カントの人間観について、
素人でもわかるような表現で教えていただけませんか?

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A 回答 (3件)

 なんか最近、カント関係の質問が多いですね。

少し後ろの方に「コペルニクス的転回」という題の質問があります。そこでは「純粋理性」の話がされています。ご覧下さい。
 (ひょっとして「レポートなの教えて」系、あるいは「テストなんで助けて」系の質問かも…とも思いましたが、「素人にもわかるような表現で」というあたりに「自分の頭に入れたいんだ、納得したいんだ」という熱意のようなものを感じました。そういう言葉が出てくるということは、「素人にはわかりにくい表現」で書かれたものはお読みになったのでしょう。お手伝いします。)
 で、「カントの人間観」。少し包括的な問題になりますね。以下の三つの論点で述べようと思います。
 1理性には限界があること
 2人間は自由であること
 3人間は「目的」として扱われるべきこと

 まず「1理性の限界」。これはまず、冒頭に挙げた「コペルニクス的転回」のページをご覧になってください。簡単にまとめると、「理論理性(純粋理性)は、感覚を通じて経験できる範囲でのみ正しく認識を構成できる」、「経験できない領域(物自体、イデア界)には、理論理性は踏み込めない」ということです。つまり、「人間の理性には限界があるのだ」と考えていた点、これがカントの人間観、その1です。
 で、「2人間の自由」。
 純粋理性に関してその限界を定めたということは、一見、人間の自由を制約しているように見えます。だって人間理性が無限で万能だったら、それこそ本当に何でもできることになりますからね。けれどカントは、実はそのようにしたことで逆に人間の自由を根拠付けているのです。
 そう言えるのは、まず認識の局面では、「客観的に存在している物の情報が、一方的に意識に押し付けられているのではなく、むしろ意識が積極的に働きかけて、感覚の情報を経験へとまとめあげているのだ」としていることからです。まず一つ、人間の積極性・主体性の根拠がここにあります。
 もう一つの根拠が「実践理性」です。純粋理性が対象認識を担当する理性であるのに対して、実践理性は「意志」を規定する理性です。両者は区別されています。ここでもう一度純粋理性の振る舞いを見直しましょう。それは「認識は外界から一方的に与えられる」というものではありませんでした。でも、かといって「意識が世界を創っている」とまで言えるものではありません。意識が作れるのは(「構成」できるのは)「経験」だけです。
 ということは、「外界があって」しかも「意識があって」、その両方があって初めて認識が成り立つということです。やはり認識のためには「外界の存在が必要である」ことになります。
 ところが実践理性はそうではありません。外界の存在やその作用がまったく無くても、実践理性による意志は、主体そのものの中から内発的・自己原因的に発しうる。つまりここで、外界・自然の因果を断ち切って、人間精神は自由になっているのです。のみならず、純粋理性が「そんなもん、わからんよぉ、ぴぃー」と言って泣きながら放り出したイデア界の諸観念(神とか善とか)をも、それがあるものと要請し(想定し)、いわば努力目標として自分のものにできるのです。(このためカントは、純粋理性と実践理性とは、単に横並びの同僚というわけではなくて「実践理性の方が優位に立っている」としました。)
 さてこうして、実践理性は自然の因果を断ち切って自由になるとともに、神や善を志向することができるようになりました。つまり「善意志」を持ちうるわけです。ここで出てくるのが例の「定言命法」ってやつです。「ホニャララしたければホニャララしなさい」という条件つきの命法(仮言命法)ではなくて「とにかくやれー」と命じる、アレです。外界・自然の関与なしに、実践理性が主体に命令するんです。自然の関与なしに、ということは、人間の内なる自然たる「本能」の関与なしに、ということでもあります。つまり、エッチしたいから女性に親切にするってのはイケナイんです。そーゆーシタゴコロを超越したところから出てくる「やれー」なんです。
 ということで、「人間は自然を超越して、自分で自分自身の主人であり、その意味で自由である」ということ、これがカントの人間観、その2。
 さて「3人間は目的だ」。
 芸術はバクハツですが、人間は「目的」です。これ、どういうことかと言うと、簡単に言えば「人間を道具あつかいしちゃダメだよ」ってことです。よくドラマなんかで悪党の親玉が「あいつはもう用済みだ、消せ」なんて言ってます。仮にここで言う「あいつ」が、嫌いなポテトサラダをボスの代わりに食べてあげる役だったとすると、この「あいつ」は「ポテトサラダ食いマシーン」にすぎないことになります。それで死んだら、墓碑銘には「ポテトサラダのために生まれ、ポテトサラダのために生き、ポテトサラダのために死んだ」と刻まれることになります。まんもす悲ぴい。
 そーゆーふうに人間を扱ってはいけない。たまにはうな重でも食べさせてあげなくては…ということではなくて、どんな人であっても(部下とか手下とか下僕とかパシリとかであっても)、その人を独立した人格を持つ個人として、自分の道具じゃない、その人自身の主体性を持つ存在として、尊重しなさいということです。これ、カントの人間観、その3です。
 ちなみに、カントは「国連」を最初に構想した人でもあります。上の「人間を目的として尊重」というのを、国と国との関係にまで広げているわけです。

 どの程度わかりやすくなったかわかりませんが、こんなところで。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
そうなんです、カント関連の本ってどれも難しい表現で書かれたものばかりで・・。今もozapanさんの回答片手に本と睨めっこしてます!

お礼日時:2001/02/08 00:30

 現代的な意味での「人間観」という概念は、近代ヒューマニズムをその基礎においています。

ギリシャ以来の自然に対する人間の自由はカントにおいて徹底され、人間は自然から独立的でありむしろ目的を立てて自然を手段にする存在とされます。人間が自然の所有者であり世界の主人なのです。そこにおいて近代科学の実験的立場や解析数学に特徴的な分析再構成的方法の基礎付けがおこなわれます。
 しかし翻って人間を考えるとき、人間は自然に存在する他のものと違って「目的自体」であるといわれます。ここにおいて、では人間とはどうあらねばならないかが問題になります。実存主義的立場であれ弁証法的唯物論の立場であれ、このような「人間観」をまって初めて可能となります。そのような基礎を築いたのがカントその人です。
 彼自身は、「汝および他人の人格のうちなる人間性を決して単に手段としてのみ取り扱うことなく、常に同時に目的としてとりあつよう行為せよ」、と述べています。これは人間は普遍的能力としての理性によって道徳的尊厳を具えてはいても、方や人間中心主義的個人の欲望は多面的で特殊的でもあり、悪の傾向をも兼ね備えているという人間観に由来します。であれば、人間は社会を形成し道徳を守り単に個人的自由を追求するのではなく、愛と敬による相互の独立と互いの手段化を求めねばなりません。これが「目的の国」です。けだし、カントの哲学が人倫の学と言われる所以です。
 しかし、その目論見がうまくいっているかどうかはまた別のお話で、道徳、法律や宗教を駆使するのですが、結局彼の言っているのは「ああしろこうしろ」だけではないのかとの批判が起こります。彼の人間の尊厳に対する絶対的な信頼が甘く感じられたり、逆に息苦しく感じられたりするからです。
 であってもしかし、カントの人間観は、現在日常的に使われている「ヒューマニズム」の本家本元であり、そのことだけをとっても彼が偉大であったことは実証されています。
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カントは、哲学の問題は次の3つの問いにまとめられると考えました。


 1.わたしは何を知ることができるか。
 2.わたしは何をなすべきか。
 3.わたしは何を望んでよいか。
そしてこれらの問いは、究極的には「人間とは何か」という問いに帰着すると考えました。カントにとって「人間」とは、自分自身の理性を信頼し、ものごとを自分で考え、自分で自分の責任を引き受けることのできる存在にほかなりませんでした。

こういうのでいいのかしら?
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この回答へのお礼

とってもわかりやすい回答ありがとうございます!

お礼日時:2001/02/06 17:31

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日本人のための宗教原論
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4198611688/ref=sr_11_1/503-8021835-4718347?ie=UTF8

日本人のためのイスラム原論
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4797670568/ref=pd_bxgy_b_text_b/503-8021835-4718347?ie=UTF8

ユダヤ・キリスト・イスラム集中講座
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4198619468/ref=pd_sim_b_1/503-8021835-4718347?ie=UTF8

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つまり、「純粋理性批判」とは、純粋な理性の機能を批判的に分析する事を目的として書かれた本です。(理性による認識の構造を分析しています)
「実践理性批判」とは、理性を実践的に利用する事を批判的に分析する事を目的とします。(実際は、理性の倫理学もしくは、道徳的実践のありかたを分析しています)
カントは、形而上学を、理性の論理的構造が、感覚と悟性による実体の表象を認識する事と分析し、実体そのものが、認識されるのではなく、表象を実体と見なす過程が認識だと言う事を主張しています。
つまり、実体→認識では無く、認識→実体と言う発想の転換を行ったわけです。
理性の認識は、実体そのものを意味するのでは無く、理性によりカテゴライズされた表象でしかあり得ないと言う事です。
これを、対象(実体)が認識に従うと表現します。
細かい内容については、「純粋理性批判」もしくは、カントの解説書などを参照してください。

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Aベストアンサー

.
カントの哲学については、多くの日本人の哲学者が、解説本を出しています。
概略を説明したものから、内容に深く入り込んだ内容の本もあります。
自分で、理解できる解説本から読み始めてはいかがですか?
.

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 対して、バロックはアーノルド・ハウザー『芸術と文化の社会史』によるとコペルニクスの宇宙論が勝利を占めた後にヨーロッパ美術に出現したとしています。宇宙の無限性という畏怖すべき観念が、神と神によって創られた人間の存在の基盤を揺るがしたのです。バロックの曲線(楕円や渦巻きや螺旋)は円環へと収束します。円環には始まりも無ければ終わりもありません。パスカルは彼の思想において「無限なる空間の永遠の沈黙」を前にして不安を覚えました。バロック美術は洞窟、迷宮、唐草模様などの付属物によって過剰ともいえる装飾を与えられています。そのような曲線は、時代的観念の象徴であるとともに、不安を慰撫する休息をもたらす意味を持っています。ガストン・バシュラール『空間の詩学』では人間は貝殻のなかに最大の休息を見出す、と述べています。また、貝殻を形作る渦巻きや螺旋は女陰のシンボルであるとユングは指摘しています。ここまでの記述を整理すると―宇宙論の確立により生み出され増大する不安―その不安を慰撫する円環(渦巻き、螺旋)の形成―生命と存在の再生のための胎内回帰。とまとめられるでしょうか。
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 もし、ちゃんとした(?)美術史の講義等に提出するのが質問の目的でしたら、
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                            ご参考までに・・・

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ソフィーの世界を読んだのであれば、そのまま掘り下げたのが

●『もう少し知りたい人のための「ソフィーの世界」哲学ガイド』
日本放送出版協会 (ISBN:4-14-080258-8) 1020円なり

浅く、広く知りたいのであれば
●『哲学者達は何を知りたかったの?』 
飛岡 健著 河出書房新社 720円

あくまで興味がないのであれば、このへんで妥協して良いかと思います。

参考URL:http://7andy.yahoo.co.jp/books/detail?accd=19770568


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