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昔の職業について調べなければならなくなってしまい疑問にぶち当たったのですが、江戸時代には、医療のことを医術、消防のことを火消し役といった(間違っていたらすみません)ように、今と職種の名前と違ったかと思いますが、事務の仕事は何とよばれていたのでしょうか?
誰か教えて下さい。

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A 回答 (3件)

事務を辞書で調べると「書類の作成など、主として机の上で取り扱う仕事。

」となっています。これですと範囲が広すぎて、江戸時代の呼称としては絞れません。
事務=会計に絞れば、仕事の呼称は「帳付け」です。また、「帳付け」をする職業としては、武家の社会では「勘定方・勘定役」がいますが、町方では、専門にやる人はなく「番頭や手代」が帳付けをやってました。算勘に心得のある浪人や下級武士の内職としてやることもありました。

直接回答に関係しませんが、ご質問は、職業と仕事が区別されていません。医療は仕事ですし、火消し役は職業です。(これも火消し人足でしょうが)。医療に当る職業なら薬師・医者です。
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この回答へのお礼

確かに現在の事務の仕事って一括りにしづらいくらい高範囲に渡っていますから難しいですよね。
江戸時代となると、階級によってやっていることは一緒でも呼び名も変わるのも勉強になりました。
また、質問で至らぬ点ご指摘いただきありがとうございます。
確かに例に出したものの職業と仕事の区別がされていませんでした。
分かりづらい質問に対して、詳しく教えていただきありがとうございます。

お礼日時:2008/01/23 12:12

江戸時代でも事務は「事務」でいいのでは。


役方とは文官のことで、武官は番方。
その事務を司る官職には、
機密文書を取り扱う「奥祐筆」とか、
書類の作成をする「表祐筆」などがありますが、
そうした官職名のことではないのでしょう。
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この回答へのお礼

どうも、やっている仕事内容の呼び名と職業名とでごっちゃになる質問になっていたようで申し訳ございませんでした。
そんな中、当時の役職についてご回答いただきありがとうございます。
事務の仕事内容の呼び名で考えた場合は事務のままでよろしいのですね。ありがとうございます。

お礼日時:2008/01/23 12:19

役方ではないですかね。

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この回答へのお礼

早急に教えていただきありがとうございます。
「役方」ですか。
なるほど…
実際に当時はどのような感じで事務の仕事をしていたのかを含めて、このワードで調べてみたいと思います。
ありがとうございました

お礼日時:2008/01/23 12:02

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Aベストアンサー

 侍は確かに今で言う公務員ですね。
 藩政に関わる仕事を基本にして、あとは娯楽や稽古など・・・。
 初期と幕末期は様子が違いますが、江戸時代らしいと言えばらしい、まるっきり平和ボケな中期の頃の話をします。
 んで旗本大名クラスじゃなくて、ホントの窓口公務員っぽい人たちの話。

 現代のように週5日で朝9時から夕方5時まで勤める、ということはありません。
 お城の番兵みたいな人は、せいぜい月に数日間しか公用がないこともありました。
 接待係のような人も、御用商人が接待してくれれば遊べるかなくらいで、実際にはやる仕事が全然ないんですよね。
 一応、忙しい人がいないわけでもなく、御算用者という財務会計専門の役職は激務だったみたいです。
 理由は・・・そりゃあねぇ。お察しください。
 きっとストレスでバッタバッタ倒れたでしょうな。

 それに地方大名はやれることが限られてました。幕府がいろいろ禁止してますから。
 たとえばお城の石垣が傷んで直そうとしても、幕府の許可がないとやっちゃいけないんです。

 で、大部分のヒマな侍は何をしてるかと言えば「やることがない」のです。
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 知行はあるけど、これだけ遊んでればお金も無くなります。
 だから武士の命のはずの刀を質に入れ、金を借りたりしてるのが普通なわけです。
 江戸に行けば生活費もかさみますので、ちょっとくらい手当をもらっても借金がふくれるばかりという人もいました。


 仕えていた藩を取りつぶされたりして、仕官先のない武士は「侍」とは言わず「浪人」と言います。
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 ホントに何もやらないと当然収入がないので、内職したりして日銭を稼いだりしてました。
 時代劇じゃ傘張りとか耳かきの製作とかやってますよね。

 そんなわけで士農工商とは言われてますが、武士も実際には商人に金を借りまくってたりして、あまり偉そうにはできなかったというのは有名な話。
 商人、職人、農民は何かヒット商品で成功すれば豪商や豪農のように成り上がれますが、武士にはそれがないのがつらいところ。
 経済的に豊かな武士というのはおらず、実質的に武士は江戸時代を通じて無職者集団に近かった、とさえ言われてます。

 参考になれば幸いです。

 侍は確かに今で言う公務員ですね。
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 初期と幕末期は様子が違いますが、江戸時代らしいと言えばらしい、まるっきり平和ボケな中期の頃の話をします。
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Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸時代、女性が商家に奉公する場合に、どのような雇用制度でどれくらいの期間雇われていたのか、何と呼ばれていたのか、仕事内容、結婚事情など教えて下さい。

まず、雇用制度ですが、一般的には「住み込み」の「終身雇用」の形態が多かった。もちろん「身元保証人」が必要でした。

そして、現代と同じく、「給金」は、「晦日払い(みそかばらい)」と言って月末の支払いでした。
現代のように、月末が休日で銀行振り込みができないから、繰り上げて支給する・・・というようなことはなく、店の主人は自分で、常に、金銭を保管していましたから、休日とかの感覚はなく、月末の支払いでした。

また、店が何らかの行事で、一時的に多忙な場合は、「日雇い制度」もありましたし、「月ぎめ制度」もありました。
これらの「臨時雇い」は、その多忙な時期が過ぎれば、即解雇されました。
そして、乳児を育てるための「2年(~3年)切り」などもありました。

呼び方は、一般的に「奉公人」で良いと思います。

仕事内容は、主に「勝手方」で、その他としては、掃除、洗濯などでしたので、男のように「商品」に触れることはありませんでしたし、つまり、店の表には一切顔は出しませんでした。
従って、男のように、丁稚→手代→番頭、などという昇格はありません。

ただし、現代でも「お局(おつぼね)」が居るように、女性の世界では、「古株」が幅をきかせていました。
例えば、長年奉公していると、個室が与えられたりし、箪笥などの家具調度品もそろえることができました。
その他の奉公人は、相部屋暮らしをし、自分の持ち物は、「柳行李」に入れて区別をしていました。

結婚してからは、「住み込み」が解かれて、亭主の家や長屋からの「通い」になりました。

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自由恋愛などは、全くと言って良いほどありませんでした。

また、女性の仕事としては、あなたのおっしゃるように、「武家奉公」「妾奉公」などがありましたが、これらは皆、「行儀見習い」のためでしたので、商家の娘たちが多かった。

では、庶民は・・・と言うと、女性が独立的に認められていた職業としては、吉原の「遊女」、辰巳などの「芸者」、料理茶屋の「仲居」などと限られていました。

しかし、現代でもそうですが「もぐり」の商売もあり、「女髪結い」や「私娼」もありましたが、これらも「認められた職業」の人たちも居ました。

例えば、「女髪結い」は、男性の髪を結うことは、たびたび、贅沢ということで「禁止令」が出されています、と、言うことは、「女髪結い」が居た・・・と、言うことです。もっぱら、店を構えず、と、言うよりも店を構えることができず、「行商」でした。
ただし、「芸者」の髪を結う女性だけは「女髪結い」として認められていました。
逆に、男が芸者の髪を結うと、
「風紀上よろしからず」
と、禁止令が出されていました。

また、「私娼」についても、江戸の四宿(品川宿、内藤新宿、板橋宿、千住宿)などでは、1軒に2人の「飯盛り女」が許可されていました。しかし、宿の表で客引きをするのは2人でしたが、一旦、宿に入って、裏へ回ればゾロゾロ・・・。

とにかく、女性の仕事が少ないため、そして、江戸で女性が働く場所がないため、地方から移り住むことができず、江戸時代を通じて、男65%、女35%と、圧倒的に男性の多い都市でした。

ですから、一生涯「独身」の男性も多く、それを癒すために、吉原が欲求のはけ口として存在しました。

完全な「私娼(=売女・ばいた)」としては、
江戸では・・・「夜鷹」・・・ゴザ1枚を小脇にかかえ、柳橋などに出没して、通りすがる男の袖をつかんで、川岸に積んである材木の上などでの「事」をすます。
京都では・・・「辻君(つじぎみ)」・・・なんとなく風情がありますね。
大阪では・・・「惣嫁(そうか)」・・・何でも食らいつくからとか。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸時代、女性が商家に奉公する場合に、どのような雇用制度でどれくらいの期間雇われていたのか、何と呼ばれていたのか、仕事内容、結婚事情など教えて下さい。

まず、雇用制度ですが、一般的には「住み込み」の「終身雇用」の形態が多かった。もちろん「身元保証人」が必要でした。

そして、現代と同じく、「給金」は、「晦日払い(みそかばらい)」と言って月末の支払いでした。
現代のように、月末が休日で銀行振り込みができないから、繰り上げて...続きを読む

Q江戸時代の人はどうやって寒さをしのいだ?

今夜合気道の稽古に行きました。
寒かったです。

すると、稽古の後にある人がこう言いました。
「昔の人はどうやって寒い冬を過ごしたんだろうね」

私「ダウンとかないですよね。藁をかぶって寝てたんでしょうか」
「じゃあ戦のときはどうやって寝たんだろう」
私「うーん。野宿は無理でしょ」
「でも農繁期には戦はしないだろ」
私「いや、秀吉のころには兵農分離していたし、やったのでは?
昼間は広いところで戦っても、夜は農民の家や納屋で寝たのでは?」

「そんなに都合よく寝るところが見つかるかな。テント張ったのでは?」
私「無理です。大将は天幕張ったかもしれないけど、雑兵は無理でしょ」

「寒いけど我慢したのかな」
「我慢できるとは思えません。寒すぎますって」

すると別の人が言いました。
「江戸時代とか、かけ布団はなかったらしいよ」
私「そりゃ死にますよ。服を何枚も重ねたのですかね」

さて、実際の農民や戦場の武士はどうやって寒さをしのいで
寝ていたのでしょう?

Aベストアンサー

江戸時代と農民と戦場の武士とは、時代も条件も違いますので、バラバラの回答になります
江戸時代に冬季に武士が野宿するような戦闘は行われませんでした。(念のため)

日本家屋というのは「住いは夏をもって旨とすべし」と言われていたように密閉度の低い風通しの良い構造になっていました。
部屋の仕切りも襖か障子でした。
逆に言いますと冬は現在に比べれば相当に寒い環境でした。

現在のようにエアコンや石油ストーブなどが普及しなかった昭和30年代以前は江戸時代も昭和時代も余り変わりはありませんでした。
都市部では、火鉢と炬燵(行火)がごく普通の暖房設備でした。
火鉢や炬燵のある部屋に家族全員が集まって寒さをしのぐというのがごく普通の習慣でした。
部屋ごとに部屋全体を暖房するというのは、高度成長期以降の習慣です。

炬燵や行火が使われるようになったのは室町時代以降とされています。
火鉢は奈良時代から使われていました。
火鉢に使われる木炭は縄文時代からありました。
つまり、奈良時代から昭和30年代までの都市部の暖房というのは、主役は火鉢でした。
信長が秀吉の才能を注視するようになった切っ掛けは、城中で使われる炭を大幅に節減したことだったと言われています。
江戸時代の江戸の街の様子を描いた江戸名所図絵という書籍がありますが。
その中に、部屋の障子を全て開け放って、皆で庭に積もった雪を眺めている絵があります。
部屋の真ん中に火鉢が一つ置いてあるだけです。
江戸時代は現在よりも寒冷で、江戸でもよく雪が積もりました。(小氷河期と言われています)
あちらこちらで雪見という行事をやっていました。

台所などの炊事場には七論と呼ばれる煮炊き用の移動式の炉があって夏でも火が入っていました。
湯沸かし器がありませんでしたから、常時お茶用などのお湯を沸かしていました。
この移動式というか携帯形の炉は平安時代から置き炉と呼ばれて使われていました。
日中は必ず火が入っていましたので、暖房の役目も結果的には担っていました。

農漁村地帯では囲炉裏が唯一最大の暖房設備でした。
囲炉裏の周りに集まって寒さをしのいでいました。
現在、村興しなどで古民家を使って囲炉裏端での食事を提供していますので、機会があれば訪ねてみて下さい。

明治以降ストーブが普及した後はストーブが囲炉裏の代わりをしていました。
学校も教室にストーブが一つ置いてあるでけでした。
入学試験の際には不公平になるということで、ストーブは消してありました。
つまり暖房のない教室で試験を受けていました。
もしお祖父さんやお祖母さんがおられれば聞いてみて下さい。

明治になるまではウールという動物質の繊維製品がありませんでしたから、着物は木綿が主体でした。
木綿の入手が難しかった関東以北の地では麻が主体でした。
セーターという衣料品は明治以降に着られるようになった衣料品です。
木綿も麻も現在の衣料品に比べれば保温性が劣ります。

江戸時代には、着物は夏は一重と言って浴衣のような感じの着物でしたが秋になるとあわせといって、夏の着物に裏を付けて二重にしました。
和服というのは、糸を抜いてばらばらにして洗い、また縫い直すというやり方をします。
この為に季節ごとに一枚にしたり重ねたりということを繰り返して着ていました。
冬になると、この重ねた表裏の間に綿を入れた綿入れという状態にして着ていました。
この綿入れの綿の量を増やした掻巻(かいまき)、あるいは褞袍(どてら)というものを作って掛布団代わりにしていました。丹前とも呼ばれました。
掛布団が無かったのではなく、チャントその代わりの役目を果たすものがありました。

質問者さんが、江戸時代どころか、昭和20年代の家へ行けば、おそらく寒さに文字通り震え上がるでしょう。
簡単に言えば昔の人は寒さには強かったということです。

あとは、生活習慣が違いますので、一人で部屋にこもってゲームで過ごすなどということはありませんでした。
常に火のある部屋へ家族が集まって過ごしていました。

それと、人間はある程度寒さには慣れます。
これは外国人観光客の方にも見受けられます。
南欧以外のヨーロッパから来られた方やアメリカから来られた方は日本人よりもはるかに薄着です。
永平寺などで修業をされている僧侶も特に暖房もなく一冬過ごします。
寒稽古で頑張って下さい。寒さには直ぐに順応します。

戦国時代の武士の野宿ですが、当然焚火をして寒さを凌ぎました。
移動の際には、蓑と呼ばれる稲わらを重ねた外套を着用していました。
雪のある時期はお互いに足場も悪く体の動きも鈍りますので、余り積極的には戦はしていませんでした。
この当時の常識を破ったのが佐々成政のさらさら越えです。
命懸けで冬の立山を越えています。
常識外の行動でしたので、現在まで伝えられています。

人間の体というのは血液が循環していますから、手足を温めるだけでも寒さは凌げます。
焚火が効果があるのはこのためです。
湯たんぽもこの原理を応用したものです。
寒いなと思ったら手をお湯に10分ほど浸けてみて下さい、全身が温かくなってきます。
最近温泉地で足湯というのが流行っていますが、これも相当暖かくなります。

江戸時代と農民と戦場の武士とは、時代も条件も違いますので、バラバラの回答になります
江戸時代に冬季に武士が野宿するような戦闘は行われませんでした。(念のため)

日本家屋というのは「住いは夏をもって旨とすべし」と言われていたように密閉度の低い風通しの良い構造になっていました。
部屋の仕切りも襖か障子でした。
逆に言いますと冬は現在に比べれば相当に寒い環境でした。

現在のようにエアコンや石油ストーブなどが普及しなかった昭和30年代以前は江戸時代も昭和時代も余り変わりはありませんで...続きを読む


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