辞書で「価値」と引くと、そこには哲学的な「価値」の意味も載っていますよね。そこで疑問に思ったのですが、ここで言う「普遍的絶対的価値」というのは、その価値が「絶対的普遍的」なのであって、人間自体に必ずその価値が備わっている、という意味では無いですよね?

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A 回答 (4件)

例えば、キリスト教的神の真理性は絶対的かつ普遍的な価値として考えられていたのでしょうが、ニーチェが神の死を謳いを予言したことを「最高価値の無価値化」と言いますが、現代思想までのスタンスであると思います。



価値が備わっているということは、
生前的に持っているということでしょうか。

人間にその価値があると考える人もいれば、
そうでないと考える人もいるでしょうね。

哲学において、人間自体に人間的な素養を持つ価値があるという意味で捉える哲学者もいますが、そうでないということを語る人もいます。経験論のロックからすれば"はじめから備わっていない"と言うでしょうし、ライプニッツからすれば"はじめから備わっている"と言うかも。
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「普遍的絶対的価値」という文言だけでは、


人間自体に必ずその価値が備わっている、
ことを意味しません。

その辞書にどのように記載されていたか全文を記載しないと
何とも言えませんが、直接そういうことを
意味してはいないと思います。

なぜなら、
人間自体に普遍的絶対的価値が必ず備わっている
かどうかは、価値という意味を確定するのに
不可欠の要素では無く、その外側の事柄だからです。
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>人間自体に必ずその価値が備わっている、という意味では無いですよね?



そういう意味です。その価値は人間がなくなれば何の価値もなく
なるものです。その価値は月の地上にはありません。他に地球と
似た惑星があって我々と同じような生物がいたとしても、彼らの
価値はおそらく我々の持っている価値と同じではないはずです。
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>人間自体に必ずその価値が備わっている、という意味では無いですよね?


これが正しいとしたら、生きている価値が無くなりませんか。
人間にも「普遍的絶対的価値」あると言うより、動植物にしかないのかも。
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Qマトリックスのテーマの「信仰と哲学」

マトリックスのテーマの「信仰と哲学」というのがよく分からないのですが
つまりどういうことですか?

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 ネオの死亡とともに、スミスも、そのコピーもすべて光となり、砕け散り、起源(ソース)に戻る。これは、ソース=マシンの内面が「光」であったことを意味する。
 人間にとって悪の権化と思われたマシンの内面は、実は「光」=「もっともピュアな存在」であった。
 人は逆に不完全で、欲望と怠惰を内包した存在。マシンには感情も欲望も怠惰もなく、もっとも純粋な、無駄のない存在。
 人がどんなにマシンを嫌っても、唯一の居住区「ザイオン」も、マシンなしには(飲料水の浄化システム、エアシステムなど)生きていけない。
 また、マシンも、どんなに人間を嫌っても、人がいなければ電源供給が絶たれ、マシンも停止するしかない。
 人とマシンが互いに、互いを必要としているように、ネオにとってのスミスも、いやおうなく、融合することが唯一の解決策であることに気づかされる。
 これらの背景にあるのは、人が「自由意志」だと思って行動していたことが、実は「必然的な選択」ではなかったのかという「自由意志への懐疑」。
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 そのほか、哲学者ボードリヤール、ショーペンハウアーの考え方、ニーチェの超人哲学、仏教、密教なども随所にマトリックスの中に取り入れられている。
 マシンは、ネオとの合意形成によって、マトリックスの全システムがリセットされ、無事に再起動をはたす。ラストシーンで、日の出を作り出し、「預言者」と一緒に見る少女が、ネオに続く次の救世主となったことが示される。
 このように哲学以外にも、人の脳神経には、重力も、物理的な制限もいっさいないため、日の出を作り出したり、現在の人類には信じられないようなスピードで早送りしたり、検索したり、データマッピングさえできる可能性なども示されている。

参考URL:http://www.fujigoko.tv/rev/prof/doc6/index.html

 ネオの死亡とともに、スミスも、そのコピーもすべて光となり、砕け散り、起源(ソース)に戻る。これは、ソース=マシンの内面が「光」であったことを意味する。
 人間にとって悪の権化と思われたマシンの内面は、実は「光」=「もっともピュアな存在」であった。
 人は逆に不完全で、欲望と怠惰を内包した存在。マシンには感情も欲望も怠惰もなく、もっとも純粋な、無駄のない存在。
 人がどんなにマシンを嫌っても、唯一の居住区「ザイオン」も、マシンなしには(飲料水の浄化システム、エアシステムなど)...続きを読む

Qカント哲学において次の行動は「道徳的に価値あること」とみなされるのでし

カント哲学において次の行動は「道徳的に価値あること」とみなされるのでしょうか。

1、余命いくばくもない苦痛に苦しむ末期癌の患者に安楽死を与えること。または、痛みを和らげるために死期が早まることを知りながらモルヒネを投与すること。

2、父が癌であると知った息子が父に対して、癌ではないと嘘をつくこと。


 また、カントの思想の中には「道徳的な行動はすべてに人間が生まれながらに持っている普遍的な理性に従うものであり、それはただ1つしかない」というニュアンスのことがあると思うのですが、これについても質問があります。
 9.11が起こったとき、パレスチナの子どもたちはその映像を見て小躍りして喜んでいました。例えばこのように、小さなときからある特殊な思想を植えつけられた場合、その人間の心の中には「殺人=悪」というモラルが形成されない場合もあるのではないでしょうか。つまり、自分では全く悪いことをしたという自覚なく、通常は「悪」とされる行為をした場合、その人間の行動はやはり、傾向性のある行動ということになるのでしょうか。

 私は哲学を勉強したことがないのですが、昨日のNHKの番組でオックスフォード大学の講義を聴き、
疑問を感じた次第です。ですから、なるべく優しい言葉を使って教えていただけるとありがたいです。

カント哲学において次の行動は「道徳的に価値あること」とみなされるのでしょうか。

1、余命いくばくもない苦痛に苦しむ末期癌の患者に安楽死を与えること。または、痛みを和らげるために死期が早まることを知りながらモルヒネを投与すること。

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Aベストアンサー

カント哲学において次の行動は「道徳的に価値あること」とみなされるのでしょうか。

○どちらもみなされると思いますよ。純粋理性は個人個人によってその発現の仕方が違うというだけですね。カントやヘーゲルはもっと高尚なことを言っていると思いますが、それは彼らが高尚であるからですね。普通の人なら十分に純粋理性の範疇ですね。例えば「道徳的に価値あること」といっても、階層、例えば、学生、助手、講師、教授、学部長、学長、総長によって少しづつ価値観が違うようなものですね。
道徳的価値観の違いがあるということが認識できれば、9.11の見方もキリスト教圏とイスラム教圏で異なることも理解できますね。
歴史的には、イスラム教圏が強大であった時代もあるのですね。また、つい65年ほど前は、日本も同じでしたね。日本の神風特攻隊と何が違うというのでしょうかね。彼らは今でも軍神でしょ。前の質問にも関係しますが価値観や見方は決して相対的ではないのですね。変わらない価値観もあるということを知って欲しいですね。

Q哲学の研究テーマ

バカボンのパパは、バカ田大学の社会学部哲学科を首席で卒業しました。専攻もしくは研究テーマは何だつたのですか。


[1] 「これでいいのだ」に代表される、言語による世界の肯定
[2] 太陽は東からのぼるといふ事例での、帰納法の制約
[3] 天才とバカは紙一重であることの証明

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バガボンに付いては漫画の主人公らしいと言う事と、これでいいのだ、と言うフレーズを知っているだけですが、そのパパはバカ田大学の社会学部哲学科を首席で卒業した、と言うのであればこれはもう「井戸端会議の地域社会に於ける有用性に付いて」が研究テーマであった筈です。

Q価値の哲学 価値考量(カント哲学の関係で)

いつもお世話になります。
カントの哲学を理解しているわけでは有りませんし、カントは「価値・所有・交換」といった概念には関心が無いようですが、私なりに考えてみると、非常に困った問題が有ることに気がつきました。

価値考量 価値を量的に考える事ですが、

私たちの主観は対象の「量」「質」「様態」「関係」さらに「時間」と言った、種類の違う概念を総合して一つの概念(価値)の量的評価を行う能力を持っていると考えますが、この能力は、全て、経験から得るものでしょうか?

それとも、例の難解な「形式」は、経験に関わらずに普遍的に全ての人間が持っているものでしょうか?

Aベストアンサー

ご質問はこの間から気になっていました。

>私たちの主観は対象の「量」「質」「様態」「関係」さらに「時間」と言った、種類の違う概念を総合して一つの概念(価値)の量的評価を行う能力を持っていると考えますが、この能力は、全て、経験から得るものでしょうか?

という部分がよくわかりません。
まず、「価値」というのは「関係」の概念ですよね。
Aに価値がある、というのは、絶対的な概念としてはありえません。
つねにBにとって、あるいは、Cに対して、という、関係としての概念として立ち現れてくるもの、と考えることができると思います。
となると、こうしたことは経験的認識の範疇である、と考えられるのではないでしょうか。
カントの扱う「先天的総合判断」の範疇にはないような気がします。

それに対して前半の「量」「質」「関係」「様相」というのは、「カテゴリー」のことを、「時間」(そして「空間」)は、人間の感性に与えられた「直観」のことを言っておられるのだと思いますが、こうしたことによって下される判断、というのは、先天的総合判断と呼ばれるものです。
先天的、というのは、字義通り、生まれる前から、経験とは無関係に、人間に普遍的に与えられている能力のことです。経験から得られるものではありません。

いまひとつ質問者さんがどういった意味で価値、あるいは比較考量ということばを使っておられるのか、おそらく経済学との関係があるのではないか、と想像するのですが、私にはわかりません。
上で「価値」について考えることは経験的認識ではないか、と書きましたが、質問者さんの問題意識とはずれているような気がします。
ということで、「先天的総合判断」についてのごく一般的な回答となってしまいます。質問者さんの問題意識とはかみ合っていないと思うのですが、どうかご容赦ください。

カントは、経験論者ヒュームのあとを受けて、あらゆる認識は経験と共に始まる、とします。
けれども私たちの認識がすべて経験的なものであったら、決して普遍的・必然的認識(誰がいつどこでどのように考えたとしてもかならずたどり着ける真理)には到達できないだろう、と考えます。
経験によって知ることができるものを積み重ねただけでは、その外にあるものが正しいかどうか知ることはできないからです(だからその部分に関して、ヒュームは「考えないこと」にします)。

経験したことのないことがらについて、判断できるのはなぜか。
あるいはまた数学の命題、たとえば「直線は2点間の最短距離である」が真である、といえるのはなぜか。
それは、私たちのうちに先天的な認識形式が存在するからだ。

それでは、なぜこの認識形式が客観性を持っている、といえるのでしょうか。
ここでカントは、認識の対象に目を向けます。

対象というものは、私たちから独立した存在ではない。
対象は、私たちの主観の先天的形式が構成したものである。

それまで認識というものは、あくまでも対象が中心でした。
対象は、私たちとは独立に、客観的に存在していることが前提だったわけです。
カントはそれをひっくり返して見せた。
私たちが「対象」として認識できるのは、私たちの主観が、そのものを対象として取り上げ、意識の俎上にのぼらせているからだ、と。

私たちの認識は感性によって、対象の直観が与えられる。
それを悟性が思惟することによって、認識が成り立つ、とカントは考えます。
こうした判断は「先天的総合判断」であって、単に「わたし」のみが主観的に下した判断ではなく、普遍的・必然的な判断であり、あらゆる学問の基礎となるべきものである。
と、これがカントのいう「先天的総合判断」です。

>例の難解な「形式」は、経験に関わらずに普遍的に全ての人間が持っているものでしょうか?
そういうことです。

ただ、今日から考えると、煩雑でいささか無理のある先験的判断のプロセスを理解する必要はないと思います。
むしろ大切なのは、「対象」というのは、私たちの主観が取り上げたものである、というカントのコペルニクス的転回ではないのでしょうか。

ご質問はこの間から気になっていました。

>私たちの主観は対象の「量」「質」「様態」「関係」さらに「時間」と言った、種類の違う概念を総合して一つの概念(価値)の量的評価を行う能力を持っていると考えますが、この能力は、全て、経験から得るものでしょうか?

という部分がよくわかりません。
まず、「価値」というのは「関係」の概念ですよね。
Aに価値がある、というのは、絶対的な概念としてはありえません。
つねにBにとって、あるいは、Cに対して、という、関係としての概念として立ち現れて...続きを読む

Q厚生経済学 政治哲学について(卒論テーマ?)

カテ違いでしたらすみません。

今度大学の授業で発表があり、そのための資料を作らなくてはなりません。
内容は特に指定はありませんが、できれば将来卒論で扱いたいテーマに関するものを…とのことです。
卒論を書くまではまだまだ時間があるので、これで確定というわけでは全くないのですが、どうせなら自分の興味あるものを少しでも深く勉強したいと考えています。

個人的には厚生経済学や政治哲学などに興味があり、ミルかロールズについて勉強していきたいです。
どちらかといえば、その人の思想についてを研究のテーマとするよりは、何らかの社会的な問題や事象と結び付けて考えてきたいと思うのですが・・・。
ただ、これらの人の思想と具体的な事象をどう結び付けていけばいいのか分かりません。
そういう方向に興味はあるけど、具体的にどんなテーマを扱いたいかが自分でもよく分からないのです・・・。

厚生経済学若しくは政治哲学の分野で、テーマを決める糸口のようなものを与えてくれる文献等ありましたら教えて頂きたいです。
また、「最低限これくらいは読んでおくべき」といった本も教えていただければと思います。

本来であれば先に自分が調べたいテーマを持っておくべきだと思うのですが・・・。
自分が何をすべきなのかが分からず、行き詰っています。
どなたか知恵を貸してください。よろしくお願いします・・・。

カテ違いでしたらすみません。

今度大学の授業で発表があり、そのための資料を作らなくてはなりません。
内容は特に指定はありませんが、できれば将来卒論で扱いたいテーマに関するものを…とのことです。
卒論を書くまではまだまだ時間があるので、これで確定というわけでは全くないのですが、どうせなら自分の興味あるものを少しでも深く勉強したいと考えています。

個人的には厚生経済学や政治哲学などに興味があり、ミルかロールズについて勉強していきたいです。
どちらかといえば、その人の思想につ...続きを読む

Aベストアンサー

アマルティア・センの著作は目を通しておくのがいいと思う。
ミル、ロールズに関心が高ければ、勁草書房Webサイトでダウンロード配布している『現代リベラリズムとその周辺 ブックガイド』も役に立つだろう。
また、日本の海外支援活動のなかで、その地の安定した生活に大きく寄与した例がいくつかあるから、そういうのも切り口のヒントになるだろう。たとえば、次の二人。
ブータンの農業の父西岡京二
アフガニスタンに用水路を通して緑化した中村哲医師

Q「哲学は人を救わない。」ではなく、 「二流の哲学は役に立たない。」と言う事ではないかと思うのですが、

「哲学は人を救わない。」ではなく、
「二流の哲学は役に立たない。」と言う事ではないかと思うのですが、如何でしょうか?

Aベストアンサー

二流というか、自分なりのポリシーに類する哲学は
多様でいい範囲内の他の人の生きざまにとっては
役に立たないということは言えると思います。

広く人を救うことにつながる普遍性を持った哲学
世の中の構成員である自分を救うことになるポリシー的な哲学
両方あっていいのではないでしょうか。

Q哲学の事で

まだ高校3年なので、国語能力がないですし、専門用語も全くわからないので質問も幼稚になってしまうのは大目にみてください。質問が多すぎるので暇などある時に回答してくると幸いです。

1.あやふやなんですが、哲学は考えや思想とは違って、決めたテーマの根本的な理由の事だとどこかの本で読んだような気がしたんですけど、哲学は考えないと哲学になりませんよね?なので哲学が考えと違うといのはありえないと思うんですがどうでしょうか??

2.ある人が言った言葉なんですが、水をテーマにして、「乾いた時代だったり乾いたシーンが多いけれど、そうゆうことではなくて、もっと潤った気持ちで人を愛したり、人に愛されたりする時代に、僕達は入らなければいけない」という事を言っていたんですが、これは哲学ですか?

3.哲学は理系と文系どっちに入るのでしょうか?

4.哲学はどこからが哲学なんでしょうか?例えば、神はいるのか?をテーマにして、「自分が見たことがないのでいない」というのも哲学なるんでしょうか?

お願いします。

Aベストアンサー

1. 私もそう思いますよ。考えることですね。
2.それも考えた末のことでしょうから哲学ですね。
3.全部を含んでますね。どこから入っても哲学。
4.どこから入っても哲学。思考と気づきは無限だけど同時にどこにも結論はあるからね。誰にでもわかるのも哲学、より深遠さを求めるのも哲学。

Q「かわいい」も「ブサイク」もよく言われるのですが、見えてる顔自体は同じですよね。評価が違うのは価値観

「かわいい」も「ブサイク」もよく言われるのですが、見えてる顔自体は同じですよね。評価が違うのは価値観の違いですか?なぜ人間によって同じものを見ても肯定的だったり否定的だったりするのでしょうか。

Aベストアンサー

これは人間の脳の構造に由来します。

人間の脳は、大きく三つの部分から構成されて
います。

食欲、性欲などを司る生存脳。
喜怒哀楽を司る感情脳。
理性を司る思考脳。

この三つは独立しているというのではなく、
互いに干渉しあっており、生命値を高揚
させるときに美を感じます。

かわいい、不細工は美に対する感性の問題ですが、
それを感じるのは脳です。


生存脳で感じる美は、人類共通です。
夕日などはどんな人種でも美を感じるそうです。

感情脳で感じる美は、育った環境により差異が
出てきます。
だから、日本人がキレイと感じても、外国人には
そう感じられない場合があります。

思考脳で感じる美は、個性があり、個々別々に
なります。
だから、貧乳好きも巨乳好きも、出てくる
訳です。

Q医師が哲学博士号を持っていることが多いのはなぜ?

1)医師がM.D.の他にPh.D.の称号を持っていることを
よく見かけますが、M.D.がとるPh.D.の博士論文の
テーマはどんなものがあるのでしょうか?
また、論文をネット上で読むことができるのでしょうか?

2)医師がPh.D.の称号を取る理由は人の命を扱い、
死に対しての哲学的な考えをもっている必要があるという事でしょうか?

3)大学生用の哲学の教科書を半分ほど読んでみましたが、
古代の哲学・神学・自然科学など、分野がばらばらで
なかなか理解できません。教科書には「哲学は進歩しない
学問である」「時代によって哲学のテーマが変わる」と
書いてありますが、まずはこの教科書「哲学の概論」と
「哲学の展開」を読み通してからもう一度考えるべきでしょうか?
4)「私が人生に付いて悩んでいる」という相談を知り合いをD.D.S.にしたところ、哲学を学べと勧められました。
正直言って哲学の教科書は読み通すのがつらいのですが、
もう少し砕けた哲学についての本があったらご紹介ください。

Aベストアンサー

具体的な番号が思い出せませんが、同じ意味の質問がありました。それとは別に、Ph.D. と哲学博士は同じものではありません。

Ph.D. Doctor of Philosophy は、直訳すれば確かに哲学博士になりますが、意味が違い、理系・文系を問わず、学位一般に使われます。日本語で言う、医学博士、理学博士、文学博士、全てが、英語にすると Ph.D. になります。この辺りの経緯が、以前の質問の回答にあったように記憶しています。

基礎医学の研究論文で医学部から学位を授与されると、日本では 「医学博士」、これを英文表記するときは Ph.D. (medical Science) のように括弧書きを加えることもあります。

U.S. では、医学教育は、日本と違い、4 年生大学を終了後 Medical School に入り、修業年限も長いため、日本でいう大学院 (博士課程) 相当になり、医師となるものが多いために、M.D. が Title になります。この制度上の違いもあり、日本人で日本の医師免許を有しているものは、U.S. での M.D. に相当するものと (認められてか、勝手にか、は知りませんが) して、医学博士ではなくとも M.D. を称号にしているケースがあります。ここまでは、経験者としての回答です。以下は、経験者としてのアドバイスです。

>「私が人生に付いて悩んでいる」という相談を知り合いをD.D.S.にしたところ、哲学を学べと勧められました。

哲学とは、自分の生き方、価値観です。一貫した自分の価値観を築き上げるためには、まず自らで考えることが必須です。そのときの方法論、他人の考え、自分が考えたことの妥当性の評価、などのために、先人の考えを学ぶことは必要でしょう。決して、過去の哲学者の所見を、受験勉強のように覚えることではありません。助言された方も、多分その意味で言われていると思います。まず自分で考えることから始めるべきで、その上で読めば、どんな哲学者の本も、そう難しいものではありません。

具体的な番号が思い出せませんが、同じ意味の質問がありました。それとは別に、Ph.D. と哲学博士は同じものではありません。

Ph.D. Doctor of Philosophy は、直訳すれば確かに哲学博士になりますが、意味が違い、理系・文系を問わず、学位一般に使われます。日本語で言う、医学博士、理学博士、文学博士、全てが、英語にすると Ph.D. になります。この辺りの経緯が、以前の質問の回答にあったように記憶しています。

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Q感性を深める方法論の価値を問う哲学や哲学論議は?

感性を深める方法論の価値を問う哲学や哲学論議は?

心理学のカテでも 心と感性の世界を問う心理学の存在についての疑問の質問をしましたが、

そういう心理学の価値を問うのはやはり哲学の世界と思います。

気持ちや行動を 左右してしまう無意識の世界は確かにあると思いますが、 もし感性が深くなれば その感性によって気持ちや行動のすべてが正されてくるはずですから、 

その探究抜きに無意識を追及しても ほんの部分的にしか人間が生きていくうえでの生活や意識に役立たないと思います。

そのへんを問う哲学が 過去においてはありましたでしょうか?

ありましたら 現在それはどのようにどこまで発展しているでしょうか?

みなさんのお考えをお聞かせください。

よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

反面教師という言葉があります。

こういうのはダメということからハジめるのもよいのではないでしょうか?

具体的にダメな諸例)
「感性=環境認識力」としゅちょうしながら、いつもおなかの具合が悪い、健康食品狂信者。味覚異常で、やる気がなく、昔のことしか頭にない自称 「最新の哲学者」

自分は最高とわめきながら、友達がいない。学生運動をやりすぎて、就職できないとわかり、広き直って海外逃亡したのに、自分がなぜつまはじきにされるのかわからない。不確定なものに基づくことは、できないのに「全ての存在は、量子的な不確定性に基づいている」と発言し、優柔不断な「自分中心」こそ宇宙の真理であると信じている。そういう典型的自己中。

宇宙には何もないと妄想し、全ては無だとわけのわからないことを断言、無と有は、「厳密には等しくない」のだが等しいといううそを言う。

認識を物理的に切ることは出来ず、無限のゼリーも存在しない
という ごく単純なこともわからない 鼻くそ。
本当の宇宙が見えず、望遠鏡を見ているだけなのに、自分には「見えない宇宙」が見えると主張するペテン師。

いつも汚い服装をしているので、色覚に鈍く、計測可能な色が存在しないという、変わった人。

「イタイの」「きついの」はいやなのに、
経験や感情、本能や肉体的形質の射影である「ひょろひょろボクチン」が、この世界の本質であるとしんじている自己中。

聞き手はいつも馬鹿だから本当の説明は、おいらの完全最強論理を研鑽・暗記してからにしろ!と叫び、詳しい説明は、次の機会にすると言い逃れる。「精神の内容」・「自我の存在場所」を説明することすら出来ない卑怯者。

唯物論者特有の感謝のない態度をもち、悪いのは社会だとトンでもない責任転嫁をする音速赤軍。「色は存在しない」と主張し、自分が真っ赤であることを隠したい臆病な社会主義者。

精神の幼稚園児(唯物論者)が何人集まってけんかをしても、勝負がつくはずもなく、自分はマッハを改造した最強の哲学者であると信じて疑わない無知な人。

マッハは、マルクスに敵対したという馬鹿な想像をする正真正銘の唯物論者。
馬鹿な唯物論者が二人集まっても、馬鹿であり、かえるの子はかえるで、知識が増えるはずがないのに、なんでも足し算と掛け算で考えようとするが、計算は苦手という自己崩壊。

おや こ ともども、醜い腹を公衆の面前にさらし、くだらないコピペと補完説明でみんなを困らせる高齢者。

一級も持っていないのに教員面するおっさん
こういうお爺さんの感性では何も得るものがないということです。

反面教師という言葉があります。

こういうのはダメということからハジめるのもよいのではないでしょうか?

具体的にダメな諸例)
「感性=環境認識力」としゅちょうしながら、いつもおなかの具合が悪い、健康食品狂信者。味覚異常で、やる気がなく、昔のことしか頭にない自称 「最新の哲学者」

自分は最高とわめきながら、友達がいない。学生運動をやりすぎて、就職できないとわかり、広き直って海外逃亡したのに、自分がなぜつまはじきにされるのかわからない。不確定なものに基づくことは、できないのに「全...続きを読む


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