外面的行動と内面の良心は峻別することはできない。
キリスト教はユダヤ教の律法を廃止し、神に対する愛と隣人愛に簡素化したのではない。
旧約聖書はキリスト教においても聖典ある。
律法に反した行動をしても、法律に違反した行動でなければ共同体のメンバー以外の神や世間から裁かれないとしただけのことである。
個人の内面においては律法は厳然と存在するのである。
利潤追求のための目的合理的行動なども所詮幻想である。
この見解についてどう思われますか?
コメントよろしくお願いします。

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A 回答 (4件)

おそらく、質問者さんがお書きになった文章ではないので、率直にコメントします。


分り易くする為に、句点「。」毎に(1)~(6)とします。(1)が「外面的行動~できない。」まで、(6)は「利潤~幻想である。」までです。

(1)「外面的行動」と「内面の良心」を並列に論ずる理由が不明です。
「外面的行動」と「内面の良心」は密接な関係にある、と言いたかったのだが、難しそうな言葉を使って失敗したっぽい臭いがします。
それとも、筆者は内面の良心は100%外面的行動に発現すると考えているのかな?人は、思っても実行に移せない良い考えって無数にあると思うのですが。
(2)文末の「したのではない」がどこまでを否定するか不明確。
Not(廃止=した、簡素化=した)/廃止=した、not(簡素化=した)の両方に取れます(#1さんと#2さんは後者にお読みです)。実際には(3)まで読めば前者の意味だと推察できますが、これは典型的な悪文ですね。
(3)「おいても聖典ある。」→「おいても聖典『で』ある。」と「で」を補うべきでしょう。
(4)全く意味不明。律法は共同体内部の規定なのだから、律法に反したからといって外部より裁かれる事は最初から無いです。
それを、あたかも新しい決まりのように書く理由が分からない。
それとも、『律法に反した行為をしても、神からも世間からも裁かれないとした』とでも言いたいのだろうか?
(5)前後の論旨的繋がりが無い。性善説を唱えたいのだろうか?
(6)おそらく、M・ウェーバーの「目的合理的行為」を念頭において書いたのだろうが、全ては「価値合理的行為」に類すると主張したいのだろうか?しかし、利潤追求は価値合理的行為の方がしっくりくるのだけどねぇ?

結論:「内面の良心」と「律法」しかも「内にある律法」と「ユダヤ教の律法」との関係が不明な為、最後まで読んでも納得できない=説得力がない、的外れな見解である、と断ぜざるを得ません。(的は射るもので得るものではないからね)

批判だけでは後味が悪いので、想像力をフル動員して、筆者が言いたかったであろう事を書いてみると↓
人の外面的な行動は、内なる規律に基づいている。宗教の如何に関わらず、内なる規律は全ての人に厳として存在する。
他者から見て、合理的に利潤追求を行っている「価値合理的行為」も、実際には内なる規律に従っているので「目的合理的行為」なのだ。
↑ああ、筆者と全く逆の結論になってしまった。

じゃぁ(4)を『』内の意味だと仮定して論を書くと↓
人の外面的な行動は、内なる規律に基づいている。宗教の如何に関わらず、内なる規律は全ての人に厳として存在する。しかし、内なる規律に違反しても外部から制裁を受ける事はない。よって、内面の良心は人の行為を左右しない。
その為、目的合理的行為があるように見えても、それはその共同体内部で従っている姿勢を見せた方が有利である場合のみで、実際には幻想である。
↑ああ、筆者の前提(外面的行動と内面の良心は峻別することはできない)を否定してしまった。

ま、自己矛盾をはらんだ文章としか評価できませんね~。
もし、不愉快に感じたらお許しください。でも間違った事は言ってないつもりですので。
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>キリスト教はユダヤ教の律法を廃止し、神に対する愛と隣人愛に簡素化したのではない。


>利潤追求のための目的合理的行動なども所詮幻想である。

ああ、的を得ているかも と思えました。

人によって、自分は悪くない他人が悪い、社会が悪いって人いますよね。
多罰型。

諸事情から理想を達成できない場合、その満たされない欲求を、他のもので満たそうとして、懸命に働いて社会的地位を得ようと働く人。
昇華型。

芸能人の真似をして自分がその芸能人になったかのように疑似体験をすることで、欲求を満たそうとするのは。。。。。忘れました。笑

それと、理想は高いが、それを別で楽なものに置き換えて、本来の理想と同一であるかのように自分を騙す人。合理型。


聖書の契約って意味は、今我々が使っている契約というものと、ちょっと違うようなんです。
神を敬い崇拝し、神に従う者となった者は、神が彼を保護する。
これが契約って意味らしいです。

で、律法は神の義と同一という前提があり、律法は神の振る舞いであり、律法を実践することは神の義を実行するってことらしいです。

だから、律法に従うものは、神に従うものなので、神は彼を保護するってことになり、契約に入っている状態。


ところが、律法というものは守るのが難しい。
それで合理的に考えるようになり、律法よりもっと大事なものは、神に対する愛で、それはすなわち隣人を愛すれば、神を愛することになる ってしたんじゃないかと。

律法に従うものが神を愛していることになるので、律法には従わないということは、神を愛していないことにならないか?
現実生きていくうえで身近な利害関係を持つ隣人ともめないことが、神を愛することだと 短絡的に摩り替えてしまったんじゃないかと。
合理主義。


そりゃあ 遠くの者より、身近な現実問題の方を優先したくなるのは、誰でもそうだから、別に間違いじゃないんですが、それを認めず、神への忠誠心だとしているところに、欺瞞があると思うんですね。

素直に、「今神様のことを愛している暇はありません。隣人とトラブルになっており、解決しないともっともやっかいなことになるので、そっち優先させます」って言えばいいと思うんですね。

別に間違っていません。
ユダヤ教に、許しについて語られており、不可避なことで友人とトラブルになり、友人が罪だと怒った場合、せいいっぱい誤解があれば誤解を解こうと努力し、間違えていたら誠心誠意謝って、相手が許してくれたら、罪が消える っ教えがある。

で、いつなんどき、今度は自分が相手の怒りを買って罪だとされるかわからないので、相手が精一杯誠意を示していたら、許してあげなさい (罪を消してあげなさい)、 自分が逆の立場になったとき許される(罪を消してもらえる)ように、って教えがある。

それを何か勘違いして、どんなことがあっても許しなさいって歪められてしまった。
さすがに、神に従う者なのに、一家皆殺しにされて、殺した犯人から「あ ごっめーーん でも なんでもかんでも許すべきだよね」ってケロっと言われて、「あなたを許します」じゃ 神に従う者の子孫 絶えてしまいます。

右の頬を打たれたら左の頬を出せ も、一家皆殺しにされてまで守る必要はない。
(ちなみみ 右の頬を打たれたらってのはイエスが言ったんじゃなくて、クムランの教え)

で、安息日は働いてはいけないってユダヤ教で決まっていたんですが、その安息日を狙って、他の勢力が攻撃してきて、安息日だったので無抵抗で絶滅しかかったそうです。

それで、安息日であっても、神の民の生きるか死ぬかの時には万軍の主の僕として、敵と戦っていいってことになったらしいです。
これは合理的思考による変更だとは思えません。


そもそも安息日ってのは、エルが一日中自分の孫たちが騒いで、おちおち休めないことから、殺す計画をして、イシュタルだったかアシュラだったか忘れましたが、その話を聞いて「とんでもない」って言って、結局安息日を決めてその日だけは騒がないように神たちに言ったのが始まり。

それがユダヤ教に安息日の概念が取り入れられたとき、神様たちが休む日というのは継承されたんですが、何故安息日ができたかまでは継承されなかった。
神々や人間たちが一日も休まず騒いでいたから。


ユダヤ教では、神様が安息日に休むのだから、神様の義にかなうように、自分達も働かないってことにした。


イエス作家の隣人愛ってのは、私の理解がおかしいのかもしれませんが、どうも違うような気がするんですね。
隣人愛についてイエスはサマリアの人をたとえ話にもってきてますよね。
弟子が隣人って誰のことですか?って聞いたシーンです。

サマリアという名前はイスラエル王国(後に北イスラエル王国となる)の首都の名前ですよね。

ユダ族、ベニアミン族がイスラエル王国から分離し作ったのが南イスラエル王国。

で、両方ともアブラハムを祖としており、同胞なわけです。
宗教的に違いがあり、分裂したわけですが、元々は家族。
同じイスラエル人。

サマリア人は混血だからというのなら、もともとこれら民族は何度も異民族と結婚を繰り返しており、どっちもどっち。

それぞれが、「やーい 混血」「お前らこそ混血じゃないか」「なんだ お前ら他の神を崇拝して」「お前らこそよそ様の神崇拝してるじゃないか」って言い合っても、同じ穴のムジナ。

で、ユダはサマリア人を見下していたようですが、見下す権利もないユダ族、ベニアミン族で、イエス作家は「そういう態度が駄目なんです。 思い出してください。サマリア人は我々の同胞じゃないですか。同じ神から峻別された種族ですよ。親戚同士でいがみ合わず協力して共に生きましょう。」って思想だったんじゃないかと。

サマリア教団はモーセ五書のみを保持しているわけで、トーラのみを聖典としており、南のユダよりずっと神の義に従おうという気持ちはあったと思えるんですね。

異教の神を崇拝したというのなら、ソロモンだってそうですよ。

だから放蕩息子の帰還って話が作られたのかもしれませんが。。。

ま、いずれにしても、放蕩息子ってのは、ユダヤ教から異教の改宗して、またユダヤ教に戻ったイスラエル人のことでしょうから、ローマ人にも日本人にも関係ないです。
だって息子じゃないんだもの。


よそ様が本家と分家でケンカしていて、日本人がどっちかに自分もお宅の一族になります って言っても「はぁ?」ですよね。
その一族の嫁さんを貰えば一応神の民の仲間入りできるってことになっているようですけど、でも もともと 異民族の嫁さんをもらうことで、分家として認められたわけで。


ということをつらつら考えると、日本人がユダヤ教とかキリスト教の信仰を簡単にしようとするのって、偽物というか、無理って思うんですね。


キリスト教はユダヤ教の神が、新しく契約を異民族とも交わして、自分達も神に選ばれた民族の仲間になったってしていますが、それ、幻想だと思うんですね。

力技というか強姦じゃないかって思うんです。

ルシフェルっていまして、シャヘルのことで、『父である至高神エルの地位を奪うため、母アシュラを娶ろうとした。母なる女神との婚姻は、至高神としての地位獲得の証であった。』とあるように、母と性交しようとして、落とされてしまったわけです。
至高神になるため、やろうとしたわけです。
ちなみに七つの大罪のうち どれかはヘブライ語を間違えて訳しているらしく、本来はこのことだそうです。

キリスト教は、シャヘルと同じことをやろうとしてしまった。


ユダヤ教の伝承では、エルサレム神殿の至聖所には二人の婚姻の部屋があったそうです。
ローマ人がここを破壊してしまったとき、シェキナは地上に降りてしまったそうです。
で、エロヒムは天空でやもめ状態で、今も地上にいるシェキナを探しているのだとか。

というわけで、天で起こっていることは、地上でも同じようになる という意味ありげな文句が残され、キリスト教はこれを勘違いして「天で行われることが、地上でも行われますように」と願いとして使っているわけです。

違います。
エロヒムさんは 今も一人で天空を納めていることになっており、やもめ状態で、シェキナを探し出した時、ファンファーレが鳴り響き、天の国が元通りになり、そうすると地上も元通りになる って期待があるんですね。

ということで、消えたシェキナを探し出せ ってことで、、、、
シェキナ どこいっちゃったんでしょうね。
そもそもシェキナって何?


で、締めくくりとして
http://72.14.235.104/search?q=cache:0yl1deHW9KsJ …

ね?
つまり イエス作家が描いたイエス像がシェキナの表れ。
内面の良心がシェキナの現れに該当しなきゃ、シェキナが実体化していないことになるみたい。


なかなか シェキナ 天空に帰ろうとしないですね。
それより エロヒム なんで地上に降りなかったのでしょうね。

シェキナはワザとエロヒムから離れたのかも・・・。
迎えにいったけど、「もう二度も戻りません!」って言われちゃったのか。
どんなひどいことをシェキナにやってしまったのでしょうね。
やっぱりその合理的思考にシェキナ もう一緒に暮らせないって思ったのかも。
ある意味、これほどまでにシェキナに愛されているイスラエル人ってうらやましいですよね。
やっぱり契約に入っているからでしょうかね。
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キリスト教はユダヤ教の律法を廃止したのではないです。


それはイエスも自らのことばで語っている通り。
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『旧約聖書・エレミヤ書』の次の一節が 参考なると考えます。



   見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来
  る、と主は言われる。

   この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地か
  ら導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であった
  にもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。

   しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれで
  ある、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、
  彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民と
  なる。

   そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教
  えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るか
  らである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に
  心を留めることはない。
   (『エレミヤ書』31:31~34 )
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Q男性の内面の未熟さと暴力性について(特に男性の方教えてください)

かつて内面の未熟な男性から暴力をうけたことがある女性です。
特に男性の方、教えてください。

かつての自分の経験から、「未熟な男性(OR人間性の悪い男性はもちろんですが)=暴力」という図式が体に染み付いていて、心の度量の偏いタイプの男性を見るとこの人も・・という疑心暗鬼が沸いてしまいます。
そこで質問なのですが、内面が未熟でも暴力に至らない男性は存在するでしょうか。いっらしゃるとすれば、同じように内面が未熟でも暴力に至る男性と至らない男性の違いはどこにあるでしょうか。
男性の皆様、どうぞ正直に教えてください。

Aベストアンサー

>内面が未熟でも暴力に至る男性と至らない男性の違いはどこにあるでしょうか。

外交的か内向的か、論理的思考と理性、倫理観、人生経験、ストレス経験などの差ではないかと考えます。

男性は本来女性に比べて数学的、論理的思考を得意とし、理屈や言語感覚でも女性を上回っていると感じるのですが、女性と比べると精神が不安定なので、女性の方が安定して能力を発揮できるようです。精神が安定しているという事は、それだけで非常に優位です(男性にも後天的に精神を安定させている人は程度の差こそあれ大勢います)。しかし、男性の方が社会的なストレス経験は多くなる傾向があるためか、ストレスに対する容量自体は女性の方が小さいように感じます(但し精神が安定しているときは、ストレスに対する防御能力が高いので問題になりません)。暴力に至るのはストレスの回避方法ですから、その方法を選択すれば、男性も女性も暴力を使います。男性は筋力的に優れている場合が多い為に暴力に走る事は容易に想像がつきますが、逆に、女性は暴力を振るっても相手に大きなダメージを与えられない為に方法がエスカレート(武器を使う)しやすいですし、暴力ではダメージを与えられないが為に言葉や数による攻撃(偽の情報が飛び交う噂話など)に走りやすい傾向もあると感じます。
lamb2さんが、なぜ暴力を受けたのか、全くわからない(通り魔ですか?)ので、その方についてはわかりませんが、大した事でもないのに暴力を振るう人は内面が未熟だと思います。でも、内面が未熟であっても暴力は振るわない人の方が多いと思いますよ。


>男性の内面の未熟さと暴力性について(特に男性の方教えてください)

とありますが、内面の未熟さ加減は性差というよりも、人それぞれでしょう。

最後に、今回のご質問は反感を呼びやすい文法になっています。大体のご質問内容はわかるのですが、質問全体の文法的には
「男性が精神的に未熟で暴力的行動を行う事について、あなた方男性はいかな考えを持ってこのような行動をとるのか、正直にお答え頂きたい」
となるので、反感を抱かれるのは仕方ないです。まあ、lamb2さんの場合わざとやっておられるような気もしますけどね。軽い反感を抱かせた効果があったかなかったかわかりませんが、回答数が多く全体的に真剣な回答が集まっています。
なかなかの策士ですね(笑)

>内面が未熟でも暴力に至る男性と至らない男性の違いはどこにあるでしょうか。

外交的か内向的か、論理的思考と理性、倫理観、人生経験、ストレス経験などの差ではないかと考えます。

男性は本来女性に比べて数学的、論理的思考を得意とし、理屈や言語感覚でも女性を上回っていると感じるのですが、女性と比べると精神が不安定なので、女性の方が安定して能力を発揮できるようです。精神が安定しているという事は、それだけで非常に優位です(男性にも後天的に精神を安定させている人は程度の差こそあれ大勢...続きを読む

Q人間の内面と外面とは 総合されうるか

 次の質問で質問者が説明しつつ問うている問題について どう考えるか。これが ここでの質問です。題して
 【Q1: われわれそれぞれの主観内面における・人間関係に関する思惟のあり方は われわれ互いの交通(まじわり)における対話の行方と つながっているか。
 【Q2: つながっていて 全体としての世界観(つまりおのおのの生活態度)において 総合的に捉えることはできるか】
 【Q3: それらのことは われわれ一人ひとりと神との関係にかかわっていると言えるか】
 三つ目の問いにかんしては 次の文章を参考にしてください。
 【Q:現代日本に必要な哲学は?】そのNo.9です。
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4151421.html

 ▲ 【Q:リカちゃんについて】(No.11お礼欄) ~~~~~~~~~~
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4991449.html
  森毅さんの『魔術から数学へ』・・・に倣って説明するとすれば、p.65の「石」と「砂」の比喩が良さそうに思います。
 少しかいつまんで説明すると、古代ギリシャの数学には二種類の系譜があって、著者に依ればそれは「数論」と「幾何」だという事です。
 「石」の数学とは数論のことで、石を並べて1,2,3,4…と数を数える。「砂」の数学とは、砂に絵を描くものです(要するにコンパスと定規が使えるヤツ)。
 前者は粒を基本にしているので、それ以上はわけられない原子からできているのに対し、線のほうは連続して繋がっているので、幾らでも分けることができる。
 前者の考えではそれ以上には分けられない点からできている線が、後者の場合にはどこまでも分けられるという――この食い違いが問題になるケースです。
 遥かむかしに、南イタリアあたりで、この「石」と「砂」の争いがくり返されたわけですが、この違いについてはどうでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 趣旨説明として 質問者の見解をのべます。
 1. 《石》は 個体であり 《砂》は その内面だ。
 2. 石と石との〔人間〕関係が その基軸として 外面としての交通ないし対話を据えるとよいと思われる数論である。
 3. 砂の幾何は 意志の自由にもとづき みづからの表現として想像し絵を思い描くところの自由を訴える。
 4. 砂の幾何模様を内面に抱いた石は ほかの石とも まじわり話し合いを持つ。
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 6. その外面における生物化学反応は それぞれの内面に どうかかわるであろうか。
 
 ご見解をお寄せください。

 次の質問で質問者が説明しつつ問うている問題について どう考えるか。これが ここでの質問です。題して
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Aベストアンサー

>最後の締めをよろしくどうぞ。

 締めって言われたって、何を締めるのやら――首でも、締めてくれと仰るのですか?
 最初に断っておきますが、気持ちの面からすれば↓の記述はわからんでもないですよ。

=========================
 ▲ (同上No.19) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 現在では、物理系のみならず、化学系、生物系、昆虫の社会構造、人間の社会構造、都市の発展形態等々、構造と名の付く現象の至る所で散逸構造の理論の主張の正しさが確認されております。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こう来ているんですよ! 
=========================

 こう書かれるのはたぶん、それが仮説だからですよ。
 物理屋さんでしたよね、確か。ブラジュロンヌさんはご存知ないでしょうけれど、数学の世界ではふつう「仮説」という用語は使わない。
 一般的にいう「仮説」という言葉の意味は、物事を合理的に説明してはいるけれど、その説明が事実(現実)に合致しているかどうか、その真偽が不明なものという感じだと思います。さらに、自然科学の分野なら、その真偽はあるときまでは真だったけれど、後に偽になってしまったり、逆に偽だと思われていたけれど、あるとき真なのがわかった、というような説まである。
 だから、法則と呼ばれる説明であっても、それが通時的ではないゆえに、科学の分野ではあくまでそれは仮説なのだとする学者さんも多いそうです。
 
 でも、こういう意味で使われる「仮説」は、数学には無い。
 なぜ無いのか。証明された真偽は、二度とくつがえらないからです。真偽が不明なものは、「問題」と呼ばれる。No.15の回答に、連続と不連続の記述がありますが(ε-δ 論法のことです)、自然数より真に大きく、実数より真に小さいサイズの集合がないという問題が連続体「仮説」と呼ばれるのは、この問題が、数学の問題ではなくなった(現代数学の枠組では証明できないことが証明された)からです。
 現実を前にすれば、「仮説」というものは、ほぼ無限に立てることができる。そして、科学が現実(事実)を対象に置く以上、その仮説を問題外にすることはできない。あらゆる事実に照らし合わせ、仮説は常に検証されるべきです。そういう主旨だと、読めませんか?

========================
 ☆ とおっしゃるのは けっきょくわたしの言葉に変えるなら
 ○ 散逸構造の理論を社会構造に応用するという立ち場は 社会のどこにもいないという立ち場であり 人間ではないという立ち場であるのではないか。
 ☆ と考えました。いかがでしょう?
========================

 現象の捉え方には、各人いろんな方法があるだろうと思います。
 僕の見るところ、あの回答者もきっと同じ意味の結論をお持ちだと思います。異なっているのは、表現方法だけです。方法は、いちばん良さそうなものをその都度、使い分ければ良いのです。マシュマロさんは、それを「はさみ」だと教えてくれたんじゃなかったのかな。
 いつもやさしい、マシュマロさん。

>最後の締めをよろしくどうぞ。

 締めって言われたって、何を締めるのやら――首でも、締めてくれと仰るのですか?
 最初に断っておきますが、気持ちの面からすれば↓の記述はわからんでもないですよ。

=========================
 ▲ (同上No.19) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 現在では、物理系のみならず、化学系、生物系、昆虫の社会構造、人間の社会構造、都市の発展形態等々、構造と名の付く現象の至る所で散逸構造の理論の主張の正しさが確認され...続きを読む

Q内面的な美しさってどうゆうことですか?

内面的な美しさってどうゆうことですか?
よく内面から美しさが出てると言いますが、この内面とは性格の良さでしょうか?
内面を磨くには、どうしたら良いでしょうか?

Aベストアンサー

前略 聞いてね。

其れは仰るとおりですが、「優しさ」「温かさ」「思いやり」
「労わり」等持ち合わせてる人で無いでしょうか。

それはベたべたとした接し方でなくて自然に滲みでる
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解りやすくは人情味があり世話好きで恩に着せなくさらりとした人。

理性が感じられなければいけませんが、わざとらしい人はうざいですね。

それらの要因が含まれる人がいい性格、心美人で無いでしょうか。

Q相対的な善悪の背徳的な峻別

そもそも善悪の判断は【建て前】上の相対的な基準に立脚していますので、エデンの園で「善悪を知る木の実」を食べてしまいますと、【絶対的な叡智】から乖離する可能性さえもが増します故に、それを防ぐ為に、神は其の実の摂取を禁じたのでしょう。

でも、どうして神はエデンの園からそれを除去し得なかったのでしょうか?

尚、此の質問は下記のページからの続きでもあります。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6884638.html

Aベストアンサー

善悪に無関係であることは都合を排してもたらされ、
善悪の分別は、交錯する都合の善し悪しを定める視点に宿るものです。
交錯する都合はすべて存在し、視点も多様に存在するわけで、
これらを不在扱いなどしなくても、都合を一切排するという措定に不都合はありません。

都合を排してもたらされる図形というものがあるとして、わたしたちはそれを想像もできませんが、
交錯する都合のうちにもたらされるわたしたちの世界にある図形は美しいものだと思います。

宇宙が規則と変則をもって運行しているとか、災禍が規則と変則をもって出現するとか、
無限の機構であるとか、時の進行の概念であるとか、テクネーの機構であるとか、
そういった叡智が神与だとすると、

母殺しだとか、父殺しだとか、子殺しだとか、姦通だとか、窃盗だとか、
そういった出来事の都合がどうなっていたかを味わう人間がいればこそ、
託宣は、未来を告げて現在を引き寄せては過去を告げてみたりしながら必然を示し、
悩ましく美しい図形の成り立ちから、はじまりとおわりを見失わせ、
人はあらゆる都合に立ち向かったつもりでも神の都合しかなかったと知らされるので、

世界のあやとしては、
善かれと思う意思決定、意思行為があって、仮にどのように動いても
その意思決定をそもそも決定した物理法則が生じて絡め取るといった話と同様、
善悪を知る実の生る木が、あらゆる意思と行為の動きの可能性を内包して、
それらの動きが剥き出しになることで脈絡ある世界がなぜか先だって生じてしまうという、
そんなあやなのではなかろうか。

善悪に無関係であることは都合を排してもたらされ、
善悪の分別は、交錯する都合の善し悪しを定める視点に宿るものです。
交錯する都合はすべて存在し、視点も多様に存在するわけで、
これらを不在扱いなどしなくても、都合を一切排するという措定に不都合はありません。

都合を排してもたらされる図形というものがあるとして、わたしたちはそれを想像もできませんが、
交錯する都合のうちにもたらされるわたしたちの世界にある図形は美しいものだと思います。

宇宙が規則と変則をもって運行しているとか、災禍...続きを読む

Q付き合うなら外見と内面どっちを大切にする?

高1です。
もしあなたが付き合う立場だとしたら、
あなたは相手の外見と内面どっちを重視しますか?

私のクラスでこの話題で盛り上がってます。
私の周りの人はみんな内面!と言い切ります。
簡単に言えば
・外見は普通だけど内面はすごく良い人
・外見は良いけど内面は最悪な人
あなたならどちらと付き合いたいと思いますか?

Aベストアンサー

44歳おじさんです。

どちらかと言えば内面です。
ただし第一印象は大切と考えていますので正直答え難いです。

まず「外見が普通」っていうのがあいまいですが
ここで言われている外見とはかっこいいかどうかだと推測され
ますが私の考える外見とは、清潔感だったり喋るときの表情
だったり、年齢相応の身だしなみになります。
それらがある程度整っている事が「外見が普通」という事で
あれば美人でなくとも確実に内面を重視します。

一人意見として書き込みさせてもらいました。

Q男と女 外面と内面

男は外面的(社会的?)に女を包み、女は内面的(精神的?)に男を包み込む。

女上位論、からこんなことを質問してみようと思い立ちました。

ご意見、ご感想、頂けないでしょうか。

男は活動し、女はそれを支える。

上下で、捉えるためにはその前提を確認し、共有しなければならないと。

Aベストアンサー

こんにちは、yy8yy8azさん。
何年も前になりますが、
わたしの質問にご回答をくださりありがとうございました。




♂も♀も、
どちらかがどちらかのために存在する、
ということはあり得ません。
それぞれがそれぞれを生きています。



ご質問の回答にはなりませんが、
「なぜ男と女は互いを尊重し合うのか」
という問いのほうがおもしろいと思います。

あるいは
「互いに尊重し合う姿はなぜ尊いのか」とか。




どちらが上位?
そんなのはないと思いますよ。


___________


弓と弦とどっちが偉い?
ナットとボルトとどっちが偉い?
ボトルとコルクとどっちが偉い?
鍵と鍵穴とどっちが偉い?
カンバスと筆とどっちが偉い?


___________



>男は外面的(社会的?)に女を包み、
>女は内面的(精神的?)に男を包み込む。

:そうあるべき!と
男や女が信じ込んでしまうと
男も女も選択肢が激減してしまうのだけど、

実は誰が何をしてもいいんぢゃないの?
男も女も個人的に得手不得手がありますので。




男が何をしてもいいし女が何をしてもいいわけで。
でも、誰もが何をしてもいいけれど、
してもいいけれど実際できることは少ない、ので



二角関係の中で【なぜか】相互扶助するわけで。













尻切れトンボにて。

こんにちは、yy8yy8azさん。
何年も前になりますが、
わたしの質問にご回答をくださりありがとうございました。




♂も♀も、
どちらかがどちらかのために存在する、
ということはあり得ません。
それぞれがそれぞれを生きています。



ご質問の回答にはなりませんが、
「なぜ男と女は互いを尊重し合うのか」
という問いのほうがおもしろいと思います。

あるいは
「互いに尊重し合う姿はなぜ尊いのか」とか。




どちらが上位?
そんなのはないと思いますよ。


___________


弓と弦とどっちが偉い?
ナットと...続きを読む

Q外見ではなくて内面でモテたい。

外見ではなくて内面でモテたい。

高1女です。
今まで周りの男子からよく「可愛い」と言われるのですが、それは身長が小さいからとか仕草がとか恥ずかしがってるからとかいう理由で、またそれで告られて付き合ったパターンもありました。。


全然内面を見られていません。
異性に、内面でモテません。


どういう心(?)をもてば、男子に外見ではなく内面でモテるようになりますか?

Aベストアンサー

そうだな、まずその考え方から改める必要ありだな。
モテるってところがさ、まずいのね。
具体的にどう見せるの?あなたの内面をさ。
内面磨いてモテようとしてる自分想像してみ。
たぶんそれは、ただの八方美人になってるハズ。
本当の内面は皆に見せてどう?ってもんじゃなのさ。
そのとき、そのシチュエーションってのが必要。
それで惹かれるんじゃないの、あなたにさ。
だから、モテたいじゃなくて、おつき合いした人にあなたの内面わかってもらえばそれでいいんじゃない?

Aベストアンサー

あなたが見ている全てのものは、あなたの頭の中の現象なのです。
『それは外の世界を反映したもの』などという仮説は、実証手段を
持ちません。
逆に、あなたが死ねば全て消滅するという事実が、先の言明の証明です。
もし、あなたが死後あの世で目覚めたら、これは間違っていますが。

ただ、この造物主は、全知全能ではなく、むしろ不完全ゆえに、
本来、絶対的に確定化しようとすると無限不確定性(=無)に発散
する不確定性原理を、経験的に現象表面的に(本質まで確定せず、
いい加減に)捉える事で、有限な性質=存在=宇宙を派生させて
いるのです。
その不完全な認識ゆえに、自己存在の補完としての環境を把握できず、
肉体的な自己チューな意識に萎縮し、その短絡的な意志において、
自己矛盾として環境とぶつかる(物体)のです。

全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に
詰め込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、
認識体の仮定断面(認識可能性)の運動を想定すれば、相対的
に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)
の向うに、自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識
するのです。
認識可能性の時系列化=自我仮説(時間的流れ=記憶=過去=
超光速)と、時空仮説(=空間的広がり=予測=未来=光速下)
の相補分化。

つまり、超弦(量子定常波)=光速に還元される本質を
階層現象を表面的(いい加減)に捉える事で派生する仮想的な
非光速性に基づく時空において、「何か有るんじゃないの?」と
いう疑問(自我仮説)の相補として生じた時空仮説に対して、
「本当はないんだけどね」という無の射影として、量子=存在は
生じていると言えます。
無いとは分からない事が有なのです。

あなたが見ている全てのものは、あなたの頭の中の現象なのです。
『それは外の世界を反映したもの』などという仮説は、実証手段を
持ちません。
逆に、あなたが死ねば全て消滅するという事実が、先の言明の証明です。
もし、あなたが死後あの世で目覚めたら、これは間違っていますが。

ただ、この造物主は、全知全能ではなく、むしろ不完全ゆえに、
本来、絶対的に確定化しようとすると無限不確定性(=無)に発散
する不確定性原理を、経験的に現象表面的に(本質まで確定せず、
いい加減に)捉える事で、有限な...続きを読む

Q内面を磨くとはどういうことでしょうか。

表題のとおりですが「内面を磨く」とは
具体的にどういうことなのか悩んでいます。

恋愛の当初はときめきやルックスといった要素が
大部分を占めると思いますが、長く付き合っていく
上で内面が重視されるようになると思います。
本などでもよく「内面磨きを」という言葉を目にしますが、
みなさんが内面を磨くとするとどのようなことを
されるのかお聞かせ願えるでしょうか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

私も一時同じ事を考えていました。
・・・と言うより今も継続して実行中です。
具体的には「風水」で推奨されるようなことやいい事を言うなという人の言葉を参考にしています。
ですから一方で常に情報収集しながらその一方でそれらを実行に移しています。
風水を例に挙げましたが、整理整頓、玄関は常にきれいにしておく、身の回りの無駄なものは処分してすっきり暮らす。
そんなこと内面と関係ないと思えるかもしれませんが、じつはかなり関連してます。
初めはわからなかったのですが無駄なものを処分することを続けるうちに物事の取捨選択能力が高まってくるみたいです。すると仕事でも人間関係でもどうでもいい事に惑わされることが少なくなるのですよ。自分でもこれは大きな収穫でした。
すると仕事が出来るようになり、プライベートではいい友人に恵まれるようになります。これまで付き合いにくかった人とは自然と疎遠になりました。
例えば身に着けていない洋服は処分すると言う習慣をつけるうちに、自分にとって着心地のよい服だけに囲まれるようになります。すると、友人関係でも同じことが実現されるようです。つまり、居心地の良い人だけがまわりにいるようになるのです。
こういうのを内面を磨くと言えないでしょうか?

私も一時同じ事を考えていました。
・・・と言うより今も継続して実行中です。
具体的には「風水」で推奨されるようなことやいい事を言うなという人の言葉を参考にしています。
ですから一方で常に情報収集しながらその一方でそれらを実行に移しています。
風水を例に挙げましたが、整理整頓、玄関は常にきれいにしておく、身の回りの無駄なものは処分してすっきり暮らす。
そんなこと内面と関係ないと思えるかもしれませんが、じつはかなり関連してます。
初めはわからなかったのですが無駄なものを処分す...続きを読む

Qキリスト教の礼拝に関して

キリスト教、特にカトリックにおいては、神へは「崇拝」、三位一体へは「礼拝」、聖人へは「崇敬」、聖母マリアには「超崇敬」を行うとされていますが、実際には、「崇拝」・「礼拝」・「崇敬」・「超崇敬」は、どのような点が異なるのでしょうか?

不通に祈っている時に、意識して分けているのでしょうか?
また、三位一体へは、「礼拝」となっていますが、「父なる神」へは、崇拝をするべきであり、それが、「礼拝」となるのは、なぜなのでしょうか?

父なる神、子なるキリスト、そして聖霊が一体であるのですから、神への礼拝、キリストへの礼拝、聖霊へも礼拝でよいのではないのでしょうか?

三位一体への礼拝は、キリストと聖霊とは、同じものでよいのでしょうか?

また、聖人への崇敬と、聖母マリアへの超崇敬とは、どのように異なるのでしょうか?

Aベストアンサー

#1の回答者です。
あまりに崇高なご質問。私のような若輩者には答えよ
うがありません。
今あまり聖書研究出ていないので、突っ込まれるとそ
こまで考えていない私が恥ずかしくなります。

よくカトリックではクローバーで例えて「父と子と聖
霊」にします。
父なる神に祈る時とキリストに祈る時の違いは
「主よ、哀れみたまえ」
又キリストに祈る時は
「キリスト、哀れみたまえ」
となります。
又聖霊についてはとても難しく、特に我々日本人には
理解しにくい部分があって、私は勝手に亡き両親とか
知人に祈る時、その洗礼名を唱え、
「聖ペトロ、われらのために祈りたまえ」で日本式
先祖崇拝にしてしまいます。
その点、カトリックとはあまり教義にガチガチでなく
勝手な私には都合が良いのです。

聖霊はその人一人ひとりの上に守り神のように宿って
いると解釈しています。

ですからやっぱり私の中でも区別しているのですね。
もし詳しいことがお知りになりたかったら、いまの
教会の神父様が神学者なので聞いてまいりますが。

若い頃のうろ覚えでは、トレントの公会議で聖母マリ
アの無原罪を決めたような気がしますが、調べる必要
ありますか?

#1の回答者です。
あまりに崇高なご質問。私のような若輩者には答えよ
うがありません。
今あまり聖書研究出ていないので、突っ込まれるとそ
こまで考えていない私が恥ずかしくなります。

よくカトリックではクローバーで例えて「父と子と聖
霊」にします。
父なる神に祈る時とキリストに祈る時の違いは
「主よ、哀れみたまえ」
又キリストに祈る時は
「キリスト、哀れみたまえ」
となります。
又聖霊についてはとても難しく、特に我々日本人には
理解しにくい部分があって、私は勝手に亡き両親...続きを読む


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