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聖徳太子は生前に政治権力から酷い目に遭わされたわけではないですよね。
死後、子孫が根絶やしにされたことから遡及的に怨霊になったのですよね。
聖徳太子が死んだ直後はただの寺だった法隆寺を、その後鎮魂を目的とした寺に造り変えたという可能性は考えられないでしょうか?
御回答よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

論点が二つあるように思います。


一つは法隆寺について。二つ目は聖徳太子について。

A まず、法隆寺について。
1 若草伽藍という古い寺院址があります。その中心軸と平行する東院と、中心軸がずれる西院伽藍と二つが並存しています。説明はうまくつけられていません。ただ、若草伽藍は焼失しています。
2 西院の建築様式が古様で、『日本書紀』の再建されたとある670年よりも古いもので、その記事とあいません。
3 五重塔の芯柱の伐採が594年だと、年輪年代法により判断されましたね。それに因れば、法隆寺再建説は成立しなくなります。
4 柱などの様子が、伐採直後に30年程度の時間雨ざらしにされていたと推測できるとの報告があります。そうしたことを含む『法隆寺は移築された』という本があります。北九州からの移築です。
5 『法隆寺のものさし』という本があります。これと『法隆寺は移築された』とは矛盾しません。

B 聖徳太子について
1 『隋書』のなかには「聖徳太子」はいません。妻のある「阿麻多利子比孤」がいます。従って推古天皇もいません。
2 聖徳太子とみなされている、本尊になぞらえられる人物「上宮聖徳法王」の死について、法隆寺金堂本尊の釈迦三尊像の光背銘がしるす没年と『日本書紀』が記す没年とが一年ずれています。同じ金堂にある薬師像の光背銘には推古朝と思しき様子が読み取れます。
ただ二つの光背銘は、書体はもとより、釈迦三尊像が一行の字数をきちんとそろえた楷書体で整えているのと比べると、大きな差を感じます。

C 結論にはならないけれど
 A,Bから、いわゆる法隆寺を作った主体と『日本書紀』の編纂を命じた者とは、違う、という判断がありうると思います。
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#2さんも述べているように昔(歴史学会以外の?)俗世間で流行った説と考えています。



死に追いやられた山背大兄王その人が怨霊化するのは理解できますが、山背大兄王を押しのけてその親である聖徳太子が怨霊化するのは説得力に欠けます。山背大兄王は何処に行ったのでしょう。この説では居てもらっては都合が悪いので抹消されたのでしょうか。

百歩譲って、もし、聖徳太子が子孫を根絶やしにされるのを恐れて、子供を数十名も残して、代々私を供養するように遺言したにもかかわらず数十名の子孫が殺されたのであれば、殺害された個々人が怨霊化するより、聖徳太子一人になってもらった方が分かりやすいので、そうなる理由は分からなくもありません。

聖徳太子についてはいろいろ面白い仮説が多くありますので、素人のお遊びの世界では、この仮説も根強い人気は続くのかな~?と思います。
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 「聖徳太子が怨霊になったかどうか」は歴史学の対象ではありませんが、「聖徳太子の怨霊鎮魂のために法隆寺が建てられた(再建された)のかどうか」は歴史学の対象になります。



 が、「怨霊鎮魂説」については以下の通り、否定的な見解が有力です。

1.太子をかたどったと言われる救世観音像の後頭部には、光背(後光)が釘で打ちつけてあります。梅原氏はこれを怨霊封じの呪詛であると主張しましたが、中国の仏像には珍しくない特徴であることが現在では明らかになっています(『聖徳太子の本』79ページ参照)。
2.中門の中央に柱が立っていることも、怨霊鎮魂説の有力な根拠の一つでした。が、これも中国の建築様式を取り入れたに過ぎないと考えられています(同上84ページ)。

 怨霊鎮魂説が成り立つには、新たに有力な証拠が必要です。
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鎮魂のために建立された説は、もう30年以上前に発表されています。



梅原猛著 「隠された十字架」をご一読下さい。
発売された時著者の梅原氏と法隆寺が新聞紙上で激突していました。
家族旅行で法隆寺にこの本を持って行ったら、法隆寺の職員がずっとこちらを見ていました。

目からウロコが落ちますよ。

この回答への補足

梅原猛氏の見解をベースとてひねりを加えたものです。
「遡及的に」というところがポイントですね。
私もあなたも平穏な人生を送り天寿をまっとうしたとしても、子孫が根絶やしにされたりすれば遡って怨霊になるということです。

補足日時:2008/01/11 21:35
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厩戸皇子は蘇我氏と良好な関係にあったと考えなければ、様々な政治活動を行なえた理由を説明できないのでは?



法隆寺は670年に焼失し(日本書紀に記述あり)、再建されたという可能性が高いです。
怨霊については、歴史の領域で議論する話題ではありません。
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