも、一人で好きなところにいける。日本の女性は夫に知らせず、好きなところに行く自由を持っている。 日本では比丘尼の僧院はほとんど淫売婦の街となっている」

誇張が多少入っているとしても、好きなところに自由に旅ができた女性たちが存在していたことが、ここからわかります。

遊女の原型。

彼女らは財産を持ち、宿を経営していた。
旅人に宿と何かを提供していた。
土地に縛られず、自由に交易しており、帝にも物資を供給していた。

それが、移転を命令され、果ては吉原に閉じ込められてしまうまでになっていった。
その彼女らを守っていたのが、庄司甚右衛門だと思えるんですね。

彼は城の建設に関しても、ある人々を導引し、時などを知らせる太鼓を支配者に提供していた。
川岸工事などをやって、川の水の氾濫を防止する工事も手がけていた。
ある人々を使って。

そういうわけで、彼が生きていたころは、売れない遊女であっても、年季が開けた女性であっても、生きる場所が提供されていたと思えるんですね。
健康を管理され、遊女が酷使され死ぬなんてことは無かったと思えます。
衛生面でも管理されていたと思います。
遊郭を利用する人々は、もしかしたら、工事のため街に集まってきた、彼の仲間だったのではないかと思えます。
工事で汚れた体を風呂で洗い、仕事として得た金銭で、娯楽を楽しんでいた。
そうすることによって、工事ができており、彼の仲間は有益とされ、徴用されていたのではないかと。


その権力者だった彼が死亡すると、利益追求になり、遊女たちは病気になるまで酷使され、数年で死亡するということになったのではないかと。
つまり、8割は年季を明けていたとするのは、彼が生きていた頃まで。
24歳でまだ遊郭で働いているってことは無かったようです。

借金を返し終わった女性たちがどういった生活をしていたのか。
フロイスが指摘したように、尼になった人たちもいたと思えますし、交易に従事した女性もいたと思えます。


女ができる仕事は少なかった というのは正しい認識じゃないです。
そして、庶民の9割は農業従事者だった というのも正しくないです。
女性は財産を持つことができなかった というのも正しくないです。


もののけ姫にタタラ場って要塞が出てきますよね。
女性たちが鉄を溶解する仕事をしていた という表現は正しくないそうですが、少なくともそういう場所に女性たちが集まっていたことは事実だそうです。
彼女らは社会から排除された女性たちだったそうですが、もしかして元遊女だったのかもしれません。
タタラ場で作られた農耕の道具 はては 鉄砲が外の世界に売られており、中と外の仲介者が柿色の装束の人。
その系列の人が庄司甚右衛門だったのではないかと思えます。

遊郭は一種の特異な文化を作り出したわけですが、一角を設けて閉じ込めたようになる背景には、天皇の権力が弱体化したためと思えるんですね。

で、独自の文化だったものが、歪んでいき、寒村の人々が娘を借金の返済に売るようになり、長崎などではそういう売られる女性の供給源の窓口みたいなところがあったそうです。
遠い九州から文盲の少女たちが江戸に売られてくるようになり、庄司甚右衛門はもういませんので、管理する絶対的な権力者なき後は、酷使され年季が明ける前に死亡し、従って吉原でいい旦那をゲットして身請けしてもらえなかった女性は、その後、年季が明ける前に死亡したか、一生をその中で暮らしたのではないかと思えます。
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50年ほど前、私が子供の頃に村の駄菓子屋のおかみさんが祭りの余興に三味線を弾いたり盆踊りの音頭を取ったりで人気がありました


若い頃、近くの港町の遊郭に居たのは皆知ってましたが村人は隔てなく付き合っていました
遊女だった人で明治の文豪夫人(坪内逍遥)や内閣総理大臣夫人(山本権兵衛)、有名な婦人評論家(山田わか)もおられます
多くの遊女だった人たちは自分に与えられた運命を市井の一庶民として真面目に生きたのでしょう
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1. 江戸時代の女郎は「前金を借りての年季奉公」の契約を交わしていたようです。

ただし、年季が「12歳から12年年季」などという過酷なもので、奉公中の扱いもきつく、年季明けを生きて迎えられた女郎、特に過酷な労働(昼は宿屋の下女、夜は宿屋の娼婦)を強いられる非公認の売春宿(飯盛旅籠)の飯盛女は少なく、「借金を返し終えた遊女のその後」の心配をするまでもなかったようです。
また、最近の質問「遊女は仕事中のセックスで妊娠したらどうしていたのでしょうか?」http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3636433.html
のNo4で回答しましたが、コンドームなど存在しない時代ですので、度重なる妊娠と堕胎、性病(梅毒は放置すると脳梅毒を起こして発狂、死に至ります)の脅威のため、女郎はどんどん死んでいったようです。

参考資料:
江戸の宿 三都・街道宿泊事情 平凡社新書 052
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=30724486

この本には飯盛女の旅籠経営者との契約書、飯盛女の年季が他の奉公人より明らかに長かったこと、酷使を役人に訴える全文ひらがなの飯盛女自身の手紙(恐らく現存唯一)などが収録されています。飯盛女が20歳くらいで死亡または発狂している記録も多いと記されています。

2. 明治時代以降の女郎の契約条件については、インターネットで国立公文書館の所蔵史料を閲覧できます。
国立公文書館 アジア歴史史料センター
http://www.jacar.go.jp/
ここで、キーワードを 「公娼 私娼」として検索すると、
【 レファレンスコード 】 A05020127200 「公娼と私娼」
という、内務省警保局 (現在の警察庁に概ね相当)が昭和6年に作成した資料が閲覧できます。遊郭を構成する店は「貸座敷」、女郎は「貸座敷」経営者に前借金を負い、貸座敷経営者と「娼妓稼業契約」を結ぶ仕組みであったことが見て取れます。各地の遊郭で使われていた契約書雛形が収録されており、場所によって契約条件がかなり違ったことがわかります。基本的には「年季が終わっても前借金が残っていれば自由の身になれない」仕組みです。

他の史料によると、明治以降の遊郭や私娼窟(東京・玉の井など)では、「どんなに売春しても借金は増えるばかりで減る事はない」しくみであったようです。

「阿部定事件」を起こした阿部定という女性は、芸者と女郎と酌婦の間を行き来しており、事件を起こした時は酌婦(私娼)でした。「売れない女郎」であったため、山奥の温泉に転売されたこともあったようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8% …
「20歳になると阿部定は自ら進んで遊女に身を落とし、飛田新地で遊女として働き出すが、度々トラブルを起こしては店を変え、大阪・兵庫の娼館を転々とし、事件の3年前に丹波篠山の遊郭『大正楼』から逃げ出し、神戸でカフェの女給をしてから名古屋に渡り、高級娼婦や妾や仲居をしていた」

ただ、昭和期の東北の大飢饉で女郎に身売りし、医療技術の進歩などにより借金を返し終えた後の女性について、下記の本に簡単に触れられています。
「村に戻った女は、家の中に籠って目立たぬように暮らしていた」
そうです。質問者様の質問に対する直接の答はこれになります。

(参考文献)
昭和東北大凶作 娘身売りと欠食児童
山下文男/著 無明舎出版
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=30788765
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 ご質問の通り、年を重ね運良く年季10年(幕府の法です)を迎えた遊女で、残りたいと希望した者は 遣手(番頭の様な物)飯炊き 縫い子として遊郭に再雇用されたそうです、「廓(くるわ)」から出て田舎に帰る者、間夫(最愛の男)の妾や夫婦になる者、間夫のお金で商売を始める者、が居ない訳ではありません、また廓で身に着けた技術と知識は当時の流行の最先端であり、極端な男女比の中で器量良しが集められた廓出身者が路頭に迷う事は少なかったのでは思います、ですが当時の平均寿命より更に低い状態(遊女の場合21.7歳 病気が多い)では実際に廓から生きて出られた人はご想像より更に少ないとお考え下さい。


 
 また 足抜け など廓の掟を破ったものは厳しく断罪され近くのお寺に裸で放り込まれる厳しい物でしたので、ドラマ、映画、歌舞伎のようなドラスティックな話は史実であるのか疑わしい所ではあります。
 他に「おちこぼれの遊女」の件ですが、病気が原因であれば「鳥屋(とや)」と呼ばれる隔離施設に送られますが、需要は無限ですから人気が無いからと「局女郎(つぼねじょろう)」以下になる事は無かったのでは思います。
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『年季奉公』ですので、遊女として売れたかどうかは、極論関係ありません。

契約(というか、前借り金額に相当する期間)が終了すれば、置屋にとって利益が出ていようが、出ていまいが終了です。
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 借金を返せなく、って、お金を受け取る代償として遊郭に勤めるわけですから、年が明ければチャラですよ。

遊郭に入るときのお金以外に借金をしていたら、当たり前ながらまた別ですが。

 なお、遊女であることが江戸時代、特にデメリットにはなりません。
 そらまあ、個人レベルで陰口をたたくような人はいたでしょうが、むしろ身請けしたり年が明けて夫婦になったりなんて話が落語にすらごろごろあるくらいで、はっきり言ってモテました。
 そもそも、江戸という都市は基本的に男が多い都市だったので、若い女性(年が明けた時点でも、まだ30歳前)はモテます。特に、男性の心をくすぐる技術に長けた彼女らは、モテました。

 無論、夜鷹のような最下層の売春婦に身を落とす人もいたでしょうが、そうでなかった人も普通にいたということです。思うに、遊女であったというキャリアによるよりも、個人の資質による違いでしょうね。
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Q遊女はどれくらいの借金がありましたか(江戸時代)

遊女は少額で売られてきて、多額の借金を背負ったと聞いたことがあります。
実際にはどれくらいの借金を背負ったのでしょうか?
借金の額はどのような計算で決まったのでしょうか。
また身受けする場合はどれくらいの金額が必要だったでしょうか。

Aベストアンサー

こんばんわ。
私の「つたない」解説をお読みいただきありがとうございます。

>>1.遊女は実家に仕送りなどしていたのでしょうか?

仕送りをする・・・美談ですね。
でも、実際には「不可能」でした。
前回、
(2)揚代や酒色での代金の25%が遊女の取り分。75%が楼主の取り分でした。
と、記載しましたが、遊女は25%の中から、さらに、15%を借金の返済に取られました。従って、自分の自由になる銭は10%でした。
史料によると、揚代は以下のように変遷しています。
寛永18年(1641)頃
太夫=1両
明暦年間(1655~1658)頃
太夫=60匁、格子=26匁、散茶=金1分、局=3匁
元禄年間(1688~1704)頃
太夫=37匁、格子=26匁、局=3~5匁
享保19年(1734)
太夫=74匁、格子=52匁、散茶=1分、梅茶=10匁
延享2年(1745)
太夫=90匁、格子=60匁

時代により、現在の金銭の換算は変化をしますが、おおむね・・・。
1匁=約1500~2500円。
ただし、寛永18年の太夫=1両=約25万円。
その10%=2万5000円。
酒食のバックマージンがあったとしても、せいぜい、3万円位。
享保19年では、74匁=約19万円
10%=1万9000円。酒食のバックを入れても2万円少々。
太夫でさえそれ位ですから、太夫以下は押して知るべし。
とても、実家などへの「仕送り」などはできませんでした。
そして、15%を借金の返済に取られましたので、まあ、「苦海(苦界)10年」で、何とか、借金を返して、自由の身になれたのです。

>>2.遊女は吉原から外で出ることはなかったそうですが、本当にそうですか?花見とか月見とか、なじみの客とでかけたりしませんでしたか。

3月には「お花見」などで、主に「上野のお山」へ行きました。
「妓楼」単位で「若衆」の見張り付きで行われましたので、途中で「逃げ出す」ことなどはできませんでした。
次のサイトで吉原の「年中行事」が出ています。ご参考までに・・・。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/sukeroku/bangai/nenjyuugyouji.htm
馴染みの客とのデート・・・これは、「厳禁」でした。
遊女が、もし、その男と姿をくらましたら、折角の商売道具を取られたようなものですから、これはできませんでした。
もし、妓楼から逃げ出したり、男がそれを手伝ったりした時は、男は殺されました。
また、遊女も「遣手(やりて)」によって、竹刀でさんざんに叩かれたり、一晩立ち木に縛られたり、時には、攻め殺しにあうこともありました。他の遊女への「見せしめ」があったからです。
奉行所も、よほどの「たれこみ」がない限り、出張ることはせず、またもし、出張ったとしても、多額の「わいろ」でもみ消されました。

>>病気になって小石川養生所へ移されるとか。

「病」としては、大別して「瘡(かさ=梅毒)」と「労咳(肺結核)」でしたが、働きが良かった(客を大勢取った)遊女は、その妓楼の別宅で養生させてもらえましたが、大部分の遊女は、微熱があろうと、喀血をしながらも、多くの客を取らされました。
そして、いよいよ「ダメだな」となると、妓楼内の日当たりも良くない、薄暗い納戸のようなところへ閉じ込められ、食事もほとんど与えられずに遊女の「死」を待つだけでした。
遊女が死ぬと、腰巻一枚の丸裸にして、菰(こも)に包んで銭200文を付けて「投げ込み寺」へ。
寺では、「総墓」と呼ばれる大きな穴に投げ込み、簡単なお経を読んで供養を済ませました。
従って、小石川養生所などはもとより、医者にかかることさえできませんでした。

>>3.ご祝儀は自分のものにできましたか?

これは、自分のものになりました。
しかし、吉原ができた頃は、主に裕福な「武士」を対象としていました。これには、幕府の考えとして、金持ちの大名や武士が居ては、いつ幕府転覆をされないとも限らない、と、言う理由から、大名や高級武士、豪商などに限られていました。つまり、散財をさせて貧乏にする、と言う政策でした。
庶民が自由に大門を出入りできるようになったのは、元禄年間(1688~1704)頃からでした。
ですから、当初は「太夫」と言う「超エリート」が大名などにもてはやされ、「書」「読」「囲碁」「将棋」などの素養を必要としました。
だが、庶民が出入りするようになってからは、一晩抱くには、余りにも窮屈で、宝暦年間(1751~1764)頃には「太夫」は消滅をし、そこそこの器量で、そこそこの話題についていける「花魁」に変わりました。
しかし、京都や大阪では「太夫」の名称は残りました。
それは、江戸と違い、京や大阪では、「踊り」などの「芸」に優れた者を「太夫」と呼ぶ習慣があったからです。江戸の「太夫」ほどの教養は必要としなかった。
また、ご祝儀は「自分のもの」になったとはいえ、庶民にとっては、吉原で遊女を揚げるだけで精一杯でしたので、よほど、お大尽でもなければ、「チップ」はもらえませんでしたし、お大尽になれば、「花魁」や「格子」などの格の上位を指名しましたので、それ以下の遊女は、めったに「チップ」はもらえませんでした。
享保時代に実際に?あつた話として、大工が1カ月かけて、銭200文(約6000円)を貯めて、やっと、吉原へ繰り出した、という話もあります。まあ、せいぜい「次」などの下級の遊女でも買ったのでしょうね。

こんばんわ。
私の「つたない」解説をお読みいただきありがとうございます。

>>1.遊女は実家に仕送りなどしていたのでしょうか?

仕送りをする・・・美談ですね。
でも、実際には「不可能」でした。
前回、
(2)揚代や酒色での代金の25%が遊女の取り分。75%が楼主の取り分でした。
と、記載しましたが、遊女は25%の中から、さらに、15%を借金の返済に取られました。従って、自分の自由になる銭は10%でした。
史料によると、揚代は以下のように変遷しています。
寛永18年(1...続きを読む

Q女郎屋ってどんなところだったの?

江戸時代に女郎屋というところがあったそうですが、どんなところだったのでしょうか?

飲み+セックスのところでしょうか?

今の物価に換算するといくらぐらい下埜でしょうか?

Aベストアンサー

#5さんのお話に便乗して、夜鷹話。
ちなみに、夜鷹というのは立君(いわゆる路上売春婦)のことです。
女郎屋というと、お店があって、…みたいな吉原のようなかんじになりますかね。
参考アドレスは現代のものですが、内装等を知りたければいくらか足しになるかもしれません。


夜鷹が食べに来るくらいの時間(夜)にやっていたことから
夜鷹そば、といわれた という節もありますね。

落語の「時そば」にもあるように、おそばはだいたい16文が相場だったようです。
で、
「客二ッつぶして夜鷹三ッ食い」
(夜の屋台の蕎麦が16文(=二八そば)で、夜鷹の花代が24文 な川柳。
 お客を二人とればおそばが三杯食べられたってことでしょうね)

落語の時代からわりだすとしたら、江戸後期として
一文=20円~30円くらいでしょうか…
25円くらいと見当をつけるひとがおおいのかな。
とすると、

おそば 400円
夜鷹  600円。

安…

ちなみに
金1両が4貫文だから、
25×4000で、10万円。

吉原の花魁が金一両一分だから、
125000円。

高…。

また、同じ吉原でも最下層の局女郎などになると、
1000円~2000円だったみたいです。
とにかくピンキリ。

参考URL:http://allabout.co.jp/travel/yado/closeup/CU20030419A/index.htm

#5さんのお話に便乗して、夜鷹話。
ちなみに、夜鷹というのは立君(いわゆる路上売春婦)のことです。
女郎屋というと、お店があって、…みたいな吉原のようなかんじになりますかね。
参考アドレスは現代のものですが、内装等を知りたければいくらか足しになるかもしれません。


夜鷹が食べに来るくらいの時間(夜)にやっていたことから
夜鷹そば、といわれた という節もありますね。

落語の「時そば」にもあるように、おそばはだいたい16文が相場だったようです。
で、
「客二ッつぶして夜鷹三ッ食...続きを読む

Q大正時代の花街遊郭街で働いていた娼妓芸妓から生まれた子供の人権について

大正時代の花街遊郭街で働いていた娼妓芸妓から生まれた子供の人権について。
お聞きします。
娼妓・芸妓に旦那がつき、ひいきする間柄になり、関係を結ばされ、子供を産まされたとします。
そして娼妓・芸妓は借金返済のため休みももらえず過酷な労働をし、病気にかかり30代で死んでしまったとします。
父親は認知するわけもなく、逃げて行方をくらまします。関係者に正体は一切あかしてはならないと、娼妓・芸妓には当時は厳しい掟もあります。
その孤児となった子供は、身売りをされた貧しい母の実家からも食べさせられず(もともと食べれないから売ったので、その子の面倒をみる余裕があるはずがない。)、旦那となっていた父からも縁を切られています(行方をくらますため)。
児童はその後どのような扱いを受けていったのでしょうか。賃座敷業者が食べさせたのでしょうか。
女中をあてがったのでしょうか(その場合誰がお金をだしたのでしょうか)。
それとも稼げないからお金が無いため、面倒を見る者が無いため、野たれ死んでいく児童が大半だったのでしょうか。飢餓状態で死んでしまい、遺棄されていたのでしょうか。(私の祖母が実際見てきた近所にあった遊郭で生まれた子供の場合は、乞食となって、ドブに落ちたものを食べ、赤痢等になり、ばたばた死んでそこらへんに沢山倒れていたとのことです。)

大正時代の花街遊郭街で働いていた娼妓芸妓から生まれた子供の人権について。
お聞きします。
娼妓・芸妓に旦那がつき、ひいきする間柄になり、関係を結ばされ、子供を産まされたとします。
そして娼妓・芸妓は借金返済のため休みももらえず過酷な労働をし、病気にかかり30代で死んでしまったとします。
父親は認知するわけもなく、逃げて行方をくらまします。関係者に正体は一切あかしてはならないと、娼妓・芸妓には当時は厳しい掟もあります。
その孤児となった子供は、身売りをされた貧しい母の実家からも食...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>児童はその後どのような扱いを受けていったのでしょうか。

基本的に(建前上)は、娼妓や芸妓のいた「置屋」で育てられました。
しかし、食事などはロクに与えられず、常に腹をすかした状態でした。

娼妓や芸妓にしても、置屋の食事は粗末で、常に腹をすかせた状態で、付いたお客にねだって酒食をおごらせるかを競わせ、揚げ代の他に、酒食のバックマージンがもらえるかを競わせていました。

従って、私生児などは、置屋でも「余分な者」「厄介者」以外の何者でもなく、姉女郎(母親の元同僚)などからの「おすそ分け」をもらったりして、かろうじて生きていくことができました。

>>(私の祖母が実際見てきた近所にあった遊郭で生まれた子供の場合は、乞食となって、ドブに落ちたものを食べ、赤痢等になり、ばたばた死んでそこらへんに沢山倒れていたとのことです。)

その通りです。昨今の「ホームレス」と同じ状況です。
ただ、第二次世界大戦以後は、衛生状態も管理されるようになりましたので、疫病の爆発的な流行はありませんが、昔は、コレラ、赤痢などは、日常茶飯事でした。こうした病を「流行病」(はやりやまい)と呼んでいました。

それでも、子どもが7~8歳位になると、
男子は、置屋の「若衆」の見習いとしてコキ使われました。
女子は、禿(かむろ)となり、姉女郎(姉娼妓や姉芸妓)に仕え、娼妓や芸妓の見習いとなり、ゆくゆくは娼妓、芸妓にさせられました。
そして、ロクに育てられてもいないのに、「お前を育ててやったのだ」と、置屋からは言われ、多額の借金を背負わされました。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>児童はその後どのような扱いを受けていったのでしょうか。

基本的に(建前上)は、娼妓や芸妓のいた「置屋」で育てられました。
しかし、食事などはロクに与えられず、常に腹をすかした状態でした。

娼妓や芸妓にしても、置屋の食事は粗末で、常に腹をすかせた状態で、付いたお客にねだって酒食をおごらせるかを競わせ、揚げ代の他に、酒食のバックマージンがもらえるかを競わせていました。

従って、私生児などは、置屋でも「余分な者」「厄介者」以外の何者...続きを読む

Q遊女の身請け

遊女が身請けされるとその人の奥さんになれたんですか。それとも愛人ですか。ケースバイケースですか。いくら人気があったといっても遊女ってつまり娼婦、風俗嬢ですよね。なんか普通の世界でその後の社会生活営むの大変そう。特にその経歴が知れていたら。人気があった人ほど隠しようがなかったと思うんですが。しかも遊女を身請けできるのってかなり裕福な人に限られますよね (ここまでがメインの質問です)。明治の有名な官僚の奥さんで元芸者さんだった人もいたようですが。外国ではどうだったんでしょう。高級娼婦だった人とか。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

まずは、遊女の位ですが、
「太夫」(または花魁)「格子」「散茶」(さんちゃ)「うめ茶」「五寸局」(ごすんつぼね)「三寸局」「なみ茶」「次」の順となります。
「太夫」「格子」は、遊女の中のエリートでしたので、身請け金額も1,000両近くかかりました。
従って、かなりの豪商でなければ身請けすることはできませんでした。
そして、身請けされても、本妻の場合もあり別宅での妾の場合もありましたが、使用人が家事一切をしてくれていましたので「太夫」「格子」では、自分で家事をする必要はありませんでした。

「散茶」以下は、300~400両程度でしたので、まあまあの商人なども見受けできました。

全くの庶民が見受けすることはほとんどありませんでした。
なぜなら、働きのいい大工の年収でさえ100両程度でしたから・・・。

外出などで顔を見られたとしても、かえって、
「あの商人は金持ちなんだ・・・」
と、うらやましがられる方でしたので、堂々と構えていました。

当然、商家で使用人が何でもしてくれていましたので、趣味の三味線やお茶などをしていれば良かったのです。
先の「散茶」以下は、多少は家事などを手伝っていました。

外国のことは、ちょっと解りません。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

まずは、遊女の位ですが、
「太夫」(または花魁)「格子」「散茶」(さんちゃ)「うめ茶」「五寸局」(ごすんつぼね)「三寸局」「なみ茶」「次」の順となります。
「太夫」「格子」は、遊女の中のエリートでしたので、身請け金額も1,000両近くかかりました。
従って、かなりの豪商でなければ身請けすることはできませんでした。
そして、身請けされても、本妻の場合もあり別宅での妾の場合もありましたが、使用人が家事一切をしてくれていましたので「太夫」「格子...続きを読む

Q吉原(遊郭)についてですが、江戸当時はHIVはなかったようですが、所謂

吉原(遊郭)についてですが、江戸当時はHIVはなかったようですが、所謂本番をどのようにしていたのでしょうか。
避妊具もなかったと思います。
遊女が懐妊などざらにあるような気がするのですが、堕ろしまくってたのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸当時はHIVはなかったようですが

HIVが発見されたのは、1983年(昭和58年)にパスツール研究所で初めての報告がなされました。
江戸時代は、「梅毒」が主流で、その他にも「淋病」や「麻疹」(はしか)などの感染症が主でした。

麻疹?と言われるかも知れませんが、
子どもの頃の麻疹は、「三日麻疹」(みっかばしか)と呼ばれ、治りも早く「抗体」ができるので、それほど恐ろしい病気ではありません。
ところが、幼少の頃「麻疹」にかかったことのない大人が罹ると、別名「命定め」と呼ばれ、3~4日発熱が続き、吹き出物が全身に発症します。一旦、熱は下がるのですが、5~6日後からは、熱が再び上昇し、「咳」や「くしゃみ」なども出て、風邪に似た症状ですが、最悪の場合は「死」にいたることもありました。

>>避妊具もなかったと思います。

コンドームの歴史を見ていくと、日本でゴム製のコンドームが出回るのは1909年(明治42年)とのことです。世界の歴史をみてみると、1671年に、チャールズ二世が牛の腸膜を利用して、精子の侵入を防いだ記録が残っています。

>>遊女が懐妊などざらにあるような気がするのですが、堕ろしまくってたのでしょうか?

<洗浄法>
避妊の基本は、やはり洗浄でした。遊女用の浴室や便所には、必ず洗浄用の場所がありました。

<薬>
「朔日丸」(ついたちがん)というものが爆発的に売れました。
これは一般にも服用されていた薬で、毎月朔日(ついたち)に服用すれば妊娠しないというものでした。長屋の総後架(共同便所)などに広告が貼られている絵が残っています。

<お灸>
二月二日、臍下に灸をすえると妊娠しないという言い伝えがあり、廓ではこの日こぞって灸をすえました。

<道具>
甲形(かぶとがた)という男性が使用する、現代のコンドームに近いもので、薄い油紙で男性の性器形をしたものと、詰め紙という女性が使用する、現代のペッサリーに近いものがありました。
甲形は「笑い道具」、つまり現代の大人のおもちゃとしての用途もありました。また、詰め紙というのは、御簾紙という薄い紙を丸め、つばで湿らせて挿入しました。これは生理中、現代のタンポンのような用途でも使われました。男性の精液がその紙に浸み込んで「妊娠はしない」とのことで、流行しました。

<中絶>
農村部などでは日常的に間引きが行われていたように、当時中絶に対してはそれほど否定的な状況ではなかったようです。
よほど売れっ子の高級遊女であれば出産も可能でしたが、妊娠した遊女のほとんどは中絶せざるを得ませんでした。
また、遊女の産んだ子供は、女の子であれば「禿」(かむろ)として遊女屋で育てることもありましたが、たいていは養子に出されました。当時江戸には「中条流」という堕胎専門の医者がいて、妊娠した遊女はその医者によって堕胎させられました。ひどい場合には、遣り手が強引に堕胎させる場合もありました。さらに、何回も階段や箱を積んだところから飛び降ろさせたりもしました。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸当時はHIVはなかったようですが

HIVが発見されたのは、1983年(昭和58年)にパスツール研究所で初めての報告がなされました。
江戸時代は、「梅毒」が主流で、その他にも「淋病」や「麻疹」(はしか)などの感染症が主でした。

麻疹?と言われるかも知れませんが、
子どもの頃の麻疹は、「三日麻疹」(みっかばしか)と呼ばれ、治りも早く「抗体」ができるので、それほど恐ろしい病気ではありません。
ところが、幼少の頃「麻疹」にかかったことのな...続きを読む

Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? ...続きを読む

Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

Qいわゆる江戸時代の娼婦はどうやって避妊してたんでしょうか

コンドームのない時代にどうやってたのかな?
とよく思うんです。

事のあとで洗浄するとか、外出しですか?
(あの時代にはピンと来ない方法ですが…)
それとも妊娠の都度、堕胎したんでしょうか?

ご存知の方いらっしゃったら、教えてください。

Aベストアンサー

吉原細見というHP(http://yosiwarasaiken.net/)に「遊女と避妊(http://yosiwarasaiken.net/moyou/hinin.html)」というサイトページがあります。それによりますと…

遊女(吉原の花魁などの幕府公認遊興場の売春婦=女郎;深川・辰巳などの岡場所の売春婦は売女と言った)の世界では妊娠は恥とされていた。当時は絶頂を迎えると妊娠しやすいと言われていたため「男に負けた」的な捉え方をしていたようです。
避妊の方法は「洗浄」「薬」「灸」それに「道具」。道具は男性用として大人のおもちゃのようなものと、女性用として御簾紙という薄い髪を丸めたタンポンのようなものとがあったそうです。いずれも紙製の頼りないもので避妊率は極めて低い、ほんの気持ち程度のものでしかなかったようです。
それでも妊娠すると堕胎する場合がほとんどだったそうで、場合によっては遣り手(遊女を取り仕切る年寄り女…「遣り手ババア」は吉原のこの役職の女性が語源)に強引に堕胎させられていたとか。当然ダメージを負った女性の中には性病や容姿の悪さなどで追いやられた遊女達と一緒に羅生門河岸という最下級の場所に送られたとか。

…というと江戸時代=昔=封建社会という背景も助長して「女性がとても虐げられている」というイメージが強いですが、実は江戸市中でも最も女性が強かった地域でもあるのです。特に花魁ともなると容姿はもちろん最高級の教育を受けた教養の高い女性であり、「源氏物語は、全部読んでありんす」というスーパーウーマンであり、それぞれの廓屋の看板であり、身分の高い武家階級や大金持ちの大店の主人を相手にするにふさわしい女性であったのです。
廓屋が大枚を叩いて徹底的な教育を仕込む所なんざ映画「プリティ・ウーマン」を思い起こさせますが、あの程度の金の掛け方では花魁の簪ひとつ分くらいじゃない?というくらい破格のものでした。今風に言えば伊東美咲に叶姉妹やマリエやデヴィ夫人や西川先生の持っているそれぞれ10倍くらいのものを与えちゃった、って感じです。
おまけにこれだけのスーパーウーマンだから、誰でも床入りできるような「安い女じゃない」のです。なんと花魁が気に入らなかったら床入りを拒否出来ちゃったんです。「いっくら金積んだって、あちきはあんたみたいな下衆とは、お断りでありんす」だったんですな。それだけに花魁目的で廓屋に通う男達は身だしなみに気を使いセンス良く知的におしゃれして花魁に気に入られようと必死だったのです。事実一生処女のまま生涯を閉じた花魁もいたのです。

それなりに格のある身分の遊女はおいそれと抱く事はできなかった、というわけですが…今の時代もそうですね。銀座の高級クラブはもちろん六本木の超有名キャバクラ嬢だって、気に入らなきゃ「おめえとなんか寝ないよ、バーカ」です。故杉浦日向子さんは「江戸時代の江戸市中は女性主導の社会だった」と指摘している通り、実は花のお江戸は女性によって成り立っていたようです。それが男尊女卑に一変したのは明治維新以後…長州と薩摩の習慣が入ってきたせいかなぁ、と個人的には考えています。
もちろん廓屋という特異な世界では劇になるような悲惨な面もありますが、実は現代とさほど変わらない面もたくさんあるんですね。

吉原細見というHP(http://yosiwarasaiken.net/)に「遊女と避妊(http://yosiwarasaiken.net/moyou/hinin.html)」というサイトページがあります。それによりますと…

遊女(吉原の花魁などの幕府公認遊興場の売春婦=女郎;深川・辰巳などの岡場所の売春婦は売女と言った)の世界では妊娠は恥とされていた。当時は絶頂を迎えると妊娠しやすいと言われていたため「男に負けた」的な捉え方をしていたようです。
避妊の方法は「洗浄」「薬」「灸」それに「道具」。道具は男性用として大人のおもちゃのようなもの...続きを読む

Q昭和の遊郭

昭和の時代の遊郭ってどのような感じだったのでしょうか?
時代劇でみるようなものは、現代の風俗みたいなものとは違って
情報どころのような役割もあったようですが、
昭和の遊郭といえば風俗と同義なのでしょうか。

また、遊郭を営んでいる家の者は
差別的な目でみられる対象だったのでしょうか。

どなたか詳しいかたよろしくお願いします。

すこしずれてしまいますが
当時の遊女の格好についても知りたく思っています。
着物だったのか、髪型は時代ものの映画のように結ってあるのか、など。
こちらもご存知でしたらぜひよろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。

私は、戦後生まれなので戦前の遊郭は知りませんが、戦後の昭和30年代前半頃の様子はおぼろ気ながら覚えてます。

当時は、遊郭街は「赤線地帯」といってました。
近所の赤線地帯は小規模な飲み屋が建ち並び、厚化粧のお姉さん達が通りすがりの客に声を掛けて客引きをしてましたが、これ等の遊女(売春婦)を「パンパン」とか「パン助」と蔑んだ呼び方を私の親はしてました。

遊女達の服装は普通の洋服でしたが、髪型はチリチリのパーマをかけたお姉さん達が多かったです。
口紅は真っ赤で子供心にも妖艶なイメージで興味を持ちました。

勿論、小学生だった私が遊女と性行為をしたわけではありませんが、客を引いた遊女は飲食店の二階の部屋で客と性行為に及んでたようです。
また「連れ込み宿」という、今でいうラブホテルですが、旅館風の連れ込み宿が赤線地帯に何軒もあって、遊女と客が宿に入っていくことも見てます。

当時、小学低学年だった私は「旅館なのに休憩2時間〇〇円」という看板が不思議でしたが、赤線が廃止された昭和30年代半ば頃には意味を理解してました。

赤線が廃止された現在でも、飲食店は残ってますが遊女達はいなくなり連れ込み宿もなくなりました。
その代わりに「ピンクサロン」が何店舗か出店していて、今でも赤線の面影を残してます。

なお、東京・浅草の吉原や川崎市の堀ノ内などの大きな遊郭街跡は、現在では「ソープランド街」になってますね。

ちなみに、近所の赤線地帯には「泌尿器科・性病科」の医院があったのが印象的で、小学生だった私ですら「淋病や梅毒」は知ってましたから、赤線イコール性病というイメージです。

こんにちは。

私は、戦後生まれなので戦前の遊郭は知りませんが、戦後の昭和30年代前半頃の様子はおぼろ気ながら覚えてます。

当時は、遊郭街は「赤線地帯」といってました。
近所の赤線地帯は小規模な飲み屋が建ち並び、厚化粧のお姉さん達が通りすがりの客に声を掛けて客引きをしてましたが、これ等の遊女(売春婦)を「パンパン」とか「パン助」と蔑んだ呼び方を私の親はしてました。

遊女達の服装は普通の洋服でしたが、髪型はチリチリのパーマをかけたお姉さん達が多かったです。
口紅は真っ赤で子...続きを読む

Q末期癌~死ぬまでの状況を教えてください。 

末期癌~死ぬまでの状況を教えてください。 
末期癌の母は現在ホスピスケアを受けています。
これから母の面倒を見るのは私の役目なのでこれからどうなるのか不安です。

母がすいぞう癌だと宣告されたのはおよそ1年前です。
肝臓にも転移しており既に手遅れでした。
今年の3月頃までは癌だと思えないほど元気な母でしたが
4月頃から急に階段を転げ落ちる様に容態が悪くなってしまいました。
あらゆる箇所の骨に転移し、強い痛みも出てきました。
肺へも転移し、咳がひどいです。
今ではほんの少し動いただけでも息切れがひどく、時々咳き込んで嘔吐してしまいます。
急に食欲もなくなりました。
一日、一日ごとにどんどん体力がなくなり弱くなっていきます。
母はこれからどうなっていくのでしょうか。
苦しみが増しますか? 
意識は最後まであるものですか?
自分でトイレにも行けなくなったらどうすればいいのですか?
この状態で、あとどのくらいと考えていればいいでしょうか。。。

文章がうまくまとまっていなくてすみません。
少しでも心の準備ができればと思います。
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

「人はがんでは死なない」という言葉があります。
がんが特別な毒素を出すわけではありません。
では、なぜ、人はがんで死ぬのか?
それは、がんが増殖することで、臓器に様々な障害が起き、
その障害が引き起こす様々な症状によって、死にいたるのです。

様々な症状の一つには、疼痛もあります。
これは、モルヒネなどによりかなりコントロールできるようになってきました。

気管支のがん細胞が増殖して気管支を塞げば、窒息の危険があります。
肝臓のがんが増殖して、肝臓の機能が低下すれば、体内の様々な化学作用
が止ることになり、肝性昏睡などの様々な症状を起こします。
大きな血管にがんができて、血管が破れるということも起きます。
腎臓の機能が低下すれば……
脳の機能が低下すれば……

つまり、がんがどこにあり、その臓器は、どんな仕事をしているのか、
ということです。
何が起きても不思議ではない、ということです。

「苦しみが増しますか?」
軽くなるということはないでしょう。
出てきた苦しみを押さえるということになります。

「意識は最後まであるものですか?」
わかりません。
先に昏睡状態になる場合もありますし、最後まで、意識がはっきりしている
場合もあります。

「自分でトイレにも行けなくなったらどうすればいいのですか?」
状況によりますが、オムツということも考えてください。
尿はカテーテルを留置することになります。

残酷な言い方ですが、何らかの理由で昏睡状態になった場合、
「それを治療して、昏睡から醒めさせて、延命をする」ということを
しないという選択肢もあります。

末期症状は、医師や看護師がよく知っています。
まずは、医師や看護師と相談してください。

「人はがんでは死なない」という言葉があります。
がんが特別な毒素を出すわけではありません。
では、なぜ、人はがんで死ぬのか?
それは、がんが増殖することで、臓器に様々な障害が起き、
その障害が引き起こす様々な症状によって、死にいたるのです。

様々な症状の一つには、疼痛もあります。
これは、モルヒネなどによりかなりコントロールできるようになってきました。

気管支のがん細胞が増殖して気管支を塞げば、窒息の危険があります。
肝臓のがんが増殖して、肝臓の機能が低下すれば、体内の様々な化...続きを読む

Q遊女の足抜け

皆さんこんにちは。

江戸時代、遊郭で遊女を足抜けさせようとして失敗した男は、どうなるのでしょうか?また遊女はどういうお仕置きをされるのでしょうか?

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

>遊郭で遊女を足抜けさせようとして失敗した男は、どうなるのでしょうか?

遊郭内の警備一切を行なう「廓者」「亡八」達によって処刑される場合が多かったようです。
公の番屋も遊郭入口にありましたが、遊郭内での出来事は「見ざる・聞かざる・言わざる」が暗黙の了解でした。

>また遊女はどういうお仕置きをされるのでしょうか?

体表面に傷を付けないように、せっかんにかけます。
一種の見せしめですね。
寝させない、食事(水)を与えない、煙管・棒で下腹部を叩く、丸裸にして縄で縛り上げそのまま水につける等があったようです。

まぁ、遊郭内での遊女の平均寿命は23歳。年季明けの元遊女の平均年齢は27歳です。
遊郭内にいる事自体が、お仕置きですね。


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