カントの人間観について、
素人でもわかるような表現で教えていただけませんか?

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A 回答 (3件)

 なんか最近、カント関係の質問が多いですね。

少し後ろの方に「コペルニクス的転回」という題の質問があります。そこでは「純粋理性」の話がされています。ご覧下さい。
 (ひょっとして「レポートなの教えて」系、あるいは「テストなんで助けて」系の質問かも…とも思いましたが、「素人にもわかるような表現で」というあたりに「自分の頭に入れたいんだ、納得したいんだ」という熱意のようなものを感じました。そういう言葉が出てくるということは、「素人にはわかりにくい表現」で書かれたものはお読みになったのでしょう。お手伝いします。)
 で、「カントの人間観」。少し包括的な問題になりますね。以下の三つの論点で述べようと思います。
 1理性には限界があること
 2人間は自由であること
 3人間は「目的」として扱われるべきこと

 まず「1理性の限界」。これはまず、冒頭に挙げた「コペルニクス的転回」のページをご覧になってください。簡単にまとめると、「理論理性(純粋理性)は、感覚を通じて経験できる範囲でのみ正しく認識を構成できる」、「経験できない領域(物自体、イデア界)には、理論理性は踏み込めない」ということです。つまり、「人間の理性には限界があるのだ」と考えていた点、これがカントの人間観、その1です。
 で、「2人間の自由」。
 純粋理性に関してその限界を定めたということは、一見、人間の自由を制約しているように見えます。だって人間理性が無限で万能だったら、それこそ本当に何でもできることになりますからね。けれどカントは、実はそのようにしたことで逆に人間の自由を根拠付けているのです。
 そう言えるのは、まず認識の局面では、「客観的に存在している物の情報が、一方的に意識に押し付けられているのではなく、むしろ意識が積極的に働きかけて、感覚の情報を経験へとまとめあげているのだ」としていることからです。まず一つ、人間の積極性・主体性の根拠がここにあります。
 もう一つの根拠が「実践理性」です。純粋理性が対象認識を担当する理性であるのに対して、実践理性は「意志」を規定する理性です。両者は区別されています。ここでもう一度純粋理性の振る舞いを見直しましょう。それは「認識は外界から一方的に与えられる」というものではありませんでした。でも、かといって「意識が世界を創っている」とまで言えるものではありません。意識が作れるのは(「構成」できるのは)「経験」だけです。
 ということは、「外界があって」しかも「意識があって」、その両方があって初めて認識が成り立つということです。やはり認識のためには「外界の存在が必要である」ことになります。
 ところが実践理性はそうではありません。外界の存在やその作用がまったく無くても、実践理性による意志は、主体そのものの中から内発的・自己原因的に発しうる。つまりここで、外界・自然の因果を断ち切って、人間精神は自由になっているのです。のみならず、純粋理性が「そんなもん、わからんよぉ、ぴぃー」と言って泣きながら放り出したイデア界の諸観念(神とか善とか)をも、それがあるものと要請し(想定し)、いわば努力目標として自分のものにできるのです。(このためカントは、純粋理性と実践理性とは、単に横並びの同僚というわけではなくて「実践理性の方が優位に立っている」としました。)
 さてこうして、実践理性は自然の因果を断ち切って自由になるとともに、神や善を志向することができるようになりました。つまり「善意志」を持ちうるわけです。ここで出てくるのが例の「定言命法」ってやつです。「ホニャララしたければホニャララしなさい」という条件つきの命法(仮言命法)ではなくて「とにかくやれー」と命じる、アレです。外界・自然の関与なしに、実践理性が主体に命令するんです。自然の関与なしに、ということは、人間の内なる自然たる「本能」の関与なしに、ということでもあります。つまり、エッチしたいから女性に親切にするってのはイケナイんです。そーゆーシタゴコロを超越したところから出てくる「やれー」なんです。
 ということで、「人間は自然を超越して、自分で自分自身の主人であり、その意味で自由である」ということ、これがカントの人間観、その2。
 さて「3人間は目的だ」。
 芸術はバクハツですが、人間は「目的」です。これ、どういうことかと言うと、簡単に言えば「人間を道具あつかいしちゃダメだよ」ってことです。よくドラマなんかで悪党の親玉が「あいつはもう用済みだ、消せ」なんて言ってます。仮にここで言う「あいつ」が、嫌いなポテトサラダをボスの代わりに食べてあげる役だったとすると、この「あいつ」は「ポテトサラダ食いマシーン」にすぎないことになります。それで死んだら、墓碑銘には「ポテトサラダのために生まれ、ポテトサラダのために生き、ポテトサラダのために死んだ」と刻まれることになります。まんもす悲ぴい。
 そーゆーふうに人間を扱ってはいけない。たまにはうな重でも食べさせてあげなくては…ということではなくて、どんな人であっても(部下とか手下とか下僕とかパシリとかであっても)、その人を独立した人格を持つ個人として、自分の道具じゃない、その人自身の主体性を持つ存在として、尊重しなさいということです。これ、カントの人間観、その3です。
 ちなみに、カントは「国連」を最初に構想した人でもあります。上の「人間を目的として尊重」というのを、国と国との関係にまで広げているわけです。

 どの程度わかりやすくなったかわかりませんが、こんなところで。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
そうなんです、カント関連の本ってどれも難しい表現で書かれたものばかりで・・。今もozapanさんの回答片手に本と睨めっこしてます!

お礼日時:2001/02/08 00:30

 現代的な意味での「人間観」という概念は、近代ヒューマニズムをその基礎においています。

ギリシャ以来の自然に対する人間の自由はカントにおいて徹底され、人間は自然から独立的でありむしろ目的を立てて自然を手段にする存在とされます。人間が自然の所有者であり世界の主人なのです。そこにおいて近代科学の実験的立場や解析数学に特徴的な分析再構成的方法の基礎付けがおこなわれます。
 しかし翻って人間を考えるとき、人間は自然に存在する他のものと違って「目的自体」であるといわれます。ここにおいて、では人間とはどうあらねばならないかが問題になります。実存主義的立場であれ弁証法的唯物論の立場であれ、このような「人間観」をまって初めて可能となります。そのような基礎を築いたのがカントその人です。
 彼自身は、「汝および他人の人格のうちなる人間性を決して単に手段としてのみ取り扱うことなく、常に同時に目的としてとりあつよう行為せよ」、と述べています。これは人間は普遍的能力としての理性によって道徳的尊厳を具えてはいても、方や人間中心主義的個人の欲望は多面的で特殊的でもあり、悪の傾向をも兼ね備えているという人間観に由来します。であれば、人間は社会を形成し道徳を守り単に個人的自由を追求するのではなく、愛と敬による相互の独立と互いの手段化を求めねばなりません。これが「目的の国」です。けだし、カントの哲学が人倫の学と言われる所以です。
 しかし、その目論見がうまくいっているかどうかはまた別のお話で、道徳、法律や宗教を駆使するのですが、結局彼の言っているのは「ああしろこうしろ」だけではないのかとの批判が起こります。彼の人間の尊厳に対する絶対的な信頼が甘く感じられたり、逆に息苦しく感じられたりするからです。
 であってもしかし、カントの人間観は、現在日常的に使われている「ヒューマニズム」の本家本元であり、そのことだけをとっても彼が偉大であったことは実証されています。
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カントは、哲学の問題は次の3つの問いにまとめられると考えました。


 1.わたしは何を知ることができるか。
 2.わたしは何をなすべきか。
 3.わたしは何を望んでよいか。
そしてこれらの問いは、究極的には「人間とは何か」という問いに帰着すると考えました。カントにとって「人間」とは、自分自身の理性を信頼し、ものごとを自分で考え、自分で自分の責任を引き受けることのできる存在にほかなりませんでした。

こういうのでいいのかしら?
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この回答へのお礼

とってもわかりやすい回答ありがとうございます!

お礼日時:2001/02/06 17:31

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Qカントについて

現在レポートを書くためにカントについて調べています。
今混乱していてはっきり言って自分でもどこがわからないのかよくわからないのですが、倫理学を中心に書きたいと思っています。

そこでなにかカントの倫理学についてお勧めの本などあったら是非教えてください。

また、現代におけるカント哲学という点で、カント哲学がどのような影響を現代に与えているか教えてください。先日カリーニングラードで18カ国が参加した国際学会が行われたというのを目にし、現代におけるカント哲学について何か知っていることがあったら教えてください。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

こんばんは
回答は、「カント哲学と倫理―現代カント研究の視点から」
とまとめてみました。

まずカントの倫理学について書くという場合には、定言命法(der kategorische Imperativ)を知っておく必要があるでしょうから、『実践理性批判』についての解説などを、西洋哲学史や思想史と呼ばれるものや、カントについての著作によって読んでおく必要があるでしょう。
しかし、この点はもう大丈夫ということですね、きっと。

そこで
>お勧めの本など
ですが、雑誌「現代思想」の、1994年3月臨時増刊「カント」にある、「普遍化の論理と相互承認の倫理」(342~358頁)がお勧めです。

この論文においては、序の見出しが「カント理解の現代的状況」というように、まず、カント解釈の中でも主に倫理を巡る研究史を示し、それから「定言命法」と「倫理」の問題を現代のカント研究の立場から論じていきます(注も57個付されていて、役に立ちます)。
また、この「カント」特別号には、アドルノ研究者の細見氏による「アドルノのカント論」(286~294頁)も見られます。

さて、今年、2004年度は、世界の各地でカント・シンポジウムや国際会議やゼミナールなどが非常に多く開催されています。カントの生誕地カリーニングラードにおけるものは、その一例に過ぎません。
2月12日の記念祝典の後、4月22日から24日に開催されたカリーニングラート大学による国際会議では、だいたい以下のようなテーマに分けられたようです。
1)異文化におけるカント受容
2) カントの理論哲学における先験性と先天性の問題
3) カント哲学における形式および超越論的論理学
4) カントの実践哲学における普遍主義
5) カントにおける人間と文化
6) カントによる生の構想

先述の「普遍化の論理と相互承認の倫理」という問題は、まさに四番のテーマですね。

しかし、
>カント哲学がどのような影響を現代に与えているか
を本当に考えるならば、やはりニーチェの存在を忘れてはならないでしょう。

今月の26日~29日にナウムブルク(Naumburg)では、「理性、生、存在 ― 衝突するカントとニーチェ」というテーマのもと国際会議が開かれます。カント協会とニーチェ協会の相互協力のもと(ニーチェは怒るでしょうね、、、笑)。

ニーチェが『善悪の彼岸』などでカント批判をしているのは有名ですね。しかし、その批判の背後にはどのような倫理的問題があったのか、ニーチェ自身が使う手段を逆に使って、なぜそこまでカントを批判したのか?、など考えてみるのも面白いかも知れません。

それでは

こんばんは
回答は、「カント哲学と倫理―現代カント研究の視点から」
とまとめてみました。

まずカントの倫理学について書くという場合には、定言命法(der kategorische Imperativ)を知っておく必要があるでしょうから、『実践理性批判』についての解説などを、西洋哲学史や思想史と呼ばれるものや、カントについての著作によって読んでおく必要があるでしょう。
しかし、この点はもう大丈夫ということですね、きっと。

そこで
>お勧めの本など
ですが、雑誌「現代思想」の、1994年3月臨時増刊「カン...続きを読む

Qキリスト教とイスラム教の人間観、現世観について・・・

仏教に関してはなんとかできたのですが、キリスト教とイスラム教のこれらの価値観を比較しながら論じなければならなくなってしまいました。いろんなサイトを探したのですが見つからず、このGooにたどり着きました・・・。どなたか、二つの宗教の人間観と現世観についてわかりやすく教えていただけないでしょうか?また、そのようなことが載っているサイトや本はご存知ではないでしょうか?切実に探しています。

Aベストアンサー

日本人のための宗教原論
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4198611688/ref=sr_11_1/503-8021835-4718347?ie=UTF8

日本人のためのイスラム原論
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4797670568/ref=pd_bxgy_b_text_b/503-8021835-4718347?ie=UTF8

ユダヤ・キリスト・イスラム集中講座
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4198619468/ref=pd_sim_b_1/503-8021835-4718347?ie=UTF8

 この辺が、分かりやすいと思います。

Qカントの入門書ってどれが良いのでしょうか……?

カントの入門書ってどれが良いのでしょうか……?

最近、エマニュエル・カントの三批判書を読み通そうと思い立ち、
まずは『純粋理性批判』を読んでいるのですが、
噂通りというかなんというか、難しくて苦戦しています。

そこで、サブテキスト的に使えそうな、三批判書を中心としたカントの思想全般についての解説書を探しています。

しかしカントの解説書って結構いっぱい出ていて、どれを読むべきか悩んでいます。
なので、この解説書が分かりやすかった、などご存知でしたら、教えていただけると助かります。

とりわけ、
黒崎政男『カント『純粋理性批判』入門』(講談社選書メチエ)
石川文康『カント入門』(ちくま新書)
中島義道『カントの読み方』(ちくま新書)
中島義道『『純粋理性批判』を噛み砕く』(講談社)
といったあたりの書籍について、
解説の正確さと分かりやすさという二つのポイントからみてどうか、ということを
ご教示いただければありがたいです。

ちなみに先般、手始めに池田雄一『カントの哲学』(河出書房新社)を読んでみたら、カントの思想云々以前にこの著者の語り口になじめなかったのか、まったく頭に入ってきませんでした……。
この本はカント哲学をシニシズム批判に引きつけて読む、ということに主眼が置かれていたようですが、私が求めているのはそういう本ではなく、カントの思想の要点を簡潔にパラフレーズすることを重視している本です。
また、カントの自伝的な要素には触れられていなくても構いません。

以上、いろいろと面倒な注文を書き並べてしまい恐縮ですが、
要するに分かりやすくて正確なカント解説書を教えていただきたいのです。

ご存じの方いらしたら、どうかよろしくお願いします。

カントの入門書ってどれが良いのでしょうか……?

最近、エマニュエル・カントの三批判書を読み通そうと思い立ち、
まずは『純粋理性批判』を読んでいるのですが、
噂通りというかなんというか、難しくて苦戦しています。

そこで、サブテキスト的に使えそうな、三批判書を中心としたカントの思想全般についての解説書を探しています。

しかしカントの解説書って結構いっぱい出ていて、どれを読むべきか悩んでいます。
なので、この解説書が分かりやすかった、などご存知でしたら、教えていただけると助かります。...続きを読む

Aベストアンサー

二次的な書籍類は、身にならないと思います。お勧めは、道徳形而上学原論を一文ずつ理解することです。参照の為には、アリストテレスの形而上学中「哲学用語大辞典」の章の訳出を参考にしながら、広辞苑等辞書を引き引き読み進んでください。そうしながらこちらで質問なさるとよろしいかと思われます。具体的な質問ならカントに詳しい人は、たくさんいますから。ご検討ください。

Qカントの認識論についてまとめなければならないのですが、頭がついていきません!汗 カントの認識論って

カントの認識論についてまとめなければならないのですが、頭がついていきません!汗

カントの認識論っていうものは、感性→悟性のこの過程のことを表すのですか?
それとも、対象が認識に従うという内容のことを表すのでしょうか?

また、「理性」から純粋理性、実践理性が生まれたと考えていいのでしょうか?

ごちゃごちゃですみません。
お力添え、お願い致します。

Aベストアンサー

認識論だけなら、「純粋理性批判」を元に展開すれば良いと思います。
純粋理性とは、純粋な理性自体を示し、実践理性とは、理性による実践を意味します。
つまり、「純粋理性批判」とは、純粋な理性の機能を批判的に分析する事を目的として書かれた本です。(理性による認識の構造を分析しています)
「実践理性批判」とは、理性を実践的に利用する事を批判的に分析する事を目的とします。(実際は、理性の倫理学もしくは、道徳的実践のありかたを分析しています)
カントは、形而上学を、理性の論理的構造が、感覚と悟性による実体の表象を認識する事と分析し、実体そのものが、認識されるのではなく、表象を実体と見なす過程が認識だと言う事を主張しています。
つまり、実体→認識では無く、認識→実体と言う発想の転換を行ったわけです。
理性の認識は、実体そのものを意味するのでは無く、理性によりカテゴライズされた表象でしかあり得ないと言う事です。
これを、対象(実体)が認識に従うと表現します。
細かい内容については、「純粋理性批判」もしくは、カントの解説書などを参照してください。

Qシラーとカント

シラーのカント批判として取り上げられるものとして、「優美と尊厳について」のほかに有名な二行詩「良心のとがめ」「決定」があるのですが、シラーの倫理学とカントの倫理学は、あまり違いがあると思いません。そこで、なぜシラーは二行詩でカントを批判したのでしょうか?みなさんの意見を教えて下さい。

Aベストアンサー

こんばんは、

シラーのカント批判というものが果たしてどれくらい「有名」
なのかはわかりませんが、
シュヴェーグラーも『西洋哲学史』のカントの章で取り上げていて、
この哲学カテゴリーでも一度はこの本が登場していますし、
カントに詳しい方もいらっしゃるようですので、
少なくともここでは有名なのでしょう。
で、私は以前、この本とは違う『西洋哲学史』を紹介したことがあったので、
「義務」感から何かお役に立てればと思い、回答させていただきます。(長い言い訳ですね・・・)


さて、シュヴェーグラーも言うように(下巻、145ページ)、
カントの道徳律では、
「行動の動機からあらゆる感性的な衝動を取り去ろうとする努力」
が重要となるが、「厳粛主義」(Rigorismus)と呼ばれるのも、
これが行き過ぎているからです。
つまりカントは、「道徳的」(moralisch)という属性を、
好きでする「傾向性」から行われる行為ではなく、
いやいやながらする「義務」から行われる行為
においてのみ妥当であると考えています。

事実カントの「純粋道徳哲学」では心理学的な問題ではなく、
道徳的なもののアプリオリな規定だけが重要であったので、
この結果は当然なのですが、シラーはこの厳粛主義を
「陰鬱で僧侶的禁欲主義」(『優美と品位について』)
の表現と見なしているのです。

シラーは、『優美と品位』において「彼(カント)は、彼の時代のドラコとなった」、
すなわち厳格な執政官となった、と言います。
カントの考える義務からの道徳は、
シラーがそこで問題としていた「美しい魂」とは違うようです。
シラーにとっては、たとえ本能や感情に従っても、
友人を助けるような行為は「道徳的」と呼ぶことができるし、
むしろ、心から真に行為することの方が
美しい精神による行為と呼べるのではないだろうか、と思われたのですね。

それで、シラーは、「哲学者たち」(Die Philosophen)という詩(1796)において、
西洋哲学史上の主な哲学者の思想を幾つかのディスティヒョン(風刺的な二行詩)
の形で批評していますが、そこで問題の「良心のためらい」と「決心」
という二つの二行詩でカントを批判しています。

  私は友達に尽くしたいのだが、残念ながら好きでするんだ。
   そこで私は思い悩む、自分は有徳じゃないだんと。

という悩みが生じ、「ためらう」ことになるが、

 しょうがない、おまえは友人を軽蔑するよう努めろ、
  そして義務の命じることをしぶしぶ行えばいいのだ。

という「決断」をする、というものです。

このように考えれば、カントとシラーとの差異は明らかのように思われます。
カントと違いシラーはアプリオリな「道徳的」性質を必要としていませんでした。

たとえば、シラーはその二年後の「人質」という物語詩において、
妹の結婚式に出るために三日の猶予をもらって代わりに友人を預けてきた
メロス(Moeros)が友人のもとに戻る行為を、
いやいやながらの義務からの行為であるとは描いていないと思われます。

すなわち、それは友情を大切に思う感性的な性向からの道徳的な行為でしょう。
もしメロスの行為が「義務」であるならば、
文学作品として何ら感動を呼び起こすものではなくなってしまい、
極東のハラキリの国においても知られるほど生き残ってはいなかったと思われます。(笑

こんばんは、

シラーのカント批判というものが果たしてどれくらい「有名」
なのかはわかりませんが、
シュヴェーグラーも『西洋哲学史』のカントの章で取り上げていて、
この哲学カテゴリーでも一度はこの本が登場していますし、
カントに詳しい方もいらっしゃるようですので、
少なくともここでは有名なのでしょう。
で、私は以前、この本とは違う『西洋哲学史』を紹介したことがあったので、
「義務」感から何かお役に立てればと思い、回答させていただきます。(長い言い訳ですね・・・)


さて...続きを読む

Qカントについて本をかって読んだのですがまったく意味がわかりません

カントについて本をかって読んだのですがまったく意味がわかりません
大学でレポートをこのことについて書かないとだめなのですがどうかいたらいいのかおしえてください

Aベストアンサー

.
カントの哲学については、多くの日本人の哲学者が、解説本を出しています。
概略を説明したものから、内容に深く入り込んだ内容の本もあります。
自分で、理解できる解説本から読み始めてはいかがですか?
.

Qカントの形式主義が分かりません

カントの形式主義は、

広辞苑には
「(3)カントのように、認識や道徳法則の普遍妥当性を、理性のアプリオリな形式にのみ根拠づけようとする立場。シェーラーはこれを批判して実質的価値論理学を主張。」

とありましたが、読んでもさっぱり分かりません。

カントの形式主義を分かりやすく教えて頂けないでしょうか。
宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

私はカントの認識論はちっとも「形式主義」だとは思わないけど、道徳論は「形式主義」だと思っています。
カントの道徳律の基本の「定言命法」というのは、周囲の状況を一切顧慮することなく、ただ己の「良心」と義務感に基づいて、善いことは善い、文句なく無条件にという意味ですから、たいてい道徳と言ったら周囲の状況によって、こうしたら妥当するか妥当しないかを考慮して決めるべきもので、カントはそれを一切無視するわけですから、「形式主義」です。
例えば戦争をしているときに、殺すことは悪いといって敵兵を殺すのをためらっていたら、自分が殺されてしまいますから、道徳や倫理も状況次第です。
だけど、カントはドイツ・プロテスタントの中でももっとも純粋で、人間の内面性を称揚する宗派である「ドイツ敬虔派」の母親に育てられたから、そんな条件付きの道徳である「仮言命法」を嫌っていたんです。
人間の道徳的行為は人間の内面の「良心」に基づき、人間の純粋な自発性によらなければならない、何が正しく、何が正しくないかは内面の「良心」の声に耳を傾けて決定すべきものと考えていたんです。
カントは「道徳形而上学の基礎付け」で以下のように言っています。

「あなたの行為の原則が、普遍的な法則になることを、その原則を通じてあなたが同時に意志することができるような、そうした原則に基づいてのみ行為せよ」

つまり、自己の利益とか、自己の「快」のためとか、また他人をそうした利益のための手段として考えるのではなく、他人を目的として、つまり目的を共有する同胞・仲間として考え、行為せよ、という意味。
「あなたの行為の原則」というのは自己の個人的な行為の方針のことで「格率」といわれるもの、その個人の主観的な行為の原則である「格率」を、普遍的な行為の原則に一致するように調整して行為せよ、ということ。
カントは人間の内なる霊的な「叡智的世界」があることを信じていましたので、人間の道徳的行為はその「叡智的世界」に基づくものと固く信じていたのです。
かれは「実践理性批判」でいいます。

「私の頭上の広大な宇宙と私の内なる崇高な道徳律」と。

カントは広大な宇宙よりも、人間の道徳律の方が、はるかに崇高なものと考えていたのです。
いかにも、ドイツ敬虔派の熱心な信徒がいいそうなことです。
カントには何事も道徳的に考えずにはいられない「道徳的リゴリズム」がありました。
それがカントの道徳が「形式主義」といわれるゆえんです。

私はカントの認識論はちっとも「形式主義」だとは思わないけど、道徳論は「形式主義」だと思っています。
カントの道徳律の基本の「定言命法」というのは、周囲の状況を一切顧慮することなく、ただ己の「良心」と義務感に基づいて、善いことは善い、文句なく無条件にという意味ですから、たいてい道徳と言ったら周囲の状況によって、こうしたら妥当するか妥当しないかを考慮して決めるべきもので、カントはそれを一切無視するわけですから、「形式主義」です。
例えば戦争をしているときに、殺すことは悪いといっ...続きを読む

Qバロック時代の人間観について教えてください

バロック絵画に、バロック時代の人間観が反映しているのでしょうか。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

 論旨を簡単にするために、バロックとそれまでの古典主義を対立させて見ていくことにします。「人間観」ということですが、古典主義の哲学と言えるのがスピノザやデカルトの体系であり、それは「神と人間の存在の確信」に支持を与える、直線的な思想であると言えるでしょう。
 対して、バロックはアーノルド・ハウザー『芸術と文化の社会史』によるとコペルニクスの宇宙論が勝利を占めた後にヨーロッパ美術に出現したとしています。宇宙の無限性という畏怖すべき観念が、神と神によって創られた人間の存在の基盤を揺るがしたのです。バロックの曲線(楕円や渦巻きや螺旋)は円環へと収束します。円環には始まりも無ければ終わりもありません。パスカルは彼の思想において「無限なる空間の永遠の沈黙」を前にして不安を覚えました。バロック美術は洞窟、迷宮、唐草模様などの付属物によって過剰ともいえる装飾を与えられています。そのような曲線は、時代的観念の象徴であるとともに、不安を慰撫する休息をもたらす意味を持っています。ガストン・バシュラール『空間の詩学』では人間は貝殻のなかに最大の休息を見出す、と述べています。また、貝殻を形作る渦巻きや螺旋は女陰のシンボルであるとユングは指摘しています。ここまでの記述を整理すると―宇宙論の確立により生み出され増大する不安―その不安を慰撫する円環(渦巻き、螺旋)の形成―生命と存在の再生のための胎内回帰。とまとめられるでしょうか。
 参考までに書いておきますと、バロックとは、もとポルトガル語の<バローコ>でゆがんだ真珠を意味する普通の言葉でした。それが美術用語に転用され風変わりなもの、不均等なものという意味を付与されることになりました。そこには18世紀後半のフランスで古典主義の概念が確立し、そこから逸脱したものがバロックの名で呼ばれたという時代背景があります。
 もし、ちゃんとした(?)美術史の講義等に提出するのが質問の目的でしたら、
あまり参考にならなかったかなぁと思います。ただ、あまりバロックは美術史で割かれない異端児でもある、可哀相な「宝石」であることは確かですね。
                            ご参考までに・・・

 論旨を簡単にするために、バロックとそれまでの古典主義を対立させて見ていくことにします。「人間観」ということですが、古典主義の哲学と言えるのがスピノザやデカルトの体系であり、それは「神と人間の存在の確信」に支持を与える、直線的な思想であると言えるでしょう。
 対して、バロックはアーノルド・ハウザー『芸術と文化の社会史』によるとコペルニクスの宇宙論が勝利を占めた後にヨーロッパ美術に出現したとしています。宇宙の無限性という畏怖すべき観念が、神と神によって創られた人間の存在の基...続きを読む

Q胎児、新生児の生存権についてパーソン論の立場、カントの立場から説明しろ

胎児、新生児の生存権についてパーソン論の立場、カントの立場から説明しろということなのですが。
パーソン論はある時期までの胎児や脳死状態の患者は人格とみなされない、といったようなことですよね。
カントの立場からというのがいまいち調べてもわかりません。
カントはどのような考え方をしめすのでしょうか?

Aベストアンサー

結論はこうです。
生命に付随する恩恵として人の法があるのではなく、人格に付随する権利のみが人の法であるとする考え方でしょう。
そこにカントの考え方を交えてご自分で考察してください。

生命に付随する恩恵の考察は、イコールで神とは何ぞやに属し哲学を逸脱します。
現代の哲学でも逸脱してはならない限界とされています。
頑張ってください。

Qギリシャ哲学とキリスト教の人間観の違いについて

大学のレポート作成の課題なのですが、難しくて理解できません。図書館で哲学書を借りて読んでみたものの最初から興味のない学科でいまいち理解できません。どの本を読んでも理解できず、落ち込んでいます。参考になるわかりやすい本があったら教えて下さい。ちなみにソフィの手紙は半分ほど読み終わりました。

Aベストアンサー

ソフィーの世界を読んだのであれば、そのまま掘り下げたのが

●『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』
日本放送出版協会 (ISBN:4-14-080258-8) 1020円なり

浅く、広く知りたいのであれば
●『哲学者達は何を知りたかったの?』 
飛岡 健著 河出書房新社 720円

あくまで興味がないのであれば、このへんで妥協して良いかと思います。

参考URL:http://7andy.yahoo.co.jp/books/detail?accd=19770568


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